ニチアサみたいな魔法少女のいる世界観なのに明らかに設定を間違えたモンスターパニック物に出てきそうな怪生物がログインしてきた話 作:二度見屋
地下変電所跡に、ポチとカグヤが移り住んでから一週間が過ぎた。
地下深く、外界から完全に隔絶された生体ルームの中で、その七日間はある奇妙な日課とともに流れていった。
「ほれ、お主の番じゃぞ。早う指さんか」
純白のベッドの上。カグヤは、ポチが作り上げた将棋盤を挟んで、一人の青年と向かい合っていた。
人間の姿を模した、ポチの端末である。
ポチは、盤上に並んだ硬質なタンパク質の駒を、しばし無言で見つめた後、おもむろに一つを手に取り、別の升目へと滑らせた。
だが、その手は——将棋の定石から完全に逸脱していた。
ポチは、将棋という遊戯のルールを、まだほとんど理解していない。駒の動きの規則性はだんだん見えてきたが、勝敗の条件や手駒、成りのルールなどについてはまだ知らなかった。
ただ、過去の対局でカグヤが見せた駒の動かし方を、断片的な視覚パターンとして記録し、それを不完全に模倣しているだけである。
「あー、またそんな出鱈目な手を。お主、ほんに将棋が下手じゃのう」
カグヤは呆れたように頬杖をつき、ポチの打った珍妙な手を無視して、ポチ側の玉に対して迫る一手を指す。
「まあよい。退屈しのぎにはなる。ほれ、続きじゃ、続き」
カグヤにとって、この奇妙な遊び相手は、地下の退屈を紛らわせるちょうどよい暇つぶしであった。
だが——カグヤは知らなかった。
この一見、ただ盤上で無様に負け続けるだけの青年が。その一手一手を通じて、人類の「言葉」というものを凄まじい速度で解き明かしつつあることを。
ポチにとって、この将棋盤は単なる遊戯の道具ではなかった。
それは、人類の言語を読み解くための、またとない「対訳辞書」だったのである。
考えてみれば、将棋という遊戯は、未知の言語を解読する教材として、これ以上ないほどに理想的な条件を備えていた。
九×九の升目という、有限かつ閉じた空間。動かせる駒は、種類も数も厳密に限られている。そして何より——カグヤは、駒を動かすたびに、決まって特定の音声を口にした。
「歩を突く」「角で、その香車を取るぞ」「ここで王手じゃ」
カグヤの口から零れる、それらの言葉。
ポチは、その音声を、盤上で起きた物理的な変化と、寸分の狂いもなく紐づけていった。
「フ」という音声が発せられたとき、動いたのは、必ず「歩」の文様が刻まれた、あの五角形の駒だった。これによって、ポチの中で「フ」という音声と、駒に刻まれた漢字の視覚パターンとが、確固たる対応関係を結ぶ。
「取る」という音声が発せられたとき、盤上では決まって、一つの駒が別の駒の升目へと移動し、元あった駒が盤外へと退けられた。これによって「取る」という動詞が指し示す「行為」の概念が、ポチの中で定義づけられていく。
九×九の限定された世界の中で、音声と、文字と、行為とが、三位一体となって結びついていく。
ポチが幾度負けようとも、頓着しなかったのは、当然のことだった。
ポチの目的は、将棋に勝つことではない。この盤を介して、カグヤが発する音声を、可能な限り大量に収集すること——ただ、それだけだったのだから。
時にポチが、ことさら奇妙な手を打つのも、決して偶然ではなかった。
あえて定石から外れた手を打てば、カグヤはその都度、苛立たしげに長い言葉を返してくる。
「なんでそんなところに打つんじゃ」「そこはこう指すものじゃろうが、たわけ」
その小言の一つ一つが、ポチにとっては、文法という規則を解析するための、貴重なサンプルとなっていた。
しかし、将棋盤の上だけがポチの教材だったわけではない。
この一週間、カグヤの「お使い」の頻度は目に見えて増えていた。
プリンに始まり、菓子パン、清涼飲料、見たこともない菓子の数々。地下の退屈を持て余したカグヤは、思いつくままに、将棋盤の時と同様に床に簡単な図形を抉り出し、あれを持ってこい、これを持ってこいと、ポチに命じ続けた。
そのたびに、人型のポチは地上の街へと足を運んだ。
街は、将棋盤などとは比較にならない、膨大な情報の宝庫だった。
商品に貼られた値札と、その文字。店内に流れるアナウンス。すれ違う人々が交わす何気ない会話。看板、広告、案内表示——そのすべてが、文字と音声と意味とを結びつけるための、生きた手がかりだった。
ポチは、街で見聞きしたありとあらゆる情報を、余すことなく記録した。そして地下の生体ルームへと持ち帰り、それらを統計的に解析し続けた。
たとえば、デザートの棚に並ぶ「プリン」という商品。その容器に印刷された文字列と、かつてカグヤが発した「プリン」という音声とが、ぴたりと一致する。一つの単語が、音声と文字の両面から、確定的に定義される。
このような照合を、ポチは何千、何万と積み重ねていった。
単語の意味が、一つ、また一つと、解き明かされていく。そして単語が増えるにつれて、それらを繋ぐ「規則」——文法の構造が、おぼろげながらその輪郭を現し始めていた。
そして、その学習の過程には——ある存在が、少なからず関わっていた。
ペストマスクの鴉、クロウである。
事の起こりは、ポチが二度目の「お使い」に出た日のことだった。
例によって、人型のポチを尾行していたクロウは、再度街を訪れたポチに一万円札を手渡し、スーパーのレジでの一部始終を、使い魔のカラスの眼を通して見ていた。
ポチは、また一万円札を差し出した。そして、店員が差し出した釣り銭には目もくれず、目的の品だけを掴んで店を出ていく。
「……まただ。あの男、また釣り銭を置いていきおった」
クロウは、雑居ビルの陰で、赤い双眸を細めた。
一度ならず、二度までも。商品の対価という概念は理解していても、貨幣の「価値」というものを、まるで分かっていない。一万円を差し出して、二百円ほどの品を一つ買い、残りをすべて捨てて帰る。そんな滅茶苦茶な散財を、あの男は平然と繰り返していた。
当然、クロウから与えられた一万円札は、たった一度の買い物で底をつく。
普通であれば、ここで縁は切れる。金が尽きれば、あの男はもう、商品を手に入れられなくなるのだから。
だが、クロウは——ここで手を引かなかった。
「ふん。面白い」
クロウは、ペストマスクの奥で、くつくつと喉を鳴らした。
主君ザラキへの報告には、この一件を、一言も含めてはいない。あの怪物との「縁」は、クロウが個人的に握っておきたい、いわば隠し札であった。いつか、この存在が、何らかの形で自分の役に立つ日が来るかもしれない。そのための投資をここで惜しむ理由はなかった。
クロウは、再び人通りのない裏路地でポチを待ち伏せると、その手に新たな一万円札を握らせた。
ポチは、与えられた紙片を無言で受け取る。前回と同じく、この紙片が「商品」と交換するための媒介物であることだけは、すでに理解している様子だった。
だが、クロウの「協力」は金銭の供与だけにとどまらなかった。
言葉を解さぬこの怪物が、いったいどこまで「人間の真似」をできるのか。クロウの中で、純粋な好奇心と打算とが、ない交ぜになって膨れ上がっていた。試してみたい、という欲求がクロウを突き動かした。
ある日、クロウは、裏路地で待つポチの前に、数冊の書物を積み上げてみせた。
人間社会から失敬してきた、子供向けの絵本と図鑑であった。
絵本のページには、りんごの絵の隣に「りんご」と、犬の絵の隣に「いぬ」と、絵と文字とが並べて記されている。図鑑もまた然り。動物、植物、乗り物——あらゆる物の姿と、その名を記した文字とが一対一で対応していた。
クロウは、ページを開き、絵を指差しながら、その名をゆっくりと読み上げてみせた。
「……これは『いぬ』これは『とり』だ」
絵。文字。そして、音声。
人間の幼子が言葉を覚えるのとまったく同じやり方で。クロウは言葉の通じぬ怪物に、人類の語彙を授けていった。
無論、クロウとて、慈悲でこんなことをしているわけではない。これは、あくまで「貸し」を積み増すための行為であり、同時に、この怪物がどれほどの知性を秘めているのかを測るための冷徹な観察でもあった。
だが、その観察は——クロウの予想を遥かに超える結果をもたらした。
ポチは、与えられた絵本と図鑑を、一目見ただけでその全ページを完全に記録した。
そして地下に持ち帰り、将棋盤と、街で集めた情報と、クロウの授けた書物とを——すべての教材を横断的に照合し、爆発的な速度で語彙と文法を体系化していった。
絵本の「いぬ」が、街でリードに繋がれて歩いていた四足の生物と同一であること。図鑑に載った無数の物の名が、街の看板や値札の文字と次々に符合していくこと。
点と点が、線で結ばれ、線が面となって、人類の言語という巨大な体系がポチの中で急速に立ち上がっていく。
語彙が増えるにつれて、ポチは「言葉」だけでなく、その背後にある人類の「文化」や「常識」をも少しずつ理解し始めていた。
クロウが何度も握らせる、この紙片——「お金」と呼ばれるもの。それには、印刷された数字に応じた「価値」というものが存在するらしい。
値札に記された数字と、レジで交わされる「お会計」の音声。それらを照合するうちに、ポチはようやく、貨幣というものの仕組みをおぼろげに理解した。
一万円を差し出して二百三十円の品を買えば、その差額が「釣り銭」として返される。それは、捨ててよいものではなく、次の交換に再び使える「価値」なのだと。
その理解に至って以降、ポチの「お使い」は目に見えて洗練されていった。
ポチは、もはや釣り銭を置き去りにしなくなった。受け取った釣り銭を律儀に保持し、次の買い物に充てる。やがては、商品の値段に見合った額を過不足なく差し出すようにすらなっていた。
その変化を、クロウは戦慄とともに見つめていた。
たった数日で、貨幣経済という人間ですら子供のうちは理解できぬ概念を、あの怪物は独力で習得してしまった。
そして——決定的な瞬間が訪れた。
その日も、クロウは裏路地で、ポチに一枚の新聞を手渡していた。文字情報の塊である新聞は、語彙を増やすには格好の教材だと考えてのことだった。
クロウは、いつものように、紙面の見出しを指差し何気なくその文字を読み上げた。
「『二足歩行型の悪魔、いまだ逃走中』——か。ふん。貴公のことが書いてあるぞ」
冗談のつもりの、独り言だった。どうせ言葉など通じはしないのだから。
だが、その瞬間。
ポチの——人間を模したガラス玉のような両眼が、わずかに、しかし確かに動いた。
クロウが読み上げた見出しの文字を、なぞるように。
そして、その視線がゆっくりとクロウの顔へと向けられた。
クロウは思わず息を呑んだ。
——理解、している。
言葉が通じぬはずの怪物が今、自分の読み上げた文字に明確に「反応」した。それはもはや、無機質な観察対象の反応ではなかった。文字を読み、その意味を解し、こちらの言葉に応じようとする——紛れもない「知性」の片鱗だった。
「……これは、これは」
クロウのペストマスクの奥で、赤い双眸が複雑に揺らめいた。
自分が手ずから言葉を教え込んだこの怪物は、もはやただ言葉を解さぬ獣ではない。人類の言語を、文化を、常識を吸収し、急速に「人間社会を理解する存在」へと変貌を遂げつつある。
それが、いずれ何をもたらすのか。クロウの狡猾な頭脳をもってしても、その先を見通すことはできなかった。
恩を売り、縁を結んだつもりが——自分はとんでもない化け物の「目」を、開かせてしまったのではないか。
そんな言い知れぬ予感が、クロウの背筋を冷たく撫でていった。
———
地下変電所跡、生体ルーム。
純白のベッドの上で、カグヤが規則正しい寝息を立てている。傍らには、相変わらず無言で佇む人型のポチの姿があった。
ポチの神経網は、夜の闇の中でも休むことなく稼働を続けていた。
この一週間で蓄積した膨大な言語データ。将棋盤の対局。街の喧騒。クロウの授けた書物。それらすべてを統合し、ポチは今、人類の言語の体系を、ほぼ手中に収めつつあった。
単語の意味。文の構造。そして、その言葉の裏に横たわる、人間たちの「常識」というもの。
かつては、ただの「意味不明な音」でしかなかったカグヤの寝言が、今のポチには、断片的にではあるが、意味を持った「言葉」として聞き取れるようになっていた。
「……んむ……プリン……もっと、持ってこい……」
寝言で菓子をねだる絶対的脅威。
その言葉の意味を、ポチは静かに理解した。
人類の「言葉」という、最後にして最大の壁。
その壁を乗り越えたとき、ポチの前には——これまで断片的にしか把握できていなかった、この世界の構造そのものが、その全貌を現そうとしていた。
二足歩行個体とは、何者なのか。脅威個体とは。そして、自らが従う、この絶対的脅威とは——。
理外の怪物が、人類社会の理を、その身に取り込み始める。