ホロ  オリ   作:raian sinra

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**【第16話】 狂気の箱庭と、五里霧中を照らす灯台**

### Scene 1:午後10時30分・狂気のレンダリング(共存する二つの魂)

カバー株式会社、地下第2スタジオ。

その日、メインモニターに映し出されていたのは、いつものアイドルらしい華やかなステージではなく、血のような赤と漆黒に染まった『狂気の世界』だった。

『――ハアチャマチャマァ!! アカイヤツ、ドコニイッタァ!?』

スピーカーから、鼓膜を劈くような甲高い笑い声が響く。

画面の中では、首の無い3Dモデルが不気味に動き回り、ノイズまみれのテクスチャが明滅を繰り返している。リスナーのコメント欄は「ヒエッ」「こわいこわい」「はあちゃま!?」「赤井はあとの人格はどこに!?」という悲鳴と歓喜で埋め尽くされていた。

ホロライブ1期生・**赤井はあと**。

そして、彼女の中から生み出された狂気の別人格・**はあちゃま**。

「……第2クラスター、VRAMの割り当てを限界まで引き上げろ。ポストプロセスのグリッチ(バグ表現)エフェクトが重すぎる。フレームレートが落ちるぞ」

第1テクニカル・コントロールルームで、チーフ・■■春樹は、血走った目でコンソールを睨みつけていた。

現在行われているのは、赤井はあとと「はあちゃま」の二つの人格が、一つの画面の中で対話し、争うという前代未聞の『サイコロジカル・ホラー配信』である。

これをリアルタイムで実現するために、春樹は異常なシステムを構築していた。

スタジオにいるはあとの動き(トラッキングデータ)を、コンピュートシェーダーでリアルタイムに複製・分岐させ、片方を「赤井はあと」のモデルに、もう片方を「はあちゃま」のモデルに流し込む。さらに、はあとの手元のフットペダルによるスイッチングで、発声のピッチ(音程)とモデルの主導権を瞬時に切り替えるという、変態的なデュアル・インスタンス処理だ。

「チーフ、モーションの同期ズレが発生しそうです! このままだとモデルのポリゴンが破綻します!」

隣の席で若手エンジニアが悲鳴を上げる。

「破綻させておけ。Zバッファ(深度情報)の計算エラーすら、あいつの演出(ホラー)の一部だ」

「えっ、わざと直さないんですか!?」

「そうだ。だが、サーバー自体は絶対に落とすな。俺がコードを直接書き換えて、メモリのガベージコレクションを強制実行し続ける」

春樹の指がキーボードの上で目にも留まらぬ速さで踊る。

画面の中の「狂気」は、赤井はあとという天才的なクリエイターの演出力と、春樹という天才エンジニアの限界ギリギリの技術的綱渡りによって、奇跡的に成立していた。

『バイバイ、赤井はあと。……ココハ、はあちゃまノ世界ダヨ……!!』

最後にノイズが画面を覆い尽くし、配信がプツリと切れる。

同時接続数10万人超え。伝説となるホラー配信が、無事に幕を下ろした瞬間だった。

「……配信終了。トラフィック、正常値まで低下」

春樹が深く息を吐き出すと、コントロールルームにいたスタッフたちが一斉に安堵の声を上げた。

「お疲れ様でした……マジで寿命が縮むかと思いましたよ」

「ああ。……俺は少し、スタジオの様子を見てくる。お前らは後片付けを頼む」

春樹は冷え切ったブラックコーヒーを一気に飲み干し、席を立った。

### Scene 2:五里霧中・見失った境界線

スタジオの分厚い防音扉を開けると、そこは先ほどまでの狂騒が嘘のように、冷たい静寂に包まれていた。

機材の待機ランプだけが暗闇の中で赤く点滅している。

そのステージの中央。

トラッキングスーツを着た赤井はあとが、床にへたり込み、両膝を抱えて丸くなっていた。

荒い呼吸音だけが、マイクを通さずに直接スタジオの空気に響いている。

「……はあと」

春樹が静かに声をかけると、彼女はビクッと肩を震わせ、ゆっくりと顔を上げた。

「……チ、チーフ……?」

その声は、配信中の「はあちゃま」の狂気じみた甲高い声でもなく、「赤井はあと」のツンデレなアイドル声でもない。

ひどく怯え、疲れ切った、年相応の幼い少女の掠れ声だった。

春樹は無言で歩み寄り、手に持っていた未開封のミネラルウォーターのペットボトルを、彼女の頭にポンッと軽く押し当てた。

「ひゃっ、冷たっ……!」

「よく頑張ったな。システムは一度も落ちなかったぞ。お前の演出の勝ちだ」

はあとはペットボトルを受け取ったが、それを開けようともせず、ただじっと見つめていた。

そして、震える声でポツリと呟いた。

「……ねえ、チーフ」

「ん?」

「今、ここにいるのは……『赤井はあと』? それとも、『はあちゃま』……?」

その問いかけに、春樹の足がピタリと止まった。

はあとの瞳は、焦燥と恐怖で揺れていた。

圧倒的な才能がひしめくホロライブにおいて、彼女は生き残るために「はあちゃま」という強烈な劇薬(キャラクター)を生み出した。

ゲテモノ料理を食べ、狂気の動画を編集し、常人には理解できないホラー世界を構築する。その自己プロデュース能力は間違いなく天才のそれだった。

しかし、劇薬は彼女自身の精神(コア)をも侵食し始めていた。

あまりにも深く、長く「狂気」を演じすぎた結果、彼女自身の中で、本来の「アイドル・赤井はあと」と「狂気・はあちゃま」の境界線が完全に霧に包まれ、見えなくなってしまっていたのだ。

「私、わかんないの……っ」

はあとは、ペットボトルを抱きしめながら、ポロポロと涙をこぼし始めた。

「みんなが『はあちゃま』を求めてくれるのは、嬉しい。……でも、やればやるほど、本当の私が消えちゃうみたいで……! このまま、ただの頭のおかしいバケモノになっちゃったらどうしようって……っ!」

広大で残酷なエンターテインメントの海。

彼女は今、その海に発生した深い深い『五里霧中(霧の中)』で、たった一人、方向を見失って震え凍えている難破船だった。

### Scene 3:ビッグダディの証明(ログは嘘をつかない)

春樹は深くため息をつき、はあとの目の前に胡座をかいて座り込んだ。

そして、自分のタブレット端末を操作し、その画面を彼女の目の前に突きつけた。

「……チーフ、これ……?」

「さっきの配信の、お前のトラッキングデータのログと、音声波形の解析データだ」

暗い画面に、複雑なグラフと数値の羅列が光っている。

春樹は、そのグラフの一部を指差した。

「いいか、はあと。お前が『はあちゃま』として狂ったように笑っている時、モーションデータの座標には、ほんの僅かな『ブレ(躊躇)』が記録されている。そして、声のピッチも、意図的に喉の筋肉を絞って出している人工的な波形だ」

「……え?」

「お前はバケモノなんかじゃない」

春樹の低く、確かな声が、スタジオの静寂に響いた。

「このログが証明している。お前は、自分の頭で必死に考え、リスナーを楽しませるために、ミリ単位で自分を制御して『狂気を演じている』だけの、ただの真面目で不器用な女の子だ」

はあとの目が見開かれた。

春樹はタブレットをしまい、はあとの頭に無骨な手をドンッと置いた。少し乱暴だが、絶対的な安心感を伴う、いつもの『保護者』の手だ。

「お前がどれだけホラー演出を作ろうが、どれだけ意味不明な動画を編集しようが、俺たち裏方(エンジニア)の目には、お前の『素顔』が全部データとして見えている。お前の根底にあるのは、狂気じゃない。誰にも負けたくないっていう、アイドルとしての純粋な執念(努力)だろ」

「……っ」

はあとの瞳から、再び大粒の涙が溢れ出した。

しかしそれは、先ほどまでの迷いと恐怖の涙ではない。自分の本当の姿を、一番見てほしかった人に「見抜かれていた」という安堵の涙だった。

「チーフ……うわぁぁぁん……っ!」

はあとは子供のように声を上げて泣き出し、春樹のシャツの袖を両手でぎゅっと握りしめた。

「怖かった……! 私、同期のフブキちゃんやまつりちゃんみたいに、うまく喋れないから……! 先輩のそら先輩やすいちゃんみたいに、圧倒的な歌もないから……! だから、はあちゃまになるしかなかったの……っ!」

春樹は何も言わず、ただ静かに、泣きじゃくるはあとの頭を撫で続けた。

彼女の抱えていたプレッシャー。自己を破壊してでも、ホロライブという箱庭にしがみつこうとした、その痛々しいほどの健気さ。

「……誰も、お前をバケモノだなんて思ってないさ」

春樹は、優しく、語りかけるように言った。

「むしろ、お前は開拓者(パイオニア)だ。誰も歩いたことのない荒野を、お前は自分の力で切り拓いたんだ。……誇れよ、赤井はあと。お前が創り出した『はあちゃま』は、ホロライブの歴史に残る最強のエンターテインメントだ」

### Scene 4:霧を照らす灯台

「……でも、私、また迷子になっちゃうかも」

しばらく泣いて落ち着いた後、はあとは目を真っ赤に腫らしながら、春樹を見上げた。

「またはあちゃまの世界に入り込みすぎて、戻れなくなったら……自分が誰か、わからなくなっちゃったら、どうしよう……」

「アホ。そんな心配はいらない」

春樹は立ち上がり、スタジオの巨大なARモニターを指差した。

「いいか。お前がどんな深い霧の中で迷子になっても、お前の世界を構築しているのは俺のシステムだ」

春樹はポケットからスマートフォンを取り出し、操作する。

すると、真っ暗だったスタジオの照明が、一斉に柔らかいオレンジ色の『アイドルらしい』光に切り替わった。

「お前がどれだけ狂気に染まろうが、俺がお前の足元のステージを支えている。お前が境界線を見失いそうになったら、俺が強制的にサーバーを再起動してでも、お前を『ここ』に引き戻してやる」

春樹は振り返り、はあとに向けて不敵に笑った。

「だから、お前は何も恐れずに、思う存分『はあちゃま』として暴れ回ってこい。……お前の帰る場所(座標)は、この俺が、絶対にロックして見失わないようにしてやるからな」

五里霧中の海。

その暗闇の中で、迷える難破船を見つけ出し、帰るべき港を照らし出す『絶対の灯台』。

それが、カバー株式会社 チーフ・テクニカル・プロデューサー、■■春樹の生き様だった。

その言葉を聞いた瞬間。

はあとの顔から、すべての迷いと恐怖が嘘のように消え去った。

彼女は立ち上がり、トラッキングスーツの汚れをパンパンと払い落とすと、大きく深呼吸をした。

そして、顔を上げ――春樹に向かって、とびきりの、少しだけ生意気な『アイドル』の笑顔を見せた。

「……ふふん。チーフのくせに、かっこいいこと言っちゃって」

「事実を言ったまでだ」

「わかってる。チーフは、私の『ビッグダディ』だもんね!」

はあとは春樹の胸元にドンッと軽く頭突きをした。

「痛っ、おい」

「ありがとう、チーフ。……私、もう迷わない。赤井はあとも、はあちゃまも、全部私だもん。チーフが裏にいてくれるなら、私、世界で一番ヤバいアイドルになれる気がする!」

完全に吹っ切れた、清々しい笑顔。

彼女はもう、狂気に飲まれる被害者ではない。狂気すらも自在に操り、世界を魅了する本物のエンターテイナーの顔になっていた。

「……ほどほどにな。これ以上処理の重いシェーダーを要求されたら、本当にカバーのサーバーが火を噴くぞ」

「えー? 無理! だって明日は『毒グモのタルト作り』の3D配信だもん! チーフ、タルトが爆発するエフェクトよろしくね!」

「……お前、さっきまでの感動的な空気を返せ」

「あはははは! はあちゃまっちゃまー!!」

いつもの、鼓膜を劈くような甲高い笑い声を残して、はあとはスタジオの扉から元気よく飛び出していった。

嵐のような、いや、狂気のような少女の背中を見送りながら、春樹は深く、長い溜息をつく。

しかし、その口元には、呆れを通り越した深い愛情と、頼もしい娘の成長を見届けたビッグダディとしての、確かな誇りが滲んでいた。

「……さて。毒グモがリアルに弾け飛ぶ物理演算、組んでおくか」

誰もいなくなったスタジオ。

冷たい機材の並ぶ無機質な空間で、天才エンジニアは今日も、迷える星たちのために『帰る場所』のコードを打ち込み続ける。

狂気も、葛藤も、すべてを包み込む絶対的な箱庭の底で。

 

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