Jackpot Dropout・名無しのギャンブラーと、気高き優等生   作:りー037

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第一章:確率崩壊のバディ、世界を歪める黄金律

 瓦礫と白い羽毛が散乱する居間には、ひどく冷たく、そして場違いな空気が澱んでいた。

 

 天井にぽっかりと開いた大穴からは、身を切るような冬の夜風が容赦なく吹き込み、アンティークランプの淡い光を頼りにしている薄暗い室内をさらに底冷えさせている。

 

 だが、その惨状の中心にいる男——ムーンキャンサーのサーヴァントは、周囲の冷気など肌も感じていないかのように、ぶっ壊れたマホガニー製のソファの残骸に深く身を預け、気怠げに紫煙をくゆらせていた。

 

 

 シュボッ、と。

 

 使い込まれた無骨なジッポライターが再び鳴る。彼が深く息を吸い込むたびに、タバコの先端が赤々と燃え上がり、吐き出される煙が冬の冷気に混ざって白く濁っていく。

 

 見るからにチンピラであり、どうしようもないダメ人間。聖杯戦争という神聖なる殺し合いの儀式に呼ばれた英霊としての覇気など微塵もなく、完全に社会の枠組みから外れたドロップアウトの風体だった。

 

「——ちょっと! いい加減にして、話を聞きなさいよ!」

 

 

 遠坂邸の豪奢な——今は半壊している——リビングに、凛の甲高い、しかし怒りで微かに震える声が響き渡った。

 

 召喚の儀式を終え、怒りを何とか胃の奥底に飲み込んだ彼女は、マスターとしての威厳を保つために、今後の聖杯戦争の方針を話し合おうと試みた。手始めに、彼を「お客様」として扱う体面を保つため、高級な茶葉を使った紅茶を淹れて勧めたのだ。

 

 

 しかし、長身のサーヴァントはその芳醇な香りを放つティーカップには一切の見向きもせず、長い脚を引きずるようにして立ち上がると、勝手にキッチンへ向かい、冷蔵庫を無造作に開け放っていた。

 

「あー……酒ねぇのかよ。ビールの一本も冷やしてねぇとか、マジか」

 

 

 冷蔵庫の冷白い光に照らされた彼の横顔は、本気で落胆しているように見えた。彼は庫内のミネラルウォーターや高級な食材を心底どうでもよさそうに一瞥すると、首をボキリと鳴らしながら振り返った。

 

「嬢ちゃん、未成年か? ……まぁ見りゃわかるが。それにしても、酒もつまみもパチスロ雑誌もねぇ。つまんねぇ家だな。息詰まるぜ」

 

「当たり前でしょ! 未成年の魔術師の家にそんな俗悪なものがあるわけないじゃない!!」

 

 

 凛はテーブルを両手でバンッ! と強く叩き、身を乗り出した。

 

 ペルシャ絨毯に落ちた羽毛が、その衝撃でふわりと舞い上がる。彼女のアクアブルーの瞳は、怒りと焦燥で鋭く吊り上がっていた。

 

「それより、サーヴァントとしてのステータスと宝具の開示が先よ! 貴方が何者で、どういう戦い方をするのか、能力が分からないと戦術の組みようがないんだから! いかに三騎士のクラスじゃないとはいえ、私の魔力があれば……」

 

 

 凛の早口な説教を尻目に、彼は「ダル……」と小さく零し、冷蔵庫の扉を足の裏でパタンと乱暴に閉めた。

 

 

 彼はティールブルーのサングラスの奥から、冷めた切れ長の瞳で凛を見下ろした。

 

「戦術とか、相性とか……そういう面倒なのはパス。俺、そういう頭使うの苦手なんだわ」

 

「パスって……貴方ねぇ!」

 

「つか、俺のことを知ったところで、あんま関係ねぇしな。俺の戦い方は、俺の『運』次第だ。緻密な計画なんて立てた瞬間に、確率は死ぬんだよ」

 

 

 

 男はそこでふと、言葉を区切った。

 

 

 ——俺のことを知ったところで。

 

 彼自身の口から自然にこぼれ落ちたそのフレーズが、彼自身の脳裏に小さな引っ掛かりを生ませたのだ。

 

 

(俺は、誰だ?)

 

 

 その瞬間。

 

 彼の意識は、物理的な肉体の時間軸から完全に切り離された。

 

 

 クラススキル『■■■■■侵食:B』。

 

 地球から遠く離れた位置に存在する巨大な演算器、その深層領域へと、彼の魂のネットワークが強引な仮想接続(ハッキング)を試みる。

 

 

 現実世界の時間が停止したかのような、絶対的な静寂。

 

 彼の脳内で、天文学的な速度で演算が回る。過去の記憶、英霊としての真名、己の来歴。インデックスを探り、ファイルを開き、自身のデータベースへとアクセスする。

 

 

 だが、返ってくるのは『Error』『Not Found』という虚無の羅列だけだった。

 

 ここに来るまで、自分が何をやっていたのか。どこで生まれ、どうやって死んだのか。

 

 

 

 ……思い出せない。

 

 名前も、今までの確固たる歴史の記録も。なんとなくの「クズみたいな生活をしていた」という感覚や、ギャンブルのルール、酒の味、タバコの銘柄といった概念といった、あれこれは理解できるが、自分自身を構成する正確な『記録(ログ)』が一切出てこないのだ。

 

 

(……召喚(ガチャ)の時の不具合か? それとも、俺の霊基の仕様ってヤツか……?)

 

 

 彼は時間停止とも言えるほどの膨大な思考加速の中で、一瞬だけ推論を巡らせる。

 

 

 

 だが、次の瞬間。

 

(……ま、いっか。どうせ碌な人生じゃなかっただろうしな)

 

 

 彼は、その超常的な思考の海を、あっさりと「面倒くさい」という理由だけで放棄した。

 

 彼にとって、過去の自分など今日のパチンコの勝率よりも価値のない情報だ。今、タバコが吸えて、魔力が満ちていて、なんとか生きていける環境がある。それだけで十分だった。細かいことを気にするのは、彼の性に合わない。

 

 

 現実の時間は、わずか0.1秒しか経過していない。

 

 だが、彼が不意に瞬きもせず虚空を見つめ、完全に動きを止めたことに、凛は敏感に気がついた。

 

「……どうしたのよ、急に黙り込んで。まさか、自分の能力すらまともに把握してないなんて言わないでしょうね?」

 

 

 訝しむ凛の鋭い視線を浴びながら、彼は再びタバコを口にくわえ、フーッ、と白い煙を吐き出した。

 

「あー……いや。能力は全部把握してる。ただ、俺自身の名前とか、来歴とかがさっぱり思い出せねぇってことに今気づいたわ」

 

「……は? 思い出せない? 自分が何者なのか分からないって言うの!?」

 

「理由は知らねぇけどな。召喚の時のバグだろ。俺みたいなイレギュラーがこの世界に弾き出された代償みたいなモンなんじゃねぇの。ま、どうだっていいけどな。名前なんて記号だ」

 

 

 雑に、本当に心底どうでもよさそうに告げるサーヴァントに、凛は頭痛を堪えるようにこめかみを押さえた。

 

 聖杯戦争において、真名はその英霊の強さや弱点を直接的に示す最大の機密事項だ。それを忘却しているというのは、致命的とも言える欠陥だ。

 

「どうだってよくないわよ! 自分の過去が分からないサーヴァントなんて……」

 

 

 凛が更なる追及をしようとしたその時、彼は唐突にジッポライターをポケットに突っ込み、残ったタバコを携帯灰皿に押し付けると、首の骨をポキ、ポキと鳴らした。

 

「てか、なんかもうこの家、退屈だからちょっと散歩行ってくるわ。この辺、深夜営業してるパチ屋とかねぇの? スロットでもいいんだけど」

 

「…………は?」

 

 

 凛が完全に呆気に取られている間に、彼は長い脚を気だるげに動かし、床に散らばる瓦礫や羽毛を無造作に踏み越えて、スタスタと居間のドア——玄関の方へと向かっていく。

 

「ちょ、待っ……バカじゃないの!? 召喚された初日の夜に、マスターの許可もなくのこのこ外に出るサーヴァントがどこにいるのよ!! 敵に見つかったらどうするの!!」

 

「ここにいるだろ。じゃ、適当に朝までには帰るわー。戸締まりしとけよ、嬢ちゃん」

 

 

 

 背中を向けたまま、ヒラヒラと長い手を振る。

 

 

 ガチャリ。

 

 彼は本当に玄関の重いドアを開け、冬木の冷たい夜の闇の中へと出て行ってしまった。

 

「〜〜〜〜ッ!! ほんっとに、なんなのあいつ!! 私の言うこと何一つ聞かないじゃない!!」

 

 

 凛は髪を掻き毟り、怒りのあまり地団駄を踏んだ。

 

 

 だが、サーヴァントを単独行動させて敵の急襲に遭えば、最悪の場合、初日で敗退すらありうる。

 

 彼女はギリッと奥歯を噛み締めると、慌ててハンガーに掛かっていた深紅のコートを羽織り、彼の後を追って冬木の冷たい夜の闇へと飛び出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 冬の深夜の冷気が、肺の粘膜をチクチクと刺すように冷たい。

 

 遠坂邸は冬木市の高台——高級住宅街の外れに位置している。そこから市街地へと続く長い坂道を、二つの影が下っていた。

 

 

 前を歩くのは、ポケットに両手を突っ込み、猫背気味にダラダラと歩く長身の男。

 

 その後ろを、赤いコートを羽織った凛が、小走りで追いかけている。彼の歩幅は予想以上に広く、おまけに彼は全くペースを緩めようとしないため、凛はヒールの音をカツカツと鳴らしながら急がなければ追いつけなかった。

 

 

「ねえ! 待ちなさいってば! 魔術師の殺し合いって分かってる!? 他のマスターの使い魔や、索敵の結界に見つかったらどうするの!」

 

 

 凛は彼の背中に向かって、周囲に響かない程度の声量で必死に抗議する。

 

 

 しかし彼は、振り返りもせずに気怠い声を返した。

 

「んー? 見つかったら、その時考えりゃいいだろ。ガチガチに防衛線張って縮こまってるより、流れに身を任せるのが一番ストレスねぇんだよ」

 

「ストレスの問題じゃないでしょ! 命が懸かってるのよ!」

 

 

 街灯の薄暗い光の下、彼の横顔がオレンジ色に浮かび上がる。

 

 ルーズにまとめられた髪が冷たい夜風に揺れ、耳元で複数のピアスやクロスペンダントが微かにチャリ、と鳴る。

 

 

 どう見ても、これから血で血を洗う魔術の戦いに身を投じる英霊には見えなかった。ただの夜遊びに出かける不良青年の後ろ姿だ。

 

(……隙だらけ。どこからどう見ても、ただの柄の悪いチンピラにしか見えない)

 

 

 凛は息を切らしながら、彼の背中をジッと睨みつける。

 

 

 

 ——だが、遠坂の当主として鍛え上げられた彼女の魔術師としての『眼』は、表面上の緩さに騙されてはいなかった。

 

(……おかしいわ。あんなにダラダラ歩いているのに、足運びには、無駄な力みが一切ない)

 

 

 凛の視線が、彼の足元に集中する。

 

 彼の歩き方は、一見すると重心がぶら下がっているように見える。だが、骨格と筋肉の連動を解析すると、それが異常な状態であることが分かる。

 

 彼は、いついかなるタイミングで、どの方向から急襲されても、予備動作ゼロで瞬時に跳べる——反撃に転じることができる『極限の脱力状態』を維持しているのだ。

 

 

 

 技術として学んだものではなく、ただ己の感覚のみで研ぎ澄まされた、彼特有の殺戮の歩法。

 

 そして何より、凛の肌を粟立たせているのは、彼の身体の奥底、霊基の中核で燻っている異質な魔力の波長だった。

 

(なんなの、あの魔力……。まるで、細かい刃が幾重にも重なっているような……ザラついた、暴力的な感触……)

 

 

 彼はただのチンピラではない。間違いなく、サーヴァントという規格外の化物の一角だ。

 

「……ねえ。本当にパチンコなんてあると思ってるの? こんな深夜に、しかもこの住宅街に近いエリアで」

 

 

 凛は少しだけ警戒レベルを引き上げながら、彼の真横に並んで歩調を合わせた。

 

「あるかもしれねぇだろ? 確率はゼロじゃねぇ。俺の直感(カン)が『行け』って言ってんだよ」

 

 

 彼は鼻先にずり下がった丸型のサングラスを指で押し上げながら、切れ長の瞳で退屈そうに深夜の街並みを見渡している。

 

 直感が行けと言っている。その言葉には、論理的な根拠など一切ない、ギャンブラー特有の傲慢な自信が満ちていた。

 

 

 

 

 

 

 

 二人は坂を下りきり、新都方面へと続く幅の広い幹線道路に出た。

 

 深夜の道路は車通りも少なく、信号の黄色い点滅だけが一定のリズムを刻んでいる。歩道はやや狭く、車道との間には低いガードレールがあるだけだった。

 

「ほら見なさいよ。開いてる店なんてコンビニくらいじゃない。さっさと帰って、今後の作戦会議を……」

 

 

 

 ——ブォォォォォンッ!!

 

 

 凄まじいエンジン音と共に、一台の大型トラックが制限速度を大幅に超過したスピードで、彼らの背後から接近してきた。

 

 深夜の気の緩みか、あるいは居眠り運転か。トラックの車体は車線を大きく逸脱し、凛が歩いている歩道側のガードレールギリギリを擦るような、異常な軌道で突っ込んできている。

 

「危なっ——」

 

 

 凛がトラックの異常に気づき、咄嗟に魔術回路を立ち上げて強化の術式を編もうとした、その瞬間。

 

 

 コンマ一秒の、さらにその百分の一。

 

 凛の魔術が起動するよりも早く、彼の長い腕がスッと、まるで最初からそこに軌道が引かれていたかのように滑らかに伸びた。

 

「おっと。歩道狭ぇな」

 

 

 

 一切の力みも、焦りもない、気怠げな声。

 

 彼の手が、凛の赤いコートの襟を軽く、しかし逃れられない確かな力で掴んだ。

 

 

 グイッ!

 

 「きゃっ!?」と短い悲鳴を上げる間もなく、凛の身体は強引に引き寄せられ、彼の広い胸元と腕の中にすっぽりと収まる形になる。

 

 

 

 直後。

 

 ゴアァァァァァッ!!! という暴風と轟音を撒き散らしながら、トラックが凛の立っていた数十センチ横の空間を、ガードレールをかすめるようにして通り過ぎていった。

 

 

「…………」

 

 

 トラックのテールランプが遠ざかっていく。

 

 凛は、彼の腕の中で目を丸くしたまま固まっていた。

 

 鼻を突くのは、タバコのヤニの匂いと、微かな安物のコロン。そして、先ほど感じた『鋸状の魔力』が、触れ合う皮膚越しにピリピリと微弱な静電気のように伝わってくる。

 

 

 彼は、凛が安全であることを確認すると、すぐにコートの襟から手を離し、何事もなかったかのように再びポケットに手を突っ込んで歩き出した。

 

「おー、怖。深夜のトラックの運ちゃんはこれだから油断ならねぇんだよな」

 

 

 心底どうでもよさそうに呟く背中を、凛は呆然と見つめた。

 

 今の一瞬の動作。ただ引っ張っただけに見えるが、彼の足の運び、引き寄せる力のベクトル、トラックとの間合いの測り方は『完璧』の一言だった。少しでも力が強ければ凛は転倒し、弱ければトラックに巻き込まれていた。

 

 あれは、無意識に常に最善の選択肢を引き当てる彼のスキルの片鱗。

 

 

(……一応、マスターを庇う気はあるのね。完全に腐ってるわけじゃない……のかしら)

 

 

 凛は、先ほどまで彼に感じていた100%の嫌悪感が、ほんの数パーセントだけ、別の感情——興味と呆れ混じりの安堵——に変化したのを感じた。

 

「……何ボーッとしてんだよ。置いてくぞ」

 

 

 数メートル先を歩いていた彼が、面倒くさそうに振り返る。サングラスの奥の瞳が、少しだけ面白そうに細められていた。

 

「……ちょっと、見直した?」

 

 

 凛はコートの襟を直し、ツンと顔を背けながら早歩きで彼に追いついた。

 

「何も言ってないでしょ。別に貴方がいなくても、自分で対処できたわよ」

 

「はいはい、強がりお嬢様。そりゃよかったな」

 

「ほら、さっさと歩きなさいよ! どうせどこも開いてないんだから、このブロックを一周したら家に帰るわよ!」

 

 

 

 憎まれ口を叩きながらも、凛の足取りは、先ほどよりも少しだけ軽くなっていた。

 

 最悪の出会い。全く噛み合わない性格。魔術師の常識が一切通じない、欲望のままに生きる堕落した男。

 

 

 けれど、この欲望に忠実でどうしようもない男の隣は、不思議と「聖杯戦争という呪われた殺し合いの重圧」を忘れさせてくれるような、奇妙な居心地の良さがあった。

 

 冬の夜空に、二人の足音と、噛み合わない口論が、場違いなほど軽やかに響いていく。

 

 

 

 

 

 

 

 深夜三時の冬木市街は、まるで巨大な墓標のように静まり返っている。

 

 海から吹き付ける冬の夜風は容赦なく体温を奪い、コンクリートの冷気が足元から這い上がってくる。遠くで聞こえる波の音と、時折通り過ぎる深夜便のトラックの排気音だけが、この街がまだ機能していることを辛うじて証明していた。

 

「……チッ。マジでどこも閉まってんじゃん。この街、夜の娯楽少なすぎだろ」

 

 

 深夜の冷たい風に吹かれながら、長身のサーヴァントは心底不満げに舌打ちをした。

 

「当たり前でしょ。今は三時よ。パチンコ屋なんて開いてるわけないじゃない。だいたい、サーヴァントが深夜の街を遊び目的で徘徊するなんて、前代未聞にも程があるわ」

 

 

 凛が白い息を吐き出しながら小言を言いかけた、その時だった。

 

 薄暗い路地裏の奥。シャッターの閉まった店舗が立ち並ぶ寂れた通りの中で、一箇所だけ、チカチカと品のないネオンサインを点滅させている古い店舗が彼の目に留まった。

 

 毒々しいピンクと緑のネオン管で作られた『24H Amusement』の文字。壁には色褪せたゲームのポスターが貼られ、ガラス張りの自動ドアの向こうからは、チープな電子音の乱反射が漏れ出している。どう見ても、堅気の人間が深夜に立ち入るような場所ではない、場末のゲームセンターだった。

 

 

「お。あるじゃん」

 

 

 彼のティールブルーのサングラスの奥で、退屈しきっていた切れ長の瞳が微かに光を帯びた。

 

「ちょっと、嘘でしょ!? 入る気!?」

 

「パチがねぇならメダルで我慢するしかねぇだろ。スロットも置いてそうだしな。それに、ああいう底辺の吹き溜まりみたいなトコは、大抵タバコが吸える」

 

 

 凛が制止する間もなく、彼は長い脚でスタスタと路地裏へ足を踏み入れ、薄汚れた自動ドアを抜けていく。

 

 ウィーン、という間の抜けたモーター音と共に、むせ返るようなタバコのヤニの匂いと、古いカーペットの埃っぽさ、そして無数のアーケード筐体が発するけたたましい電子音が入り混じった、独特の空気が溢れ出した。

 

 

 凛は思わず顔をしかめ、鼻をつまんだ。遠坂の令嬢として、そして魔術師として、これほどまでに『澱んだ』空間に足を踏み入れた経験などない。

 

 だが、単独行動をさせて敵に見つかれば元も子もない。彼女はマスターとしての責任感から奥歯を噛み締め、渋々彼の後を追って、その俗悪な空間へと足を踏み入れた。

 

 

 

 

 

 

 店内には数人の客しかいない。画面の光に顔を照らされながら虚ろな目でボタンを叩き続ける中年男や、所在なさげにうろつく不良の集団。

 

 そのどんよりとした空気の中で、長身の彼は完全に水を得た魚のように馴染んでいた。

 

「……ねえ、これ何が面白いのよ」

 

 

 凛が腕を組みながら、ジト目で睨みつける。

 

 その視線の先で、彼は店内の一番奥、薄暗いコーナーに設置された古びたポーカーのメダルゲーム機にドカッと腰を下ろしていた。

 

 彼は自動ドアの横にあった両替機で、凛から半ば強引に「借金」した千円札をメダルに変え、それを気だるげに投入口へ流し込んでいた。ティールブルーのサングラスを鼻先までずり下げ、画面をまともに見ようともしていない。長い指で、ただ作業のようにメダルを投入し続けているだけだ。

 

 

「いや面白くねぇよ。所詮はただのメダルだ。換金できねぇしな。ただの暇つぶし、手持ち無沙汰の解消だ」

 

 

 そう言いながら、彼は手元の「MAX BET」のボタンを、一切の躊躇なく乱暴に叩いた。

 

 ポーカーのセオリーなど完全に無視。配られた五枚のカードに対し、交換のボタンには目もくれず、そのまま勝負に出る。

 

(……バカね。あんな適当なプレイ、ただ機械にお金を吸い取られるだけじゃない。メダルが尽きたら今度こそ家に引きずって帰るわよ)

 

 

 凛がそう鼻で笑おうとした、その瞬間だった。

 

 

 

 ——ピロロロロロロロロロッ!!!

 

 

 ——キュインッ!! キュキュキュキュイィィィンッ!!!!

 

 

 突然、寂れた店内に似合わない、けたたましく暴力的なファンファーレが鳴り響いた。

 

 ブラウン管の画面全体が激しくフラッシュし、赤と金の派手なエフェクトと共に『ROYAL STRAIGHT FLUSH』の文字が踊り狂う。

 

 

 直後、ジャラジャラジャラジャラッ!! と、機械が悲鳴を上げるような勢いで、受け皿に大量の真鍮製のメダルが吐き出され始めた。その勢いは凄まじく、数秒で受け皿から溢れ出し、床にバラバラとこぼれ落ちていく。

 

「えっ……!?」

 

 

 凛は腕を組んだまま、完全に硬直した。

 

 ポーカーのロイヤルストレートフラッシュ。確率にしておよそ六十五万分の一。それを、カードの交換すら行わない最初の五枚(ストレートドロー)で、しかも座って数分で引き当てるなど、天文学的な確率だ。

 

「あー、うるせぇ。古い台は無駄に演出が長ぇんだよ。耳障りだ」

 

 

 だが、当の張本人は歓喜の声を上げるどころか、心底面倒くさそうに首をポキリと鳴らし、ポケットからタバコを取り出して火を点けた。そして、溢れ返るメダルを、適当に足元にあったプラスチックのドル箱へザラザラと移し替える。

 

「……た、たまたまでしょ。どうせ機械が壊れてたんじゃないの?」

 

「かもな。じゃ、次行くか」

 

 

 彼はドル箱を片手で持ち上げると、隣のルーレットの筐体へと移動した。

 

 そして、盤面も見ずに、溢れるメダルを一箇所「赤の23」の単穴に山のように積み上げる。

 

 

 

 数十秒後。

 

 カラカラと音を立てて回っていたボールは、まるで目に見えない糸に引っ張られるかのように、不自然な軌道を描いて彼が賭けたポケットへとスポン、と吸い込まれた。

 

 

 

 ——ジャンジャジャジャーン!!!

 

 

 再び、大量のメダルが払い出される。

 

 凛は目を疑った。

 

 

 だが、彼の「異常」はそこで終わらない。

 

 競馬ゲームでは、オッズが数百倍の最低人気の馬が、最終コーナーで物理法則を無視したかのような異常な加速を見せて一着に飛び込む。

 

 スロットマシンでは、適当にレバーを叩き、ボタンをスライドするように適当に押しただけで、リールが滑るように「777」の形でピタリと停止する。

 

 

 手当たり次第に座っては、数分で筐体内のメダルを根こそぎ空にしていく。わずか十数分の間に、彼の足元には、タワーのように積み上げられたドル箱の山が形成されていた。

 

 

(……魔術的な干渉? 機構を操作しているの? いや、違う。術式の行使なんて一切感じない。ただ……!)

 

 

 凛の背筋に、ゾクリと冷たい氷の刃を滑らせたような悪寒が走った。

 

 彼女は魔術師としての『眼』を極限まで凝らし、メダルを投入し続ける彼の背中を、霊的な視覚で解析した。

 

 

 

 見えた。

 

 彼がボタンを押す瞬間、レバーを叩く瞬間。彼の身体の奥底、霊基の中核から燻り出ている『ザラついた鋸状の魔力』が、ほんのわずかに波打つのだ。

 

 だが、その魔力は筐体の基盤に干渉しているわけでも、ルーレットのボールの物理的軌道に干渉しているわけでもない。

 

 

 彼の魔力は、ただそこにあるだけ。

 

 ただ、彼自身が『当てる』という事象を、理屈抜きで強制的に引き寄せている。世界そのものが、彼の存在という強烈な引力に引っ張られ、その『結果』に合わせて物理法則の方をねじ曲げ、辻褄を合わせているのだ。

 

 

 魔術師とは、原因から結果を導き出す者である。

 

 研鑽を積み、数式を組み上げ、等価交換の原則に従って神秘を現実に固定する。

 

 

 だが、この男は違う。「大当たり」という結果だけを、過程をすべてすっ飛ばして引き寄せている。これは魔術ではない。世界のシステムに対する、暴力的なまでの『侵食』と『バグ』だ。

 

 これこそが、彼の固有スキル——常軌を逸した『超幸運(グレーター・ラック)』と、勝負所での流れを強制的に手繰り寄せる『黄金律(ギャンブル)』の片鱗。

 

(……もし、これが戦いで発揮されたら。この男の『運』が、敵の急所を穿つという『結果』を引き寄せたら……)

 

 

 どんな堅牢な防御も、どんな神速の回避も、彼が「当たる」という目(ダイス)を引いた瞬間、世界はそれに合わせて敵の身体を死地に配置するだろう。

 

 チンピラのような外見の奥底に隠された、底なしの異常性。凛は無意識のうちに、一歩後ずさる。

 

「……貴方、なんなのよ。確率計算も何もしてないじゃない。どうしてそんなに当たるの?」

 

 

 声がわずかに震えていることに、凛自身も気づいていた。

 

 彼はタバコを口の端にくわえたまま、振り返りもせずに気怠く答えた。

 

「計算? そんな面倒なことしねぇよ。ただ……なんとなく『ここだ』って感覚が、上から降ってくるだけだ。ま、俺自身のツキだな」

 

 

 彼は最後のスロットマシンのメダルを払い出し終えると、足元に築き上げられたドル箱の山を一切の未練もなく放置したまま立ち上がり、ふぁあ、と大きな欠伸をした。

 

「メダルなんていくら出しても換金できねぇし、腹の足しにもなんねぇ。もう完全に冷めたわ。帰るぞ、嬢ちゃん」

 

 

 あまりにも理不尽なまでの豪運を見せつけておきながら、彼はゴミでも捨てるかのようにその結果を放棄した。

 

「嬢ちゃんって呼ぶな! 私は遠坂凛よ! というか、あれだけ出しておいてそのまま帰る気!?」

 

「置いておけば、後でハイエナする底辺の連中が喜ぶだろ。俺にはもう用済みだ」

 

 

 凛が怒って振り返り、ズンズンと入り口へ向かって歩き出そうとした彼を追いかけようとした、その時だった。

 

 彼は不意に足を止め、入り口近くの隅にひっそりと置かれていた、色褪せたクレーンゲームの前に立った。

 

 中には、黒くて不気味な、しかしどこか愛嬌のある奇妙な猫のぬいぐるみが山のように積まれている。

 

 彼はサングラスの奥の目を少しだけ細めると、ポケットから残っていた100円玉を一枚取り出し、気だるげに投入口へ弾き入れた。

 

「ちょっと、帰るんじゃないの?」

 

 

 凛の声を無視して、彼はレバーを握る。

 

 だが、アームの位置を慎重に合わせるような素振りは一切ない。横移動のボタンを適当に押し、縦移動のボタンも適当に叩く。

 

(あんな適当で取れるわけないじゃない。重心もフックの角度も、完全にズレてる……)

 

 

 凛が魔術師特有の精密な空間把握能力でそう結論づけた、直後。

 

 ウィーン、と下降したひ弱なアームは、ぬいぐるみの胴体を掴み損ね、虚しく空を切った。

 

 

 

 ——かに見えた。

 

 閉じたアームの爪の先端が、ぬいぐるみの頭頂部に付いていた小さなタグの輪っかに、「物理学的にあり得ない、奇跡的な角度で」ミリ単位で引っかかったのだ。

 

 そのまま、アームはぬいぐるみをぶら下げた状態で持ち上がり、ポトン、と景品口へ落下させた。

 

「ほら」

 

「……え?」

 

 

 彼は取り出し口に長い手を突っ込み、その不気味な猫のぬいぐるみを引っ張り出すと、驚きで目を見開いている凛の胸元へと、ポイッと軽く放り投げた。

 

 バフッ、と柔らかい感触が凛の腕の中に収まる。

 

「マスター就任祝い。さっきの紅茶の礼も兼ねてな。俺は、甘いヤツが嫌いじゃない」

 

「……っ!」

 

 

 唐突な行動に、凛はぬいぐるみを抱え込んだまま言葉に詰まった。

 

 彼を見上げる。ティールブルーのサングラス越しに見える、細く冷めた目が、先ほどまでの退屈しきった光ではなく、ほんの少しだけ柔らかく、細められている。

 

 耳元のクロスペンダントが、彼の動きに合わせてチャリ、と微かに鳴った。

 

 

 どうしようもないクズで、怠惰で、魔術師の常識が一切通じない男。

 

 自分が誰であるかも忘れ、聖杯戦争という命がけの儀式すら「退屈しのぎ」としか捉えていない異常な霊基。

 

 

(……調子が狂うわ。本当に、私の完璧な計画をぐちゃぐちゃにしておいて……)

 

 

 凛はギュッとぬいぐるみを抱きしめ直すと、真っ赤になった顔を隠すようにプイッと横を向き、わざとらしく冷たい声を作る。

 

「……べ、別にこんなの欲しくなかったけど。貴方がそこまで言うなら、もったいないから貰っておいてあげるわよ!」

 

 

 完璧なまでのツンデレの教科書のような台詞。

 

 彼は「ふっ」と短く息を吐いて笑い、ポケットに手を突っ込んだまま自動ドアを抜けて外の冷気の中へと歩き出した。

 

「はいはい。ツンデレはお腹いっぱいですー。顔真っ赤だぞ、お嬢様」

 

「誰がツンデレよ!! 燃やすわよ!!」

 

 

 深夜の誰もいない、冷たい海風が吹き抜ける歓楽街のアーケードに、凛の甲高い怒鳴り声と、彼の低く、気怠げな笑い声が響き渡った。

 

 最悪の召喚事故から始まった、優等生と、名もなきムーンキャンサーのコンビ。

 

 

 彼らがこれから直面する、血みどろの聖杯戦争と、確率の壁を打ち砕く狂気の《博徒》の連鎖。

 

 その嵐の前の静けさの中で、二人の歩幅は、ほんの数センチだけ、近づいていた。

 

 

 

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