**【第17話】 聖母の暴走(リミットブレイク)と、ステージに降りる裏方**
### Scene 1:午後11時00分・癒やしの空間と、麦ジュースの罠
「アローナ。みんな、今日も一日お疲れ様。……アキのところで、ゆっくり休んでいってね?」
カバー株式会社、地下第3フロア・3DスタジオC。
しっとりとした、耳の奥がとろけるような甘く優しい声が、防音壁に囲まれたスタジオを満たしていた。
ホロライブ1期生、異世界から来たハーフエルフの**アキ・ローゼンタール(アキロゼ)**。
彼女の持ち味である、母性に溢れた包容力と、洗練されたエレガントな立ち振る舞いは、今夜の「深夜の晩酌&ASMR風3D配信」でも遺憾無く発揮されていた。
バーチャル空間のシックな洋館のセット。
暖炉の火がパチパチと爆ぜる音と、グラスに注がれた琥珀色の液体(通称:麦ジュース)の氷がカラン、と鳴る音が、立体音響(バイノーラル)マイクを通してリスナーの脳を直接とろけさせていく。
「……うん。今日のオーディオ・ルーティングも完璧だ。環境音のS/N比(ノイズに対する信号の割合)も申し分ない」
第1テクニカル・コントロールルームでは、チーフ・■■春樹が、心地よいエルフの声を聴きながら、モニターに映る音声波形を満足げに眺めていた。
さくらみこや夏色まつりのような「問題児」たちの予測不能な行動に比べれば、アキロゼの配信は基本的にとても平和だ。彼女は自身の魅せ方を熟知しており、トラッキングの範囲を逸脱するような無茶な動きもしない。
春樹にとって、彼女の配信を担当する時間は、張り詰めた神経を休めるための『オアシス』のようなものだった。……**『序盤』**までは。
「チーフ。……そろそろ、アキちゃんのグラスのペースが上がってきましたよ」
背後に立っていたAちゃんが、バインダーを胸に抱きながら、銀縁メガネの奥の目をスッと細めた。
「ん? ああ……まあ、今日は金曜の夜だしな。同接も順調に伸びてる。少し酔いが回るくらいの方が、リスナーも喜ぶだろ」
「チーフは甘すぎます。アキちゃんの『麦ジュース』のアルコール度数、知ってますか? あれ、度数9%のストロング系チューハイですよ。しかも、さっきから水みたいに飲んでます」
Aちゃんの警告に、春樹は「まさか」と苦笑した。
「いくらなんでも、あの清楚で上品なエルフが、そんなアル中みたいな飲み方……」
春樹が言いかけた、その時だった。
『プハァーーーーッ!!! ックゥゥゥゥ!! 効くねぇぇぇ!!』
スピーカーから、先ほどまでの「とろけるような聖母の声」とは似ても似つかない、新橋のガード下のサラリーマンのような野太い声が轟いた。
「……は?」
春樹の思考が停止した。
『さあさあロゼ隊(リスナー)の野郎どもォ! 夜はこれからだぞォ!! 飲んでるかァ!? アキちゃんはもう出来上がってきたぞォォォ!!』
画面の中のアキロゼが、ジョッキをドンッ!とバーチャル空間の机に叩きつける。
その顔には、完全に理性をアルコールに溶かした、ヤバい笑顔が浮かんでいた。
### Scene 2:ムキロゼ覚醒(リミットブレイク)と悲鳴を上げる物理演算
「……おい、なんだこのテンションの跳ね上がり方は。情緒どうなってんだ」
「言ったじゃないですか。アキちゃんは、お酒が入ると『リミッター』が外れるんです」
Aちゃんが頭を抱える中、スタジオの狂乱はさらに加速していった。
『よーし! お酒も入ってテンション上がってきたし、アキちゃん踊っちゃうぞー! それっ! ハッ! セイヤッ!!』
アキロゼが、突如としてマイクのスイートスポット(最適集音範囲)から猛ダッシュで離れ、スタジオのど真ん中で激しいベリーダンス――いや、もはやただの格闘技のようなハイキックと謎のステップを踏み始めた。
「バカッ、お前、トラッキングカメラの画角(キャプチャボリューム)から外れるぞ!」
春樹が慌ててコンソールのフェーダーをいじり、カメラの追従(オートエイム)のスクリプトを強制的に起動させる。
だが、酔っ払ったハーフエルフの動きは、春樹の組んだ予測アルゴリズムを遥かに凌駕していた。
『どりゃあああああ!!! 見よ、このアキちゃんの美しいブリッジを!!』
アキロゼが、現実のスタジオの床に仰向けに倒れ込み、ものすごい勢いでブリッジの体勢をとった。
その瞬間。
『Warning: Tracker Loss (Right Knee, Left Elbow)』
『Warning: Quaternion Gimbal Lock Detected』
メインモニターに、無数の赤いエラーログが滝のように流れ始めた。
「右膝と左肘の光学マーカーがロストした!? しかも、無理な体勢でジョイントの回転角が限界(ジンバルロック)を迎えてる!」
画面の中のアキロゼの3Dモデルは、ブリッジの体勢のまま、物理演算が完全に破綻していた。
ツインテールは床を貫通して地球の裏側へ伸びようとし、スカートのボーンは暴れて竜巻のように回転し、手足の関節があり得ない方向に曲がっている。
にもかかわらず、本人は至ってご機嫌だった。
『あはははは! なにこれ、アキちゃんの体がねじ切れてるー! おもしろーい!!』
「笑い事じゃない!!」
春樹は血走った目でキーボードを叩く。
「IK(インバース・キネマティクス)の自動補完を切れ! 姿勢制御をマニュアルに切り替えて、強制的にデフォルトのポーズ(Tポーズ)に引き戻せ!」
春樹の神業的なタイピングにより、画面の中のアキロゼは一瞬だけ綺麗な立ち姿に戻った。
……しかし、現実のスタジオにいるアキロゼ本人は、まだ床でブリッジをしたままだ。
『えー? アキちゃん、まだ踊りたいのにー! チーフのケチ! なら、これでどうだっ!』
現実のスタジオで、アキロゼが床をゴロゴロと転がり始めた。
マーカーが床と擦れ、次々とトラッキングの認識が飛んでいく。
「おい、やめろ! センサーがズレる! スーツのキャリブレーションが完全に狂うぞ!!」
春樹の怒号も虚しく、画面の中のアキロゼは、もはやスライムのような不定形のポリゴンの塊と化しつつあった。
YouTubeのコメント欄は、
*『アキちゃんがバケモノになったwww』*
*『またムキロゼ(酔っ払い)が暴れてるぞ!!』*
*『チーフの悲鳴が聞こえるwww』*
*『放送事故どころじゃねえ、次元の崩壊だ』*
と、異常な盛り上がりを見せていた。
春樹はキーボードから手を離し、ギリッと奥歯を噛み締めた。
「……ダメだ。リモート操作じゃ限界がある。マーカーが物理的に外れかかってる」
春樹は、自身の首にかかっていたネクタイを乱暴に引き剥がし、デスクに叩きつけた。
「A。コンソールの制御を代われ。オーディオのレベルだけ見といてくれ」
「チーフ?」
春樹は分厚い防音扉に向かって大股で歩き出した。
「……俺が、直接回収しに行く」
### Scene 3:ステージに降りる裏方(ビッグダディ)
カバー株式会社の伝説として語り継がれる『チーフ・■■春樹』。
彼はどんな機材トラブルも、裏方のコントロールルームから数回のタイピングで解決してしまう「見えざる神」だ。
タレントの配信画面に、彼自身が物理的に介入(乱入)することは、ホロライブの歴史上でも片手で数えるほどしかない。
その「数少ない例外」の筆頭が、完全に出来上がった(泥酔した)アキ・ローゼンタールだった。
『ガラッ!!』
スタジオCの分厚い扉が開く。
「ういーっす! みんなー、まだまだ飲むよー……ひゃんっ!?」
床でゴロゴロと転がっていたアキロゼの首根っこを、無言で現れた春樹がヒョイッと持ち上げた。
「あ、痛っ! なになに!? あ、チーフだ! えへへ、チーフも一緒に飲むー?」
「飲まない。お前は飲みすぎだ、アホエルフ」
春樹は、スタジオの隅にあった黒い毛布をひったくると、それをアキロゼの頭からガバッと被せた。
配信画面上では、突然画面の端から現れた「謎の黒い影(システム上は認識されない物体)」が、アキロゼを捕獲したように見えている。
春樹のマイクは切ってあるが、アキロゼの高性能なASMR用マイクが、春樹の低い地声を拾ってしまっていた。
『(……いい加減にしろ。右肘のマーカーが外れてるぞ。動くな)』
『(えー? チーフ、怒ってるのー? 怖いよぉ……えへへ、チーフいい匂いするー)』
『(匂いを嗅ぐな! 息が酒臭いんだよお前は!)』
コメント欄が、この予期せぬ「裏方とのガチ絡み」に爆発した。
*『チーフ降臨キタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!』*
*『チーフの声入ってるww ガチギレじゃんww』*
*『アキちゃん、チーフに回収されました』*
*『てぇてぇ……ビッグダディとお騒がせ娘てぇてぇ……』*
*『チーフたすかる』*
春樹は、毛布の中でモゾモゾと動くアキロゼを片腕でしっかりとホールドしながら、もう片方の手で彼女のトラッキングスーツから外れかけていた反射マーカーを、ミリ単位の精度で元の位置へと貼り直していく。
「……よし、これで認識するはずだ。A、キャリブレーションやり直せ!」
防音ガラスの向こう側で、Aちゃんが「OK」のサインを出す。
画面の中のアキロゼの3Dモデルが、ようやく正常な人間の形を取り戻した。
「ほら、直ったぞ。……リスナーに締めの挨拶をして、今日はもう終われ。これ以上やるとお前の肝臓がもたない」
春樹が手を離そうとすると、アキロゼがガシッ!と春樹の腕にしがみついてきた。
「やだ! まだ終わんない! チーフも一緒に画面出てよぉ!」
「俺が出てどうするんだ。裏方のオッサンが画面に映っても放送事故にしかならないだろ」
「オッサンじゃないもん! アキちゃんの自慢のプロデューサーだもん! ほら、リスナーのみんなに挨拶して!」
酔っ払いのエルフの力(俗に言うムキロゼの怪力)は凄まじく、春樹は腕を引き抜くことができなかった。
仕方なく、春樹はマイクの届く範囲で、深々とため息をついた。
「……お見苦しいところをお見せしました。本日のアキ・ローゼンタールの配信は、アルコールによるシステム(と本人)の限界を迎えたため、これにて強制終了とさせていただきます。……お前ら、こいつにこれ以上スパチャで酒代を投げるなよ」
春樹の呆れ切った声がマイクに乗ると、リスナーからは大量の『草』と『了解!』の弾幕が流れ、配信は鮮やかに幕を閉じた。
### Scene 4:聖母の素顔と、甘えん坊の涙
「……配信、切れたぞ」
スタジオの赤いON AIRランプが消灯したのを確認し、春樹はアキロゼから腕を引き抜こうとした。
しかし、彼女は春樹の腕にしがみついたまま、ペタンと床に座り込んでしまった。
「おい、アキ。風邪ひくぞ。とりあえずスーツ脱いで仮眠室に行け」
「……」
返事がない。
春樹が不思議に思って彼女の顔を覗き込むと、先ほどまでの狂騒が嘘のように、アキロゼはポロポロと静かに涙を流していた。
「……おいおい、どうした。俺がキツく言い過ぎたか?」
春樹が焦ってしゃがみ込むと、アキロゼは首を横に振った。
「……ううん。チーフは、悪くないよ。……ただ、ちょっと、安心しちゃって」
お酒が入り、感情のタガが外れた状態。
普段は誰よりも大人びていて、ホロライブの「お姉さん」「聖母」として後輩たちを優しく包み込んでいる彼女の、誰にも見せない『本当の素顔』だった。
「私ね、1期生だから。……そらちゃんやすいちゃんみたいに、圧倒的なカリスマがあるわけじゃない。フブキちゃんやまつりちゃんみたいに、みんなを引っ張っていく元気もない。……だから、せめて、みんなの『休まる場所(お母さん)』でいなきゃって、ずっと思ってたの」
アキロゼの言葉は、少し呂律が回っていなかったが、その奥にある感情は痛いほどに切実だった。
「でも、本当はね……私だって、誰かに甘えたいんだよ。たまには、何も考えずに、子供みたいに暴れ回って、めちゃくちゃに泣いて、わがまま言いたい時だって、あるんだよ……っ」
ホロライブという巨大な箱庭の中で、彼女は『母性』という仮面を被ることで、自分の居場所を守り続けてきた。
しかし、彼女だって、まだ若い一人の少女なのだ。
プレッシャーや不安、後輩たちの成長に対する焦り。それをアルコールで流し込み、時折「ムキロゼ」として暴走することで、ギリギリの精神的バランスを保っていた。
「……バカだな、お前は」
春樹は、静かに、そしてひどく優しい手つきで、涙で濡れたアキロゼの金色の髪を撫でた。
アキロゼがハッとして顔を上げる。
「みんなのお母さんになるのは勝手だが、この会社(カバー)の『親父(ビッグダディ)』は俺だぞ」
春樹は、不敵に、けれど絶対的な包容力を持って笑った。
「お前がどれだけ酔っ払ってシステムを壊そうが、どれだけ無茶苦茶な動きをしてトラッキングを破綻させようが。……俺が何度でも、こうやってスタジオに降りてきて、お前を捕まえて、元に戻してやる」
春樹の親指が、アキロゼの目元の涙をそっと拭う。
「だから、このスタジオの中くらい、聖母の仮面なんて捨てていい。お前は俺から見れば、手のかかる問題児の『娘』の一人でしかないんだからな。……好きなだけ暴れろ、アキ」
その瞬間。
アキロゼの中で張り詰めていた、最後の糸がプツリと切れた。
「チーーフぅぅ……っ! うわぁぁぁぁん!!」
アキロゼは春樹の胸に顔を押し当て、子供のように声を上げて泣きじゃくった。
エルフの気高さも、大人の色気も、そこにはない。ただ、絶対的な安心感を与えてくれる不器用な「父親」の腕の中で、自分の弱さを全部吐き出しているだけの、ただの女の子だった。
春樹は、酒臭い息を吐きながら泣きつくエルフの背中を、一定のリズムでトントンと優しく叩き続けた。
彼女が泣き疲れ、スースーと静かな寝息を立て始めるまで、その手は決して止まることはなかった。
### Scene 5:おやすみ、手のかかるエルフ
「……チーフ、お疲れ様です」
防音扉が開き、Aちゃんがバスタオルとミネラルウォーターを持って入ってきた。
春樹の腕の中では、トラッキングスーツを着たアキロゼが、完全に夢の世界へと旅立っている。その顔は、とても穏やかで、幸せそうだった。
「ああ。……すまん、こいつを仮眠室のソファまで運ぶ。ちょっと手伝ってくれ」
「はい。……ふふっ、本当にチーフは、タレントに激甘ですね。さっきまであんなに怒ってたのに」
「うるさい。こいつが重いだけだ」
春樹は照れ隠しに悪態をつきながら、アキロゼを抱き上げ、スタジオを後にした。
翌朝。
仮眠室のソファで目を覚ましたアキロゼは、二日酔いの頭痛に呻きながら、自分に丁寧に着せられた毛布と、枕元に置かれたスポーツドリンク、そして一枚の付箋を見つけた。
『トラッキングスーツのマーカーを3個破壊した罰として、次のライブの演出は激重にしてやるから覚悟しておけ。――チーフ』
乱暴な文字で書かれたその付箋を読んで、アキロゼは「ふふっ」と優しく微笑んだ。
それは、偽りの母性ではなく、心から安心しきった、最高に可愛いアイドルの笑顔だった。
「……ありがとう、私のビッグダディ。次も、いーっぱい迷惑かけちゃうからね」
カバー株式会社の裏側で。
天才エンジニアは今日も、手のかかる星たちをその無骨な手で受け止め、彼女たちが再び空高く輝けるように、システムの奥深くから見守り続けている。