空っぽな僕らの居場所 作:喜助
一勇は、泣かない子どもだった。
転んでも、叱られても、誰かに突き飛ばされても、声を上げて泣くことはほとんどなかった。
痛くないわけではない。
悲しくないわけでもない。
ただ、泣いたところで誰かが来てくれると思っていなかった。
家では、両親は一勇にあまり干渉しなかった。
怒鳴られることも少なく殴られることもなかった。
だが、抱きしめられることも心配されることも、名前を呼ばれて笑いかけられることも、ほとんどなかった。
だから一勇は、いつしか覚えた”自分の感情に意味はないのだと”
幼稚園に入っても、それは変わらなかった。
子どもたちが笑いながら走り回る園庭の隅で、一勇はよく一人で空を見上げていた。
遊びたいわけではなく寂しいわけでもない。
ただ、そこにいるだけだった。
そんな一勇に、ある日、声がかかった。
「ねえ」
振り返ると、そこには女の子が立っていた。
腰まで届くほど長い黒髪に白い肌、人形のように整った顔立ち。
幼稚園児にしてはあまりにも静かで、あまりにも澄んだ目をしていた。
「あなた、どうして空っぽなの?」
それが、絢音との最初の会話だった。
一勇は少しだけ首を傾げた。
「からっぽ?」
「うん。みんなは、うるさいくらい中身があるのに、あなたは違う」
普通なら、そんなことを言われれば怒るか、泣くか、戸惑うかもしれない。
けれど一勇は、ただ絢音を見つめ返した。
「……わかんない」
そう答えると、絢音は少しだけ目を細めた。
「そっか」
それだけ言って、彼女は一勇の隣に座った。
二人はしばらく何も話さなかった。
園庭では、他の子どもたちが走り回っている。
先生の声が聞こえ、誰かの笑い声が響く。
けれど、その隅だけは、世界から切り取られたように静かだった。
やがて絢音が言った。
「私も、みんなと違うんだって」
「どうして?」
絢音は少しだけ考え
「わかんない」
絢音は少しだけ空を見た。
「でも、ずっと前のことを覚えてる」
と言った。
「ずっと前?」
「赤ちゃんの頃とか」
一勇は首を傾げる。
「おれ、覚えてない」
「みんなそうらしいよ」
絢音は空を見上げた。
「私だけ覚えてるんだって」
一勇は思わず顔を見ると、絢音は笑っていなかった。
けれど、悲しそうにも見えなかった。
ただ、ずっと遠くを見ているような目をしていた。
「じゃあ、いっしょだね」
一勇がそう言うと絢音は初めて驚いた顔をした。
それから、ほんの少しだけ笑った。
「……そうかも」
その日から、絢音はよく一勇の隣に来るようになった。
一勇は相変わらず空っぽだった。
絢音は相変わらず大人びていた。
それでも二人は、少しずつ言葉を交わすようになった。
絢音は難しい話をするが、一勇には半分もわからなかった。
けれど、一勇は聞いた。
わからないときはわからないと言った。不思議に思ったときは不思議だと言った。
絢音はそれを嫌がらなかった。むしろ、少し嬉しそうだった。
そして、しばらくして。もう一人の“違う子ども”が、幼稚園にやって来た。
彼の名前は優作だった。
途中入園してきたその少年は、誰とも遊ばなかった。
子どもたちが積み木で遊んでいるときも、鬼ごっこをしているときも、優作はいつも一人で本を読んでいた。
幼稚園児が読むには難しすぎる本を、小さな手でめくりながら、何かを必死に追いかけるように文字を目で追っていた。
その姿を最初に見つけたのは絢音だった。
「ねえ、一勇」
「なに?」
「あの子、変」
一勇は絢音の視線の先を見た。
教室の隅の本棚の横、そこに優作がいた。
誰にも近づかず、誰も近づけず、ただ知識だけを求めるように本を読んでいる。
一勇はしばらく優作を見つめた。
そして言った。
「あの子も、空っぽなの?」
絢音は少し考えてから首を振った。
「ううん。空っぽじゃない」
「じゃあ?」
「たぶん、足りないんだと思う」
「なにが?」
「力」
一勇はしばらく優作を見ていた。
本を読む横顔は怖そうだった。
でも、本当は誰かが近付いてくるのを待っているようにも見えた。
「さみしいのかな」
一勇がそういうと、絢音は少し驚いた。
「どうしてそう思うの?」
「だって」
一勇は首を傾げた。
「帰りたい顔してない」
その日の昼休み
一勇と絢音は、優作の前に立った。
優作は本から目を上げなかった。
「なに」
冷たい声だった。
絢音が言った。
「あなた、ずっと本を読んでるね」
「悪い?」
「悪くない。気になっただけ」
優作はようやく顔を上げた。
黒髪に、茶色がかった瞳。
幼い顔立ちの中に、年齢に似合わない鋭さがあった。
「遊びたいなら他を当たれ。俺は忙しい」
絢音は首を傾げた。
「何をしてるの?」
「勉強」
「どうして?」
優作の目が、少しだけ険しくなった。
「弱いから」
「なにが?」
優作は本を閉じた。
「弱い奴は奪われる」
それは、幼稚園児とは思えない声だった。
「だから強くなる」
その言葉に、一勇が反応した。
「勉強すると、強くなれるの?」
優作は一勇を見た。
まるで、馬鹿にするべきか迷っているような顔だった。
「知っていれば、奪われない。考えられれば、負けない。何も知らないやつは、ずっと踏まれる」
幼稚園児の言葉ではなかった。
けれど、絢音は驚かなかった。
一勇も、笑わなかった。
ただ、一勇は少しだけ考えてから言った。
「じゃあ、すごいね」
優作の表情が止まった。
「……何が」
「強くなろうとしてるの」
その瞬間、優作は何も言えなくなった。
馬鹿にされると思っていた。
気味悪がられると思っていた。
子どもらしくないと笑われると思っていた。
けれど、一勇は違った。
絢音もまた、静かに優作を見ていた。
「私も知りたいこと、たくさんある」
絢音は言った。
「だから、あなたの読んでる本、少し見せて」
優作はしばらく二人を睨んでいた。
やがて、諦めたように本を少しだけ差し出した。
「……汚すなよ」
「うん」
絢音は隣に座り、一勇もその横に座った。
優作は迷惑そうな顔をしたが、追い払うことはしなかった。
三人は、教室の隅で一冊の本を囲んだ。
絢音は内容をすぐに理解し優作はそれを当然のように受け止めた。
一勇はほとんど理解できなかった。
けれど、一勇は逃げなかった。
「これ、どういう意味?」
そう聞くたびに、優作は面倒くさそうに説明し絢音が補足した。
一勇は頷いた。
その繰り返しだった。
やがて優作が呆れたように言った。
「わからないなら、聞くなよ」
一勇は答えた。
「わからないから聞くんだよ」
優作はまた黙ると絢音が小さく笑った。
その笑い声につられるように、一勇も少し笑った。
優作だけは笑わなかった。
けれど、本を閉じることもしなかった。
その日から、三人は一緒にいるようになった。
空っぽだった少年。
捨てられた記憶を持つ少女。
力を求め続ける少年。
誰もが少しずつ歪で、誰もが少しずつ孤独だった。
だからこそ、三人は互いを見つけた。
後になって思う。
あの日、幼稚園の片隅で出会ったことが自分たちの人生を変えたのだと
あの頃の僕たちはまだ知らなかった
この時間が永遠ではないことを、いつか失うものがあることを
それでもなお、その出会いを後悔しないことも