ダイアゴン横丁は、町よりずっと騒がしかった。
石畳の道の両側には、見たことのない店が隙間なく並んでいる。細長い煙突から紫の煙を吐く店。窓いっぱいに羽根ペンを吊るした店。鍋が勝手に揺れている店。看板の文字は動き、通りを行き交う人々のローブは、黒、緑、臙脂、銀、目が痛くなるほど鮮やかだった。
人が多い。
その事実だけなら、ミラ・ローレンスの足はすくんでいたはずだった。だが、あまりにも何もかもが知らないものばかりで、逆に町の人間の群れとは結びつかなかった。誰もまともに見えない。だから、自分だけが異物だとも思いきれない。
ミラは外套の前を握り、隣を歩く小柄な老教授を見た。
フィリウス・フリットウィックは、ミラより少し前を歩きながら、時々こちらを振り返る。背は低く、声は高めで、動きは小鳥のように素早い。町の大人たちのように上から覆いかぶさってくる感じがなかった。
「人が多すぎるようでしたら、すぐに言ってください。横道へ入りましょう」
ミラは小さく頷いた。
フリットウィックはそれ以上、返事を急かさなかった。言葉を待たれない時間は、少しだけ息がしやすかった。
それで、朝のことを思い出した。
フリットウィックが迎えに来た時、ミラは焼け跡の床板を少しだけ開け、火かき棒を握ったまま顔を出しているところだった。地下からは、ぷに、ぷに、とスライムが何度も跳ねる音がする。ついていく、と床板の下から押しているように聞こえた。
小柄な教授は、焼けた居間の端で足を止めたまま、帽子を胸の前に抱えた。
「ダンブルドア先生から伝言です」
ミラは床板の縁を握り直した。
「君の小さな友人は、今日は家に残した方がいい。人前に出せば、余計な目を引きます。それから、君が大切にしている石も、むやみに見せない方がいいそうです」
スライム。
マデュライト。
どちらの名も、フリットウィックは口にしなかった。知らないのか、知っていて言わないのかはわからない。
「取り上げる、という意味ではありません」
ミラが身構えたのを見て、フリットウィックはすぐに続けた。
「ただ、珍しいものは人目を引きます。人目を引くものは、時に余計な手も引き寄せます」
余計な手。
髪を掴む手。腕を捻る手。床に押さえつける手。
ミラは地下を振り返った。青い体が階段の下で揺れている。
「待っていてください」
そう言うと、スライムは小さく跳ねた。ぷに、と床板が鳴る。言葉ではない。それでもミラは、待つ、という返事として受け取った。
だからミラも、約束を破りたくなかった。
今、ダイアゴン横丁の人波を見て、その伝言の意味が少しだけわかる。
ここには、目が多すぎる。
帰ったら、今日見たものを全部話す。食べ物の匂いも、動く看板も、見たことのない鳥のことも。スライムがわかるかどうかはわからない。それでも、あの青い体の前に並べてやりたかった。
「本来なら、先にグリンゴッツへ行く予定でした」
フリットウィックが通りの奥を見た。白い大理石の建物が、人混みの向こうに少しだけ見えている。
「ですが、銀行は逃げません。今日はまず、君の物を揃えましょう。新入生にとって、初めて自分の杖を持つ日は特別ですから」
「お金は」
声が、思ったより小さく出た。
「後で精算できます。今は私が立て替えます」
立て替える。
買う。
払う。
どれも、ミラの生活にはあまり馴染まない言葉だった。欲しいものは拾う。食べられるものは見つける。見つからなければ我慢する。町で手を伸ばせば、怒鳴られるか叩かれる。
フリットウィックは、そんなことなど当然のように、杖の店の方へ歩き出した。
店の看板には、金色の文字でオリバンダーと書かれていた。
細長い店内に入ると、埃と古い木の匂いがした。天井近くまで積まれた細長い箱が、薄暗い棚にびっしりと詰まっている。
奥から、白髪の老人が現れた。
「いらっしゃいませ。おや、ホグワーツの新入生ですな」
ミラは反射的にフリットウィックの陰へ半歩下がった。
老人の目は銀色に見えた。細く、よく見ている。町人のような嫌悪ではない。ダンブルドアのような穏やかさとも違う。ものを測る目だった。
「ミラ・ローレンスさんです」
フリットウィックが言った。
「杖をお願いします」
「もちろん」
オリバンダーは棚の間へ滑るように消え、すぐに箱をいくつか抱えて戻ってきた。
「利き手は?」
「……右、です」
「では、右手で」
差し出された一本目を、ミラは恐る恐る握った。
瞬間、棚の上の箱が一つ落ちた。
ミラは肩を跳ねさせ、杖を手放しそうになる。
「違いますな」
オリバンダーは平然と杖を取り上げた。
次の杖を握ると、杖先から黒い煙のようなものがひゅっと出る。三本目は、店内の羽根ペンを一斉に逆立てた。四本目では、ミラの足元の埃が小さな渦になって舞った。
そのたびに、ミラは怒られるのを待った。
だが、誰も怒鳴らなかった。フリットウィックは少し驚いても、すぐに「大丈夫です」と言った。オリバンダーはむしろ興味深そうに目を細めている。
「ふむ。違う。これも違う。……では、これはどうでしょう」
オリバンダーが取り出した箱は、ほかのものより少し短かった。
「サンザシ。芯はユニコーンの毛。二十二センチ」
ミラは手を伸ばした。
杖は細く、軽かった。握った瞬間、指先に静かな熱が通る。
杖先から、青白い光がこぼれた。
火花ではなかった。誰かを驚かせるための光でもない。地下室のランプに似た、静かな光だった。
ミラは息を止めた。
杖は暴れない。手の中で震えない。逃げない。まるで、最初からそこに収まる場所を知っていたようだった。
「おお」
フリットウィックが嬉しそうに声を上げた。
「決まりですな」
オリバンダーは、杖とミラを交互に見た。
「サンザシは、扱いの難しい杖です。持ち主の矛盾や、ひねくれたところに応えることがある」
矛盾。
ひねくれたところ。
ミラは、杖を握る指に力を込めた。
「うまく通じ合えば力強い。けれど、少しでも噛み合わなければ、持ち主の方が振り回されることもある」
それは、自分に向けられた言葉のように聞こえた。
「ただ」
オリバンダーは杖の長さを確かめるように目を細めた。
「二十二センチ。ずいぶん短い」
「小さいから、ですか」
ミラは思わず聞いた。
「いいえ。杖の長さは、背丈だけで決まるものではありません」
オリバンダーはゆっくりと言った。
「時に杖は、持ち主の内側にある、本人にも見えていないものを測る」
ミラは杖を握り直した。
内側。
見えていないもの。
胸の奥を覗かれるようで、指先が冷える。
「……まあ、杖が選んだのです。今は、それで十分でしょう」
オリバンダーは箱に杖を戻し、丁寧に包んだ。
フリットウィックが代金を払う。ミラはその様子を見ていた。金貨が渡され、品物が渡される。怒鳴り声も、拳も、追い立てる足音もない。
箱に収められた杖を抱えると、胸のあたりが妙に落ち着かない。危ないものを渡されたのかもしれない。それなのに、誰にも奪われたくないものを得てしまった。杖はまだ沈黙している。それでも、手の中にあった青白い光の感触だけは残っていた。
店を出ると、通りの匂いが一気に戻った。香辛料、煙、革、古い紙、焼き菓子の甘い匂い。
その甘い匂いに、ミラの足が止まった。
屋台の上に、丸い焼き菓子が並んでいる。表面には砂糖がまぶされていた。白く、粉雪のように光っている。
気づいた時には、指が伸びていた。
「ミス・ローレンス」
名を呼ばれた瞬間、手が凍った。
ミラは息を止める。叩かれる。怒鳴られる。盗人、と言われる。化け物のくせに、と。
だが、フリットウィックの声は硬くなかった。
「欲しい時は、言ってよいのです」
ミラは意味がわからず、ただ見返した。
「ここでは、代金を払えば買えます。黙って取る必要はありません」
「……買う」
「はい」
フリットウィックは屋台の魔女に銀貨を渡し、焼き菓子を一つ受け取った。それを紙に包んで、ミラへ差し出す。
ミラは受け取らなかった。
「いりません」
反射的に言っていた。
フリットウィックは菓子を引っ込めなかった。
「欲しかったのでしょう」
責める声ではなかった。
ミラは紙包みの端を、ほんの少しだけ摘まんだ。熱い。焼きたてだった。指先にじんわりと温度が移る。
「……怒らないんですか」
「今、君は止まりました。次からは、欲しいと言えばいい。覚えることはそれだけです」
焼き菓子をかじると、砂糖が舌の上で溶けた。甘い。柔らかい。傷んだリンゴの酸っぱさとも、水に浸したパンの味とも違う。
喉の奥が詰まった。
甘いものは、誰かの皿の上か、店先の向こう側にあるものだった。手を伸ばせば叩かれる。見つめすぎれば追い払われる。それなのに今、それは紙に包まれて自分の手の中にある。食べてもいいものとして。
ミラは残りを紙で包み直す。
「食べないのですか?」
「持って帰ります」
スライムに。
そう言いかけて、口を閉じた。
フリットウィックは聞かなかった。ただ、わかったように頷いた。
そのあと、フリットウィックは魔法動物を扱う店の扉を押した。
鳴き声と羽ばたきが、温い空気ごと押し寄せてきた。籠の中でフクロウが首を回し、猫が棚の上から尻尾を揺らし、ヒキガエルが湿った目でこちらを見ている。奥では、見たことのない小さな生き物がガラスの箱の中を走り回っていた。
ミラは敷居の内側で足を止めた。
いるかもしれない。
青くて、やわらかくて、言葉を持たないのに返事だけはしてくれるもの。
魔法界なら、町にはいない生き物がいる。ダンブルドアが人前に出さない方がいいと言ったのなら、逆に、知っている人や店があるのかもしれない。
店の中を見回しても、あの青い体と同じものは見つからなかった。
鳥。猫。ヒキガエル。名前のわからない小さな生き物たち。
どれも町の生き物とは違う。けれど、スライムとも違った。胸の奥で、何かが小さく引っかかる。
「ホグワーツへ持ち込めるペットは、基本的にはフクロウ、猫、ヒキガエルです」
フリットウィックが説明した。
「ペット」
ミラは小さく繰り返す。
その言葉は、スライムの上で滑った。籠に入れるもの。買うもの。許可を得て持ち込むもの。あの青い体は、そういう場所に収まらなかった。
ふくろう百貨店にも寄ったが、金色の目で見下ろしてくる大きなフクロウは、立派で、綺麗で、それだけだった。
世界のどこかに、スライムのようなものは他にもいるのだろうか。
その考えは、教科書を揃えるために入った書店でも、ミラの頭から離れなかった。
棚が壁のように立っている。フリットウィックが必要な本を店員に頼む間、ミラは一冊の背表紙に目を止めた。
幻の魔法生物とその生息地。
指が、そこで止まる。
幻。
魔法生物。
生息地。
この本なら、どこかに書いてあるかもしれない。スライムのこと。マデュライトのこと。あるいは、まだ名前も知らない、スライムに似た何かのこと。
たとえ載っていなくても、載っていないとわかるだけでいい。
「それも読みたいのですか?」
フリットウィックに問われ、ミラは首を横に振りかけた。必要かどうかはわからない。教科書ではないのかもしれない。でも、欲しい。
「……読みたい、です」
フリットウィックは少しだけ目を細め、その本を教科書の山に重ねた。
店を出ると、通りの向こうで少年たちの声がした。
一人は淡い金髪で、きれいなローブを着ている。もう一人は黒髪で眼鏡をかけ、少し困った顔をしていた。黒髪の少年の後ろでは、大柄な男が店先の籠をのぞき込んでいる。
「魔法界には、付き合う相手を選ぶってことが大事なんだ。父上も言っている。マグルの中で育った連中は、いろいろ知らないからね」
マグル。
ミラの足が止まった。
町の人たち。石を投げる手。笑う口。靴の裏。
「マグルは魔法を持たない。劣った連中だ。そういう血に近い者と一緒にいると、こちらまで低く見られる」
マグルを信用するな。
その部分だけなら、ミラの体はすぐに理解した。信用してはいけない。近づいてはいけない。笑っている口ほど、次に石を投げるかもしれない。
けれど、劣っている、という言葉はうまく飲み込めなかった。
劣っているものが、あんなに怖いはずがない。
あの手は、ミラよりずっと大きい。あの靴は、腹に入ると息を止める。あの笑い声は、地下まで追いかけてきた。
見下せるほど、小さくなかった。
金髪の少年が、ミラに気づいた。
「君も新入生?」
ミラは答えなかった。フリットウィックが間に入るように一歩前へ出る。
「ミス・ローレンスは、今日入学準備の途中です」
「ローレンス?」
金髪の少年は少し考えたが、すぐ興味を失ったようだった。
「僕はドラコ・マルフォイ。あっちはハリー・ポッター」
ハリー、と呼ばれた黒髪の少年の名に、周囲の大人がざわめいた。
ミラはその音に身を固くする。有名人。見られる子。黒髪の少年は、向けられた目を持て余すように足元へ視線を落とした。
ミラは外套の前を握り、視線を逸らした。
ここにも、分ける言葉がある。
血。育ち。マグル。魔法使い。
町とは違う。でも、まったく違うわけではない。
ドラコの言葉は、石を投げる少年たちの声とは違う。けれど、線を引く時の目は少し似ていた。ミラはその線のどちら側にも足を置けなかった。
「行きましょう、ミス・ローレンス」
フリットウィックが静かに言った。
最後に向かったのは、白い大理石の建物だった。
グリンゴッツ。
入口の前には小鬼が立ち、磨かれた扉の向こうには高い天井の広間が続いていた。扉の金属は曇りひとつなく光り、近づくミラの顔を細く歪めて映した。
それまでの店とは空気が違う。笑い声も、呼び込みの声もない。石の床に靴音が細く響き、背の高い机の向こうで小鬼たちが羽根ペンを動かしている。紙をめくる音。金属が触れ合う音。小さな咳払い。どの音も、広い天井に吸い込まれる前に、いちど冷たく薄くなった。
ミラは思わず歩幅を小さくする。
ここでは、物を買うのではない。
名前を照らし合わせられる場所なのだと、足の裏が先に理解した。
床の光沢に足が止まる。磨かれた石の上では、自分の靴だけが場違いに見えた。さっきまで通りの埃に紛れていた傷も泥も、ここでは一つずつ数えられているようだった。
「ローレンス家の金庫から、入学準備金を引き出したいのです」
受付の小鬼に、フリットウィックが言った。
小鬼はすぐには返事をしない。細長い鼻の上にのった眼鏡を少し持ち上げ、フリットウィックを見て、それからミラを見る。町の大人たちの目とは違う。嫌っている目ではない。憐れんでいる目でもない。そこにいるものを、記録と合うかどうかだけで測る目だった。
「名を」
小鬼が言った。
ミラの喉が細くなる。
名前なら、何度も呼ばれてきた。石を投げられる時も、戸口から追い払われる時も、焼け跡の前で笑われる時も。けれど、ここで求められている名前は、そういう声とは違っていた。口にした瞬間、何かに書き込まれる名前だ。
フリットウィックが横から急かすことはなかった。
ミラは外套の前を握ったまま、唇だけを動かした。
「……ミラ・ローレンス、です」
小鬼の羽根ペンが、ひとりでに羊皮紙の上を走った。かり、かり、と硬い音がする。
ミラ・ローレンス。
自分の名前が、知らない紙の上に置かれる。
それだけで、足首のあたりが冷えた。
小鬼は細い指で帳簿をめくる。一冊ではない。横の棚から別の帳簿が滑るように出てきて、机の上で開く。さらにもう一冊。古い革表紙が重なり、紙の端から埃が薄く舞った。
フリットウィックは穏やかな顔を保っていたが、机の縁に置いた指先だけが、ほんの少し強張っている。ミラはそれを見た。怒る前の大人の手ではない。何かおかしいと気づいた人の手だった。
小鬼の指が一行で止まる。
羽根ペンも止まった。
さっきまで広間のあちこちで鳴っていた紙の音が、そこだけ遠くなる。
「ローレンス家の金庫は、すでに閉鎖されています」
フリットウィックの顔色が変わった。
「閉鎖? 何かの間違いでしょう。この子が相続人です」
小鬼は帳簿から顔を上げなかった。細い指だけが、同じ行の上をもう一度なぞる。
「相続人は存在しないものとして処理されています」
「存在しない? 目の前にいるではありませんか」
フリットウィックの声が、いつもより低くなった。
存在しない。
ミラはその言葉を飲み込めなかった。
町では、化け物と言われた。盗人。汚いもの。そう呼ばれるたび、石が飛び、靴が腹に入る。手が髪を掴む。嫌われているなら、そこにいるとわかる。
存在しないものは、叩かれない。
存在しないものは、名前を呼ばれない。
ミラは自分の指を見下ろした。焼き菓子の紙包みを持っていた指。杖の箱を抱えていた指。さっき、小鬼の前で自分の名前を握りしめていた指。
ちゃんとある。
なのに、磨かれた床に映る影は、ひどく薄かった。
小鬼はようやく顔を上げた。細い指で、羊皮紙の一行を叩く。紙が、乾いた音を立てた。
「ミラ・ローレンスの死亡届は、すでに受理されています」