ニチアサみたいな魔法少女のいる世界観なのに明らかに設定を間違えたモンスターパニック物に出てきそうな怪生物がログインしてきた話 作:二度見屋
平安の世。
まだ都に、雅な暮らしの花が開いていた頃の物語である。
その邸は都の中でも、指折りの高い位を誇る家であった。広やかな寝殿造りの奥深く、幾重もの几帳と御簾に守られて、一人の姫君が暮らしていた。
名を、カグヤといった。
歳はわずかに八つ。抜けるように白い肌と、漆黒の髪を持つ深窓の姫である。乳母や女房たちに、蝶よ花よと慈しまれ、何ひとつ不自由のない日々を送っていた。
だがカグヤは、その恵まれた暮らしが少しばかり退屈でもあった。
昼のあいだは女房たちの言いつけどおり、大人しく手習いをして過ごす。けれど夜になり、皆が寝静まると彼女は、そっと褥を抜け出して一人きりで庭へ下りるのが常であった。
その夜も同じであった。
濡れ縁から素足のまま庭へ降りたカグヤは、池のほとりに座り込んで夜空を見上げた。
「今宵も月がきれいじゃのう……」
ぽつりと呟く。
カグヤは月が好きであった。花も好きで、虫の音も好きであったが、それ以上に、夜空へ静かに浮かぶ月がいちばん好きであった。
あの遠い光を見上げていると、胸の奥が温かくなるような心地がしたのだ。
一方その頃。一体の妖精がひそかに都をさまよっていた。
エラという名の妖精であった。
妖精。
それは、はるか遠い、異なる世界から逃れてきた者。
悪魔と呼ばれる恐ろしい生き物に故郷を滅ぼされ、次元の壁を越えてこの地へたどり着いた、四次元の存在である。
妖精は愛や希望といった、正の感情を糧に魔力を生み出す。だがこの三次元空間の世界で生きながらえるには、絶えず魔法を使って己の命を繋ぎとめねばならず、自ら戦う力など持たなかった。
ゆえに妖精たちは、己と魂の響き合う人の娘へ、その魂を分け与えることで魔力を託し、悪魔と戦う「魔法少女」を生み出す道を選んでいた。
エラもまた、己の魂と近しい性質を持った、ふさわしい娘を求めて都をさまよっていたのだ。
そうしてめぐりあったのが、カグヤであった。
数ある人の魂の中でただ一つ。エラの魂と不思議なほど深く澄んで響き合う魂。それがこの幼い姫君のものだったのである。
エラは決めた。この娘に己の魂を分け与えようと。そして、この娘に人々を苦しめる悪魔と戦ってもらおうと。
そんな明確な目的を胸にある夜エラはカグヤの前へと姿を現した。
芒の穂の陰でぽう と小さな光が灯る。
「……? 蛍かのう」
カグヤは首をかしげた。だが季節はもう蛍の飛ぶ頃合いではない。それにその光は、蛍よりもずっと大きくやわらかく、淡い金色に輝いていた。
光はふわふわと宙を漂いながら、カグヤの鼻先まで近づいてきた。
「……こんばんは。急に驚かせてしまったわね。ごめんなさい」
カグヤは目を丸くした。光の球が、確かに言葉を発したのだ。
「……! 今しゃべったかや! のうお主、何者じゃ?」
世の常の子であれば怖がって逃げ出したかもしれない。だがカグヤは怖がるどころか、瞳を輝かせてその小さな光へと顔を寄せた。
「わたしはエラ。……お友達になってくれないかしら」
「エラ、か。よい名じゃのう。妾はカグヤじゃ。光る玉と友人になるのは初めてじゃが……ふふ、また会いに来ておくれ」
その澄んだ瞳に見つめられて、エラは優しく微笑んだ。
「ふふ。ええもちろん。また来るわ」
こうして少女と妖精の、ひそやかな交わりが始まった。
エラは己の目的をすぐには切り出さなかった。まだ幼いこの童女に、己の魂を託すことが、どれほど重い荷を負わせることになるか。それを思うと、言葉が喉の奥で幾度もつかえたのだ。
それからというもの、エラは毎夜のようにカグヤのもとを訪れた。
二人は池のほとりで並んで月を眺めた。
カグヤは昼にあった出来事を楽しげに語り、エラは遠い故郷の話をぽつぽつと聞かせた。
女房たちの誰も知らぬ、二人だけの秘めごとの時。
母を早くに亡くし、広い邸のうちでどこか寂しさを抱えていたカグヤにとって、エラはいつしかかけがえのない友となっていた。姉のようでもあり、時には母のようでもある温かな存在。
そしてそれは、エラもまた同じであった。
己の魂を託す道具としてではなく、一人の愛おしい子として、エラはカグヤを想うようになっていた。
「カグヤ。あなたはどうしてそんなに、月ばかり見ているの?」
ある晩、エラが尋ねた。
「うぅむ、わからんのじゃ。じゃが、月を見ておると、なぜだか心がぽかぽかと安らぐのじゃ。のう、エラも一緒に見ようぞ」
「……そう。じゃあ、一緒に見ましょうか」
穏やかで満ち足りた夜。だがエラの胸には果たさねばならぬ役目が、重く沈んだままであった。
その頃、都では夜な夜な恐ろしいことが起きていた。
闇に紛れて人を襲う異形のもの。牙をむき、人を食らう化け物の姿が、そこかしこで見られるようになったのだ。
人々はそれを「妖」と呼んで恐れおののいた。
それが後に「悪魔」と名前を変えて呼ばれる、妖精を追ってこの世界へ侵入してきた存在であることを、当時の人間たちは誰も知らなかった。
ある晩、エラは意を決してカグヤに向き合った。
「……カグヤ。あなたに、話さなければならないことがあるの」
その声のあまりの真剣さに、カグヤも居住まいを正した。
エラは語り始めた。この世界に現れ人を襲う妖の正体が、異界の生き物であること。その存在が己の故郷を滅ぼし、この地までついてきたこと。そして妖精には、己の魂を人に分け与え、妖と戦う力を授ける術があること。
「わたしたち妖精には、自分の魂を人に分け与える力があるの。魂を分けられた人は、魔力を得て、悪魔と戦えるようになる」
エラの光が切なげに揺れた。
「わたしはね。自分の魂を託すのにふさわしい人を、ずっと探していたの。そして、あなたを見つけた。……カグヤ、あなたの魂は、わたしの魂と不思議なくらい、深く響き合っているの」
カグヤは黙ってエラの言葉に耳を傾けている。
「……だから、あなたにお願いしたい。わたしの魂を受け取って、魔法少女になって……人々を守ってほしいの。……でも、これはとても重いことよ。あなたはその力を背負って生きていくことになる。それでも、あなたは……やってくれる?」
カグヤは一瞬も迷わなかった。
外で人が妖に襲われている。人が食われている。その噂を彼女もまた耳にしていた。誰かが泣いている。誰かが助けを求めている。
それを思うだけで、この優しい姫君の胸は締めつけられるようだったのだ。
「うむ……! やるのじゃ。妾の力で、皆を守れるのなら……妾は戦いたいのじゃ」
その真っ直ぐな答えを聞いて、エラは泣きそうな声で笑った。
「……ありがとう、カグヤ。あなたならきっと、そう言ってくれると思っていた。……やっぱり、あなたを選んでよかった」
エラの淡い光が、カグヤの胸のうちへと吸い込まれていく。二人の魂が溶け合い、一つに混ざり合っていく。
その刹那、カグヤの体を今まで感じたことのない熱いものが駆け巡った。
「さあカグヤ。体内の魔力に意識を向けて。……そう。その力を、解き放つ言葉を口にして」
なぜかカグヤのうちには、自然とその言葉が浮かんでいた。
「……輝光変化」
眩い光が、幼い体を包み込んだ。
光が晴れた時、そこに立っていたのは、もう先ほどまでの少女の姿ではなかった。
虹のように色を移ろわせる、艶やかな十二単。幾重にも重ねられた衣が、月光を受けてきらきらと輝いている。長い黒髪をなびかせ、小さな体には不釣り合いなほどの力を秘めた、一人の魔法少女がそこにいた。
そして、カグヤに宿った権能。それは不老不死という前代未聞の力であった。
永遠に老いることなく、決して死ぬこともない。生涯にわたって尽きることなく、愛や希望を生み続けるがゆえに、その魔力もまた無限であった。
カグヤ自身はそのような理屈など、この時には何も分かってはいなかった。ただ体の内側から溢れてくる温かな力に導かれるまま彼女は邸を飛び出した。
外の通りには一匹の巨大な化け物がいた。鬼人のような醜い姿をした妖が、逃げ遅れた人々に襲いかからんとしている。
「そこまでじゃ! その人たちから離れるのじゃ!」
カグヤの小さな体が宙を舞った。
差し伸べた手のひらから眩い光が迸る。無限の魔力から生み出されたその輝きは、触れた悪魔をたやすく塵へと変えていった。
悪魔は、断末魔を上げる間もなく消滅した。
その圧倒的な力に、カグヤ自身が誰より驚いていた。だがそれ以上に、助けられた人々の安堵した顔を見た時、彼女の胸は喜びでいっぱいになった。
「ふぅ……。よかった。皆、無事じゃな」
それからカグヤは都を守る存在となった。
人々を襲う存在が現れるたびに、魔法少女へと変身してそこへ向かい、どのような妖も一撃のもとに退けていく。無限の魔力を持つ彼女に敵う存在など、一匹たりとも存在しなかった。
人々は誰が自分たちを守っているのかを知らない。ただ夜な夜な現れては妖を祓っていく、謎めいた光の姫の噂だけが都中に広まっていった。
けれどカグヤは、力に驕ることなど少しもなかった。
彼女はただ人を助けられることが嬉しかった。そして戦いが終われば、いつものように邸の庭でエラと並んで月を眺めるその静かな時を、何より大切にしていた。
「あなたは本当に強い子ね カグヤ」
「エラのおかげじゃ。エラがおってくれるから、妾は戦えるのじゃ」
無限の力を得てもなお、カグヤの心は透き通ったままであった。人を思いやり、友を慕う、優しくあどけないただ八つの少女のままであったのだ。
だが。
このカグヤの異常な強さは、思わぬところで別の者たちの目に留まっていた。
はるか天上の月。
そこには、この世界へ逃げ延びてきた妖精たちが密かに社会を築いて暮らしていた。その中でも高い位にある一体の妖精がいた。
ルミナスである。
ルミナスは地上で、最強と謳われるある魔法少女の噂を掴み、その正体を調べ上げていた。そしてある一つの事実にたどり着いた時、彼女のうちにある恐ろしい計画が芽生えたのだ。
不老不死の権能を持つ少女。無限に生き、無限の正の感情を生み、無限の魔力を生み出し続ける、唯一無二の存在。
もしもその魂に宿る無限の魔力を、妖精の手へ移すことができたなら。
妖がこの世界へ侵入してくる次元の穴。あの忌まわしい道を、永遠に閉ざすことができるかもしれない。
それは、妖による災いを根絶しうる、唯一の希望であった。
「……あの子の魂さえあれば」
ルミナスは決意した。
妖精が人間へ魂を分け与えるあの儀式。それを逆手順で行い、カグヤの魂を魔力もろとも抜き取るのだ。さすれば世界は救われる。
だが、それが何を意味するのかを、ルミナスは誰よりも理解していた。
魂を抜き取るということは、すなわちその存在の終わりに他ならない。カグヤという一人の少女を、世界のための贄に捧げるということであった。
ルミナスの胸は痛んだ。それでも彼女は止まらなかった。無限に続く妖の脅威から世界を救うためには、これ以外の道はないのだから。
ある晩ルミナスは、月から地上へと降り立った。
カグヤとエラが二人きりで庭にいるその場所へ。
「……突然お邪魔してごめんなさい。私はルミナス。月から来た妖精です」
見知らぬ妖精の来訪に、カグヤは目を丸くし、エラも不思議そうにその銀の光を見つめた。
「あら、ルミナスがここへ降りてくるなんて……わたしたちに何か御用かしら」
エラが穏やかに問う。
まだこの時エラは、相手を疑ってなどいなかった。ただ月から降りてきた珍しい客人に、純粋な戸惑いを覚えていただけであった。
「ええ。……あなたたちにどうしても、お願いしたいことがあって参りました」
ルミナスの声はどこまでも静かで、沈痛であった。そして彼女は語り始めた。
妖がこの世界へ来る次元の道のこと。
妖は肉体が破壊されても、道がある限り帰ってくること。
しかし、それを閉ざせば妖の脅威を根絶できること。
そのためには、カグヤの持つ無限の魔力を、妖精が得る必要があること。
そして。
その魔力を妖精が得るためには、カグヤの魂を抜き取らねばならぬ。ということを。
「……お願い、カグヤ。あなたの魂を、世界のために使わせてほしいの。あなた一人が犠牲になれば、数えきれない命が救われる。……本当に、申し訳ないと思っています。でも、これ以外に道がないのです」
その言葉の意味を悟った刹那、カグヤの顔から血の気が引いた。
魂を抜かれるということが何を意味するのか。
幼いながらもそれが自分の終わりを告げるものだということをカグヤは理解した。
「……妾に、死ねと申すのか?」
「……ええ。……ごめんなさい」
しんと静まり返った庭にカグヤの震える声が落ちた。
「……いやじゃ。妾はまだ、エラと一緒におりたいのじゃ。なぜ妾が死なねばならんのじゃ……!」
それは、八つの少女の、当たり前の願いであった。
そしてエラは、ルミナスが何を言っているかを理解すると、穏やかだったその光を激しく燃え上がらせた。
「……そんなことに手を貸せるわけ、ないでしょう!」
普段の穏やかな声からは思いもよらぬほどの怒りであった。
「この子はまだ、たったの八つよ! 世界のためだからって、幼い子の命を奪うなんて……そんなこと、わたしは絶対に認めない! 帰って……! 二度とこの子に 近づかないで!」
小さな体で必死にカグヤを守ろうとするエラ。
その姿をルミナスは悲しげに見つめていた。
「……そう、ですか。分かりました。今日のところは 引き下がります」
そう言い残しルミナスは、音もなく夜空へと舞い上がり、消えていった。
あまりにあっさりとした引き際であった。
カグヤは胸を撫で下ろした。
だがエラだけはその物分かりのよすぎる背中に言い知れぬ不安を覚えていた。
あの妖精の声に宿っていたのは、諦めの色などではなかった。
もっと硬く冷たい何か。覚悟にも似た光であった。
そのエラの予感は、数日後に最悪の形で的中することとなる。
ある朝カグヤの邸に一通の文が届けられた。
差出人の名は無い。だがそこにしたためられていた内容は、邸の者たちをざわつかせるには十分であった。
『我は月に住まう者なり。来たる望月の夜、カグヤを迎えに参る』
月から来た者。少女を迎えに。
その文を邸の者たちは誰も本気にしなかった。悪い戯れか、あるいは物狂いの仕業だろうと笑い飛ばした。
念のためにと、カグヤの父は望月の夜に幾人かの従者を邸の周りへ立たせることにしたが、それとて子をあやすついでのような、気安いものであった。
だがカグヤとエラだけは、その文の意味するところを正確に理解していた。
あのルミナスは、諦めてなどいなかったのだ。
「……エラ。あの妖精、また来るのかや」
「……ええ。おそらく。……大丈夫よカグヤ。あなたの力なら、どんな相手でも負けることはないわ」
エラはそう言ってカグヤを励ましたが その光はかすかに震えていた。
そして。
望月の夜がやってきた。
雲ひとつない夜空に煌々と満月が浮かんでいる。いつもならカグヤが心を安らげるはずのその光さえ、今宵ばかりは不吉に、冴え冴えと感じられた。
その夜カグヤは眠らなかった。エラもカグヤの傍らを片時も離れなかった。
やがて庭の空気がぴりりと張り詰めた。
夜空からふわりと舞い降りてくる銀の光。ルミナス。
だが今宵のルミナスは一人ではなかった。
その背後に、数人の少女たちが次々と地上へ降り立つ。
煌びやかな衣装をまとい、それぞれの手に意匠を凝らした杖を携えた少女たち。
――魔法少女であった。
「……カグヤ。もう一度だけ頼みます」
ルミナスの銀の光が静かに揺れた。
「どうか、世界のために、あなたの魂を譲ってください」
「いやじゃと、言うたはずじゃ……!」
カグヤはきっとルミナスを睨みつけた。
「……ええ。分かっています。ですが今宵は、言葉で説得しに来たのではありません」
ルミナスはそこで言葉を切ると、背後の少女たちの横に移動した。
「この子たちは皆、あなたが世界を救う鍵なのだと聞いて……その大義のために、力を貸すと決めてくれた 魔法少女たちです」
少女たちの表情はどれも硬かった。中には明らかに気の進まぬ顔で俯く者もいる。
「……ごめんなさい」
一人の少女がか細い声で呟いた。
「あなたを犠牲にするのは本当に心が痛い。……でも 、これで世界中の人が救われるって言うなら……わたしたちは」
「そんなもの、妾は認めんぞ……!」
カグヤは無限の魔力を身のうちに滾らせ、ルミナスたちを牽制した。
同じ魔法少女とはいえ、この力の前では誰も敵わない。
だが。
ルミナスとて、それは承知でここに来ている。
正面からでは勝てないなら、搦め手を使うまで。
ここに居る魔法少女たちは皆、正面からの戦闘は不得意だが、こと相手を無力化する。という一点に限っては、稀有な能力を有している魔法少女たちでもあった。
少女たちの一人がすっとステッキを掲げた。
彼女に宿った権能――それは催眠であった。
ステッキの先からふわりと淡い紫の煙が立ち昇る。それは夜風に乗って、音も色もなく、カグヤの周囲へと忍び寄っていった。
カグヤは正面のルミナスにばかり気を取られていた。
まさか匂いもなく漂う煙が攻撃であるなどとは思いもよらなかったのだ。
「――っ!?」
異変に気づいた時にはもう遅かった。
知らず吸い込んでいたその煙が、カグヤの意識を甘く溶かしていく。
無限の魔力を持つカグヤとて、その肉体そのものは人と変わらない。
力でねじ伏せる攻撃ならばいざ知らず、こうして内から意識を刈り取る不意打ちには抗う術がなかった。
「あ……」
視界がぐらりと揺れる。
意識が急速に遠のいていく。
崩れ落ちるカグヤの耳に最後に届いたのはエラの絶叫であった。
「カグヤ――ッ!」
そして世界が闇に沈んだ。
カグヤが完全に意識を手放したのを見てエラは激しく光を燃え上がらせた。
「よくも……! よくもカグヤを……!」
小さな妖精のうちで怒りと絶望が渦を巻いた。
だがエラには戦う力などない。この場で魔法少女たちに立ち向かったところで一瞬で捻り潰されるだけであろう。
ならば取れる道はただ一つであった。
カグヤをここから逃がす。この者たちの手が届かぬ遠い場所へ。
三次元の存在である人間には不可能だが、四次元の存在である自分たち妖精なら、空間を操作する魔法を行使する事も容易い。
「……ごめんねカグヤ。……あなたを、一人にしてしまう私を許して」
エラは自らの持てる力のすべてを振り絞った。
本来この三次元の世界で生きるために、四次元の存在である妖精は、絶えず己の命を繋ぎとめる魔法を使い続けねばならない。
ゆえにエラは選んだ。
己の命を繋ぐ魔法を絶ち。
その最後の一滴までもをカグヤを逃がすための力へと変えることを。
「……幸せになってね、カグヤ。あなたと過ごした日々は、わたしの宝物だったわ」
淡い金色の光が眩く膨れ上がる。
気を失ったカグヤの体がその光に包まれ、ふっと掻き消えた。遠い遠い人里離れた森の奥へと。ルミナスたちの手の決して届かぬ場所へと。
そして光をすべて使い果たしたエラの体は。
もはやこの世界に己を留めておくことができず。
ほろほろと、夜風に溶けるように、静かに消えていった。
後には何も残らなかった。
「……エラ」
一部始終を見ていたルミナスが呆然と呟いた。
まさか、己の命と引き換えにカグヤを逃がすとは思ってもいなかったのだ。
計画は成らなかった。カグヤはどこかへ消え去り、その魂を抜くことは叶わなかった。
ルミナスは長いあいだ、その場に留まっていた。
やがて彼女は、静かに月へと帰っていった。
その胸に消えぬ後悔と、なおも捨てられぬ計画とを抱えたまま。
いつかまた、必ずあの少女を見つけ出す。そしてその魂を世界のために。
それがこの日、ルミナスの心に刻まれた消えることのない執念となった。
どれほどの時が流れたであろう。
見知らぬ森の中でカグヤは一人目を覚ました。
「……ここは、どこじゃ?」
体を起こし辺りを見回す。うっそうと茂る木々。差し込む月明かり。そこは彼女の知る邸のどこでもなかった。
「エラ。のう、エラ。どこにおるのじゃ?」
いつも傍らにあったはずの小さな光を探して、カグヤは幾度も友の名を呼んだ。
だが応える声はない。
いくら呼んでも呼んでも、あの温かな光はもう二度と灯らなかった。
「エラ……」
その時カグヤのうちに、断片的な記憶がよみがえってきた。
月から来た妖精ルミナス。魂を寄越せという願い。エラの怒り。潜んでいた者たちの不意打ち。遠のく意識。そして最後に聞いたエラの叫び声。
聡明なカグヤには、もう分かってしまった。
エラが自分を守るために何をしたのかを。
自分がこうして無事に生きているということは、エラが命を賭してここまで逃がしてくれたということ。
そしてそれはすなわち。
「……いやじゃ」
カグヤの瞳から大粒の涙が溢れ出した。
「いやじゃエラ……! 妾のために消えてしまうなど、そんなこと妾は望んでおらん……! 帰ってきておくれ……! 頼むから帰ってきておくれよ……!」
森の中に少女の慟哭が響き渡った。
けれどどれだけ泣き叫ぼうと、消えてしまったものはもう戻らない。
たった一人この世界に取り残されたのだという事実だけが、カグヤの小さな胸を締めつけた。
そして涙が涸れ果てた頃。
その澄んでいたはずの瞳の奥に、今まで彼女が抱いたことのない暗く冷たい感情が静かに宿り始めていた。
月の妖精たちへの憎しみ。
世界のためという大義を振りかざしたった一人の少女の命を奪おうとした者たち。エラを死に追いやった者たち。彼らをカグヤは決して許せなかった。
そしてもう一つ。
すべての元凶である妖への憎しみ。
もしこの世に妖などという存在が無ければ。
妖精たちは故郷を追われることもなく、この地へ逃れてくることもなかった。
ならばエラと出会うこともなかったかもしれないが、少なくとも、エラが命を落とすこともなかったはずだ。
妖がいたから妖精は逃げてきた。妖精が逃げてきたから道が開いた。道を閉ざすためにルミナスはカグヤを狙った。そしてエラは死んだ。
すべての始まりは妖であった。
月の妖精と妖。カグヤはその両方を心の底から憎んだ。
その日、純真であった少女の心は永遠に失われた。
不老不死の権能を持つ彼女には、終わりというものがない。仲間もなく、友もなく、ただ一人でこの先、永遠の時を生き続けねばならない。
カグヤは森の奥からゆっくりと立ち上がった。
「……もう、誰も信じぬ」
小さく呟いたその声はもう幼子のそれではなかった。
「妖精も妖も、人も……誰もじゃ」
こうしてカグヤは表舞台から姿を消した。
人前に出ることをやめ、妖精たちとも関わりを絶ち、誰にも知られぬ場所でひっそりと生きるようになった。
守るべき人々のために戦っていたあの光の姫はもういない。あるのはただ、果てしない孤独を抱えて、時の狭間をさまよう一人の少女だけであった。
それから幾百年。
移ろいゆく世を、カグヤはただ一人見つめ続けた。
栄えた都はやがて滅び、新たな都が生まれてはまた移ろっていく。
人々は生まれ、老い、死んでいく。
だがカグヤだけはあの日のまま、八つの姿で決して変わることなく、永遠の時を漂い続けた。
長すぎる歳月は、少女の心を少しずつ、しかし確かに擦り減らしていった。
言葉づかいこそ幼き日のままであった。
けれどかつて人を案じ、友を慕い、月を愛でていたその心から。いつしか温もりだけが、静かに抜け落ちていった。
人を思いやる優しさは色を失い、誰かを慕う純真さは擦れた尊大さへと姿を変えていく。
面倒なことを厭い、諍いを避け、数十年に一度、ふらりと姿を見せてはまた眠りにつく。
そんな自堕落で傲慢な存在へと、少女は緩やかに変わり果てていった。
もはや誰も知らない。あの傲岸不遜な最古の魔法少女が、かつては月を愛し、人を助けることを喜んだ、心優しいただの少女であったことなど。
エラという名の妖精と過ごしたあのささやかで温かな日々のことなど。
孤独と時間だけが少女の傍らにあり続けた。
そして。
擦れきったその少女が、ある晩に、とある理外の怪物と出会うことになるのだが。
それはまた別の物語である。
これにてこの小説は本当に完結です。
ここまで読んでいただきありがとうございました。