**【第14話】 白狐の休息と、深夜のモフモフ物理演算**
### Scene 1:午前2時45分・キツネの急襲
カバー株式会社の新社屋に夜の静寂が訪れる頃、タレントたちの賑やかな声は消え、フロアは無機質なLEDの明かりだけが点灯する「スリープモード」へと移行する。
しかし、地下の第1テクニカル・コントロールルームだけは、常に覚醒していた。
「……よし、北米サーバーへのミラーリング設定完了。これで明日のENのコラボ配信の回線ドロップは防げるはずだ」
チーフ・テクニカル・プロデューサーである■■春樹は、並んだモニターの一つをスワイプして閉じ、深く息を吐いた。
手元のマグカップのコーヒーはとっくに冷え切っている。首を鳴らし、ようやく背もたれに体重を預けようとした、その瞬間だった。
『プシュッ』
分厚い防音扉が開き、廊下の冷たい空気が流れ込んできた。
振り返ると、そこにはホロライブ1期生であり、ゲーマーズのリーダーでもある白狐――**白上フブキ**が、ドアの枠からひょっこりと顔を覗かせていた。
「こんきーつね! チーフ殿ぉ、生きてますかー?」
「……お前か。今は午前2時半を回ってるぞ。狐は夜行性かもしれないが、人間のエンジニアはそろそろ寝たい時間だ」
春樹がジト目で睨むと、フブキは「えへへ」と悪びれずに笑いながら部屋に入ってきた。
私服のパーカー姿の彼女は、両手にコンビニのレジ袋を提げている。中からは、ポテトチップスやグミ、そして大量のエナジードリンクが見えた。
「まあまあ、そう言わずに! 徹夜明けのチーフに、白上からささやかな供物を捧げに参りました!」
「供物って言うな。俺は妖怪か何かか」
「カバーの地下に棲む『徹夜妖怪・システム直すマン』じゃないですか。はい、これお近づきの印!」
フブキは春樹のデスクの空きスペースに、温かい缶のコーンスープをトンッと置いた。
キンキンに冷えたエナドリではなく、胃に優しい温かいスープ。こういう絶妙な気配りができるのが、白上フブキというタレントの長所でもあり、彼女が多くの後輩から慕われる理由でもあった。
「……ありがたくもらっておく。で? こんな時間にわざわざ地下まで降りてきて、本当の用件は何だ?」
春樹がコーンスープのプルタブを開けながら尋ねると、フブキは目をキラリと輝かせ、自分の背中に隠していた「黒いケース」をデスクの上にドンッと置いた。
「ふっふっふ。よくぞ聞いてくれました! 実はですね、先週チーフが試験的に導入した**『新型・超高精度フェイシャルトラッキング用ヘッドセット』**! あれの深夜ベータテストを、この白上が買って出ようと思いまして!」
「……は?」
「さあチーフ! 早く私の耳と尻尾を、もっとモフモフに動かせるように調整するのです! いざ、スタジオAへ!」
春樹はコーンスープをすする手を止め、目の前で胸を張る白狐をじっと見つめた。
そして、深く、とても深い溜息をついた。
「お前なぁ……。新しい機材を触って遊びたいだけだろ。それに、お前のそのレジ袋の中に、俺の目には『課金用のiTunesカード』が3枚ほど見えたんだが?」
「っ!? ギクッ……!」
フブキの狐耳(現実には見えないはずだが、春樹にはそう見えた)が、ピクンと跳ねてしおれた。
「……バレました?」
「当たり前だ。お前が深夜にここに来る時の理由なんて、『新しい機材で遊びたい』か『ガチャを引く前に俺に厄落としをさせたい』のどっちかだろ」
「うぅ……チーフ殿、相変わらず鋭い。私の保護者か何かですか……」
「手のかかるバカ狐の保護者をやってる自覚はある」
春樹は立ち上がり、デスクの上の黒いケースを手に取った。
「……まあいい。ちょうど、新しい物理演算(ボーン揺れ)のパラメーターを実機でテストしたかったところだ。30分だけ付き合ってやる。スタジオに行くぞ」
「やったー!! さすがチーフ! すこすこのすこです!!」
フブキは両手を挙げて歓喜し、春樹の背中をぴょんぴょんと飛び跳ねながら追いかけていった。
### Scene 2:深夜のモフモフ物理演算(テスト)
スタジオAの中央。
薄暗い空間の中で、フブキは頭に新型のトラッキングデバイスを装着し、手にはコントローラーを握っていた。
「チーフ! 準備OKですよ! いつでもいけます!」
「よし、キャリブレーション(初期位置調整)を入れる。そのまま動くなよ」
ガラス張りの調整室(コントロールルーム)から、春樹の声がマイクを通して響く。
目の前の巨大モニターには、3Dモデルの『白上フブキ』が表示されていた。
「今回のテストの目的は、お前のアイデンティティである『耳』と『尻尾』の独立した物理演算の最適化だ。従来のIK(インバース・キネマティクス)の連動を切り離して、風や重力、さらにお前の『感情パラメータ(声のトーン)』に合わせて自律的に揺れるAIを組んだ」
春樹はキーボードを叩き、テスト用のパラメーター表をモニターの端に表示した。
| テスト項目 (Test Item) | 従来の数値 (Old Value) | 新AI制御 (New AI Value) |
| :--- | :--- | :--- |
| **狐耳のピコピコ感 (Ear Twitch)** | 0.85 | 1.20 (感情連動型) |
| **尻尾の弾力・モフみ (Tail Bounce)** | 1.05 | 1.45 (重力・慣性独立) |
| **髪の毛のサラサラ度 (Hair Physics)** | 1.00 | 1.15 (微風シミュレート) |
「……なんか、チーフの技術の無駄遣いが加速してませんか?」
「アホ、VTuberにとって『モフモフ感』は視聴者の滞在時間を左右する死活問題だ。妥協は許されない。……よし、フブキ。ちょっとその場でジャンプして、着地と同時に『驚いた声』を出してみてくれ」
「了解です! ……よいしょっ!」
フブキがその場で軽くジャンプし、着地と同時に「わわっ!?」と声を上げた。
その瞬間。
モニターの中の白上フブキの尻尾が、まるで本物の生き物のように、空気の抵抗を受けてボワッと膨らみ、柔らかな軌道を描いて揺れた。さらに、声の波形(驚き)に連動して、頭の狐耳が「ピクッ!」と鋭く立ち上がったのだ。
「うおおお!? なにこれすごい!! チーフ、尻尾が! 私の尻尾が生き・て・い・る!!」
フブキはモニターを見ながら、自分の尻尾を追いかける犬のようにぐるぐると回り始めた。
「よし、パラメーターの追従性は完璧だな。……おいフブキ、回りすぎるな! 尻尾の慣性計算がオーバーフローして、お前が竜巻みたいになるぞ!」
「あははは! 楽しい! これで次の3D配信、みんなを私の尻尾でモフモフの刑に処せますね!!」
無邪気にはしゃぐフブキを見ながら、春樹は「バカ狐め」と呆れつつも、確かな手応えを感じて口角を上げた。
ホロライブのタレントは皆、それぞれに強い個性とこだわりを持っている。
その中でも、白上フブキという存在は特別だ。彼女は生粋のオタクであり、クリエイター気質も持ち合わせている。だからこそ、春樹が作った新しい技術や細かい調整に、誰よりも早く気付き、誰よりも純粋に喜んでくれるのだ。
「よし、トラッキングのテストはこれで終了だ。ログは取れたから、後は裏で最適化しておく」
「はーい! お疲れ様でしたー!」
フブキはデバイスを外し、機材を丁寧にケースにしまうと、小走りで調整室へと戻ってきた。
### Scene 3:ガチャ教団・深夜の儀式
「さて……チーフ殿。ここからが『本番』ですよ」
調整室に戻ってきたフブキは、パイプ椅子にドカッと座るなり、おもむろにスマートフォンを取り出した。
画面に映し出されているのは、現在大人気のソーシャルゲームのガチャ画面。そして、ピックアップされているのは、最高レアリティ(SSR)の限定キャラクターだ。
「……やっぱりそれが目当てか。先月も別のゲームで天井(確定枠)まで回して、『もやし生活確定です……』って泣き言を言ってなかったか?」
春樹が呆れたように言うと、フブキは「チッチッチ」と人差し指を振った。
> **フブキのオタク哲学**
> *「オタクに計画性を求めるのはナンセンス! 推しは引ける時に引く! 出るまで回せば排出率は実質100%なんですよ!」*
>
「あのなぁ……Aに家計簿の管理をチクるぞ」
「ひぃっ!? それだけは勘弁してください! Aちゃんのお説教は3時間は続きますから!」
フブキは泣きまねをしながら、両手を合わせて春樹を拝み始めた。
「ですからチーフ! ホロライブを裏から支配する大明神たるチーフの『神引きパワー』を、私に分けてください! チーフが横にいてくれるだけで、不思議とSSRが出る気がするんです!」
「俺をオカルトの御神体みたいに扱うな。サーバーの乱数調整なんて俺の管轄外だぞ」
「いいからいいから! ほら、いきますよ! 単発教の力、見せてやります!」
フブキが画面の『召喚』ボタンをタップする。
青い光。外れ(R)だ。
「はい次! 流れ来てます!」
青い光。
「くっ……まだまだぁ!」
青い光。
10分後。
「…………チーフ」
「なんだ」
「……iTunesカード、追加で削っていいですか……?」
完全に死んだ魚の目をしたフブキが、レジ袋からカードを取り出そうとする。
春樹は無言でその手を掴み、ピシャリと叩き落とした。
「やめろ。見ているこっちの胃が痛くなる。……スマホ貸せ」
「え?」
春樹はフブキの手からスマホをひったくると、何の感情も込めずに、親指で適当に『10連召喚』のボタンをタップした。
「ああっ!? チーフ、無欲のタップすぎる! もっと念を込めて……!」
画面の中で、演出の光が弾ける。
青、青、金、青……そして。
**『虹色の強発光』**。
「――っ!? 虹!? 虹確演出きましたよチーフ!!!!」
フブキが椅子から飛び上がり、春樹の肩を揺さぶる。
画面に表示されたのは、ピックアップ対象の最高レアリティ(SSR)キャラクターだった。
「ほらよ。出たぞ」
「うおおおおおおおお!!!!! チーーフ!! チーフ神! カバー株式会社の現人神!!! 一生ついていきます!!」
フブキはスマホを抱きしめ、狂喜乱舞して調整室の中を走り回った。
春樹はその姿を見ながら、やれやれと首を振りつつも、コーンスープの残りを飲み干して小さく笑った。
(……乱数の偏りに過ぎないが、まあ、これでこいつが機嫌良く寝てくれるなら安いもんだ)
### Scene 4:白狐の孤独と、保護者の特等席
ガチャの興奮が冷め、少し落ち着きを取り戻した頃。
フブキはパイプ椅子に深く座り直し、フゥーと長い息を吐いた。
先ほどまでのテンションの高い「オタクキツネ」の顔から、ふっと力が抜け、少しだけ大人びた、疲労の混じった素顔が垣間見えた。
「……はぁ。なんか、大声出したらスッキリしました」
「どうせ最近、また無理して後輩の面倒ばっかり見てたんだろ」
春樹はモニターから目を離さず、カタカタとキーボードを叩きながら言った。
白上フブキは、ホロライブの中でも特異なポジションにいる。
1期生であり、ゲーマーズのリーダー。
コミュ力が高く、誰とでも分け隔てなく接することができる彼女は、新人がデビューすれば真っ先にコラボに駆けつけ、悩んでいる後輩がいれば裏で相談に乗り、常にホロライブ全体の「潤滑油」として走り回り続けている。
「……バレてます?」
「俺を誰だと思ってる。社内のネットワークと各スタジオの稼働スケジュールを全部管理してるんだぞ。お前、ここ1週間、自分の配信の裏で3期生や4期生の収録の立ち会いまでやってただろ。完全にオーバーワークだ」
春樹の静かな指摘に、フブキは苦笑いを浮かべた。
「……仕方ないじゃないですか。可愛い後輩たちが頑張ってるんですから、先輩として見ててあげたいんですよ」
「先輩としての責任感は立派だが、お前自身が倒れたら元も子もない」
春樹はキーボードを叩く手を止め、椅子を回転させてフブキと向き合った。
「そらやAとは違って、お前は常に『現場の最前線』でタレントたちを引っ張ってる。後輩たちから見れば、お前は絶対的に頼れる『白上先輩』だ。……だがな、フブキ」
春樹は、静かな、けれど有無を言わさない保護者のトーンで告げた。
「この部屋(コントロールルーム)にいる時くらいは、誰かの『頼れる先輩』でいる必要はないぞ」
その言葉に、フブキは目を丸くした。
「ここではお前は、ただの『ガチャで爆死して騒ぐアホなキツネ』でいい。機材のテストを口実に、サボりに来てもいい。お前がどんなにだらしなく泣き言を言っても、俺は適当にあしらってやる。……だから、一人で抱え込みすぎるな」
ホロライブという巨大な箱庭。
タレントたちは皆、表舞台で輝き続けるために必死に戦っている。フブキもまた、その重圧を「明るい笑顔」と「オタクのノリ」で隠しながら、先頭を走り続けているのだ。
だからこそ、彼女には「完全に素に戻れる場所」が必要だった。
それが、どんな無茶を言っても絶対にシステムを壊さず、呆れながらも最後には必ず味方になってくれる、この天才エンジニアのいる地下室なのだ。
「……チーフって、本当にズルいですよね」
フブキはポツリと呟き、前髪で目を隠すように俯いた。
「そういうこと、平気な顔して言うんだから。……みこ先輩やスバルちゃんが、チーフに甘えまくる理由がよく分かります」
「俺は事実を言ったまでだ。お前は少し、優等生すぎる」
「……うぅ」
フブキは、鼻をグズッと鳴らした。
「……今だけ、ちょっとだけ、だらしないキツネになってもいいですか?」
「許可する。5分だけな」
フブキはパイプ椅子の上で体育座りになり、膝に顔を埋めた。
「……後輩の面倒見るの、本当はすっごく体力使うんですからね。私の配信のスケジュールもカツカツで、ガチャ引く時間もないくらいで……うぅ、チーフの淹れたコーヒー飲みたいです……」
「わかった、わかった。後で最高の豆で淹れてやるから。……よく頑張ってるよ、お前は」
春樹は立ち上がり、体育座りをして丸くなっているフブキの頭にポンッと手を置いた。
少し強引に、けれど優しく撫でる。
フブキは抵抗せず、されるがままに目を閉じ、小さく「ふにゃ……」とキツネのような声を出した。
静寂のコントロールルーム。
サーバーの低い駆動音だけが、不器用な保護者と、強がりな白狐の穏やかな時間を包み込んでいた。
### Scene 5:夜明けの空と、一番星のキツネ
「――さて、と!」
5分後。
フブキは勢いよく立ち上がり、両手を天に向かってグッと伸ばした。
顔を上げた彼女の表情には、先ほどまでの疲労感は微塵もなく、いつもの「元気で明るい白上フブキ」が完全に戻っていた。
「チーフ! 愚痴タイム終了です! バッチリ充電完了しました!」
「切り替えが早すぎるだろ。まあ、お前らしいが」
「えへへ! SSRも引けましたし、尻尾のモフモフも確認できましたし、大満足の夜更かしでした!」
フブキは自分のスマホをポケットにしまい、パーカーのフードを被った。
「じゃあ、私はそろそろ帰って寝ます! 明日はお昼から生放送ですからね!」
「ああ。トラッキングの調整データは本番用サーバーに上げておく。思い切り暴れてこい」
「はいっ!」
防音扉に向かって歩き出したフブキは、ドアノブに手をかけたところで、ふと立ち止まった。
そして、振り返り、春樹に向かってとびきりの笑顔を見せた。
「あの、チーフ」
「なんだ」
「私……ホロライブに入れて、チーフたちに見つけてもらえて、本当に良かったです。……これからも、私たちのこと、一番近くで見守っていてくださいね!」
それは、タレントから裏方への言葉ではなく、迷い込んだキツネから、唯一の保護者へ向けた、純粋な感謝の言葉だった。
「……バカ言え。お前たちが暴れ回るから、俺は毎日徹夜する羽目になってるんだぞ」
春樹が照れ隠しに悪態をつくと、フブキは「あはは! じゃあ、もっと徹夜させちゃいますね!」と笑い、今度こそ扉の向こうへと消えていった。
バタン、と扉が閉まる。
一人残された春樹は、フブキが置いていったエナジードリンクの缶を手に取り、小さく息を吐いた。
「……世話の焼ける連中だ、本当に」
口では文句を言いながらも、その顔には深い愛情と誇りが浮かんでいた。
彼女たちが表舞台で「無敵のアイドル」でいられるように。
疲れた時には、いつでもこの地下室で「ただの女の子(アホなキツネ)」に戻れるように。
春樹は再びモニターに向き直り、白上フブキのトラッキングデータの最終チューニングを開始した。
カバー株式会社の裏側で、天才エンジニアは今日も、不器用な愛をコードに込めて打ち込み続ける。