化け物の楽園   作:2W

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第2話 魔法界

 ダイアゴン横丁は、町よりずっと騒がしかった。

 石畳の道の両側には、見たことのない店が隙間なく並んでいる。細長い煙突から紫の煙を吐く店。窓いっぱいに羽根ペンを吊るした店。鍋が勝手に揺れている店。看板の文字は動き、通りを行き交う人々のローブは、黒、緑、臙脂、銀、目が痛くなるほど鮮やかだった。

 人が多い。

 その事実だけなら、ミラ・ローレンスの足はすくんでいたはずだった。だが、あまりにも何もかもが知らないものばかりで、逆に町の人間の群れとは結びつかなかった。誰もまともに見えない。だから、自分だけが異物だとも思いきれない。

 ミラは外套の前を握り、隣を歩く小柄な老教授を見た。

 フィリウス・フリットウィックは、ミラより少し前を歩きながら、時々こちらを振り返る。背は低く、声は高めで、動きは小鳥のように素早い。町の大人たちのように上から覆いかぶさってくる感じがなかった。

 

「人が多すぎるようでしたら、すぐに言ってください。横道へ入りましょう」

 

 ミラは小さく頷いた。

 フリットウィックはそれ以上、返事を急かさなかった。言葉を待たれない時間は、少しだけ息がしやすかった。

 それで、朝のことを思い出した。

 フリットウィックが迎えに来た時、ミラは焼け跡の床板を少しだけ開け、火かき棒を握ったまま顔を出しているところだった。地下からは、ぷに、ぷに、とスライムが何度も跳ねる音がする。ついていく、と床板の下から押しているように聞こえた。

 小柄な教授は、焼けた居間の端で足を止めたまま、帽子を胸の前に抱えた。

 

「ダンブルドア先生から伝言です」

 

 ミラは床板の縁を握り直した。

 

「君の小さな友人は、今日は家に残した方がいい。人前に出せば、余計な目を引きます。それから、君が大切にしている石も、むやみに見せない方がいいそうです」

 

 スライム。

 マデュライト。

 どちらの名も、フリットウィックは口にしなかった。知らないのか、知っていて言わないのかはわからない。

 

「取り上げる、という意味ではありません」

 

 ミラが身構えたのを見て、フリットウィックはすぐに続けた。

 

「ただ、珍しいものは人目を引きます。人目を引くものは、時に余計な手も引き寄せます」

 

 余計な手。

 髪を掴む手。腕を捻る手。床に押さえつける手。

 ミラは地下を振り返った。青い体が階段の下で揺れている。

 

「待っていてください」

 

 そう言うと、スライムは小さく跳ねた。ぷに、と床板が鳴る。言葉ではない。それでもミラは、待つ、という返事として受け取った。

 だからミラも、約束を破りたくなかった。

 今、ダイアゴン横丁の人波を見て、その伝言の意味が少しだけわかる。

 ここには、目が多すぎる。

 帰ったら、今日見たものを全部話す。食べ物の匂いも、動く看板も、見たことのない鳥のことも。スライムがわかるかどうかはわからない。それでも、あの青い体の前に並べてやりたかった。

 

「本来なら、先にグリンゴッツへ行く予定でした」

 

 フリットウィックが通りの奥を見た。白い大理石の建物が、人混みの向こうに少しだけ見えている。

 

「ですが、銀行は逃げません。今日はまず、君の物を揃えましょう。新入生にとって、初めて自分の杖を持つ日は特別ですから」

「お金は」

 

 声が、思ったより小さく出た。

 

「後で精算できます。今は私が立て替えます」

 

 立て替える。

 買う。

 払う。

 どれも、ミラの生活にはあまり馴染まない言葉だった。欲しいものは拾う。食べられるものは見つける。見つからなければ我慢する。町で手を伸ばせば、怒鳴られるか叩かれる。

 フリットウィックは、そんなことなど当然のように、杖の店の方へ歩き出した。

 店の看板には、金色の文字でオリバンダーと書かれていた。

 細長い店内に入ると、埃と古い木の匂いがした。天井近くまで積まれた細長い箱が、薄暗い棚にびっしりと詰まっている。

 奥から、白髪の老人が現れた。

 

「いらっしゃいませ。おや、ホグワーツの新入生ですな」

 

 ミラは反射的にフリットウィックの陰へ半歩下がった。

 老人の目は銀色に見えた。細く、よく見ている。町人のような嫌悪ではない。ダンブルドアのような穏やかさとも違う。ものを測る目だった。

 

「ミラ・ローレンスさんです」

 

 フリットウィックが言った。

 

「杖をお願いします」

 

「もちろん」

 

 オリバンダーは棚の間へ滑るように消え、すぐに箱をいくつか抱えて戻ってきた。

 

「利き手は?」

「……右、です」

「では、右手で」

 

 差し出された一本目を、ミラは恐る恐る握った。

 瞬間、棚の上の箱が一つ落ちた。

 ミラは肩を跳ねさせ、杖を手放しそうになる。

 

「違いますな」

 

 オリバンダーは平然と杖を取り上げた。

 次の杖を握ると、杖先から黒い煙のようなものがひゅっと出る。三本目は、店内の羽根ペンを一斉に逆立てた。四本目では、ミラの足元の埃が小さな渦になって舞った。

 そのたびに、ミラは怒られるのを待った。

 だが、誰も怒鳴らなかった。フリットウィックは少し驚いても、すぐに「大丈夫です」と言った。オリバンダーはむしろ興味深そうに目を細めている。

 

「ふむ。違う。これも違う。……では、これはどうでしょう」

 

 オリバンダーが取り出した箱は、ほかのものより少し短かった。

 

「サンザシ。芯はユニコーンの毛。二十二センチ」

 

 ミラは手を伸ばした。

 杖は細く、軽かった。握った瞬間、指先に静かな熱が通る。

 杖先から、青白い光がこぼれた。

 火花ではなかった。誰かを驚かせるための光でもない。地下室のランプに似た、静かな光だった。

 ミラは息を止めた。

 杖は暴れない。手の中で震えない。逃げない。まるで、最初からそこに収まる場所を知っていたようだった。

 

「おお」

 

 フリットウィックが嬉しそうに声を上げた。

 

「決まりですな」

 

 オリバンダーは、杖とミラを交互に見た。

 

「サンザシは、扱いの難しい杖です。持ち主の矛盾や、ひねくれたところに応えることがある」

 

 矛盾。

 ひねくれたところ。

 ミラは、杖を握る指に力を込めた。

 

「うまく通じ合えば力強い。けれど、少しでも噛み合わなければ、持ち主の方が振り回されることもある」

 

 それは、自分に向けられた言葉のように聞こえた。

 

「ただ」

 

 オリバンダーは杖の長さを確かめるように目を細めた。

 

「二十二センチ。ずいぶん短い」

「小さいから、ですか」

 

 ミラは思わず聞いた。

 

「いいえ。杖の長さは、背丈だけで決まるものではありません」

 

 オリバンダーはゆっくりと言った。

 

「時に杖は、持ち主の内側にある、本人にも見えていないものを測る」

 

 ミラは杖を握り直した。

 内側。

 見えていないもの。

 胸の奥を覗かれるようで、指先が冷える。

 

「……まあ、杖が選んだのです。今は、それで十分でしょう」

 

 オリバンダーは箱に杖を戻し、丁寧に包んだ。

 フリットウィックが代金を払う。ミラはその様子を見ていた。金貨が渡され、品物が渡される。怒鳴り声も、拳も、追い立てる足音もない。

 箱に収められた杖を抱えると、胸のあたりが妙に落ち着かない。危ないものを渡されたのかもしれない。それなのに、誰にも奪われたくないものを得てしまった。杖はまだ沈黙している。それでも、手の中にあった青白い光の感触だけは残っていた。

 店を出ると、通りの匂いが一気に戻った。香辛料、煙、革、古い紙、焼き菓子の甘い匂い。

 その甘い匂いに、ミラの足が止まった。

 屋台の上に、丸い焼き菓子が並んでいる。表面には砂糖がまぶされていた。白く、粉雪のように光っている。

 気づいた時には、指が伸びていた。

 

「ミス・ローレンス」

 

 名を呼ばれた瞬間、手が凍った。

 ミラは息を止める。叩かれる。怒鳴られる。盗人、と言われる。化け物のくせに、と。

 だが、フリットウィックの声は硬くなかった。

 

「欲しい時は、言ってよいのです」

 

 ミラは意味がわからず、ただ見返した。

 

「ここでは、代金を払えば買えます。黙って取る必要はありません」

「……買う」

「はい」

 

 フリットウィックは屋台の魔女に銀貨を渡し、焼き菓子を一つ受け取った。それを紙に包んで、ミラへ差し出す。

 ミラは受け取らなかった。

 

「いりません」

 

 反射的に言っていた。

 フリットウィックは菓子を引っ込めなかった。

 

「欲しかったのでしょう」

 

 責める声ではなかった。

 ミラは紙包みの端を、ほんの少しだけ摘まんだ。熱い。焼きたてだった。指先にじんわりと温度が移る。

 

「……怒らないんですか」

「今、君は止まりました。次からは、欲しいと言えばいい。覚えることはそれだけです」

 

 焼き菓子をかじると、砂糖が舌の上で溶けた。甘い。柔らかい。傷んだリンゴの酸っぱさとも、水に浸したパンの味とも違う。

 喉の奥が詰まった。

 甘いものは、誰かの皿の上か、店先の向こう側にあるものだった。手を伸ばせば叩かれる。見つめすぎれば追い払われる。それなのに今、それは紙に包まれて自分の手の中にある。食べてもいいものとして。

 ミラは残りを紙で包み直す。

 

「食べないのですか?」

「持って帰ります」

 

 スライムに。

 そう言いかけて、口を閉じた。

 フリットウィックは聞かなかった。ただ、わかったように頷いた。

 そのあと、フリットウィックは魔法動物を扱う店の扉を押した。

 鳴き声と羽ばたきが、温い空気ごと押し寄せてきた。籠の中でフクロウが首を回し、猫が棚の上から尻尾を揺らし、ヒキガエルが湿った目でこちらを見ている。奥では、見たことのない小さな生き物がガラスの箱の中を走り回っていた。

 ミラは敷居の内側で足を止めた。

 いるかもしれない。

 青くて、やわらかくて、言葉を持たないのに返事だけはしてくれるもの。

 魔法界なら、町にはいない生き物がいる。ダンブルドアが人前に出さない方がいいと言ったのなら、逆に、知っている人や店があるのかもしれない。

 店の中を見回しても、あの青い体と同じものは見つからなかった。

 鳥。猫。ヒキガエル。名前のわからない小さな生き物たち。

 どれも町の生き物とは違う。けれど、スライムとも違った。胸の奥で、何かが小さく引っかかる。

 

「ホグワーツへ持ち込めるペットは、基本的にはフクロウ、猫、ヒキガエルです」

 

 フリットウィックが説明した。

 

「ペット」

 

 ミラは小さく繰り返す。

 その言葉は、スライムの上で滑った。籠に入れるもの。買うもの。許可を得て持ち込むもの。あの青い体は、そういう場所に収まらなかった。

 ふくろう百貨店にも寄ったが、金色の目で見下ろしてくる大きなフクロウは、立派で、綺麗で、それだけだった。

 世界のどこかに、スライムのようなものは他にもいるのだろうか。

 その考えは、教科書を揃えるために入った書店でも、ミラの頭から離れなかった。

 棚が壁のように立っている。フリットウィックが必要な本を店員に頼む間、ミラは一冊の背表紙に目を止めた。

 幻の魔法生物とその生息地。

 指が、そこで止まる。

 幻。

 魔法生物。

 生息地。

 この本なら、どこかに書いてあるかもしれない。スライムのこと。マデュライトのこと。あるいは、まだ名前も知らない、スライムに似た何かのこと。

 たとえ載っていなくても、載っていないとわかるだけでいい。

 

「それも読みたいのですか?」

 

 フリットウィックに問われ、ミラは首を横に振りかけた。必要かどうかはわからない。教科書ではないのかもしれない。でも、欲しい。

 

「……読みたい、です」

 

 フリットウィックは少しだけ目を細め、その本を教科書の山に重ねた。

 店を出ると、通りの向こうで少年たちの声がした。

 一人は淡い金髪で、きれいなローブを着ている。もう一人は黒髪で眼鏡をかけ、少し困った顔をしていた。黒髪の少年の後ろでは、大柄な男が店先の籠をのぞき込んでいる。

 

「魔法界には、付き合う相手を選ぶってことが大事なんだ。父上も言っている。マグルの中で育った連中は、いろいろ知らないからね」

 

 マグル。

 ミラの足が止まった。

 町の人たち。石を投げる手。笑う口。靴の裏。

 

「マグルは魔法を持たない。劣った連中だ。そういう血に近い者と一緒にいると、こちらまで低く見られる」

 

 マグルを信用するな。

 その部分だけなら、ミラの体はすぐに理解した。信用してはいけない。近づいてはいけない。笑っている口ほど、次に石を投げるかもしれない。

 けれど、劣っている、という言葉はうまく飲み込めなかった。

 劣っているものが、あんなに怖いはずがない。

 あの手は、ミラよりずっと大きい。あの靴は、腹に入ると息を止める。あの笑い声は、地下まで追いかけてきた。

 見下せるほど、小さくなかった。

 金髪の少年が、ミラに気づいた。

 

「君も新入生?」

 

 ミラは答えなかった。フリットウィックが間に入るように一歩前へ出る。

 

「ミス・ローレンスは、今日入学準備の途中です」

「ローレンス?」

 

 金髪の少年は少し考えたが、すぐ興味を失ったようだった。

 

「僕はドラコ・マルフォイ。あっちはハリー・ポッター」

 

 ハリー、と呼ばれた黒髪の少年の名に、周囲の大人がざわめいた。

 ミラはその音に身を固くする。有名人。見られる子。黒髪の少年は、向けられた目を持て余すように足元へ視線を落とした。

 ミラは外套の前を握り、視線を逸らした。

 ここにも、分ける言葉がある。

 血。育ち。マグル。魔法使い。

 町とは違う。でも、まったく違うわけではない。

 ドラコの言葉は、石を投げる少年たちの声とは違う。けれど、線を引く時の目は少し似ていた。ミラはその線のどちら側にも足を置けなかった。

 

「行きましょう、ミス・ローレンス」

 

 フリットウィックが静かに言った。

 最後に向かったのは、白い大理石の建物だった。

 グリンゴッツ。

 入口の前には小鬼が立ち、磨かれた扉の向こうには高い天井の広間が続いていた。扉の金属は曇りひとつなく光り、近づくミラの顔を細く歪めて映した。

 それまでの店とは空気が違う。笑い声も、呼び込みの声もない。石の床に靴音が細く響き、背の高い机の向こうで小鬼たちが羽根ペンを動かしている。紙をめくる音。金属が触れ合う音。小さな咳払い。どの音も、広い天井に吸い込まれる前に、いちど冷たく薄くなった。

 ミラは思わず歩幅を小さくする。

 ここでは、物を買うのではない。

 名前を照らし合わせられる場所なのだと、足の裏が先に理解した。

 床の光沢に足が止まる。磨かれた石の上では、自分の靴だけが場違いに見えた。さっきまで通りの埃に紛れていた傷も泥も、ここでは一つずつ数えられているようだった。

 

「ローレンス家の金庫から、入学準備金を引き出したいのです」

 

 受付の小鬼に、フリットウィックが言った。

 小鬼はすぐには返事をしない。細長い鼻の上にのった眼鏡を少し持ち上げ、フリットウィックを見て、それからミラを見る。町の大人たちの目とは違う。嫌っている目ではない。憐れんでいる目でもない。そこにいるものを、記録と合うかどうかだけで測る目だった。

 

「名を」

 

 小鬼が言った。

 ミラの喉が細くなる。

 名前なら、何度も呼ばれてきた。石を投げられる時も、戸口から追い払われる時も、焼け跡の前で笑われる時も。けれど、ここで求められている名前は、そういう声とは違っていた。口にした瞬間、何かに書き込まれる名前だ。

 フリットウィックが横から急かすことはなかった。

 ミラは外套の前を握ったまま、唇だけを動かした。

 

「……ミラ・ローレンス、です」

 

 小鬼の羽根ペンが、ひとりでに羊皮紙の上を走った。かり、かり、と硬い音がする。

 ミラ・ローレンス。

 自分の名前が、知らない紙の上に置かれる。

 それだけで、足首のあたりが冷えた。

 小鬼は細い指で帳簿をめくる。一冊ではない。横の棚から別の帳簿が滑るように出てきて、机の上で開く。さらにもう一冊。古い革表紙が重なり、紙の端から埃が薄く舞った。

 フリットウィックは穏やかな顔を保っていたが、机の縁に置いた指先だけが、ほんの少し強張っている。ミラはそれを見た。怒る前の大人の手ではない。何かおかしいと気づいた人の手だった。

 小鬼の指が一行で止まる。

 羽根ペンも止まった。

 さっきまで広間のあちこちで鳴っていた紙の音が、そこだけ遠くなる。

 

「ローレンス家の金庫は、すでに閉鎖されています」

 

 フリットウィックの顔色が変わった。

 

「閉鎖? 何かの間違いでしょう。この子が相続人です」

 

 小鬼は帳簿から顔を上げなかった。細い指だけが、同じ行の上をもう一度なぞる。

 

「相続人は存在しないものとして処理されています」

「存在しない? 目の前にいるではありませんか」

 

 フリットウィックの声が、いつもより低くなった。

 存在しない。

 ミラはその言葉を飲み込めなかった。

 町では、化け物と言われた。盗人。汚いもの。そう呼ばれるたび、石が飛び、靴が腹に入る。手が髪を掴む。嫌われているなら、そこにいるとわかる。

 存在しないものは、叩かれない。

 存在しないものは、名前を呼ばれない。

 ミラは自分の指を見下ろした。焼き菓子の紙包みを持っていた指。杖の箱を抱えていた指。さっき、小鬼の前で自分の名前を握りしめていた指。

 ちゃんとある。

 なのに、磨かれた床に映る影は、ひどく薄かった。

 小鬼はようやく顔を上げた。細い指で、羊皮紙の一行を叩く。紙が、乾いた音を立てた。

 

「ミラ・ローレンスの死亡届は、すでに受理されています」

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