Jackpot Dropout・名無しのギャンブラーと、気高き優等生 作:りー037
——冷徹なまでに磨き上げられた石造りの床から、じわじわと這い上がってくる底冷えが、遠坂凛の華奢な膝を容赦なく刺していた。
だが、彼女はその不快感すらも、己の精神を研ぎ澄ますための砥石として利用していた。冬木という極東の地において、二百年という途方もない時間をかけて脈々と受け継がれてきた遠坂の血。その第六代当主としての重圧が、今の彼女の細い双肩に重く、そして冷たくのしかかっている。
地下工房の空気は、常人が足を踏み入れれば一瞬で呼吸困難に陥り、肺の粘膜を焼き切られるほどの、濃密で暴力的な魔力によって満たされていた。
「……ふぅ……」
凛は、仄暗い空間の中で、ゆっくりと、しかし確かなリズムで深呼吸を繰り返す。
吸い込む空気は、溶けた銀と、古い血液——儀式のために捧げられた彼女自身の血脈の匂いが混ざり合った、魔術工房特有の焦げたような香気を孕んでいた。その匂いを肺の奥深くまで満たすたび、彼女の体内にある魔術回路が、青白い光を帯びて一本、また一本と覚醒していくのがわかる。
激痛。
焼けた鉄の棒を神経の束に直接ねじ込まれ、そのまま無造作に掻き回されるかのような、魔術師特有の回路励起の痛覚。しかし、凛はその痛みを涼しい顔で飼い慣らしていた。微かな眉の顰めすら許さない。完璧な優雅さを保つこと。それこそが遠坂の魔術師としての絶対の矜持であり、亡き父、遠坂時臣から受け継いだ唯一にして最大の遺産だったからだ。
彼女の視線の先には、床一面に精緻に描かれた魔法陣が存在している。
触媒はない。
本来であれば、狙った英霊を座から引きずり下ろすための『縁の品』が必要不可欠であることは、優秀な魔術師である彼女自身が一番よく理解していた。しかし、生憎と父の遺品の中に有用なものは見当たらず、意地の悪い後見人が、さも恩着せがましく用意するであろう胡散臭い代物に頼る気など、彼女の誇りが許さなかった。
(……問題ない。私のこのコンディションなら、間違いなく最強の座を引き当てる)
凛の双眸——宝石のように透き通ったブルーの瞳に、揺るぎない自信の炎が灯る。
触媒がないのであれば、術者自身の魔力と波長、そして『格』によって引き寄せられる英霊が決まる。天才と称され、五大元素(アベレージ・ワン)の属性を先天的に併せ持つ自分であれば、間違いなく最高クラスの英霊を引き当てるはずだ。
彼女の脳裏には、高潔で誇り高い英霊の姿がすでに確固たるビジョンとして描かれていた。
時計の針が進む。チク、タクという無機質な音が、地下室の静寂を規則的に削り取っていく。
凛の体内を巡る魔力は、すでに臨界点に達しつつあった。彼女の全身から立ち昇る余剰魔力が、物理的な圧力となって地下室の空気を震わせ、髪の毛の一本一本にまで静電気のような痺れをもたらしている。
彼女は、己の魔力波長が最も高まる『午前2時』を狙っていた。
——この時、彼女は微塵も気づいていなかった。遠坂邸の時計が、父の代からの些細なミスによって、ちょうど『1時間進んでいる』という、あまりにも間抜けな事実に。
魔力の波長が最高潮に達するピークタイムから、外れた魔力低下の時間帯。
しかし、その致命的なズレすらも、これから起こる『異常事態』の、ほんの些細なトリガーの一つに過ぎなかった。
「……素に銀と鉄。礎に石と契約の大公」
凛の唇から、透き通った、しかし鋼のように強靭な詠唱が紡ぎ出される。
その声は地下室の壁に反響し、幾重にも重なって、世界そのものに命令を下す呪縛へと変貌していく。
「祖には我が大師シュバインオーグ。降り立つ風には壁を。四方の門は閉じ、王冠より出で、王国に至る三叉の道を循環せよ」
ゴウンッ!
という重低音が、魔法陣の中心から響き渡った。
水銀の線が一斉に青白い閃光を放ち、地下室の温度が急激に低下する。凛のツインテールの髪が、下から上へと吹き上げる暴力的な魔力風によって激しく舞い上がった。
(……いける! 回路の接続、魔力の流動、すべてが完璧……!)
凛の額に、玉のような汗が滲む。奥歯を深く噛み締め、全身の細胞が悲鳴を上げるほどの魔力を、ただひたすらに魔法陣へと注ぎ込み続ける。彼女の視界の端で、空間そのものが熱を帯びたように蜃気楼を作り出していた。
「——告げる。
汝の身は我が下に、我が命運は汝の剣に。
聖杯の寄る辺に従い、この意、この理に従うならば応えよ」
詠唱が進むにつれ、魔法陣の上の空間が、物理的に『歪み』始めた。
大気が軋む音。次元の壁が削り取られ、世界の裏側へと至る極小の穴が穿たれる。
本来ならば、ここで波長のズレにより赤い外套の弓兵が、もしくは凛自身の魔力の格に合致した正統なる英雄の魂が、その穴を通ってこの世界に固定化されるはずだった。
しかし。
——その瞬間、世界を構成する法則(システム)に、異質な『ノイズ』が走った。
ジジッ……。
凛の耳に、それは聞こえなかった。だが、世界そのものを管理するシステムにとって、それは明確な『異常(エラー)』の音だった。
それは、遙か彼方。
本来この極東の聖杯戦争などとは一切の関わりを持たないはずの、地球から遠く離れた、ある巨大な演算器。
その無限にも等しい演算領域の片隅で、一つの『確率』が、あり得ないほどの異常な偏りを見せたのだ。
数兆分の一、いや、京分の一すらも超える、天文学的な確率の壁。
それを、ただの『豪運』という名の暴力的なまでの確変によって強引にこじ開け、本来存在しないはずのパス(経路)を繋いでしまった存在。
《超幸運》による理不尽な確率の偏りと、《■■■■■侵食》による強引な接続。
時計のズレによる凛の波長の不一致。触媒がないことによる対象の不確定性。そして、凛自身が持つ、規格外の巨大な魔力量(コイン)。
それら全てが、奇跡的かつ最悪のタイミングで一つのラインに並んだ。運命の女神すらも呆れ果てるような、ふざけたギャンブラーの魂が、凛の強大な魔力を『大当たり(ジャックポット)の引き金』として利用し、滑り落ちてきたのである。
「誓いを此処に。
我は常世総ての善と成る者、我は常世総ての悪を敷く者。
汝三大の言霊を纏う七天、抑止の輪より来たれ、天秤の守り手よ——!!」
カァン!!
詠唱の完了と共に、圧倒的な閃光が弾け飛ぶ——はずだった。
——ズドォォォォォォンッ!!!!!
魔法陣からではなく、凛の『頭上』の空間そのものが爆発したかのような轟音が響き渡った。
異常な魔力干渉による空間の歪みが弾け、爆風が地下室の天井を激しく揺さぶる。パラパラと漆喰がこぼれ落ち、積まれていた魔導書や機材が吹き飛んで散乱した。
地下の魔法陣には、召喚の証である白煙の欠片すら生じていなかった。
「なっ……なに!? 失敗した!? いや、魔力のパスは繋がってる……!?」
凛は爆風から腕で顔を庇いながらも、すぐさま己の右手に刻まれた令呪が熱を帯びていることを確認した。
間違いなく、サーヴァントは召喚された。だが、場所が違う。自分の目の前ではなく、この直上——一階の居間だ。
タン、タン、タンッ! と、凛は地下からの階段を猛スピードで駆け上がった。
心臓が早鐘のように鳴っている。焦燥感と、未知の事態への警戒心が、彼女の思考をフル回転させていた。
廊下を抜け、一階の居間の重厚な木製の扉を勢いよく開け放つ。
「——サーヴァント!! そこにいるんでしょう!!」
凛は、魔力帯を帯びた指先を前方へ突き出し、臨戦態勢で飛び込んだ。
しかし、彼女の視界に飛び込んできたのは、予想だにしない『地獄絵図』だった。
普段はアンティーク家具の温もりに包まれている広々とした居間は、文字通り『半壊』していた。
高価なペルシャ絨毯は焼け焦げ、父の代から受け継いできたマホガニー製のローテーブルは真っ二つにへし折れている。ソファのクッションは内側から弾け飛び、宙には大量の白い羽毛が、まるで冬の粉雪のようにフワフワと舞っていた。
天井からは漆喰が剥がれ落ち、割れた窓ガラスからは、身を切るような冷たい冬の夜風が吹き込んでいる。
「私、の……リビングが……」
凛の口から、魂の抜けたような声が漏れる。
白煙が、吹き込む夜風によってゆっくりと流されていく。
そして、その惨状の中心。
そこに立っていたのは、光り輝く聖剣を持つ騎士でも、歴戦の覇気を纏う豪傑でもなかった。
真っ二つにへし折れた高級ソファの残骸に、上空から落下してきてそのまま不時着したようなだらしない格好で深く腰掛けている一人の『男』だった。
「…………あー、ダル」
第一声は、致命的なまでに覇気のない、底抜けに気怠げな男の呟きだった。
長身であり、細身ながらも服の上からわかるほど筋肉質な体躯。だが、その立ち姿には緊張感の欠片もない。
肌は白磁器のように不健康なまでに色白。顔立ちは彫りが深く、シャープな顎のラインと通った鼻筋を持つ、整った顔。
しかし、その髪型は黒をベースに、ダークティールグリーンのハイライトが無造作に入れられ、後ろでルーズなお団子にまとめられている。長めの前髪は視界を遮るように鬱陶しく垂れ下がり、無表情で近寄りがたい空気を放っていた。
さらに凛の神経を逆撫でしたのは、その服装だった。
ゆったりとした黒いオフショルダーのトップスは、片方の肩がだらしなく見えており、鎖骨のラインが剥き出しになっている。下は歩くたびに床を引きずりそうなほどの黒いワイドパンツ。
首元にはじゃらじゃらと安っぽいビーズチェーンと、クロスペンダント。耳には無数のピアスが銀色に光り、極めつけは、首の側面に刻まれた禍々しい黒い文字のタトゥー。
そして何より——深夜の薄暗い居間であるにも関わらず、彼は細フレームの丸型ティールブルーのサングラスを、鼻先にずり下がるようにして掛けていた。
サングラスの隙間から覗く、切れ長で細い、ひどく冷めた双眸。
男は、ポケットに両手を突っ込んだまま、気怠げに首をポキリと鳴らし、ゆっくりと周囲の惨状を見渡した。
「……なんだここ。随分と派手に散らかってんな。どこの解体現場だ? 空調もロクに効いてねえし。パチンコ屋の裏路地の方がマシな空気してんぞ」
「…………」
「…………あ?」
沈黙。
永遠にも似た、最悪の沈黙が、羽毛の舞う居間に降り注いだ。
凛は、口を半開きにしたまま、文字通り完全にフリーズしていた。彼女の優秀な頭脳が、目の前の現実を処理しきれず、激しいバグを起こしているのだ。
男は、呆然と立ち尽くす凛にゆっくりと視線を向けた。
頭のてっぺんから、つま先まで。
値踏みするように、舐め回すように、しかし一切の興味も執着も感じさせない冷淡な目で、彼女を観察する。
「……あんたが、俺を引き当てたマスターか?」
低い、ドスが効いているが、やはりどこか面倒くさそうな声。
男は小さくため息をつき、薄い唇を歪めて鼻で笑った。
「……ふーん。随分と肩肘張った、クソ真面目そうなガキじゃねえか。しかも、ガチガチに緊張して、自分が『完璧だ』って思い込んでる顔だ。……一番ダルいタイプだ。勘弁してくれよ、マジで」
「…………は?」
ピキッ。
凛の頭の中で、張り詰めていた理性の糸が、凄まじい音を立てて断裂した。
ガキ? ダルい? クソ真面目?
この私が? 遠坂の当主たるこの私が、こんな、どこからどう見ても裏社会のチンピラか、その日暮らしのパチスロ狂いのフリーターにしか見えない男に、初対面でそんな口を叩かれている?
「ちょ……っ、ちょっと待ちなさいよ!!」
凛の金切声が、静寂を切り裂いた。
先ほどまでの完璧な令嬢の仮面は一瞬にして粉砕され、彼女は顔を真っ赤にして、男に向かってビシッと指を突きつけた。
「なんなのよその格好は!! 貴方、本当にサーヴァントなの!? どこをどう見ても、その辺の路地裏で管を巻いてる不良じゃないの!! だいたい、人の家の居間をいきなりこんなにしておいて、その態度は何なのよ!!」
「あァ? サーヴァントに決まってんだろ。わざわざあんな狭苦しい『確率の壁(ガチャ)』を抜けて、テメェの魔力(コイン)に呼ばれてやってきたんだ。少しは労えよ、クソマスター」
男は凛の怒声などそよ風程度にしか感じていないのか、面倒くさそうに頭を掻き、ポケットからゴソゴソと何かを取り出した。
銀色に光る、無骨なジッポライター。そして、くしゃくしゃになったタバコの箱。
「おい、タバコ吸っていいか? 召喚のプロセスってのは、どうにも喉が渇いていけねえ」
「いいわけないでしょ!! ここは神聖な遠坂の館よ!! 数百年の歴史がある霊地に、そんな俗悪な煙を撒き散らさないで!!」
凛は地団駄を踏みながら叫んだ。
男は「あ、そう」と短く返しただけで、凛の制止を完全に無視し、カチン、という小気味良い音と共にジッポライターの火を点けた。
シュボッ。
紫煙が、冬の冷たい空気と混ざり合っていく。男は深く煙を吸い込み、フーッ……と、壊れた天井に向かってだらしなく煙を吐き出した。
「——っっ!! この、言うことを聞かないバカサーヴァント!! というか、クラス!! 貴方のクラスは何!? セイバーなんでしょうね!? それとも、百歩譲ってアーチャーとかランサー!?」
凛は髪を振り乱しながら、最後の希望にすがるように問い詰めた。
外見はどうであれ、第一級のクラスを引き当てていれば、まだ戦える。能力さえまともなら、令呪を使ってでも無理やり従えてやる。
男は、タバコを指の間に挟んだまま、サングラスを中指でくいっと押し上げた。
そして、酷薄な笑みを浮かべ、この世界にとって最大の『バグ』である己のクラスを告げた。
「セイバー? ……あァ、剣士か。んな堅苦しいモンじゃねえよ。俺は剣なんて振ったこともねえし、騎士道なんてクソ食らえだ」
「け、セイバーじゃない……? じゃ、じゃあ……」
「俺のクラスは『ムーンキャンサー』。……ま、ただの運のいいギャンブラーだ。これからよろしく頼むぜ、お嬢ちゃん。俺の『確変』に、振り落とされずに着いてこれるならな」
「むー、ん……きゃん、さー……?」
聞いたこともない、御三家の記録のどこにも存在しないエクストラクラスの響き。
そして、ギャンブラーという、聖杯戦争という殺し合いにおいて全く役に立たなそうな単語。
カラン……。
凛の手から、見えない自信の塊がこぼれ落ちる音がした。
彼女はゆっくりと膝から崩れ落ち、冷たい床に手をついた。
(嘘でしょ……。私の、完璧な計画が……。こんな、タバコ臭いチンピラ一人のせいで……全部、パー……?)
ムーンキャンサーの男は、絶望のあまりうずくまってしまった凛を見下ろし、もう一度深くタバコの煙を吐き出した。
(……魔力パスは繋がってる。悪くねえ出力だ。いや、それどころか、こいつの『底』は底なし沼みてえに深え。……だが、このお高くとまった優等生が、俺の命をチップにした『狂ったテーブル』に、どこまで耐えられるか……)
男のサングラスの奥の瞳が、一瞬だけ、捕食者のような冷たい光を放った。
だが、次の瞬間にはまた、いつもの気怠げなダウナー状態へと戻り、彼は灰皿代わりを探し、周囲をキョロキョロと見回し始めていた。
第五次聖杯戦争。
遠坂凛と、名もなきムーンキャンサー。
運命の歯車は、最初から最悪の形で脱線しながら、狂ったギャンブルのテーブルへと二人を放り投げたのだった。