**【第24話】 悪戯猫の甘い罠と、絶対零度のデジタル首輪**
### Scene 1:午後11時45分・限界突破のバイノーラル(発情猫のテリトリー)
カバー株式会社、地下第4フロア・ASMR専用スタジオ。
完全な静寂が約束されたその部屋で、ホロライブ・ゲーマーズの**猫又おかゆ**は、ダミーヘッドマイク(KU100)の右耳に極限まで唇を近づけ、甘く、ねっとりとした吐息を吹き込んでいた。
『んー……どうしたの? そんなにゾクゾクしちゃって。……もしかして、僕のこと、もっと意識しちゃった……?』
スピーカー越しに聴いているだけで、脳髄が直接溶かされそうになるほどの破壊力。
普段のマイペースで気怠げな「おにぎりゃー(リスナー)の飼い猫」の姿はない。最近の彼女は、深夜の配信になると突如としてリミッターを外し、獲物をからめ捕るような艶やかな声でリスナーを翻弄する――通称**『発情猫』**モードへと移行することが増えていた。
『ふふっ……可愛いね。じゃあ、今日は特別に、もっといーっぱい、甘やかしてあげる……ちゅっ♡』
リップノイズと、鼓膜を直接撫でるような低音のウィスパーボイス。
YouTubeのコメント欄は「昇天した」「おかゆんヤバい」「助けて」といった悲鳴で埋め尽くされ、赤スパ(スーパーチャット)が乱れ飛んでいる。
しかし。
その甘すぎる毒牙が、全く、1ミリも、ミクロン単位でも通用しない男が一人、防音ガラスの向こう側に座っていた。
「……第1バンドのダイナミックEQ、スレッショルド(閾値)を-24dBまで下げろ。あいつ、またマイクに近づきすぎだ。近接効果で200Hz以下の低音が膨張して、音声波形が完全に歪(クリップ)しかかってる」
チーフ・■■春樹は、シベリアの永久凍土よりも冷たい目でメインモニターのスペクトラムアナライザーを睨みつけていた。
「チーフ、ダメです! おかゆさんの吐息の成分(ブレスノイズ)が強すぎて、ディエッサー(歯擦音除去)の処理が追いつきません! プラットフォームのAIが『センシティブな音声』として誤検知する寸前です!」
隣の若手エンジニアが、半泣きでフェーダーを握りしめている。
「慌てるな。俺が組んだカスタムのノイズゲートをマスター段にインサートしろ。あいつの『ちゅっ』っていう破裂音のピークだけを、コンマ0.1ミリ秒の速さで叩き潰す。……まったく、最近のあのバカ猫は、どこまでマイクに近づけば気が済むんだ」
春樹のキーボードを叩く乾いた音が、コントロールルームに響く。
リスナーが悶絶している極上のASMR配信の裏側は、センシティブ判定(AIの誤BAN)と機材の物理的限界から配信を守る、音響エンジニアたちの過酷な防衛戦の最前線だった。
### Scene 2:午前0時30分・忍び寄る猫の足音
『……それじゃあ、今日はこの辺で。みんな、おやすみ。……夢の中でも、僕のこと考えてね?』
配信終了の合図と共に、ON AIRの赤いランプが消灯した。
「……終わった。トラフィック正常。誤BAN回避成功だ」
春樹が深く息を吐き出し、コーヒーに手を伸ばした瞬間。
『ガチャッ』
コントロールルームの防音扉が、音もなく静かに開いた。
足音は全く聞こえない。しかし、気配だけがスッと背後に忍び寄ってくる。
「……チーフ、お疲れ様。まだ起きてたんだね」
耳元で、先ほどの配信と全く同じ、甘く、気怠げな声が囁かれた。
春樹が振り返ると、そこには私服のパーカーを着た猫又おかゆが立っていた。
紫色の猫耳をピクッと動かし、口元には悪戯っぽい、獲物を狙うような笑みが浮かんでいる。
「おかゆか。お前の配信のオーディオ監視をしてたんだ、起きてるに決まってるだろ」
春樹は淡々と返し、モニターに向き直ろうとした。
しかし、おかゆはそれを許さなかった。
彼女は春樹のデスクと椅子の隙間にするりと入り込むと、そのまま春樹のデスクの縁に腰掛け、長い尻尾をゆらゆらと揺らした。
春樹の顔と、おかゆの顔の距離が、数十センチまで近づく。
「んー? チーフ、なんか目が怖いよ。僕の配信、ちゃんと最後まで聴いててくれた?」
おかゆは上目遣いで春樹を見つめ、少しだけ身を乗り出した。
「聴いていたというより、監視していたと言うのが正しい。お前、最近マイキング(マイクとの距離)が近すぎるぞ。バイノーラルマイクのダイヤフラムに息を直接吹きかけたら、湿気でコンデンサが傷む。次回からポップガードを2枚重ねにするからな」
「えー? そんなのつけたら、僕の吐息がみんなに届かなくなっちゃうじゃん」
おかゆはわざとらしく唇を尖らせ、さらに春樹に顔を近づけた。
「ねえ、チーフ。僕の声……ドキドキしなかった?」
「しない」
「即答だねぇ。チーフってば、ほんとに冷たいんだから」
おかゆはフフッと笑うと、今度は春樹のワイシャツの襟元に、すっと白い指先を這わせた。
マリンやちょこがやるような「大人の色気」とは違う。どこか少年のような無邪気さと、猫特有の気まぐれな距離感が混ざり合った、極めて危険な誘惑。
若手エンジニアなら一撃で顔を真っ赤にしてフリーズするであろうその仕草。
しかし、春樹の表情は、ピクリとも動かなかった。
「……おかゆ」
「なぁに? チーフも、僕に甘やかされたくなっちゃった?」
「お前の今の発声法だが」
春樹は、おかゆの指を無言で払い除け、デスクトップのモニターを指差した。
「喉の奥を開いて、無理にファルセット(裏声)成分を多く含ませようとしている。そのせいで声帯に余計なテンションがかかって、倍音の構成が不自然に歪んでいる。リスナーは『エッチだ』と喜んでいるかもしれないが、音響工学的に見れば、ただの『発声不良(ノイズ)』だ」
「……」
おかゆの猫耳が、ピタッと動きを止めた。
「それに、お前の最大の魅力である『中低音の心地よい響き(チェストボイス)』が、最近のその無理なウィスパーボイスのせいで殺されている。お前が最近やっている『発情猫』みたいな配信スタイルは、お前のポテンシャルを潰す愚行だ。……俺はエンジニアとして、非常に不愉快だ」
理詰め。完全なるデータと音響理論に基づく、色気ゼロのマジレス。
おかゆは数秒間、ぽかーんと春樹の顔を見つめていたが。
やがて、「あーあ」と肩をすくめ、デスクの上でパタパタと尻尾を振った。
「……チーフには、ほんっと敵わないなぁ」
### Scene 3:デジタル首輪と、見透かされた防衛線
おかゆは誘惑するような態度を完全に引っ込め、いつものマイペースで気怠げな「猫又おかゆ」の顔に戻った。
「チーフってさ、僕がどんなにからかっても、絶対『男の人』の顔にならないよね。いっつも『音響のオタク』か『口うるさいお父さん』の顔しかしない」
「当たり前だ。タレントに欲情するような三流エンジニアは、カバーの地下にはいらない」
春樹はコーヒーを一口飲み、キーボードを引き寄せた。
「だいたい、お前が最近変なテンションで配信してる理由は分かってる。……後輩たちへの対抗心だろ」
「……え?」
おかゆの尻尾が、ピクンと跳ねた。
「最近、ホロライブ内でASMRやセンシティブな配信スタイルが流行ってるからな。お前はゲーマーズとして『ゲーム実況』がメインだが、新しいリスナーを獲得するために、自分もああいう『過激な路線』をやらなきゃいけないって、勝手に焦ってるだけだ」
春樹の目は、モニターの奥のコードではなく、おかゆの心の奥底を正確にスキャンしていた。
「……バレてたかぁ」
おかゆは苦笑いし、自分の膝を抱えた。
「だってさ。マリンちゃんとかちょこ先生とか、みんなすごいじゃん。僕なんて、ただのんびりゲームしてるだけだし。……たまには、僕もみんなを『ドキッ』とさせられるんだぞーって、背伸びしてみたくなったんだよね」
飄々としていて、何を考えているのかわからない猫。
しかし彼女もまた、ホロライブという巨大な才能の集団の中で、自分の立ち位置に悩み、新しい武器を探して足掻いている一人の少女なのだ。
「背伸びするのは勝手だが、機材(マイク)とプラットフォーム(AI)の限界を超えてまでやることじゃない。……というわけで、俺はお前に**『首輪』**をつけることにした」
「……首輪?」
春樹がエンターキーを叩くと、モニターに一つのプラグイン(ソフトウェア)の画面が立ち上がった。
「俺が組んだ、猫又おかゆ専用のオーディオ・プロセッサーだ」
春樹は、その画面のパラメータを指差した。
「お前が今後、マイクに近づきすぎて過剰な吐息(エロティックなノイズ)を出した場合。このシステムが自動的にお前の声のピッチ(音程)を解析し、特定の周波数帯だけを『強制的にカット』する。代わりに、お前の本来の魅力である『中低音の温かい響き』を自動でブーストさせる仕様だ」
「えっ……それって」
「ああ。お前がどれだけ『発情猫』になってリスナーを誘惑しようとしても、配信に乗る音は、俺のシステムによって『いつもの安心する気怠げなおかゆの声』に自動補正される」
春樹はニヤリと、技術者特有の極めて意地悪な笑みを浮かべた。
「これが、俺がお前の首につける『デジタル首輪』だ。……これで、お前がどんなに暴走しても、AIの誤BANも防げるし、お前の喉も守れる。文句ないな?」
おかゆは、モニターの画面と、春樹のドヤ顔を交互に見比べた。
そして。
「あははははっ! なにそれぇ! チーフ、ヤバすぎでしょ!!」
おかゆはデスクの上でお腹を抱え、涙が出るほど笑い転げた。
「まさか、システムで僕の『エッチな声』を強制排除するプラグインを作っちゃうなんて! あーお腹痛い……っ! チーフ、ほんとに頭おかしい(褒め言葉)よ!」
「うるさい。お前が変な声の出し方をするから、俺が徹夜でこのアルゴリズムを組む羽目になったんだ」
「あはは……っ、はぁ。……そっか。僕は『いつもの声』でいいんだね」
笑い疲れたおかゆは、目尻の涙を指で拭いながら、とても穏やかな、安心しきった顔で春樹を見た。
「チーフがそういうなら、仕方ないなぁ。……大人しく、首輪、つけられてあげる」
### Scene 4:特等席の奪い合いと、変わらない居場所
「で、いつまでそこに座ってるつもりだ。俺はまだ仕事が残ってる」
春樹が促すと、おかゆは「んー」と伸びをして、デスクから降りた。
しかし、彼女が向かったのは部屋の出口ではなく、春樹のデスクの一番下にある、大きな引き出しだった。
『ガラッ』
「あっ、やっぱりあった! チーフの隠しおやつ!」
「おいコラ! 勝手に開けるな!」
おかゆは引き出しの中から、高級なポテトチップスと、チョコレートの箱を戦利品のように掲げた。
「えへへー、いただきまーす。さっきのASMRで疲れちゃったから、糖分補給しないとね」
「それは俺が徹夜の限界を迎えた時用の非常食だぞ……!」
「いいじゃーん、僕たち『家族』でしょ?」
おかゆは春樹の抗議を完全に無視し、部屋の隅にある仮眠用のソファにドカッと座り込んだ。
そして、ポテトチップスの袋を開け、サクサクとマイペースに食べ始める。
「……お前、本当に自由だな」
「んー? だって、ここは僕の『特等席』だもん」
おかゆは、ポテトチップスを咥えながら、春樹を見つめた。
「ねえ、チーフ」
「なんだ」
「僕が、なんでたまにチーフにちょっかい(誘惑)出すか、わかる?」
春樹が怪訝な顔をすると、おかゆはクスクスと笑った。
「チーフはさ、僕がどんなにからかっても、絶対になびかないでしょ。……それって、すごく安心するんだよね」
ホロライブという世界で、彼女たちは常に数百万の視線に晒されている。
ファンからの熱狂的な愛。アンチからの心無い言葉。そのすべてを受け止めながら、「猫又おかゆ」というキャラクターを演じ続けている。
「チーフだけは、僕が『猫又おかゆ』でも、『ただの女の子』でも、いっつも同じように扱ってくれる。ダメな時はダメって怒るし、機械みたいに理詰めで返してくるし」
おかゆは、ソファでゴロンと横になった。
「だから、チーフの前だと、背伸びもしなくていいし、気も張らなくていい。……チーフのここは、僕にとって一番安心できる『隠れ家』なんだよね」
気まぐれで、誰の言うことも聞かない猫。
しかし、そんな猫にも、首輪をつけてくれる飼い主(保護者)と、絶対に安全な縄張りが必要だったのだ。
「……勝手に隠れ家にするな。俺の非常食が尽きるだろ」
「あはは、次来る時は、僕がおにぎり作ってきてあげるよ。……ツナマヨでいい?」
「……梅にしろ」
「はーい。……ふぁぁ……なんか、お腹いっぱいになったら眠くなってきた……」
おかゆは目をこすり、ソファの上で丸く丸まっていった。
数分後には、静かな、かすかな寝息(ゴロゴロという猫のような音)がコントロールルームに響き始めた。
### Scene 5:おやすみ、悪戯猫
「……本当に、マイペースなやつだ」
春樹は深くため息をつき、椅子から立ち上がった。
ロッカーから毛布を取り出し、ソファで眠るおかゆの体にそっと掛けてやる。
「んみゅ……チーフ……首輪……キツくしないでね……」
寝言でそんなことを呟くおかゆの頭を、春樹は無骨な手で軽くポンと撫でた。
「安心しろ。お前が息苦しくないように、完璧なパラメータで守ってやる」
春樹は再びデスクに戻り、メインモニターの『猫又おかゆ専用プラグイン』の画面を開いた。
彼女の中低音の温かい声が、世界中のリスナーに最高の形で届くように。そして、彼女が無理をして自分をすり減らすことがないように。
「さて……EQのQ値(帯域幅)を少しだけ広げておくか。あいつの笑い声は、そのまま通した方がリスナーも喜ぶだろうからな」
カタカタカタ……と、夜のコントロールルームにキーボードの音が響き続ける。
自由奔放に生きる猫と、その猫がいつでも安心して帰ってこられるように、絶対零度のシステムで防壁を構築する天才エンジニア。
防音扉の向こう側で、二人の不器用で温かい共犯関係は、誰にも知られることなく、今日も密やかに更新されていくのだった。