ノア・セルウィンは、他人の物に勝手に触る人間が嫌いだった。
正義感ではない。そんな立派なものではない。触られた物が壊れるのも嫌だし、なくなるのも嫌だし、それを見ていた周りが「前もよかったのだから次もいいだろう」という顔をするのがもっと嫌だった。
八歳の頃、親戚筋の集まりで、年上の少年に古いチェス駒を勝手に使われたことがある。父が本家から譲られた象牙の駒で、子供のノアにも、それが安い物ではないことくらいはわかった。けれどその日の帰り、膝の上の箱を開けると、白い騎士が一つ足りなかった。
「まあ……子供同士のことだ。あまり大げさにしても仕方ないだろう」
父はそう言って、困ったように笑った。
向かいの席で母は、黒い手袋の指先を重ねたまま、しばらく黙っていた。馬車が石畳を踏むたび、箱の中の駒がかたりと小さく鳴る。ノアが留め金を閉めると、母はようやく顔を上げた。
「嫌だったの?」
ノアは頷いた。
「なら、最初に嫌だと言いなさい」
「言ったら、父上が困る」
「後で困る方が、たいてい長引くわ」
父が窓の外を見た。母はもうそれ以上、父には何も言わなかった。ただ、ノアの膝の上にある箱へ視線を落とし、もう一度だけ、静かに言った。
「最初は小さい声で済むのよ」
ノアは、それをよく覚えていた。
大きな声は嫌いだった。目立つし、目立てば誰かが寄ってくる。誰かが寄ってくれば、話は大抵、最初より面倒になる。
だからフローリシュ・アンド・ブロッツ書店で、その少女が本を横から取られた時も、ノアは本来なら黙っているつもりだった。
店内は、ホグワーツ入学準備の親子で混み合っていた。棚と棚の間にはローブの袖や買い物袋が引っかかり、脚立に乗った店員が上の棚から本を抜くたび、細かな埃が光の中に舞った。ノアは『千の魔法薬草と茸』を抱え直し、床に積まれた本の山を崩さないよう足先をずらして、会計へ向かおうとしていた。
「それ、私が先に取ったのよ」
少女の声がした。
振り向くと、髪の広がった少女が、両腕いっぱいに教科書を抱えて立っていた。片腕には羊皮紙の束まで挟んでいる。そんなに抱えたら落とすだろう、とノアは思ったが、少女は落とさなかった。落とさないよう、指先が白くなるほど本の角を押さえていた。
その前に、同じくらいの年頃の少年がいた。新しいローブを着ている。靴も磨かれている。だが、手にした本の背表紙を掴んでぶら下げている時点で、ノアの中ではだいぶ評価が下がった。
「見てただけだろ」
「触っていたわ。棚から抜いたのは私よ」
「手を離しただろ」
「離してないわ。持ち替えただけよ」
少女は本の束を抱え直した。右手の指だけが、問題の本の背にまだ残っている。少年はその上から本を掴んでいた。要するに、取ったのではなく奪い合いになっている。
ノアは視線を戻した。
関わるな。
ここで口を挟めば、たぶん家名が出る。家名が出れば親が出る。親が出れば手紙が来る。手紙が来れば母が読む。母が読めば父が曖昧に笑い、結局こちらの夕食の空気が悪くなる。
どう考えても割に合わない。
ノアは会計へ向かう足を一歩出した。
「汚れた血が、そんな本を読んでどうするんだよ」
その一歩が止まった。
店の騒がしさが、わずかに形を変えた。誰かが息を呑んだ。誰かが聞かなかったふりをした。脚立の上の店員が、手にしていた本を棚へ戻すでもなく、客へ渡すでもなく、中途半端な位置で止めている。
少女は、少年の顔を見た。
それから、周りを見た。
誰も先に口を開かない。
ノアの胃の奥が、ゆっくり重くなった。
膝の上の箱。足りない白い騎士。困ったように笑った父。あの時と同じ、取った側ではなく、取られた側が黙るのを待つ空気。
本を取っただけなら、まだ見なかったことにできた。
けれど、取った側が別の言葉で相手を黙らせようとするなら、話は少し変わる。何より、その形を目の前で通されるのが嫌だった。
今なら、まだ小さい声で済む。
ノアは息を吐き、抱えていた薬草学の本を棚に戻した。
本当に最悪だった。
「本の話で負けたから、血の話にしたのか?」
少年が振り返った。
「……は?」
ノアは少年ではなく、その手元を見た。背表紙が曲がっている。最悪だ。もう少し早く戻ればよかった。
「先に取ったかどうかの話だっただろ。そこで血を出すなら、本の話では勝てないってことになる」
少年の頬が赤くなる。
「違う! こいつが――」
「なら本の話に戻せばいい。どっちが先に触っていた?」
近くにいた大人たちが、あからさまではない程度にこちらを見た。先ほどまで聞かなかったふりをしていた店員も、今度は完全に手を止めている。
ノアはその視線を数え、心の中で舌打ちした。
すでに目立っている。
やはり関わるべきではなかった。だが、ここで引くと、血の言葉を持ち出した少年と、それを一度だけ指摘して逃げた自分が同じ棚の前に残る。それはそれで、あとで思い出すたびに気分が悪い。
少年が本を握り直した。その指が少女の指を押しのける。
ノアは一歩近づいた。
「それ以上やるなら、店員を呼ぶ」
「お前、どこの家だよ」
「セルウィン」
少年の口が止まった。
セルウィンは、出せば誰もが黙る名ではない。けれど、古い家名ではあった。古い家名は、相手に一呼吸だけ考えさせる。相手の家名を聞き返すか、親の名前を出すか、それともここで引くか。
その一呼吸で十分だった。
ノアは少年の手から本を抜いた。
奪い返した、というより、これ以上背表紙を痛められる前に回収した、という方がノアの感覚には近かった。もちろん、それを言ったところで誰にも伝わらない。伝わらないなら黙っているに限る。
ノアは少女へ本を差し出した。
「君のだろ」
少女はすぐには受け取らなかった。ノアの顔と、本と、棚の向こうで赤い顔をした少年を順番に見る。疑っているというより、何が起きたのかを自分の中で並べ直している目だった。
「……ありがとう」
本を受け取る時、少女は背表紙ではなく、表紙と底をきちんと支えた。
ノアは少しだけ機嫌を直した。
「背表紙を掴むな。曲がる」
少年にそう言うと、少年は何か言い返そうとして、脚立の上の店員と目が合った。店員は穏やかな顔で咳払いをした。少年は唇を噛み、ノアと少女を睨んでから、棚の向こうへ消えた。
ノアは会計へ向き直ろうとした。
「待って」
少女の声が追ってきた。
待ちたくない。ものすごく待ちたくない。だが、ここで無視すると、先ほどの本だけ取り返して逃げたようになる。それはそれで後味が悪かった。
ノアは振り向いた。
「今の言葉、どういう意味なの?」
「今の?」
「“汚れた血”って。私の両親が魔法使いではないことを言っているのはわかったわ。でも、それと本を読むことに何の関係があるの?」
泣くより先に質問が来るのか。
少女の指先はまだ本の底を押さえていた。さっきより少し強い。だが声は震えていない。自分が傷つけられたことより、その言葉がどんな仕組みで自分の読書を否定したのかを、先に知りたがっている。
ノアは、少しだけ本気で後悔した。
これは駄目だ。
こういう顔をする人間は、分からないことを分からないままにしない。そして、分かるまで追う。追って、追いすぎて、気づいた時には崖の端に立っている。
「知らない」
「知らないの?」
「少なくとも、本を横から取る理由にはならない」
「じゃあ、あの人は間違っていたのね」
「今の場面ではな」
少女はそこで、ほんの少しだけ眉を寄せた。
「今の場面では?」
拾わなくていいところを、正確に拾った。
ノアは、会計台までの距離を目で測った。近い。走ればすぐだ。走れないが。
「他の場面まで俺に聞くな。俺は魔法界の説明係じゃない」
「でも、あなたは“今の場面では”と言ったわ。つまり、別の場面なら、私の両親が魔法使いではないことが関係するの?」
言葉が一段深く刺さってきた。
ノアは口を開きかけ、閉じた。
ない、と言えば短く済む。だが、それはたぶん嘘になる。ある、と言えば、もっと長くなる。どちらにしても、この少女はその先を聞くだろう。
「……俺に聞くな」
「ええ。あなたが言ったんじゃないもの」
そう返した少女の声は、柔らかくはなかった。だが、ノアを責める声でもなかった。ただ、納得していないものを納得していないまま、きちんと横に置いた声だった。
見なかったことにしたい。
もう遅い。
「あなたもホグワーツに行くの?」
「たぶん」
「たぶん、ではないでしょう。入学許可証が来たなら、行くのよね?」
「……行く」
訂正させられた。
ノアはこの時点で、かなり帰りたくなった。
少女は本を抱え直した。落としそうで落とさない。落としそうで落とさないが、見ている方の心臓に悪い。
「私はハーマイオニー・グレンジャー。両親はマグルだけれど、ホグワーツの教科書はもう読み始めているわ。もちろん全部理解したわけじゃないけれど、授業が始まる前に準備しておくべきだと思うの。特に呪文学は、言葉の発音が大切でしょう? それに変身術も、基礎を間違えると危ないって書いてあったわ」
ノアは、今度こそ確信した。
この子は浮く。
間違いなく浮く。正しいことを言う。正しいことを、必要な量より少し多く言う。そして嫌な顔をされた理由を知るために、さらに正しい言葉を足す。
「ノア・セルウィン」
名乗った後で、ノアはまた後悔した。だが、ここで名乗らないのも、さっきの本だけ取り返して逃げるようで、それはそれで後味が悪かった。
「セルウィン。古い魔法使いの家の名前ね」
「読んだのか」
「ええ。でも、詳しくは載っていなかったわ。純血の名家一覧、といっても、かなり簡単な説明だったもの」
「詳しくなくていい」
「どうして?」
「詳しくなると面倒だからだよ」
ハーマイオニーは眉を寄せた。
「あなた、ずいぶん落ち着いているのね」
「どこが」
「さっき、あの人がひどい言葉を使った時も、あなたは怒鳴らなかったわ。あの人の言葉に言い返すんじゃなくて、本の話に戻したでしょう」
ノアは黙った。
戻した。確かに戻した。血の話を始められると、自分では終わらせられないからだ。本の話なら終わらせられる。本を返せば済む。済むはずだった。
「怒鳴ると面倒になる」
「だから、あの言葉には答えなかったの?」
「答えたら長くなるだろ」
「それは、答えを知っているという意味?」
ノアは、また口を閉じた。
この少女は、本当に拾わなくていいところを拾う。しかも、拾ったものをそのままこちらへ返してくる。
「知っていることと、説明できることは違う」
「それなら、説明できる人を探すわ」
「そうしろ」
「ええ、そうする」
ハーマイオニーはそう言いながら、本の底を押さえる指に力を込めた。感謝はしている。だが、それで全部終わったとは思っていない。そういう顔だった。
そこで、棚の向こうから小さな笑い声がした。
ノアが振り向くと、同い年くらいの少女が立っていた。淡い金色の髪を乱れなくまとめ、薄い本を一冊、胸の前で抱えている。ローブに皺はない。最初からそこにいたのだろう。だが、見られていたことに気づかなかった。
ノアはその少女を知っていた。
ダフネ・グリーングラス。古い純血家の娘。親戚筋の集まりで何度か顔を合わせたことがある。会話らしい会話はほとんどない。向こうもこちらを、セルウィンの分家筋の少年として知っている。その程度の距離だった。
つまり、気まずい。
知らない相手なら無視できた。よく知っている相手なら、まだ言い訳もできた。知り合い程度の相手に、面倒事の現場を見られるのが一番困る。
「余計なことをしたわね、セルウィン」
責める声ではなかった。
ハーマイオニーが本を抱え直す。警戒している。ダフネはその警戒に気づいたらしく、すぐには近づかなかった。棚の端に指を添えたまま、ノアとハーマイオニーのどちらにも顔を向けられる位置で止まる。
「してない」
ノアが答えると、ダフネは少しだけ首を傾けた。彼女の視線はノアではなく、ハーマイオニーの腕の中の本に向かっていた。曲がっていない背表紙を確認し、それから棚の向こうへ消えた少年の方を見る。
「あの子の本を取り返していたでしょう」
「背表紙を掴んでただろ。あのままだと曲がるんだよ」
「本の心配だったの?」
ダフネはすぐには笑わなかった。代わりに、ノアの顔をじっと見た。急かすでもなく、責めるでもなく、答えを待っている目だった。こういう目は苦手だ。何を言っても、言葉の端を拾われる。
「それ以外にあるかよ」
少し強めに返すと、ダフネはようやく小さく笑った。
「そう。そういうことにしておくわ」
完全に信じていない顔だった。
ノアは、さっきより帰りたくなった。
ダフネはハーマイオニーへ視線を移した。相手の抱えている本、インク瓶、羊皮紙の束を見る。最後に顔を見た。
「ダフネ・グリーングラスよ」
名乗る声は柔らかかった。だが、馴れ馴れしくはない。
ハーマイオニーは少し背筋を伸ばした。
「ハーマイオニー・グレンジャーです」
「ホグワーツに?」
「ええ。今年から」
「なら同級生ね」
「あなたも?」
「ええ。だから、さっきの言葉についても、いずれ嫌でも聞くことになると思うわ」
ハーマイオニーの目が動いた。
ノアは嫌な予感がした。
「あなたも、その意味を知っているの?」
「知っているわ」
「なら、教えてくれる?」
ダフネはすぐには答えなかった。
彼女の目が、一度だけノアに向く。何かを測るような目だった。けれど、すぐに答えを決めた顔にはならなかった。ノアの言葉と、ハーマイオニーの問いと、棚の向こうへ消えた少年の背中を、順番に置き直している。
「ここで全部を説明すると、セルウィンが本当に嫌そうな顔をするわ」
「俺のせいにするな」
「でも、嫌そうな顔をしているもの」
「してない」
ハーマイオニーがノアを見た。まだ少し赤い目で、しかし観察する力はまったく衰えていない。
「しているわ。少なくとも、説明したくない顔ではあるわね」
ノアは口を開いたが、二人の視線が同じ方向から来ていることに気づいて閉じた。
これは勝てない。
経験上、女の子二人に同じ方向から見られた時は、黙った方が傷が浅い。
ダフネはそこで、ようやく小さく息を吐いた。結論を急いだというより、余計な傷を増やさない言葉を選んだように見えた。
「あの言葉を知る必要はあると思うわ。けれど、今すぐあの子の言葉で覚える必要はないわね」
「あの子?」
「さっきの男の子。あなたから本を取った方」
ダフネはそう言って、棚の向こうへ一瞬だけ目を向けた。
「少なくとも、本を読む理由を否定できる言葉ではないもの」
ハーマイオニーは黙った。
ノアも少し黙った。
それは、ノアが言ったことよりずっと整っていた。整っているのに、ノアの言葉を否定していない。むしろ、補強している。
やめろ。
俺の雑な発言に、まともな意味を足すな。
ダフネはノアの顔を見て、ほんの少し目を細めた。
たぶん、今の顔で気づいた。
「覚えておくわ、ノア・セルウィン」
「覚えなくていい」
「それは無理ね。さっきの場面で、血の話にしなかった純血の子を、忘れる方が難しいもの」
馬車の中の母の声が、ノアの胸の奥でかすかに鳴った。
最初に嫌だと言いなさい。
ノアは顔をしかめた。
「本の話だったからだ」
「ええ。だから、覚えておくわ」
「だからが繋がってない」
「私の中では繋がっているもの」
ノアは口を閉じた。反論しても、また長くなるだけだった。
ノアは教科書を抱え直し、今度こそ会計へ向かった。背後で、ハーマイオニーが呼ぶ。
「ノア」
振り向かない方がいい。そう思いながら、ノアは振り向いた。
「さっきの本、ありがとう」
「落とすなよ」
ハーマイオニーはすぐに言い返そうとして、腕の中の本を見た。ノアの視線が本の束に向いていることに気づいたのだろう。彼女は少しだけ本を抱え直し、それから胸を張った。
「落とさないわ。さっきだって落としたんじゃなくて、取られたの。そこは訂正しておくわ」
「じゃあ、取られるな」
「それは努力することではないと思うわ」
「努力しろ」
「理不尽だわ。けれど、持ち方は気をつけることにする」
ノアは返事をせず、会計台に本を置いた。店員が値段を告げる。財布を出す間、棚の隙間に二人の影が映っていた。
一人は、分からないことをそのままにしない。
もう一人は、分かったことをすぐには言わない。
どちらも、面倒な予感しかしなかった。
背後で、ダフネの声がする。
「グレンジャー。その本、右の棚にももう一冊あったわ」
「……先に言ってくれればよかったのに」
「今、言ったわ」
ノアは振り向かなかった。振り向けば、また何か言う羽目になる。
店員が包んだ本を差し出す。ノアはそれを受け取り、出口へ向かった。扉の鈴が鳴る直前、ダフネの視線が背中に触れている気がした。
ノアは肩越しに振り返りかけ、やめた。
背中に、鈴の音だけが追ってきた。