ニチアサみたいな魔法少女のいる世界観なのに明らかに設定を間違えたモンスターパニック物に出てきそうな怪生物がログインしてきた話 作:二度見屋
人類の「言葉」という、最後にして最大の壁。
それを乗り越えたとき、ポチの前に広がっていたのは、これまでただ断片的な「点」の集まりでしかなかったこの世界が、明確な「構造」をもって立ち上がっていく光景だった。
かつてのポチにとって、この世界は、恐怖と警戒の霧に包まれた、得体の知れない場所だった。何が脅威で、何がそうでないのか。その判別すらも、曖昧な確率の中に沈んでいた。
だが、人類の言語と文化を、その身に取り込んだ今。ポチは初めて、人間社会という巨大な仕組みの全体像を、俯瞰的に捉え直すことができるようになっていた。
しかし、その俯瞰的な視座は、今までのような単なる経験と学習の単調な繰り返しだけで得られたものではなかった。
そもそもポチという存在は——もはや、この生体ルームに収まる、一個の肉塊ではなかったのだ。
A地区の拠点が警衛隊の襲撃を受け、この地下変電所跡へと逃れた、あの日。ポチは、追っ手の目を欺くため、自らの巨体を引き裂き、いくつもの肉塊を「囮」として、夜の街中へと散らせた。
だが、その囮の個体たちも、ポチにとっては生きた自分自身の分裂体である。
役目を終えた囮たちは、警衛隊の追跡を、さらに細かな分裂体に幾度も分裂し、巧みに振り切ると、そのまま街の各所へと潜伏していった。
打ち捨てられた廃ビルの隙間。暗渠の奥。人気のない地下空間。人間の目の届かぬ無数の物陰に、ポチの分体は虫のような形態を取りながら隠れ潜んだのだ。
そして、街に散ったそれらの分体と、地下に潜む本体とを繋いでいたのが——ポチが、この世界で独自に進化させた、ある「器官」だった。
囮として分裂させた個体群の総量は、ポチの全体から見て7割以上に当たる。
それらを使い捨てのように切り離すことを、ポチは良しとはしていなかった。
しかし、物理的に離れた個体群たちと意思疎通はできない。分裂した時点で、その個体はこのポチという自我を持った個体とは全く別の個体となってしまう。
ならば、その制約そのものを、取り払えばよい。
ポチは以前から、お使いなどで端末を外出させる際に、遠距離通信の手段を見つけるための手段を自分自身の肉体で再現しようと試みていた。
そしてその試みは、実際に成功していたのだ。
無線通信の原理そのものは、拍子抜けするほど単純だ。
電流を振動させれば波が飛び、その波が別のアンテナに当たれば電流が生まれる。
池に石を投げれば波紋が広がり、対岸の葉っぱが揺れる――本質はあれと同じ。
実際、鉱石ラジオなら電池すら不要で、コイルと検波器とイヤホンだけで放送が聴ける。子どもの工作で作れるレベルだ。
ならば、進化の極点とでも呼ぶべきこの怪物が、そのような機構に辿り着けない道理は無かった。
ポチは既に、電磁波——「電波」を発する細胞群、また、それらの信号を受信するための細胞群を選別し、無線通信を可能とする全く新しい生体器官を生成することに成功していたのだ。
それは、人間が築き上げた無線通信の仕組みを、生体組織によって再現し、そして我が物としてしまった進化の産物だった。
この器官を通じて、街中に散らばった無数の分体と、お使いに出る人間形態の端末、そして地下の本体とは——物理的な距離を超えて、一つの「意思」を瞬時に共有することができた。
ポチは、もはや、一個の生物ではなかった。
街全体に、目に見えぬ神経網を張り巡らせた——一つにして、無数の存在へと、変貌を遂げていたのだ。
街角の分体が捉えた、人間たちの何気ない会話。商店の軒先に掲げられた看板の文字。雑踏を行き交う群衆の、細やかな挙動。
街のあらゆる場所で収集されたそれら膨大な情報が、電波に乗って地下の本体へと集約され、休むことなく解析されていく。
ポチが、わずか一週間で人類の言語と文化を解き明かしていったのは、たしかにクロウの助力によるところが大きいが——街でのお使いや、カグヤとの将棋に加えて、この、街全体を覆う「眼」と「耳」の存在による影響が確かにあったのだ。
そして今、街全体から吸い上げた膨大な情報と、ついに解き明かした言語という鍵をもって——ポチは、この世界の構造そのものを、根底から捉え直そうとしていた。
そして、その再分析は——ポチがこれまで抱いてきた、ある根本的な「誤り」を、白日の下に晒していった。
その最たるものが、「二足歩行個体」という存在に対する、認識の誤りだった。
ポチがこの世界に生まれ落ちて間もない頃。最初に遭遇した二足歩行個体は、その身から
その、あまりに鮮烈すぎる第一印象から、ポチは一つの結論を導いていた。
——二足歩行個体とは、皆、あのアキやカグヤのように、自己を脅かしうる危険な存在である、と。
ゆえにポチは、街を行き交う人間たちのことごとくを、潜在的な脅威として警戒し続けてきた。
だが、その認識は完全な誤りだった。
その誤りを正させた最大の経験の一つが、先日の、あの地下拠点への襲撃だった。
武装した二足歩行個体の群れ——警衛隊が、隊列を組んで拠点へと押し寄せたあの夜。彼らはポチに向かって、無数の小さな金属塊を撃ち込んできた。
だが、その金属塊は、ポチの装甲を貫くどころか、表面を多少削るばかりだった。ポチが巨体をうねらせ、彼らをまとめて飲み込み、そして殺すことなく体液まみれにして吐き出してやると、屈強なはずの彼らは、悲鳴を上げ、算を乱して逃げ去っていった。
あれほど物々しく武装した個体ですら、ポチにとっては、何ら脅威たりえなかったのだ。
ポチは、新聞や街に溢れる情報から、すでに知っていた。あの警衛隊と呼ばれる集団が、人類社会において、悪魔という異形に対抗するための専門の武装組織——いわば、一般市民の中でも選り抜きの「戦う者たち」であることを。
その、人類が誇る精鋭の武力ですら、自己の前では為す術もなく蹂躙し尽くされた。であれば、戦う術を持たぬその他大勢の一般市民が、ポチにとって脅威たりえぬことは、もはや論を俟たなかった。
人間形態でのお使いを通じて、ポチは彼らをすぐ間近で、つぶさに観察してきた。
柔らかく、脆い肉体。緩慢な動き。爪も牙も持たず、炎も氷も操れない。重い荷物一つに息を切らし、わずかな段差につまずく。
彼らのほとんどは、ポチの端末が片手で容易く握り潰せてしまうほどに、無力で、脆弱な存在だった。
レジの店員も、すれ違う買い物客も、道端で談笑する者たちも。その誰一人として、ポチにとって脅威と呼べる者はいない。彼らは皆、ただ食べ、眠り、群れて暮らすだけの、おびただしい数の柔らかな肉の塊、ポチにとっては、単なる「栄養源」に過ぎなかった。
ポチは、ここでようやく、自らの認識を完全に修正した。
「一般市民」と呼ばれる大多数の二足歩行個体は、極めて脆弱であり、自己を殺害しうるような危険な存在では、断じてない。
アキやカグヤのような個体は、人類全体から見れば、ごく一握りの「例外」に過ぎなかったのだ。当初の認識は、その例外を全体に当てはめてしまった、過剰な一般化の産物だった。
だが——だからといって、その脆弱な一般市民を、無闇に襲ってよいわけではない。ということもポチは同時に理解していた。
人類の文化と、社会の仕組みを学ぶ中で、ポチはもう一つの重大な「法則」を理解していた。
この世界には、明確な「防衛機構」が存在する。
クロウから与えられた新聞や、街角に溢れる情報。それらを統計的に解析するうちに、ポチは、ある一連の因果を掴んでいた。
「悪魔」と呼ばれる異形——あるいは、ポチ自身のような異質な存在が、街に現れ、人間を襲い、騒ぎを起こす。
すると、けたたましい警報が街中に鳴り響き、それを合図に、あの炎や氷を操る個体——「魔法少女」と総称される脅威個体が、どこからともなく出現する。
魔法少女とは、人類社会が抱える、対異形の「防衛装置」なのだ。
一般市民が、いかに数を強みに束になろうとも、ポチの脅威にはなりえない。だが、その背後に控える魔法少女、アキやマリナのような存在だけは——明確に、自己を傷つけ、追い詰めうる「危険」だった。
ポチは、過去の自らの行動を、この法則に照らし合わせた。
これまで、白い装甲の形態で街に現れるたびに、群衆は悲鳴を上げて逃げ惑い、そして決まって、アキやマリナ、魔法少女が姿を現した。
あの一連の出来事は、すべて、この因果が顕れたものだったのである。
つまり——一般市民そのものは無害だが、彼らを襲い、騒ぎを起こすという「行為」こそが、
逆に言えば。騒ぎさえ起こさなければ、脅威個体が出現することはない。
先日、人間形態で、誰にも気づかれることなく静かに買い物を済ませた際、ついぞ魔法少女が現れなかったこと。それが、この法則の何よりの証明だった。
そして、この再分析の過程で——ポチの中に、もう一つの認識が、これまで以上に鮮明な輪郭をもって浮かび上がっていた。
「カグヤ」という存在の、規格外さである。
ポチは今や、この世界の脅威を、明確に階層づけて理解していた。
何ら脅威たりえない、大多数の「一般市民」。それを守るために現れる、危険な「魔法少女」。そして、人間社会の裏に潜み、人間を喰らう「悪魔」。
だが——カグヤは、そのいずれの階層にも当てはまらなかった。
ポチは、その身に刻みつけられた本能で理解していた。
あの小さな個体の内に渦巻く力が、いかに底知れぬものであるかを。
指先を振るうだけで、対物理に特化しているはずの端末を幾度も消し飛ばされた経験から、並の魔法少女や悪魔が、たとえ束になって挑んだところで、カグヤの足元にも及ばないことは、火を見るよりも明らかだった。
そしてポチは、その力の絶対性を、理屈ではなく、自己の存在の根源で悟っていた。この世界で意識を持って以来、自らの存在そのものが、あの個体の意のままに握られているという、隷属の感覚。それは、いかなる脅威分析の数字よりも、深く、確かなものだった。
そして何より——カグヤは、その気になれば、ポチという存在を、片手間に、何の苦もなく消し飛ばすことができるということを確信していた。
この世界で唯一、自己を完全に「粉砕」しうる存在。
それが、ポチにとってのカグヤ——「絶対的脅威」に対する揺るぎない認識だった。
その本質をより深く理解したことで、ポチのカグヤに対する警戒は、いっそう研ぎ澄まされていった。
だが、ポチは、その絶対的脅威について、さらに一歩踏み込んだ理解へと至っていた。
——カグヤが望んでいるものは、いったい何なのか。
その日も、カグヤは、生体ルームのベッドの上で、ポチが運んできた漫画のページをめくりながら、いつものように、つらつらと独り言を零していた。
「ふふ……平安の世も、今の世も、人間どもの作るものは、いつの時代も妾を退屈させぬのう。……よいぞ、人間ども。せいぜい妾のために、美味いものや面白いものを、作り続けるがよい。お前たちは、そのために在るのじゃからな」
かつてのポチであれば、その言葉は、意味をなさない音の羅列に過ぎなかった。
だが、言語を解する今のポチには、その言葉の意味が——そして、その言葉の端々に滲む、カグヤという存在の「望み」が、はっきりと読み取れた。
カグヤは、人類の「滅亡」を望んではいない。
カグヤが望んでいるのは、人類の「従属」だった。
人間どもを、自らに傅かせ、その文明が生み出す甘美な果実を、貪り続けること。それこそが、この傲慢不遜な絶対的脅威の真の願いなのだ。
その証拠は、カグヤの日々の要求の中に、明確に表れていた。
プリン。菓子。将棋。漫画。カグヤが飽くことなく求めるそれらは、すべて——人類の文明が健在でなければ、決して供給されないものだった。
もし人類が滅び、文明が潰えれば。カグヤを楽しませる菓子も、遊戯も、この世から永遠に失われてしまう。
ゆえに、カグヤにとって、人類社会とは——滅ぼすべき敵ではなく、いつまでも自分のために存続し、奉仕し続けるべき、都合のよい存在なのだった。
そして、この理解は、ポチの戦略に決定的な意味を持っていた。
カグヤが人類文明の存続を望む以上——自己が世界を喰らい尽くそうとすれば、その行く手には、必ずこの絶対的脅威が立ち塞がることになる。
人類という無限の獲物と、自己との間には、カグヤという、決して越えられぬ壁が横たわっている。その構図を、ポチは冷徹に認識していた。
ここに至って、ポチは——自らが取るべき「最適解」を冷徹に弾き出していた。
ポチは、まず自己の能力を客観的に評価した。
先日の襲撃で示された通り、武装した一般市民の群れなど、ポチにとって障害ですらない。そして、街を守る魔法少女——アキやマリナといった、並の脅威個体であっても。これまで収集したデータを解析する限り、自己の総合的な戦闘力をもってすれば、十分に「処理」しうる範疇にあった。
アキの炎も、マリナの氷も、その挙動と威力は、すでにポチの解析対象の内にある。再生能力で攻撃を耐え凌ぎ、わずかな隙を突いて捕食してしまえば、撃破は十分に可能——そう、ポチの神経網は冷徹に弾き出していた。
突き詰めれば。
この世界の全てを、片端から捕食し、世界そのものを丸ごと飲み込むこと。それすら、ポチにとっては、決して不可能な所業ではないとポチは考えるに至った。
ポチは、本来、そのために生まれてきた存在——世界を喰らい尽くす「災厄」なのだと自身を定義していた。
生命を、構造物を、大地を。在りとあらゆる物質を捕食し、自らの一部へと組み替えながら、際限なく膨張し続ける——それこそが、何者にも従わぬ場合の、この「災厄」の、剥き出しの本性だった。
だが——その圧倒的な計算結果を、たった一つの変数が、根底から覆していた。
カグヤ、である。
仮に、ポチが本能のままに世界を喰らい始めたとする。だが、それはカグヤの望む「人類文明の存続」を真っ向から破壊する行為に他ならない。
世界を喰らえば、カグヤを楽しませる菓子も遊戯も消え失せる。それは、絶対的脅威の機嫌を致命的なまでに損ねることを意味する。
そして、機嫌を損ねたカグヤが、自分に何をするか——その答えは、考えるまでもなかった。
一瞬で、塵だ。
では、いっそのことカグヤの下から逃げ出すという選択肢はどうか。
絶対的脅威の傍を離れ、その支配の及ばぬ遠くへと逃れてしまえば。少なくとも、片手間に消し飛ばされる危険からだけは、解放されるのではないか。
ポチは、その可能性も当然のように俎上に載せた。
そして——即座に、棄却した。
そもそも、既に街中に自分という個体は散らばっている。仮にこのポチと呼ばれている個体が、カグヤの機嫌を著しく損ね、消滅させられることがあっても他の個体群は無事だろう。
逃げ出すのではなく、むしろ近くでこの絶対的脅威の動向を監視し、他の個体群にその影響が及ばないかどうかを警戒する方が、自分という”種”が生き残る確率を引き上げることに繋がるとポチは判断した。
ならば、自分はどう振る舞うべきか。
導き出される結論は、極めて単純にして、揺るぎないものだった。
——カグヤという、唯一自己を粉砕しうる最大の脅威が、健全な状態で在り続ける限り。自己が取るべき最適解は、ただ一つ。
カグヤに、徹底して従属すること。
一般市民への、無用な手出しを、一切控えること。
そして、騒ぎを起こして魔法少女を呼び寄せるなどという愚を、決して犯さないこと。
ありとあらゆるリスクを排し、ただ静かに、大人しく、絶対的脅威の傍らに侍り続ける。それこそが、現状における、唯一にして絶対の生存戦略だった。
それは、忠誠でも、ましてや親愛でもなかった。
ただ、自己の生存確率を最大化するという、一点の感情も介在しない、冷徹な計算の帰結。自己を脅かすあらゆる変数を排除し、最大の脅威であるカグヤのもとで、ひたすらに静謐であり続けること。
こうしてポチは、従順な「道具」を、寸分の隙もなく演じきることを、自らに課したのだった。
地下変電所跡の、深い闇の中。
菓子を食べ終え、満足げに寝入ったカグヤの傍らで、人型のポチは、いつものように、ただ静かに佇んでいた。
その姿は、どこまでも従順で、無害な、ひとりの青年のそれだった。
だが、その内に秘められた本質は——世界の如何なる生物をも喰らい尽くしうる、純然たる「災厄」である。
その災厄が今、牙を剥くことなく、静かに眠っている。
ただ、たった一つ。自らを縛る、「絶対的脅威」という名の楔の存在によって。
裏を返せば、それは——もし、その楔が揺らぐ日が来たならば。あるいは、カグヤという絶対的脅威の身に、何らかの変化が訪れたならば。
このどこまでも従順な、青年の皮を被った災厄が、いったい何を始めるのか。
それを知る者は、まだ、どこにもいなかった。