ホグワーツ特急の赤い車体を見た時、ノア・セルウィンは少しだけ息をついた。
列車というものはいい。行き先が決まっている。乗れば進む。馬車のように向かい合って座らされることもなければ、親戚筋の集まりのように、誰かの父親の近況へ相槌を打ち続ける必要もない。座席を確保し、扉を閉め、教科書でも開いていれば、目的地まで勝手に運んでくれる。
問題は、同じ列車に乗る人間が多すぎることだった。
九と四分の三番線は、出発前の熱を抱え込んでいた。トランクを押す父親、籠の中で羽を膨らませる梟、忘れ物を叱る母親、泣きそうな一年生。煙と声と革鞄の匂いが混ざり合って、どこを見ても誰かの肩がある。
ノアはトランクの取っ手を握り直し、母の横で一歩だけ下がった。
「ノア」
母が名を呼んだ。
ノアは顔を上げる。母はいつものように、感情を表に出しすぎない顔をしていた。けれど、手袋をはめた指先がトランクの角を一度だけ撫でたのを、ノアは見逃さなかった。
「手紙は、早めに出しなさい」
「はい」
「困ったことがあれば、隠さず書くこと」
「はい」
「困る前でもいいわ」
ノアは少し黙った。
「……なるべく」
母はそこで、ほんの少し目を細めた。
「その返事は、信用しすぎないでおくわ」
父なら笑って流すところだった。母は流さない。ノアは曖昧に頷いて、トランクを押した。
別れの言葉は長くなかった。セルウィン家は、駅の真ん中で抱き合って泣く家ではない。母はノアの襟元を軽く直し、父は「先生方の言うことをよく聞くんだぞ」と言いかけて、母に一度見られてから「……まあ、無理はするな」と言い直した。
それだけで十分だった。
十分だったので、ノアはさっさと列車へ乗った。
出発前の車内はすでに混み始めていたが、幸い、端の方にまだ誰もいないコンパートメントがあった。ノアはそこへ入り、トランクを棚へ押し込もうとして、少し苦戦した。重い。母が入れた予備のローブと、父がこっそり入れた菓子と、ノアが入れた本と、家の者が勝手に足した「必要かもしれない物」が詰まっている。
ようやく棚へ押し上げると、ノアは扉から少し離れた奥の席に座った。窓際ではない。廊下から覗かれた時に目が合いにくい場所である。
薬草学の教科書を開く。
読みたいわけではない。読んでいる人間は、少なくとも最初の一言をかけられにくい。
数分後、扉が開いた。
「ここ、空いているかな」
金髪の少年が立っていた。きちんと整えられた髪、上等なローブ、相手の家名を先に確認しそうな灰色の目。
ドラコ・マルフォイ。
ノアは教科書の端に指を置いたまま顔を上げた。閉じない。閉じると、話す用意があるように見える。
「空いてる」
ノアが答えると、ドラコは当然のように入ってきた。その後ろから、体格のいい少年が二人続く。二人が座ると、コンパートメントの空気が目に見えて狭くなった。
ノアは席を少し詰めた。
詰めたくはなかったが、詰めないと片方の膝がノアの鞄に当たりそうだった。
「君はセルウィンだったね」
ドラコは向かいに座りながら言った。
「ノア・セルウィン」
「覚えているよ。父が君の家のことを話していた」
それは良い話だったのか、悪い話だったのか。
ノアは聞かなかった。聞くと話が続く。
「マルフォイ」
ドラコは自分の名を言い、少しだけ顎を上げた。
「ドラコ・マルフォイだ」
「知ってる」
そう答えると、ドラコは満足したように頷いた。後ろの二人は名乗らなかった。名乗らなくても、ドラコの左右にいる時点で役割は分かる。ノアは、二人の靴が自分の鞄に触れていないかだけ確認した。
「君はスリザリンだろう?」
「まだ帽子に聞いてない」
「聞くまでもないさ。セルウィンならね」
ドラコは笑った。
ノアは教科書の文字へ視線を落とした。まだ一行も読んでいない。茸の分類が目に入る。茸はいい。喋らない。毒はあるが、喋らないだけずっといい。
「君はどこの寮を望んでいる?」
「揉めないところ」
ドラコが一瞬だけ黙った。
ノアは顔を上げる。
今の返事は、あまりよくなかったかもしれない。
「……それなら、やはりスリザリンだろうね」
ドラコは少し笑った。自分の知っている答えに、相手が遠回りで辿り着いたと思ったらしい。
ノアは否定しなかった。揉めない寮など存在しない。存在しないものについて議論しても、得るものはない。得るものがない話ほど長引く。
列車が汽笛を鳴らした。
窓の外で、母がこちらを見ていた。ノアは軽く手を上げる。母も小さく手を上げた。父はその後ろで、やや大きく手を振っている。母が父の肘を軽く押さえ、父の手が途中で止まった。
列車が動き出す。
駅がゆっくり後ろへ流れ、赤い煙と人の声が遠ざかる。ノアは窓から目を離し、教科書へ戻ろうとした。
その時、廊下から別の声が聞こえた。
有名な名を探す声だった。
ドラコの指が、膝の上で止まる。
「ポッターが乗っているらしい」
単なる同級生への興味ではなかった。家で何度も聞かされてきた名を、自分の手で確かめに行く時の声だった。
ノアは教科書に目を落としたまま、ページの端を親指で押さえた。
有名人に近づく時は、本人よりも周りが先に騒ぐ。
誰が最初に声をかけたか。誰が断られたか。誰が笑い、誰が黙ったか。本人たちがどう思っていようと、見ていた人間は勝手に話を作る。遠くから見る分には構わないが、近くでそれに巻き込まれるのは最悪だった。
ドラコは立ち上がった。左右の大きい二人も、当然のように立ち上がる。狭いコンパートメントの中で三人が動くと、棚のトランクがわずかに揺れた。
ノアはその揺れを見た。
「どこへ行くんだ」
「ポッターに挨拶をしてくる」
ドラコは言った。すでに行く気だった。
ノアは口を閉じようとした。
ここで何か言えば、ドラコの行動に責任が生まれる。止めても聞かないかもしれない。聞かなければ気まずい。聞いたら聞いたで、なぜ自分がマルフォイ家の御曹司の行動計画に関わっているのかわからない。
三人が扉へ向かう。クラッブかゴイルか、どちらかの肩が扉枠に当たり、軽く音を立てた。
ノアは本を閉じた。
音を立てないように閉じたつもりだったが、それでもドラコは振り返った。
「何か?」
「三人で行くのかよ」
「それが?」
問題しかない。
だが、それをそのまま言えば揉める。ノアは廊下を見た。すでに何人かの生徒が、ポッターの噂に反応して移動している。あの中に三人で割って入れば、挨拶というより囲みに見える。
「挨拶なら、廊下で会った時にすればいい。座ってる相手のところへ三人で行ったら、断られた時に目立つだろ」
ドラコの顔が、そこで止まった。
怒った、というより、言葉の一部だけが妙な場所へ刺さった顔だった。彼は扉にかけていた手を離し、ほんの少し顎を引く。クラッブとゴイルはもう廊下へ出かけていたが、ドラコが動かないので、揃って中途半端な姿勢で止まった。
「……僕が、ポッターに断られる?」
「そう見えるかもしれないって話だ」
「僕がわざわざ会いに行って、向こうに選ばせる形になる、と」
ノアは返事に詰まった。
そこまで言っていない。言っていないが、そう聞こえたならもう遅い。今から否定すれば、では何を言いたかったのかという話になる。説明が増える。説明が増えれば、たぶんもっと厄介になる。
「席まで押しかけるならな」
ドラコはしばらく黙っていた。やがて、ローブの袖口を指で整える。さっきまでの勢いは少し薄れていたが、引き返すほどではないらしい。
「心配しなくても、僕は挨拶の仕方くらい知っているよ」
「ならいい」
よくない。
ドラコは扉を開けた。ただし、今度はクラッブとゴイルを先に出さなかった。自分が一歩だけ廊下へ出てから、二人に目で合図する。
そこじゃない。
三人で行くなという話を、三人の並び順の話にされている。先頭がマルフォイになったところで、後ろに大きいのが二人いるなら、結局かなり押しかけである。
とはいえ、これ以上言えば、本当にマルフォイの作法係になる。
ノアは教科書へ視線を戻した。
コンパートメントが急に広くなった。
ノアは教科書を開き直した。文字が目に入らない。廊下の向こうから、いくつかの声が聞こえる。はっきりした言葉までは分からないが、空気が尖っていくのは分かった。
行くべきじゃなかっただろう。
いや、ノアは行っていない。
止めた。止めたと言えるほど止めてはいないが、少なくとも「三人で行くのかよ」とは言った。責任の所在としては、かなり遠い。遠いはずだ。
やがて廊下の声が近づいてきた。
ドラコが戻ってくる。
扉が開いた時、ノアは教科書を読んでいる顔をした。実際には一行も進んでいない。
ドラコの顔は、駅を出た時より明らかに硬かった。クラッブとゴイルは不機嫌そうだが、何がどう不機嫌なのかまでは理解していない顔をしている。
「ポッターは、思っていたよりずいぶん礼儀を知らないらしい」
ドラコは席に座らないまま言った。
ノアは顔を上げた。
こういう時は、相手の愚痴に合わせるのが一番安全だ。適度に頷き、適度に「そうか」と言い、適度に話を流す。それで終わる。終わるはずだった。
「それに、ウィーズリーと一緒にいた。よりにもよってね」
ロン・ウィーズリーという名前への軽蔑が、声の端に自然に混じった。
ノアは口を開きかけた。
その顔で戻ってきて、さらに誰かを馬鹿にするのはやめとけよ。
そう言えば、たぶん止まる。だが、止まった後が厄介になる。マルフォイ相手にそれを言えば、忠告ではなく侮辱として残る。
ノアが言葉を飲み込んだ時、廊下側から声がした。
「廊下まで聞こえているわよ」
ダフネ・グリーングラスが、開いた扉の外に立っていた。手には薄い本を持っている。通りがかっただけなのだろうが、声の向きはまっすぐこちらへ向いていた。
ドラコが振り返る。
「グリーングラス。君も聞いていたのか」
「少しだけ。聞くつもりがなくても、通れば聞こえるもの」
ダフネはそう言って、コンパートメントの扉を閉めた。廊下の声が少し遠くなり、クラッブとゴイルもつられて口を閉じる。
「今その名前を出すなら、声は落とした方がいいわ。話の中身より、誰が悔しそうな顔で戻ってきたかを先に見られるでしょうから」
ドラコの顔が、わずかに強張った。
ノアは教科書の端を押さえたまま黙った。
助かった。
ノアが言えば角が立つ言葉を、ダフネは「廊下に聞こえるから気をつけた方がいい」という形に直して言った。責めてはいない。けれど、続けると損をする場所だけはきちんと塞いでいる。
ドラコはすぐには答えなかった。やがて席へ戻る。座る動きは荒くなかった。むしろ、音を立てないようにしている。
「……君たちは、ずいぶん人の見え方を気にするんだね」
その視線は、ダフネを見た後、ノアへ移った。
「先に言ったのはセルウィンだった」
「俺は三人で行くなと言っただけだ」
「そして、断られた時に目立つと言った」
ノアは返事に詰まった。
確かに言った。言ったが、ポッターだのウィーズリーだの、マルフォイの面子だのを守るつもりで言ったわけではない。揉めるとこちらまで巻き込まれるから言っただけだ。
「……廊下に聞こえているなら、どのみちやめた方がいいだろ」
ドラコは少しの間、ノアを見ていた。
怒っている。たぶん怒っている。だが、怒鳴る方向ではなくなっている。ノアの言葉を否定したい顔と、否定しきれない顔が同じ場所に乗っていた。
「君は、ずいぶん嫌なところを見るね」
「見たくて見てるわけじゃない」
「だろうね」
ドラコは椅子の背に少し体を預けた。苛立ちは消えていない。けれど、ウィーズリーの名前を続ける気は失せたらしい。
ノアは閉じた扉を見た。
助け舟の出し方が上手い、というより、こちらが言うと刺さりすぎる場所を、少し丸くしてくれたのだと思った。そういう相手はありがたい。
「ありがとう」
小さく言うと、ダフネは少しだけ目を丸くした。
「どういたしまして」
それだけ返して、彼女は扉を開け、廊下へ戻っていった。
ノアは教科書へ視線を戻した。今度こそ読む。茸でも根でも毒草でもいい。とにかく文字を見ていれば、これ以上会話は増えない。
そう思った矢先、ドラコが言った。
「セルウィン」
ノアは目を閉じた。
教科書を開いている人間に話しかけない、という常識は魔法界には存在しないらしい。
「何だ」
「君はポッターをどう見る?」
その質問は、あまりに広かった。
ノアは窓の外を見た。流れていく景色はのどかだった。のどかであることに腹が立つくらい、車内は複雑だった。
「本人より、見てる連中の方が先に騒ぐ相手」
ドラコが目を細めた。
「ポッター本人ではなく?」
「本人が黙ってても、周りが勝手に意味を作るだろ。今日だって、名前を聞いただけで廊下が動いてる」
ドラコは黙った。
ノアは教科書へ戻ろうとしたが、戻れなかった。ドラコの視線がこちらに残っていたからだ。
「君は、ポッター本人より周りを見るんだね」
「騒ぐのは周りだからな」
それは本音だった。
そして本音だったから、ドラコには余計に刺さったらしい。
「覚えておくよ」
「覚えなくていい」
「それは無理だね」
ノアは返事をやめた。言えばまた続く。
列車は進む。
途中で菓子売りのワゴンが来た時、ドラコは大量の菓子を買った。クラッブとゴイルはそれを当然のように食べた。ノアは母が持たせた包みを開けた。中には小さな焼き菓子が入っていた。父がこっそり入れたものより、母が選んだものの方が食べやすかった。
ドラコがそれを見た。
「買わないのかい?」
「ある」
「そう」
ドラコはそれ以上勧めなかった。
意外だった。
ノアが焼き菓子を一つ食べていると、廊下の向こうから楽しげな声が聞こえた。別のコンパートメントで、誰かが蛙チョコのカードを交換しているらしい。
ポッターも、たぶんどこかで菓子を食べているのだろう。
ノアは自分とは関係ないことだと思った。関係ないままでいてほしいと思った。
それなのに、ドラコは時折、考えるように窓の外を見る。ノアが何かを教えたわけではない。注意したわけでもない。ただ、少し声が外へ漏れにくくなったコンパートメントで、マルフォイの御曹司が口数を減らしている。
それだけで十分、不吉だった。
夕方に近づく頃、列車の空気が変わった。上級生たちがローブに着替え始め、一年生たちも慌てて荷物を探る。クラッブとゴイルがトランクを下ろそうとして、棚を派手に揺らした。
ノアは即座に身を引いた。
「もう少し静かに下ろせ。中身が崩れる」
「細かいな、君は」
ドラコが言った。
「崩れた荷物を直す方が手間だろ」
「君は本当に、先の手間を嫌うんだね」
「嫌わない理由がない」
ドラコは少し笑った。
笑うところではない。
ノアはローブに着替えながら、今日の出来事を数えた。
マルフォイと同席した。
ポッターへの接触を止め損ねた。
ドラコに余計なことを言った。
ダフネに助け舟を出された。
なぜかドラコがこちらの言葉を覚える気になっている。
まだ学校に着いていないのに、すでに帰りたい。
列車が速度を落とし始める。
窓の外に、暗くなりかけた空と、遠くの湖が見えた。ホグワーツはもう近い。
ドラコは立ち上がり、ローブの袖を整えた。その横顔には、先ほどの苛立ちよりも、何かを考え込む色が残っている。
「セルウィン」
「今度は何だ」
「君の忠告は、気分が悪い」
「なら聞くな」
「……気分が悪い忠告ほど、忘れにくいものだね」
ノアは何も言わなかった。
言えばまた長くなる。
ドラコはそれをどう受け取ったのか、薄く笑った。
「スリザリンで会おう」
「まだ決まってない」
「決まっているさ」
ドラコはそう言って、クラッブとゴイルを連れて廊下へ出た。
ノアは少し遅れて立ち上がる。扉の外へ出ると、少し先にダフネがいた。彼女は他の女子生徒と話していたが、ノアに気づくと一度だけ視線を向けた。
「さっきは、少し大変そうだったわね」
通り過ぎざまに、彼女は小さく言った。
「見てたなら助けろ」
「助けたでしょう?」
ノアは返事に詰まった。
確かに助かった。そこは否定しにくい。
「……まあ、少しは」
「少しで十分よ」
ダフネはそう言って、先に人の流れへ入っていった。
列車の扉が開く。冷たい空気が車内へ流れ込む。上級生たちの声、一年生を呼ぶ大きな声、遠くに見える灯り。
ノアはトランクを持ち直し、人の流れに混じって外へ出た。
入学前からこれである。
ノアは人の流れに押されながら、湖の向こうに見える灯りから目を逸らした。