1595年9月13日 美濃国大垣城
この大垣城は反秀吉方の本陣として機能しており、織田信雄(駿府120万石)・山内一豊(元秀次家老・近江長浜2万石)・伊藤盛景(元秀次家老・大垣3万石)らが3万の兵とともに入城している。
この他にも岐阜・犬山・清州・郡上八幡・岩村などの美濃・尾張の城には反秀吉方が入城しており、特に岐阜城には豊臣仙千代(秀次長男)・前田玄以(京都所司代・丹波亀山5万石)・池田輝政(美濃岐阜13万石)らが1万の軍勢で入っている。
対して、秀吉方は豊臣秀吉が玉城に3万の兵と入城し、本陣とした。
この他に伊勢長島城に富田一白・筒井定次らが2万の兵で入城していた。
このため、関ケ原に限らず美濃・尾張・近江・伊勢にいた兵を合計すれば30万近かったと推測される。
「戦況は?」
「ははっ、井伊直政・武田信定の奮戦により互角!」
「よし!」
「一先ず緒戦は優勢じゃ!」
使者の報告に大垣城に集まっている諸将が歓声を上げる。
しかし、この直後、一つの報告が飛び込んでくる。
「加賀小松城主、丹羽長重。裏切りましてございます!」
「前田利家が丹羽長重、青木一重ら北陸諸将を率い3万の軍勢で美濃に進軍を開始しました!」
北陸における反秀吉方であった加賀小松13万石の丹羽長重が前田利家の説得を受けて降伏。
これによって前田利家が秀吉への援軍のために美濃に進軍を開始したという報告であった。
「なんじゃと!」
「ま、前田殿は織田の元家臣じゃ、こちらに調略できぬか?」
「不可能でしょう。前田殿は既に織田を見捨てています」
この時、秀吉は信長の孫であり、信雄の甥である織田秀信を織田家の家督の正式な相続者として擁立しており、信雄は降伏しても廃することを決定していた。
「ぐぬぬ、前田利家を討つため郡上八慢に向かう!」
「であれば、儂が城は守りましょう」
「任せます」
織田・伊藤軍2万3千が郡上八幡に向かい、大垣城は山内一豊が7千で防衛することになる。
***
関ケ原
「明石備前討ち取ったり!」
「戸田三郎討ち取ったり!」
そんな歓声が上がり続ける戦場。
そこを駆け抜けるのは一人の老将であった。
老将に続くのは2千程の家臣たち。
これを迎え撃つのは2万程の軍。
「信定様、そのような戦い方では皆が疲れますぞ」
義昌が先頭を駆ける老将に言う。
「いつもと変わらぬよ」
「変わっております。普段よりも粗いですよ。討ち漏らしも多いです」
「……そうか、気を付ける」
「やはり、堪えましたかな?」
「多少な、信義様や勝頼、盛信、政景、信春らでこのような別れにはなれたつもりだったのだがな……」
名が挙げられたものはいずれも織田との戦で死んだ者ばかりであった。
「死に場所を探してはなりませぬぞ」
「……分かっておるよ。後50年は生きたい。死んでいった者たちのためにもな」
「それはさすがに諦めて下され」
「酷いのう」
「…お二人とも、敵軍の真ん中で呑気に話さないでください」
「「すまん」」
「分かればよいのです。皆の者、狙うは敵将、宇喜多秀家の首じゃ!討ち取れば確実に城一つは貰えるほどの手柄ぞ!私に続け!」
少女はそう言うと、自らが先頭に立って進み始める。
「男であればと思う氏長の気持ちもよくわかる程の勇猛さよ」
「まことに」
現在、武田信定・長尾景勝・木曾義昌・本庄繁長・直江兼続が1万5千で戦っているのは宇喜多秀家の2万。
秀家の父・直家は稀代の謀将として知られたが秀家が2、3歳の頃に病死し、以降は秀吉が後見人を務め、事実上の豊臣家の一門衆であった。(一説には実母が秀吉の側室・現地妻のような存在だったとも)現在は備前・美作57万石を支配している。
「2千程度、討ち破ってくれよぞ!」
「駄目です、前にも1万を超える敵がいます!」
若い秀家を花房・長船らが抑えている。
前線では明石全登・宇喜多忠家らが長尾景勝・本庄繁長と激戦を繰り広げている。
宇喜多隊と武田隊の隣では福島隊と井伊隊、黒田隊と最上隊がそれぞれ戦闘を繰り広げていた。
そんな関ケ原最大の戦いとなったのは毛利輝元・吉川広家の3万8千と徳川家康・浅野長政の5万6千の戦いである。
また笹尾山付近では石田三成・長束正家・平塚為広らが1万8千の兵で武田信清・佐竹義重の3万5千と激闘を繰り広げていた。
この他、両軍の予備兵と見られるのは秀吉方が織田秀信・織田信包などの小身大名の連合軍2万程、反秀吉方が元秀次筆頭家老・田中吉政などの秀次旧臣の一部の1万程。
***
松尾山 毛利輝元の陣
中国地方の大半を支配し、この戦の豊臣方最大の大名である毛利輝元の元に輝元によく似た若者が訪れていた。
「輝元、前線が崩され始めた」
男の名を吉川広家、輝元の従兄弟にあたる。父親は毛利両川と評される輝元の叔父の一人、吉川元春。
「う~む、徳川の陣には杉がいますからなぁ、こちらの陣容もある程度は把握されているでしょう」
輝元を見ながら言うのは穂井田元清、輝元の祖父・毛利元就の四男でああり、元就の叔父。
「なんじゃ、元清に広家、それに秀元まで。そんな目で儂を見るな。あの件は見た目麗しい少女が悪いのじゃ」
輝元の叔父や従兄弟たちは皆、頭が痛くなった。特に輝元の祖父や父を知る者たちは『なぜ、あの方々からこんなのが生まれるんだ』と考えていた。
一瞬、名の出た杉という男、杉元宣と言うのだが。端的に言えば、この杉の妻を輝元が奪ったのである。
勿論、これに怒った杉であったが、この件をどこからか聞きつけた武田信清が徳川家康とともに仲裁に乗り出した結果、見事に大事に発展し、輝元の叔父・小早川隆景、毛利家臣・安国寺恵瓊らが独立させられ(元々、半分独立していたが)、輝元自身が秀吉から呼び出され叱られることになったのである。
その後、杉は妻共々、武田家に仕え、この戦では毛利家の内情を知っているということで徳川家康の与力として武田軍5百を率いて参戦している。(代わりに本多忠勝が5百で武田信清の元で参陣している)
「そういえば、秀元、お主は何故、ここにいる?」
毛利秀元、元清の子であり、一説には輝元の養子。この戦では毛利軍の前線指揮を担当していたはずである。
「あっ、そうでございました。天野の叔父上の陣が破られたとの報告です」
一瞬、辺りが静まり返る。
「そ・れ・を先に言わんか~!」
天野元政、輝元の叔父の一人。秀元の補佐を務めていた。
「すみません。お弁当を食べてから来たら忘れてました」
「何、悠長にしてんの!前線は保ててる?」
「なんとかですな」
「元政は無事か?」
「大丈夫では?影武者になるとか言って、敵陣に突っ込んでいきましたけど」
「なんも大丈夫じゃねえ!広家!すぐに元康と合流し、前線を立て直せ!不味い不味い。徳川がここに来るぞ!」
「弁当ですか?美味しいですよ」
「違う!申し訳ございません。愚息が」
「私は輝元様の養子です。父上との親子の縁は切り申した」
「ややこしくなるから黙れ!」
毛利軍、前線崩壊。死者1千を超える(推計)。天野元政討死。
かくして関ケ原の戦いの初日が終わる。
***
美濃国玉城
「何やっとるんじゃ!毛利は」
毛利家の被害を聞いた秀吉は怒り狂っていた。
「秀家は無事か?」
「はっ」
「相手が武田ならばしゃあねえは。秀家が無事ならそれでいい」
「正則は?」
「福島様、井伊隊と互角、石田様も武田隊相手に奮戦しています」
「そうかそうか、あいつらも頑張っとる、それに比べて、官兵衛、てめえの息子は随分不甲斐ないな」
「面目次第もございませぬ」
「まあいい、明日はおみゃあも前に出ろ。赤松・山名の1千とともに、最上を潰せ」
「……ははっ」
官兵衛が去り、秀吉のみになると秀吉はつぶやく。
「官兵衛、おみゃあはもう用済みだきゃあ」
近江・美濃・尾張・伊勢における両軍の配置として
関ケ原で主力が激突中(秀吉方10万対反秀吉方13万)
玉城に秀吉の3万が待機。
大垣城に反秀吉方7千。
郡上八幡城に反秀吉方1千+現在反秀吉方2万3千が向かっている。
岐阜城に反秀吉方1万。
岩村城に反秀吉方5千。
犬山城に反秀吉方3千。
清州城に反秀吉方6千。
その他十数個の城に数百程の反秀吉方。
長島城に秀吉方2万。
伊勢湾に秀吉方の九鬼水軍と反秀吉方の徳川水軍(元駿府水軍)が展開。
秀吉的には家康も信清も信頼していたのに裏切られたという感じです。(この二人なら分かってくれると思ってたのに裏切られた)
織田・武田・徳川勢を反秀吉と呼称しているのは、名目上とはいえ秀次の子・仙千代を擁立し、秀吉を廃そうとしているためです。
多分後世ではボケた秀吉に対するクーデター事件といった感じの評価になるかな?
今後の生前編の展開
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史実通り(細かい部分は異なる)
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史実無視のオリジナルストーリー
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史実で起こった事件の大きい流れを変更