**【第30話】 侵星不可侵の領域(サンクチュアリ)と、冷や汗のサキュバス**
### Scene 1:午後1時00分・ホロメンたちの女子会(チーフ攻略会議)
カバー株式会社、都内某所の大型3Dスタジオ・タレント控室。
その日は、年末の全体ライブに向けた大規模な合同リハーサルが行われており、控室には出番を待つホロメンたちが集まり、ケータリングの弁当をつつきながらワイワイと賑やかな女子会を繰り広げていた。
話題の中心は、いつものように『あの男』についてだった。
「……でさー! 昨日もチーフったら、スバルの声がデカすぎるからって、また徹夜でマイクの基板いじってたんスよ! ほんと、あの人いつ寝てるんスかね!?」
大空スバルが、唐揚げを頬張りながら呆れたように言う。
「チーフはカバーの地下に棲む妖怪だから寝ないにぇ。みこが深夜にPCぶっ壊した時も、3分で飛んできて直してくれたにぇ! さすがエリートの保護者だにぇ!」
さくらみこが胸を張ってドヤ顔を決める。
「いや、みこちは壊すなよ……。でもさ、チーフってほんと私たちのこと『手のかかる娘』か『バグの塊』くらいにしか思ってないわよね」
宝鐘マリンが、パイプ椅子に深く腰掛けながら、不満そうに唇を尖らせた。
「船長なんて、こないだ『腰揉んで〜♡』って色仕掛けで迫ったのに、心拍数一切変えずに『静電気がサーバーに悪影響だから離れろ』ってマジレスされたんだからね!? ロマンの欠片もないワ!!」
「あははは! 船長ドンマイ! まつりも『タコ焼きをエビフライにする魔法作って!』って言ったら、『メモリの無駄だ』って一蹴されたし!」
夏色まつりがケラケラと笑う。
ホロライブのタレントたちにとって、チーフ・■■春樹という存在は絶対的な「防波堤」であり、同時に「何をしても決して靡(なび)かない、鉄壁の男」として認識されていた。
アイドルたちのどんな甘い誘惑も、過剰なスキンシップも、彼はすべて「物理演算」や「システム負荷」といった無機質な言葉で弾き返してしまう。
「でもさー」
まつりが、ふと悪戯っぽい笑みを浮かべて身を乗り出した。
「チーフだって男なんだから、絶対どこかに『弱点』があるはずだよね? みんなで一斉にデレデレに甘やかしたら、さすがのチーフも顔真っ赤にして照れるんじゃない?」
「おおっ! それ名案ッスね! チーフを照れさせる選手権!」
「船長も乗ったワ! 17歳のフェロモンで、あの氷の技術者をドロドロに溶かしてやるんだから!」
盛り上がるスバル、まつり、マリン、みこたち。
しかし。
その控室の片隅で、一人だけ、全く会話に参加せず、**滝のような冷や汗を流しながらタピオカミルクティーを震える手で啜っている女**がいた。
ホロライブ2期生、保健室の悪魔――**癒月ちょこ**である。
(や、やめなさいアンタたち……っ! 春樹にぃ……じゃなかった、チーフに色仕掛けなんて、絶対に通じないんだから……っ!!)
ちょこは、内心で絶叫していた。
彼女だけが知っている絶対的な真実。癒月ちょことチーフ・春樹は**『遠い親戚』**であり、ちょこが泥んこになって走り回っていた幼少期から、春樹は彼女のおむつを替え、鼻水を拭いてきた**『ガチの保護者(兄貴)』**なのだ。
(もしここで、みんなが春樹にぃに無茶絡みして……春樹にぃが『おいちょこ、お前の親戚のオバサンからまた見合いの写真が届いてたぞ』とか言い出したら……! ちょこの『魅惑のサキュバス』っていうブランドが崩壊しちゃうじゃないのぉぉぉっ!!)
「あ、ちょこ先生はどう思う!?」
スバルが、いきなり話を振ってきた。
「へっ!? ぁ、え、ええと……」
ちょこはビクッと肩を跳ねさせ、必死に「大人のサキュバス」の余裕を取り繕った。
「そ、そうねぇ〜。チーフは本当に仕事熱心だから、私たちがあんまりちょっかい出したら、迷惑になっちゃうかもしれないわよぉ〜? だから、今日のところは大人しく……」
「えー? ちょこ先生らしくないワ! いつもASMRでリスナーを骨抜きにしてるちょこ先生のテクニックなら、チーフの心電図だってブレブレにできるはずよ!」
マリンが煽ってくる。
(無理よ!! あの男、ちょこのASMR波形を見て『低音が膨張してるから3センチ離れろ』ってマジレスしてくるマシーンなのよ!!)
ちょこが反論しようとした、その時だった。
『ガチャッ』
控室の分厚い扉が、ゆっくりと開いた。
### Scene 2:始まりの三人(ホーリー・トリニティ)
「……お前ら、出番30分前だぞ。機材のバッテリーチェックは終わってるのか」
低く、冷静な声と共に現れたのは、噂の標的であるチーフ・■■春樹だった。
いつも通り、少し疲れたような顔で、首には緩んだネクタイ、手には分厚いバインダーを持っている。
「あ、チーフ!」
「噂をすればなんとやらッスね!」
マリンたちがニヤニヤと笑いながら立ち上がり、春樹を囲んで「照れさせる作戦」を実行しようと身構えた。
しかし、彼女たちの足は、春樹の背後から現れた**「二人の人物」**を見て、ピタリと止まった。
「もー、春樹くん。そんなに怖い顔したら、みんな緊張しちゃうでしょ?」
ふわりと、控室の空気が春の陽だまりのように暖かくなる。
春樹の左側から顔を出したのは、ホロライブの象徴にして0期生、絶対的アイドル――**ときのそら**だった。
「春樹は徹夜明けで機嫌が悪いだけです。……ほら、ネクタイ曲がってますよ、春樹」
そして右側から、バインダーを抱えた裏方のトップ、**友人A(えーちゃん)**がため息をつきながら現れた。
Aちゃんは極めて自然な動作で春樹の正面に立ち、彼の緩んだネクタイをキュッと締め直した。
「……苦しい。首が絞まってるぞ、A」
「文句を言わない。これからスポンサーの偉い人たちへの挨拶があるんですから、少しはシャキッとしてください」
「はいはい」
春樹は気怠そうに文句を言いながらも、Aちゃんのされるがままになっている。
そこへ、そらがスッと、春樹の手に『微糖の缶コーヒー』を握らせた。
「はい、これ。いつものブラックだと胃が荒れちゃうから、今日は微糖にしておいたよ。……昨日も一睡もしてないんでしょ? 私たちのライブのために、いつもごめんね」
そらが、聖母のような、けれどどこか「長年連れ添った妻」のような、優しくて距離感のバグった微笑みを向ける。
「……別に。俺の趣味みたいなもんだ。そら、お前のマイク、高音域のEQ(イコライザ)を少し削っておいた。リハの時に少し力みすぎてたからな」
「あ、やっぱりバレてた? ふふっ、春樹くんには何でもお見通しだね」
そらが嬉しそうにくすくすと笑い、春樹も「お前が昔から緊張すると右手に力が入る癖があるのは知ってるからな」と、フッと口元を緩めた。
その光景を見ていた、マリン、スバル、みこ、まつりの4人は。
完全に、石像のように固まっていた。
### Scene 3:絶対不可侵の『幼馴染』というATフィールド
(……な、なにこの空気……っ!?)
マリンは、驚愕のあまり開いた口が塞がらなかった。
ホロライブには**『始まりの三人』**と呼ばれる伝説の初期メンバーがいることは、全員が知っている。
YAGOOと共に、まだ何もない小さなマンションの一室からホロライブを創り上げた、ときのそら、友人A、そしてチーフの三人。
彼らが**『幼馴染』**であるという知識はあった。
しかし、実際に目の前で見せつけられるその「空気感」は、彼女たちの想像を絶するものだった。
マリンたちがどれだけ色気で迫っても、みこがどれだけ甘えても、スバルがどれだけツッコんでも。チーフは常に「保護者」であり「絶対零度の壁」として君臨していた。
だが、そらとAちゃんの間にいる春樹は、壁など一切存在しない、ただの**「素の青年」**の顔をしていたのだ。
「A、第3スタジオのタイムコードの同期、5フレームずれてたぞ。あとで再設定しておく」
「助かります。……あ、そういえば春樹。今日の帰り、スーパー寄れますか? 洗剤が切れそうなんです」
「お前なぁ、俺をパシリにするなよ。……まあいい、銘柄はいつものやつでいいんだな?」
「はい。そらも何か買ってくるものあります?」
「うーん、じゃあアイス! 3人で食べられるやつ!」
「……お前ら、俺の財布をアテにしてないか?」
会話の内容が、完全に**『長年同棲している家族』**のそれである。
特別なスキンシップがあるわけではない。甘い言葉を囁き合っているわけでもない。
ただ、息をするように自然に、お互いのパーソナルスペースに侵入し、お互いの思考を先読みして動いている。
「……勝てないにぇ」
みこが、ぽつりと呟いた。
「うん……なんか、次元が違いすぎるッスね……」
スバルが、冷や汗を流しながら同意する。
「色気とか、そういう問題じゃないワ……。あそこに私たちが入る隙間なんて、1ミクロンも存在しないじゃないの……!」
マリンは、自分たちの「チーフを照れさせる作戦」がいかに浅はかで、滑稽なものであったかを悟り、完全敗北を認めて崩れ落ちそうになっていた。
圧倒的な歴史。積み上げてきた時間。
誰も踏み込めない、絶対不可侵の領域(サンクチュアリ)。
それが、ホロライブの原点である『幼馴染』という絆の暴力だった。
### Scene 4:冷や汗のサキュバスと、暗号のメッセージ
そんな絶望するメンバーたちの後ろで、ちょこは別の意味で絶望し、震え上がっていた。
(ヤバいヤバいヤバいヤバい……!! 春樹にぃ、完全に『身内モード』に入ってるじゃない!!)
ちょこの額から、滝のような汗が流れる。
このリラックスした状態の春樹が、もし自分を見つけたら。
『お、ちょこ。お前、こないだ実家から送られてきたミカン、ちゃんと食べたか?』なんて、親戚のお兄ちゃん全開のトーンで話しかけられたら。
(終わる……! ちょこのセクシーサキュバスのキャラが、ただの『親戚の妹(ちょこちゃん)』に上書きされてしまう……っ!! 気配を消すのよ、癒月ちょこ! 私は壁、私はただの壁……!!)
ちょこは、パイプ椅子の後ろに身を隠し、タピオカミルクティーのカップで顔を半分隠しながら、必死に息を殺した。
しかし。
カバー株式会社の全システムと、全タレントの生体データを監視する天才エンジニアの『目』を誤魔化せるはずがなかった。
春樹の視線が、スッ……と、ちょこの方へ向いた。
(ヒッ……!!)
ちょこの心臓が、キュッと縮み上がる。
春樹と、バッチリ目が合ってしまった。
春樹の目が、わずかに見開かれる。
そして、彼が口を開きかけた瞬間――ちょこは、誰にも見えない角度で、必死に首を横に振り、両手を合わせて『お願いだから言わないで!』というジェスチャーを送った。
春樹は、そのちょこの必死すぎる形相(と、大量の冷や汗)を見て、全てを察した。
(……なるほど。こいつ、他のメンバーに『俺と親戚であること』を隠してるんだったな)
春樹は、小さく息を吐き出すと、視線をちょこから外し、マリンたちの方へ向けた。
「お前ら。無駄話をしてる暇があったら、発声練習の一つでもしておけ。今日のライブは3Dのトラッキング設定を極限まで追い込んである。お前たちのパフォーマンスが少しでも落ちたら、システムとの同期がズレて放送事故になるからな」
いつもの、厳しくも頼もしい「チーフ・テクニカル・プロデューサー」の顔。
「は、はいッス!!」
「わかってるワヨ! 船長の完璧なダンス、見せつけてやるんだから!」
メンバーたちが慌てて立ち上がり、気を引き締める。
その様子を見て、そらとAちゃんもクスッと笑った。
「それじゃ、みんな、後でステージでね!」
「チーフ、私たちは先に行ってますよ。スケジュール押してるんで」
「ああ。すぐ行く」
そらとAちゃんが先に控室を出て行き、春樹もその後を追おうと扉に向かった。
ちょこは、「助かった……!」と心の底から安堵し、深く息を吐き出した。
だが、扉を出る直前。
春樹は立ち止まり、背中を向けたまま、ポツリと言った。
「……癒月」
「ひゃいっ!?」
ちょこの背筋がピンと伸びる。
春樹は、振り返ることなく、極めて事務的なトーンで告げた。
「お前のASMR用のダミーヘッドマイクだが、昨日の夜、新しい防湿フィルターに交換しておいた。……タッパーに入ってた『手作りの差し入れ』のお礼だ。今日は思い切り、お前の『魅惑の声』でリスナーを骨抜きにしてこい」
それだけ言うと、春樹は足早に控室を出て行った。
### Scene 5:敗北者たちと、秘密の優越感
バタン、と扉が閉まる。
控室には、数秒間の静寂が落ちた。
そして。
「……えっ!? ちょこ先生、チーフに手作りの差し入れなんて渡してたの!?」
スバルが目を丸くして叫んだ。
「抜け駆けよ!! さすがちょこ先生、大人の余裕(サキュバス)の裏で、ちゃんと胃袋を掴みにいってたのね!!」
マリンが悔しそうにハンカチを噛む。
「しかも、チーフに『魅惑の声で骨抜きにしてこい』なんて……。チーフ、ちょこ先生のこと特別扱いしてない!?」
まつりが羨ましそうに言う。
メンバーたちの視線が一斉にちょこに集まる。
ちょこは、ポカーンとしていたが、やがて、顔を真っ赤にして、持っていたタピオカミルクティーをギュッと握りしめた。
(……春樹にぃの、バカァ……っ!!)
他のメンバーには『プロデューサーからタレントへの粋な気遣い』に聞こえただろう。
しかし、ちょこには分かっていた。
あれは、親戚の兄貴からの**「お前が作った弁当、美味かったぞ。今日も無理せずに頑張れよ、妹」**という、極限まで暗号化された、最高に不器用で優しいエールだったのだ。
「ふ、ふふんっ……! 当たり前じゃない。この癒月ちょこの手にかかれば、あの氷のチーフだって、胃袋くらい簡単に掌握できるわよ〜♡」
ちょこは、必死に真っ赤な顔を隠しながら、サキュバスとしての『大人の余裕』を装って笑ってみせた。
(……でも。そら先輩やAちゃんみたいな『幼馴染』の絆には絶対勝てないって、みんな絶望してたけど)
ちょこは、胸の奥で、ほんの少しだけ優越感を感じていた。
誰も入れないサンクチュアリ。
けれど、自分だけは『家族』という、幼馴染とはまた違う、もう一つの特別な切符を持っている。
「さあ! アンタたちも、チーフが完璧に仕上げてくれたステージなんだから、絶対に失敗できないわよ! 気合い入れていきなさい!」
ちょこがパンッと手を叩いて檄を飛ばすと、メンバーたちも「おおーっ!」と声を上げた。
カバー株式会社の、騒がしくも愛おしい舞台裏。
絶対的な幼馴染の壁と、秘密を抱えた冷や汗のサキュバス。
彼女たちのステージは、見えない絆と、天才エンジニアの完璧なシステムに守られながら、今日も華やかに幕を開けるのだった。