スリザリンの凡人、なぜか闇の帝王候補扱いされる   作:ノア

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組分け帽子は余計なことを言う

 列車を降りた瞬間、冷たい空気が頬に触れた。

 

 駅の灯りは頼りなく、黒い空の下で、見知らぬ生徒たちの声ばかりがやけに大きく響いている。トランクを下ろす音、籠の中で羽をばたつかせる梟、誰かの名前を呼ぶ声。その全部が石造りの小さな駅に押し込められて、ノア・セルウィンの耳には少し多すぎた。

 

「一年生! 一年生はこっちだ!」

 

 ひときわ大きな声が響いた。

 

 ノアは声の主を見上げ、すぐに視線を戻した。背丈も、声も、手も、存在感も大きい。こういう人間は、ただそこにいるだけで周囲の流れを決める。生徒たちは自然とその声の方へ引き寄せられ、誰かが立ち止まれば後ろも止まり、誰かが転びかければ全員がそちらを見る。

 

 ノアはそういう中心に近づきたくなかった。

 

 だが、一年生は全員そちらへ行くしかない。

 

「セルウィン」

 

 横から声がした。

 

 ドラコ・マルフォイが、ローブの袖口を軽く払うように整えていた。列車の中でハリー・ポッターに拒まれた後の硬さは、もう表に出ていない。消えたわけではないだろう。ただ、きちんと畳んで、別の顔の下へしまっている。

 

 入学前から顔を作れるのは大したものだ。

 

 ノアは少しだけ感心し、同時に、自分もそういうことを要求される世界へ来たのだと思って気が重くなった。

 

「なんだ」

 

「行こう。こういう時、純血の家の者は最初から見られている」

 

「まだ何もしてないだろ」

 

「何もしていないから見られるのさ。父もよく言っている。最初の晩に誰と立ち、誰と座るかで、七年の見られ方は半分決まるってね」

 

 ドラコは薄く笑った。

 

 ノアは返事をしなかった。言い返すと、また余計な意味を取られる。黙って歩く方がいい。

 

 大柄な男に導かれ、一年生たちは湖のほとりへ向かった。黒い水面の向こうに、城があった。

 

 ホグワーツ。

 

 窓の灯りが夜の上に浮かんでいる。絵葉書のようで、同時に、あまりにも大きい。あの中で七年過ごすのかと思うと、ノアは足元の小石を見た。城そのものは綺麗だと思う。だが、綺麗な城の中にいる人間まで静かでいてくれるとは限らない。

 

「一艘に四人まで!」

 

 声に従って、小舟へ乗る。ノアはなるべく端に寄り、舟の縁を軽く掴んだ。落ちたくないからではない。落ちた後が面倒だからだ。濡れたローブ、濡れた靴、濡れた教科書、騒ぐ周囲、心配する教師、笑う誰か。想像するだけで十分不快だった。

 

 近くの舟で誰かが歓声を上げ、身を乗り出しかける。

 

 ノアはそちらを見なかった。声に出せば角が立つ。だから黙った。黙って舟の縁から手を離し、何も心配していない顔を作る。実際には、湖へ落ちた時に杖を乾かす呪文があるのかを考えていた。

 

 小舟は静かに進んだ。

 

 黒い水面に、城の灯りが細く揺れている。何人かの一年生が息を呑み、誰かが小さく「すごい」と呟いた。ノアもすごいとは思った。思ったが、それを顔に出すと、隣の誰かと感動を共有する羽目になるかもしれない。

 

 感動は一人で処理したい。

 

 舟は岩場の下を抜け、地下の船着き場へ入った。濡れた石の匂いがする。ノアは足元を確かめながら降りた。滑って転ぶなど、入学初日の失敗として最悪に近い。

 

 幸い、転ばなかった。

 

 それだけで今日の収穫としては十分だった。

 

 十分だったのに、階段を上がった先で、待っていた魔女が一年生たちを見下ろしていた。

 

 マクゴナガル教授。

 

 鋭い目の老女だった。背筋が伸び、声に無駄がない。こういう人は、曖昧な返事を嫌う。ノアはなるべく顔を上げすぎず、下げすぎず、ただの一年生としてそこに立った。

 

「これから組分けの儀式を行います。名前を呼ばれたら前へ出て、帽子を被りなさい。寮が決まれば、その寮のテーブルへ向かうこと」

 

 説明は短かった。

 

 短い説明は好きだ。

 

 ただし、その後が長い場合を除く。

 

 大広間へ入った瞬間、ノアはその例外に当たったことを理解した。

 

 天井が夜空だった。

 

 いや、天井ではない。たぶん魔法だ。蝋燭が宙に浮き、四つの長いテーブルが広間を分け、その奥には教師たちが座っている。生徒たちの視線が、一斉に一年生へ向いた。

 

 多い。

 

 視線が多い。

 

 ノアは前を歩く生徒の背中を見た。見られる側であることを意識すると、足の出し方までおかしくなる。右足から出したか、左足から出したか。そんなことを考え始める時点で、もうよくない。

 

 ただ、大広間に入ったばかりの一年生は、多かれ少なかれ似たような顔をしていた。天井を見上げる者。テーブルの上の金の皿を見ている者。教師席を見て固まる者。だからノアも、その群れの一部として紛れ込めるはずだった。

 

 そう思った時、少し前にいたハーマイオニー・グレンジャーが、天井から視線を戻した。

 

 彼女は驚いていたが、ただ口を開けて見上げているわけではなかった。星空のような天井と、浮かぶ蝋燭と、四つのテーブルを順番に見て、どこかで読んだ記述と照らし合わせているような顔をしている。ああ、後で本に書いてあったかどうか確かめるつもりだな、とノアは思った。

 

 その視線が、ふとこちらへ来た。

 

 ノアは深く頭を下げなかった。深くすると目立つ。無視すれば、後でなぜ無視したのかという話になるかもしれない。だから、ほんの少しだけ顎を引いた。挨拶とも、偶然とも取れる程度に。

 

 ハーマイオニーは一拍遅れて、小さく頷いた。彼女の顔には、まだ書店で聞いた言葉への引っかかりが残っている。けれど、ここでそれを口に出すほど場を読めないわけではない。ノアはその沈黙に少しだけ安心した。

 

 横の方で、ドラコがこちらを見ていた。

 

 ハーマイオニーとノアの間で交わされた小さすぎる挨拶を、彼は見逃さなかったらしい。何かを言うわけではない。ただ、灰色の目が一瞬だけ細くなる。列車でポッターに拒まれた時と同じ種類ではないが、何かを分類する目だった。

 

 ノアは視線を前へ戻した。

 

 気づかなかったことにする。

 

 この学校で生き延びるためには、たぶん大事な技術である。

 

 組分け帽子は歌った。

 

 古い帽子が歌うという事実だけでも十分に奇妙なのに、内容まで耳に残る。四つの寮。勇気。知恵。忠誠。野心。広間のあちらこちらで、上級生たちは慣れた顔をしている。ノアだけが内心で、この帽子は喋るだけではなく歌うのか、と考えていた。

 

 歌が終わると、拍手が起きた。

 

 マクゴナガル教授が羊皮紙を開く。

 

 名前が呼ばれていく。

 

「アボット、ハンナ!」

 

 帽子が叫び、拍手が起きる。

 

「ハッフルパフ!」

 

 また拍手。

 

 ノアは拍手の長さを数えかけ、やめた。数えても役に立たない。

 

 順番は、姓のアルファベット順らしかった。ならばセルウィンはかなり後だ。待つ時間がある。待つ時間があるということは、考える時間もある。考える時間が多すぎると、人はろくでもないことまで考える。

 

 グリフィンドールはない。

 

 勇気の寮。絶対にない。誰かが危険なことを始めた時、止める側ではなく一緒に走る側だと思われたら困る。勇敢であることを期待される場所は、勇敢でない人間にとって迷惑である。

 

 レイブンクローも難しい。

 

 賢さを期待される。課題を真面目にやる人間が多そうだ。分からないことを放っておけない人間も多そうだ。グレンジャーがもしそこへ行ったら、毎日何かを質問されるかもしれない。想像だけで胃が重い。

 

 ハッフルパフは悪くない。

 

 たぶん一番平和だ。平和はいい。だが、セルウィン家の息子がハッフルパフへ入った場合、家への説明が面倒になる。親戚筋の夕食で何度も聞かれる。父は困ったように笑い、母は静かに答え、ノアはその横で黙って肉を切ることになる。

 

 最悪ではない。

 

 だが、長い。

 

 スリザリン。

 

 面倒は多い。多いに決まっている。ドラコ・マルフォイがいる。純血家の子弟が集まる。家名、立場、派閥、親の関係、言葉の選び方。考えるだけで疲れる。

 

 けれど、説明は一番少なく済む。

 

 セルウィンだからスリザリン。

 

 たいていの人間は、それで納得する。

 

 ノアは結論を出した。

 

 スリザリンでいい。

 

 いい、というより、それ以外の説明が面倒だ。

 

「グレンジャー、ハーマイオニー!」

 

 マクゴナガル教授の声が響く。

 

 ハーマイオニーが前へ出た。背筋は伸びている。緊張しているが、足は止まらない。帽子を被る前に、一度だけ椅子の位置を確認した。転ばないようにだろう。良い判断である。

 

 帽子が彼女の頭に乗る。

 

 少し長かった。

 

 周囲がざわつくほどではないが、すぐではない。ハーマイオニーの指が膝の上で軽く握られているのが見えた。ノアは、あれは質問している顔だと思った。帽子相手にも質問しているのではないか。十分あり得る。

 

「グリフィンドール!」

 

 拍手が起きる。

 

 ハーマイオニーは帽子を外し、赤と金のテーブルへ向かった。途中で、ほんの一瞬だけ列の方を見た。ノアと目が合ったわけではない。ただ、さっき書店で自分の問いに答えきらなかった少年が、どこへ入るのかを覚えておこうとしているのは分かった。

 

 ノアは何も反応しなかった。

 

 ここで反応すると、またドラコが見る。

 

「グリーングラス、ダフネ!」

 

 順番はすぐに進んだ。

 

 ダフネは静かに前へ出た。速すぎず、遅すぎず、見られることに慣れている歩き方だった。背筋を伸ばしているのに、硬くは見えない。緊張していないわけではないだろうが、それを誰かに預けるような歩き方ではなかった。

 

 帽子が乗る。

 

 わずかな間。

 

「スリザリン!」

 

 拍手が起きる。

 

 ダフネは帽子を外し、スリザリン席へ向かった。ドラコがまだ列の中にいるせいか、席の選び方には迷いがない。スリザリンの中でも、上級生に近すぎず、端にも寄りすぎない場所。完全に孤立せず、誰かの隣に固定されもしない位置。

 

 ノアはそれを見て、少しだけ安心した。

 

 何も考えずに隣へ座ってくるタイプではなさそうだった。

 

 名前はさらに続く。

 

 何人かが呼ばれ、椅子に座り、叫ばれ、拍手を受ける。ノアはなるべく何も考えないようにしていたが、自分の名前がまだ来ないという事実だけが、少しずつ重くなる。

 

「マルフォイ、ドラコ!」

 

 ドラコは、待っていたように前へ出た。迷いがない。帽子が頭に触れた瞬間、

 

「スリザリン!」

 

 と叫んだ。

 

 スリザリン席が大きく拍手する。ドラコは当然の結果を当然のように受け取り、席へ向かった。途中で一度だけ振り返り、列の中のノアを見た。

 

 やめろ。

 

 まだ何も決まっていない。

 

 いや、たぶん決まっているが、見ないでほしい。

 

 マルフォイの後にも、何人かの名前が続く。ノアは自分の順番が近づいていることを意識しながら、前の生徒の肩越しに大広間を見た。グリフィンドール席ではハーマイオニーが座り、背筋を伸ばして組分けを見守っている。スリザリン席ではドラコが何かを上級生に話しかけられ、少し得意げに答えている。ダフネはその少し離れた席で、拍手の時だけきちんと手を動かしていた。

 

「ポッター、ハリー!」

 

 大広間がざわめいた。

 

 空気が変わる。名前だけでこれである。有名人はやはり面倒だ。ハリー・ポッター本人はまだ何もしていない。ただ名前を呼ばれただけだ。それだけで、全員が見る。

 

 ノアはドラコを見ないようにした。

 

 見たら、何かを読み取ってしまう。読み取ると、また面倒になる。

 

 帽子はかなり長く沈黙した。

 

 大広間のざわめきが少しずつ増える。ハーマイオニーは真剣な顔で見ている。ドラコは表情を動かさないようにしているが、指先がテーブルを軽く叩いていた。

 

 やがて帽子が叫ぶ。

 

「グリフィンドール!」

 

 歓声が上がった。

 

 ノアは息を吐いた。

 

 グリフィンドール。

 

 有名人。

 

 マルフォイに断った相手。

 

 これで後々面倒が増えることは確定した。自分に関係ない場所で起きてほしい。心からそう思った。

 

 しかし、名前は進む。

 

 逃げる順番は近づいてくる。

 

「セルウィン、ノア!」

 

 来た。

 

 ノアは歩き出した。

 

 大広間の視線が集まる。ドラコの視線。ダフネの視線。ハーマイオニーの視線。教師たちの視線。どれも重い。床の石が少し滑る気がしたが、実際には滑らなかった。

 

 椅子へ座る。

 

 帽子が頭に載せられる。

 

 視界が暗くなった。

 

 次の瞬間、耳元ではなく、頭の中に声が響いた。

 

『ほう』

 

 ノアは動かなかった。

 

 動くと、外から何かが見える。帽子と話していること自体は全員知っているだろうが、表情まで見られる必要はない。

 

『ずいぶん静かだな』

 

 うるさくしたら目立つだろ。

 

『目立つのが嫌いか』

 

 好きな人間がいるのか?

 

『いるとも。グリフィンドールには多い』

 

 じゃあグリフィンドールはないな。

 

 帽子は笑ったような気配を出した。

 

『勇気がないわけではない』

 

 ない。

 

『即答するな。君は自分を低く見積もりすぎている』

 

 低く見積もっているんじゃない。余計な期待を避けているだけだ。

 

『同じようで、少し違うな』

 

 違わない。

 

『違うとも。君は、周りが自分に何を求めるかを先に見る。期待されるもの、失望されるもの、押し付けられる役割。そこから、なるべく少ない手数で済む道を探す』

 

 ノアは黙った。

 

 嫌な帽子だった。

 

 ただ古いだけではない。人の頭の中を勝手に見る。しかも、見たものを言葉にする。最悪の道具である。

 

『道具とは手厳しい』

 

 勝手に見るな。

 

『被ったのは君だ』

 

 被らされたんだ。

 

 帽子はまた笑った。

 

『さて、どこに入れたい?』

 

 スリザリン。

 

『早いな』

 

 一番、説明が少なく済む。

 

『説明?』

 

 セルウィンがスリザリンに入ったと言えば、だいたいの人間はそれで納得する。いちいち理由を聞かれない。違うと言い張る必要もない。

 

『勝手に決められることを嫌がる子は多い』

 

 嫌がったところで、相手がやめるわけじゃないだろ。

 

 ノアは暗い視界の中で、なるべく顔を動かさないようにした。帽子の下で表情を変えたところで誰にも見えないはずだが、見えないところで崩れたものは、外へ出た時にも残る気がした。

 

 家名も、血筋も、親の知り合いも、勝手に先へ歩いていく。こちらが何か言う前に、相手はもう顔を作っている。なら、わざわざ止めるより、先に歩かせておけばいい。少なくとも、毎回説明するよりは楽だ。

 

『ほう。君は、名が先に働くことを知っている』

 

 止めても止まらないなら、そのままでいい。

 

 帽子は、そこで少しだけ黙った。

 

『それを誇っているわけではない』

 

 誇ったら、自分で担がなきゃいけない。

 

『嫌っているわけでもない』

 

 嫌いだと言ったら、理由を聞かれる。

 

『ならば、あるものとして扱う』

 

 消えないものは、あるものとして扱うしかないだろ。

 

 帽子の気配が、ほんの少しだけ深くなった。

 

『多くの子は、欲しいものを見せる。名誉、知識、友、力。君は欲しいものより先に、場に残るものを数える。誰が動き、誰が黙り、誰が見て、誰が覚えるか』

 

 覚えられると困るからな。

 

『それだけではないだろう』

 

 それだけだ。

 

『ふむ』

 

 外のざわめきが、暗い布越しに遠く聞こえる。あまり長いとまずい。組分けが長い生徒は目立つ。ポッターほどではないにしろ、見られる。すでに十分見られている。

 

 早くしろ。

 

『急かすな。急かされると、余計に迷いたくなる』

 

 やめろ。

 

『冗談だ』

 

 この帽子、本当に性格が悪い。

 

『聞こえているぞ』

 

 知ってる。

 

 帽子は笑ったようだった。

 

『君は名を大声で飾らない。だが、名が働くことは否定しない。寮も、家も、立場も。嫌いだと言って目を逸らすより、働いているものを働いているものとして見る』

 

 ノアは答えなかった。

 

 答えると長くなる。

 

『スリザリンだ』

 

 だから最初からそう言ってるだろ。

 

『よかろう』

 

 視界の外で、帽子が息を吸うような気配がした。

 

「スリザリン!」

 

 声が響いた。

 

 拍手が起きる。

 

 ノアは帽子を外し、息を吐かないようにして立ち上がった。ここで大きく息を吐くと、緊張していたように見える。緊張していたが、見せる必要はない。

 

 スリザリン席へ向かう。

 

 ドラコが満足そうに見ていた。あの顔は「当然だ」と言っている。隣の席を少し空けているようにも見えたが、ノアは気づかなかったことにした。

 

 ダフネは拍手をしていた。

 

 大きくはない。けれど、目が合うと少しだけ頷いた。さっき列車で助け舟を出してくれた時と同じように、変に踏み込まない頷きだった。

 

 ノアはスリザリン席の端を探した。空いている場所。目立たない場所。ドラコから遠すぎず、近すぎず。ダフネからも遠すぎず、近すぎず。

 

 そんな都合のいい席は、当然なかった。

 

「セルウィンか」

 

 端の方にいた上級生が、ノアを見て短く言った。

 

 それだけだった。

 

 けれど、その一言で、近くにいた何人かが少しだけ席を詰めた。歓迎というほど大げさではない。けれど、どこの誰か分からない一年生を見る目ではなくなった。

 

 ノアは空いた場所に腰を下ろす前に、軽く頭を下げた。

 

「失礼します」

 

 それ以上は言わない。

 

 大げさに礼を言えば、相手の名前を聞き、後でまた礼を重ねることになる。席を詰めてくれたことは覚えた。それで十分だ。ここで余計に言葉を足せば、かえって相手にも自分にも、次に何かを返す形が残る。

 

 ノアはそう考えた。

 

 もちろん、そんなものは口に出さない。

 

「少し長かったね」

 

 斜め向かいから、ドラコが声をかけてきた。

 

 彼は笑っていたが、目は笑っていなかった。自分が一瞬でスリザリンへ送られたことを誇っている顔でもあり、ノアが帽子に何を見られたのかを確かめたい顔でもあった。

 

「僕は帽子が触れた瞬間だった。父も、そうなるだろうと言っていたよ。マルフォイがどこへ行くかなんて、考えるまでもないからね」

 

 ドラコはそう言ってから、ノアが座った場所を見た。上級生たちが少し席を詰めた跡を、きちんと見ている。

 

「でも、君は少し長かった。セルウィンで、しかも結局スリザリンだ。帽子は何を迷ったんだい?」

 

「話が長かっただけだ」

 

「帽子が?」

 

「古いからだろ」

 

 ノアは水差しへ手を伸ばした。喉が渇いていたわけではない。手を動かしていれば、次の質問が一拍遅れる。少なくとも、そうであってほしかった。

 

 ドラコは笑わなかった。むしろ、ノアが水を注ぐ指先から、さっき席を詰めた上級生の方へ視線を移し、それからもう一度ノアを見た。

 

「セルウィンと分かっただけで、席が空いた」

 

「そうだな」

 

「礼はそれだけかい?」

 

「席を詰めてくれたことは覚えた。それで足りるだろ」

 

 ドラコは眉をわずかに上げた。

 

「覚えた?」

 

「次に会った時に忘れてたら、失礼になる」

 

 ノアとしては、本当にそれだけだった。大げさに礼を言えば会話が伸びる。相手の名前を聞き、こちらも名乗り直し、次に会った時の挨拶まで増える。だったら、覚えておくだけでいい。

 

 だが、ドラコはそこで少し黙った。

 

 ノアの言葉が、別の場所へ落ちた顔だった。

 

「……君は、そういうところを数えるんだね」

 

「忘れると困るだろ」

 

「困る、か」

 

 ドラコはまだ納得していないようだった。問い詰めるほどではないが、聞き流すには惜しい。そんな顔をしている。

 

 その時、ダフネが水差しをこちらへ戻しながら、静かに口を挟んだ。

 

「大げさに礼を言えば、相手もそれを覚えるものね。席を空けたことも、礼を言われたことも。次に会った時、何もなかったことにはしにくくなるわ」

 

 ノアは水を飲みかけて、少しだけ手を止めた。

 

 そこまでは言っていない。

 

 いや、近いことは考えたかもしれない。だが、そんなふうに整った言葉で言われると、まるで最初からそういうつもりだったように聞こえる。

 

 ドラコはダフネを見て、それからノアを見た。

 

「何を覚えたんだい。席を空けた相手の顔? それとも、セルウィンの名前で動いた相手?」

 

 ノアは返事に詰まった。

 

 どちらも、と言えば話が重くなる。どちらでもない、と言えば嘘になる。正確に言えば、次に同じ相手と会った時に、こちらだけ何も覚えていないのが困るだけだった。

 

「……次に会った時、何も知らない顔をするのはまずいだろ」

 

 ドラコはすぐには笑わなかった。

 

 その沈黙が、一番嫌だった。

 

「つまり、使える相手かどうかを見ているわけか」

 

「は?」

 

 思わず声が漏れた。

 

 ドラコはすぐに言い直さなかった。自分でも少し踏み込みすぎたと分かっているのか、杯の縁を指でなぞり、ほんの少し声を落とす。

 

「いや。誰が名前で動くのか、誰が席を空けるのか、誰がこちらに近づきたいのか。そういうものを、最初から見ているのかと思っただけだ」

 

「違う。次に会った時に失礼にならないよう覚えただけだ」

 

「そういう言い方をするんだね」

 

「そういう意味しかない」

 

 ドラコは小さく笑った。

 

 馬鹿にした笑いではない。むしろ、今の否定ごと、どこかへしまい込むような笑いだった。

 

「分かったよ。そういう意味にしておく」

 

 ノアは水を飲んだ。

 

 絶対に分かっていない。

 

 斜め向かいで、ダフネが小さく息を漏らした。

 

「少し分かるわ」

 

「分からないでくれ」

 

「分かるものは仕方ないでしょう」

 

 ダフネはそれ以上、続けなかった。ノアが困るところまで踏み込まず、水差しを自分の方へ戻す。その手つきが自然だったので、会話もそこで一度切れた。

 

 助かった。

 

 組分けがすべて終わると、白い髭の校長が立ち上がった。

 

 アルバス・ダンブルドア。

 

 ノアでも知っている名だった。偉大な魔法使い。強い人間。強い人間は、近くにいるだけで面倒を連れてくる。本人が悪いわけではない。強すぎる人間の周りでは、周囲が勝手に動く。

 

 ダンブルドアは、いくつかの奇妙な言葉を並べた。

 

 大広間が笑う。ノアは笑わなかった。笑うタイミングが分からなかったからだ。

 

 料理が現れた。

 

 空の皿に突然料理が乗る。ローストビーフ、ポテト、ヨークシャープディング、ソーセージ。湯気と匂いが一気に広がった。周囲が歓声を上げる。

 

 ノアは一拍遅れてフォークを取った。

 

 食べ物が出る魔法は便利だ。便利だが、仕組みが分からない。仕組みが分からないものを信用しきるのは難しい。料理が突然消えたらどうする。食べている最中に皿が空になったらどうする。

 

 考えるだけ無駄だった。

 

 ノアはポテトを取った。

 

「セルウィン」

 

 ドラコがまた声をかけてきた。

 

 今度はすぐに返事をしなかった。ノアは皿の端へポテトを寄せ、フォークを置くほどではないが、少しだけ動きを遅くする。食事を始めたばかりの人間に、続けて話しかけるのはどうなのかと思ったが、魔法界にはそういう常識がないのかもしれない。

 

 ドラコの視線は、グリフィンドール席へ向いていた。

 

 ハリー・ポッターの周りには、赤毛の少年が二人いた。片方が何かを言い、もう片方が肩を揺らして笑う。ポッターも笑っていた。大広間のざわめきの中で、その一角だけ、もう少し内側の熱を持っているように見えた。

 

「列車では、まだ噂でしかなかった」

 

 ドラコが言った。

 ノアはフォークを止めた。

 

 今その名前を出すな、と思ったが、もう遅い。

 

「でも今は違う。あいつはもう、グリフィンドールの席で輪の中心にいる。……もう一度聞こう。君はポッターをどう見る?」

 

 意味がわからない質問だった。あいつが有名人だから騒がれているのは変わりがないように思えた。

 

「変わらない。本人より、見てる連中の方が先に騒ぐ相手」

 

 ドラコが目を細めた。

 

「あれでも?」

 

「何が」

 

「ただ見られているだけじゃない。あいつは笑っている。ウィーズリーたちも、あいつの周りにいる。ポッター自身が、もう人を集めているように見えないかい?」

 

 グリフィンドール席から、ひときわ大きな声が上がった。上級生らしい赤毛が騒いでいる。ポッターはそれに流されているように、ノアには見えた。

 

「名前が先に集めたんだろ」

 

 ドラコの指が、杯の縁で止まった。

 

「ポッターだから話しかけられる。ポッターだから笑いかけられる。ポッターだから周りが覚える。本人が何をしたかは、その後だ」

 

 ノアとしては、単に順番の話をしただけだった。

 有名な名前が先に人を寄せる。そこから会話が生まれる。輪ができる。有名じゃなければ、自分のように静かな環境にいられる。目立たなければ面倒はなくなるのだ。

 

 ドラコはすこし考えて答えた。

 

「つまり、あの輪はポッターが作ったものじゃないと?」

 

「知らない。ただ、最初に作ったのは名前だろ」

 

「名前がなければ?」

 

「誰も最初から騒がない」

 

 ドラコはゆっくりとグリフィンドール席から視線を外した。

 

 怒っている顔でも、納得した顔でもなかった。ただ、自分の中で何かを別の形に置き換えたような顔だった。

 

「君は、ずいぶん冷たい見方をするんだね」

 

「そうか?」

 

「使えるかどうかを見極めるためには、ポッターに群がっている奴らは不要といいたいんだろう?」

 

「そんな話はしてない」

 

「でも、そういうことだ」

 

「違う」

 

 ドラコは小さく笑った。

 馬鹿にした笑いではない。むしろ、今の否定ごと、どこかへしまい込むような笑いだった。

 

「分かった。違うということにしておこう」

 

 絶対に分かっていない。

 

 ノアはポテトを口に運んだ。熱い。返事をしなくて済む。熱い食べ物は便利だ。

 

「ポッター本人に、使うだけの値打ちがあるか。純血の家なら、気にして当然のことだ」

 

「だから、そういう話じゃない」

 

 ドラコはもう一度笑った。

 その笑い方が一番嫌だった。

 

「なら、名前そのものより、名前で周りがどう動くかを見ているのかい? 実にスリザリンらしい考えじゃないか」

 

「そうじゃない。動く方が厄介なだけだ」

 

 ドラコはしばらく何も言わなかった。

 

 ノアは、また何かを間違えた気がした。

 

 だが、何を間違えたのかは分からない。

 

 その沈黙を切るように、ダフネが水差しを少し持ち上げた。

 

「セルウィン、水は足りてる?」

 

「足りてる」

 

「そう」

 

 それだけの会話だった。

 

 けれど、ドラコの問いはそこで一度止まった。何かを理解したような顔が気になるが、少なくとも質問は飛んでこなそうだ。

 ダフネは特に何かを言ったわけではない。ただ、水差しを確かめただけだ。けれど、それだけで、会話の先が少しずれた。

 

 話が通じる相手は貴重だ。

 

 ノアは水を飲みながら、ダフネの方をちらりと見た。彼女は何も言わず、自分の皿へ視線を戻している。

 

 ありがたい。

 

 デザートが出る頃には、ノアはかなり疲れていた。食事は美味い。だが会話が重い。料理だけ出してくれる部屋が欲しい。そういう部屋はないのか。ホグワーツならありそうだ。あってほしい。

 

 やがて校長が再び立ち上がり、いくつかの注意事項を述べた。

 

 禁じられた森へ入ってはいけない。三階の右側の廊下へ行ってはいけない。

 

 ノアは、絶対に行かない、と心に決めた。

 

 行くなと言われた場所へ行く人間の気持ちが分からない。命令に反発したい年頃というものがあるのかもしれないが、反発するならもっと安全なところでやればいい。立入禁止の場所は、たいてい本当に危ない。

 

 そこで、グリフィンドールの方が少し騒いだ。

 

 ハリー・ポッターの周辺が何かを話している。赤毛の男の子が面白そうに何かをいい、ハーマイオニーが眉を寄せている。

 

 ノアはすぐに視線を戻した。

 

 見ない。

 

 有名人と立入禁止は、どちらも近づかない方がいい。

 

 食事が終わり、寮監に導かれてスリザリン生たちは地下へ向かった。

 

 石の階段を下りる。空気が冷える。壁の松明が揺れる。地下は静かだった。静かすぎて、足音がよく響く。

 

 スリザリンの談話室は、湖の下にあった。

 

 緑がかった光が窓の向こうから差し込む。黒い革張りの椅子、低い天井、磨かれた石の床。派手ではない。だが、安くもない。見栄を張る部屋ではなく、見栄を張る必要がない部屋、という感じがした。

 

 嫌いではなかった。

 

 静かなら、なおいい。

 

 上級生がいくつかの説明をする。寮の規則、寝室、授業、共有スペース。ノアは必要な部分だけ覚えた。必要ではない部分は、後で誰かがまた言うだろう。

 

 解散になると、ドラコが近づいてきた。

 

「セルウィン」

 

 ノアは振り向いた。

 

「同じ部屋らしい」

 

 最悪だ。

 

 いや、予想はしていた。男子一年生の人数を考えれば、そうなる可能性は高い。高いが、現実になるとやはり面倒だ。

 

「そうか」

 

「嬉しそうではないね」

 

「眠いんだ」

 

「まだ初日だぞ」

 

「初日から疲れたからな」

 

 ドラコは笑った。

 

「君は本当に正直だ」

 

「嘘をつくほどのことじゃない」

 

「そこが面白い」

 

 面白くない。

 

 ノアは談話室の向こうを見た。ダフネが女子生徒たちと話している。彼女はノアと目が合うと、軽く頷いた。近づいては来ないが、ちょっとした関わりはある。

 

 それくらいの距離が、一番ありがたかった。

 

 寝室へ向かう途中、ドラコは一度だけ歩調を落とした。

 

 さっきまで上級生へ向けていた得意げな笑みは薄くなっている。代わりに、列車の中でこちらの言葉を聞き返した時と同じ目になっていた。

 

「セルウィン。帽子は、君に何を見たんだい?」

 

 ただの好奇心ではなかった。自分が一瞬でスリザリンへ送られたことを誇りながら、ノアが少し長く座らされていた理由を、まだ納得しきれていない声だった。

 

 ノアは少しだけ考えた。

 

 帽子との会話をそのまま言うわけにはいかない。言うと長い。長いだけならまだいいが、変に解釈される。すでに十分されている。

 

「名前が先に歩く、とか何とか」

 

 ドラコはすぐには返さなかった。

 

「名前が先に歩く?」

 

「帽子がそう言った」

 

「それで、君はどう答えた?」

 

「止めても止まらないなら、そのままでいいだろ、とは言った」

 

 ドラコの目が細くなった。

 

 怒っているわけではない。だが、今の言葉を聞き流すつもりもなさそうだった。彼は少しだけ顎を上げ、談話室の奥で笑っている上級生たちへ視線を投げた。

 

「なるほど、あの席のこともそうなんだね?」

 

「知らない」

 

「セルウィンの名前ですぐに席が空いた。君はそのことをいっているんだろう」

 

 ノアは嫌な予感がした。自分が言った言葉が、ドラコの中で別の形に整えられていく音がした気がした。

 

「さっき、使える相手かどうか見ている、と言った時、君はすぐに否定したね」

 

「当たり前だろ」

 

「でも、しっかり顔は覚えている。セルウィンの名前で動いたことも、誰が先に席を空けたのかも覚えているんだろう。それでいて、何も言わない。ただ、次に会った時のために覚えている」

 

「ただ、失礼にならないようにだ」

 

「うん。君はそう言う。僕も君のことがだいたいわかってきたぞ」

 

 ドラコはそう言って、少しだけ笑った。

 

 ノアは訂正しようとして、やめた。何かが違うが、訂正すればするほど、説明が増える。説明を減らすために選んだはずの場所で、説明が増えている。

 

 最悪の帽子だった。

 

 寝室へ向かう途中、ダフネがすれ違った。

 

「おやすみなさい、セルウィン」

 

「おやすみ」

 

「疲れている顔ね」

 

「疲れてる」

 

「でしょうね」

 

 ダフネは少し笑った。

 

「明日は、もう少し楽になるといいわね」

 

「なると思うか?」

 

「あなたの言葉を理解してくれる人がもっと増えればいいわね」

 

 ダフネはそれ以上何も聞かず、女子の寝室へ向かった。

 

 ありがたかった。

 聞かないでくれる相手は、本当にありがたい。

 変な解釈をされていなければ、もっと良かったのかもしれないが。

 

 ノアは男子の寝室へ入り、自分のベッドを見つけた。天蓋付きのベッド。荷物はすでに運ばれている。ありがたい。荷物を自分で運ばなくていいという一点だけで、魔法界にも良いところはある。

 

 ローブを脱ぎ、寝間着に着替え、ベッドへ入る。

 

 同室の少年たちはまだ話していた。ドラコが中心にいる。取り巻きの2人が菓子を食べている。別の少年が家の話をしている。

 

 ノアはカーテンを引いた。

 

 やっと一人になれた。

 

 そう思った瞬間、頭の中に古い帽子の声が蘇った。

 

 名が先に働くことを知っている。

 

 ノアは枕に顔を伏せた。

 

 知らないで済むなら、それが一番よかった。

 

 カーテンの外で、ドラコが何かを話している。ノアの名前は出ていない。出ていないが、いつ出てもおかしくない空気だった。

 

 ノアは目を閉じた。

 

 セルウィンだからスリザリン。

 

 それで済むなら楽だと思った。

 

 なのに今は、スリザリンに入ったせいで、説明しなければならないことが増えている気がする。

 

 明日から授業が始まる。

 

 授業が始まれば、きっと今よりはましになる。教科書があり、課題があり、決まった時間割がある。少なくとも、帽子に頭の中を覗かれることはない。

 

 そう思ってから、ノアは気づいた。

 

 ホグワーツには、頭の中を覗くような教師がいてもおかしくない。

 

 眠気が少し遠のいた。

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