ホロ  オリ   作:raian sinra

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**【第45話】 希望(HOPE)の特異点と、天使と悪魔の境界線(ミッド・サイド)**

### Scene 1:午前6時30分・言語の壁を越える者と、不穏な足音

日本標準時、午前6時30分。

カバー株式会社の地下深く、第1テクニカル・コントロールルーム。

「……US-WestからJP-Eastへのパケットルーティング、BGP経路の最適化完了。これでENとJPの大型コラボでも、双方向の音声遅延は40ミリ秒以内に収まるはずだ」

チーフ・テクニカル・プロデューサーの■■春樹は、徹夜明けの充血した目をこすりながら、メインモニターに広がる複雑なネットワーク・トポロジー図を見上げていた。

ホロライブという箱は、今や日本国内(JP)にとどまらず、英語圏(EN)やインドネシア(ID)を巻き込んだグローバルなエンターテインメント企業へと成長している。

異なる言語、異なる国籍のタレントたちが、同じバーチャル空間でシームレスに会話(コラボ)し、歌う。その「当たり前」を物理的・技術的に裏打ちするのが、春樹の組む狂気のインフラだった。

「さて……次は、来週の3Dライブに向けたオーディオインターフェースのゲイン調整か。……ん?」

春樹がキーボードから手を離し、伸びをしようとした時だった。

『トテテテテッ……♪』

防音扉の向こうから、やけに軽快で、どこか楽しげな足音が近づいてきた。

マリンやこぼのように扉を蹴り破るような乱暴さはない。しかし、何か「よからぬこと」を企んでいるような、妙に浮かれたリズムだ。

『ピッ、ウィィィン……』

「Hiya, Chief! Good morning! まだ起きてたのー?」

扉の隙間からひょっこりと顔を出したのは、ボブカットに紫とピンクのメッシュが入った髪、そして頭には「天使の輪」と「悪魔の角」という相反する二つのシンボルを戴く少女。

ホロライブEnglish所属、Project: HOPE。

天使と悪魔のハーフ(ネフィリム)である、**IRyS(アイリス)**だった。

「……IRySか。今は日本の朝の6時半、北米の夕方だ。お前は日本(JP)に住みながらENの時間帯に合わせて活動しているから、体内時計が完全にバグってるんじゃないか」

春樹は、呆れたようにため息をついた。

IRySはホロライブENの所属でありながら、活動拠点を日本に置いている特異な存在だ。日本語と英語をネイティブレベルで使いこなし、JPメンバーとENメンバーの「架け橋」として、昼夜問わず様々なコラボに顔を出している。

「えへへー、慣れっこだから大丈夫だよ! それよりチーフ、徹夜明けでしょ? IRySからの差し入れ、持ってきてあげたよ!」

IRySは、背中に隠していたコンビニのビニール袋をデスクにドンッと置いた。

中から出てきたのは、強烈なカフェイン含有量を誇る海外製の『モンスターエナジー』と、なぜか『激辛のハバネロスナック』、そして『甘いマシュマロ』だった。

「……なんだこのラインナップは。胃を破壊する気か」

「だって、エナドリと激辛スナックが『悪魔』で、甘ーいマシュマロが『天使』でしょ? 両方摂取すれば、チーフもネフィリムになれるよ!」

「俺は人間で十分だ。……まあ、カフェインはありがたくもらっておく」

春樹がエナジードリンクのプルタブを開けると、IRySはパイプ椅子を引き寄せ、春樹の隣にちょこんと座った。

### Scene 2:YabaiRySの襲来と、防壁の論理的崩壊

「で、IRyS。お前がわざわざこんな時間に地下まで来たってことは、何か機材のトラブルか? マイクのノイズか、それともOBSの設定か」

春樹がコーヒー代わりにエナドリを煽りながら尋ねると、IRySは目をキラキラさせて、春樹の顔を覗き込んだ。

「ううん、機材はバッチリだよ! チーフが組んでくれたシステム、本当に最高だもん。……だからね、今日は機材じゃなくて、**『私自身』をいじってもらおう**と思って!」

「……は?」

春樹のキーボードを打つ手がピタリと止まる。

「あのね、私、最近自分の『下の方』がちょっと重たいっていうか、モッサリしてる感じがしてて。だからチーフに、私の下の方をガッツリ削って、スッキリさせてほしいの!」

「…………ぶふっ!!」

春樹は、飲みかけていたエナジードリンクを盛大に吹き出しそうになり、必死に口元を押さえて咽せた。

「ゲホッ、ゴホッ!! お、お前……! アイドルが朝っぱらから何を……!」

「えっ? どうしたのチーフ? あ、もしかして、私の『ナマの音』を直接聞くのは恥ずかしい? 大丈夫だよ、チーフの前なら、私、**全部丸裸にされてもいいから!**」

IRySが、悪びれる様子もなく、無邪気な笑顔でとんでもない爆弾発言(YabaiRyS)を連発する。

「お、お前なぁっ!! 言葉を選べ!! お前は無自覚にそういうアウトな発言をするから、ENの連中からも『YabaiRyS』って呼ばれるんだぞ!!」

春樹が、顔を真っ赤にして立ち上がり、大声でツッコミを入れた。

「えぇー? Yabaiことなんて言ってないよ? チーフなら分かってくれると思ったのに」

IRySは不思議そうに首を傾げた。

「あのね、私の歌の『低音域(下の方)』のEQ(イコライザー)の話! デスボイスとかロックな曲を歌う時に、低音が少しこもる(モッサリする)から、ローカットで削ってスッキリさせてほしいって言ったの! 全部丸裸っていうのは、コンプレッサーとかエフェクトを全部外した『バイパス状態(Rawデータ)』のボーカルから調整し直してほしいって意味だよ?」

「…………」

春樹は、数秒間、完全に無言になった。

そして、自分の顔が熱で沸騰しそうになっているのを自覚しながら、深く、重い溜息を吐き、ドサッと椅子に座り直した。

「……紛らわしい表現をするな。俺のCPUが変な方向にオーバーヒートしただろうが」

「あはは! チーフ、もしかして変なこと想像した? えっちだなぁ〜!」

「うるさい! 俺は健全なエンジニアだ!」

日本のホロメンたちが「ツンデレ」や「過剰なスキンシップ」で春樹の防壁を突破しようとするのに対し。

IRySの恐ろしさは、この**「本人は100%音楽と技術の話をしているつもりなのに、アウトプットされる日本語が致命的にヤバい(センシティブ)」**という、予測不能のエラー(バグ)にあった。

これには、いかなる論理的防壁(ファイアウォール)を築いていても、防ぎようがない。

「……まったく。寿命が縮んだ。で、低音域のモタつきが気になるんだったな」

春樹は、必死に平常心を取り戻し、コンソールのモニターをオーディオ・スペクトラムの画面に切り替えた。

### Scene 3:天使と悪魔の境界線(Mid-Side Processing)

「ああ、そうだIRyS。お前が来たついでに、見せておきたいデータがあった」

春樹は、先ほどの動揺を完全に消し去り、プロフェッショナルな『調律師』の顔に戻った。

画面には、IRySが先日リリースしたオリジナル楽曲の、ボーカルの音声波形が表示されている。

「お前は自分の声を『下の方がモッサリしている』と言ったが、俺の解析では違う」

春樹は、ターミナルに数式を打ち込み、画面の波形を『中央(Mid)』と『左右(Side)』の二つの成分に分離して見せた。

$$ M = \frac{L + R}{2} \quad , \quad S = \frac{L - R}{2} $$

「M/S処理(ミッド・サイド・プロセッシング)だ。ステレオ音声の『芯』となるMid成分と、『広がり』となるSide成分を別々に演算する」

IRySは、身を乗り出してモニターを見つめた。

「おぉ〜、チーフ、相変わらず数学の魔法使いみたい!」

「よく見ろ。お前の歌声は、ホロライブの中でも極めて異質だ」

春樹は、Midの波形を指差した。

「Mid成分には、力強くて芯のある、まるでロックシンガーのような重厚な低音(悪魔の要素)が密集している。だが、同時に……」

春樹は次に、Sideの波形をソロで再生した。

すると、スタジオのスピーカーから、まるで教会で響くような、透き通った高音の倍音成分だけが、フワァッと左右に広がって聞こえてきた。

「Side成分には、人間離れした美しい高音の倍音(天使の要素)が、異常なほど豊かに含まれているんだ。……お前の声は、物理的な周波数帯域の中に、『天使』と『悪魔』の二つの相反する成分が、完全に同居している」

春樹は、IRySを真っ直ぐに見据えた。

「これを単純なEQで『下を削る』ような真似をすれば、お前の持つ『悪魔の芯の強さ』が死ぬ。俺はお前の声をミックスする時、Midの低音はコンプレッサーでタイトに引き締め、Sideの高音にだけサチュレーション(倍音付加)をかけて広がりを持たせている。……お前のその相反するデュアルコア(Nephilim)の魅力を、両方とも100%活かすためにな」

圧倒的な、音響工学に基づいた彼女への理解と賛辞。

「YabaiRyS」といじられる彼女の、アーティストとしての本質(希望)を、春樹は誰よりも正確に解析し、誰よりも大切に扱っていたのだ。

「……チーフ」

IRySの瞳が、少しだけ潤んだ。

「チーフは……本当に、私の歌のこと、一番よく分かってくれてるんだね」

「俺はエンジニアだからな。入ってきた信号(データ)の良さを殺すような真似は、プロとして絶対に許せないだけだ」

春樹が照れ隠しにそっぽを向くと、IRySは嬉しそうにフフッと笑った。

### Scene 4:特異点(Project: HOPE)の孤独と、繋がれたインフラ

「……チーフ。私ね、時々すごく不安になることがあったの」

IRySは、パイプ椅子の上で膝を抱え、少しだけ声のトーンを落とした。

それは、いつも明るく、Yabai発言で周りを笑わせている彼女が、ふと見せた「ただの女の子」の素顔だった。

「私は『Project: HOPE』として、Myth(EN1期生)の先輩たちと、Council(EN2期生)の後輩たちの間に、たった一人でデビューしたでしょ? しかも、EN所属なのに日本に住んでて、JPの先輩たちとも関わることが多くて」

IRySの言う通り、彼女の立ち位置はホロライブ全体を見渡しても極めて特殊だ。

同期と呼べる存在はおらず、言語も国境も越えて、あらゆるグループの間を飛び回る。

「みんな優しくて、楽しいんだけど……ふとした瞬間に、『私の本当の居場所はどこなんだろう』って、宙ぶらりんみたいな気持ちになることがあったんだ」

天使でもなく、悪魔でもない。

ENでもあり、JPでもある。

境界線に立つがゆえの、拭いきれない孤独。

「……IRyS」

春樹は、コーヒーマグを置き、メインモニターの画面を、オーディオ波形から『ネットワーク・トポロジー図』へと切り替えた。

そこには、日本、北米、インドネシア、欧州など、世界中に点在するホロライブのサーバー群を繋ぐ、無数の光のラインが描かれていた。

「これを見ろ。ホロライブのグローバル・インフラのトラフィック図だ」

春樹は、画面の中央、日本と北米のサーバーのちょうど中間で、両方のネットワークを最も太く、強い光の束で結びつけている『一つの巨大なノード(中継点)』を指差した。

「ここ一年の、お前のコラボ配信のトラフィック履歴だ」

IRySが目を丸くする。

「お前は『宙ぶらりん』なんかじゃない。……お前の存在が、ENとJPのサーバーを繋ぐ、最も強固な『ブリッジ(架け橋)』になっているんだ」

春樹は、力強い声で言った。

「お前が両方の言語を話し、両方の文化を理解し、その特異な立ち位置で笑いを取ってくれるおかげで。ホロライブのネットワークは、言語の壁という一番厄介なファイアウォールを越えて、完全に一つに繋がりつつある」

春樹は、IRySの頭に、無骨な手をドンッと置いた。

そして、不器用ながらも、優しくその髪を撫でた。

「お前は、この巨大なインフラにおける『希望(HOPE)』そのものだ。……どこにも属していないんじゃない。お前が、全部を繋いでいるんだよ。だから、自分の居場所なんて、これっぽっちも不安に思う必要はない」

エンジニアとしての客観的なデータと。

ビッグダディとしての、絶対的な肯定。

「……っ」

IRySの大きな瞳から、ポロリと大粒の涙がこぼれ落ちた。

「うぇぇぇん……っ! チーフぅぅ……っ!!」

IRySは、椅子から立ち上がり、春樹の胸にガバッと飛び込んで、そのシャツをギュッと握りしめて泣きじゃくった。

「おい、泣くな。シャツが濡れるだろ。それに静電気が……」

「いいじゃんかぁ……っ! 今くらい、思い切り甘えさせてよぉ……っ! チーフのバカぁ……っ、かっこよすぎるんだよぉ……っ!」

春樹は、文句を言いながらも決して彼女を突き放さず。

彼女が泣き止むまで、その背中を一定のリズムで優しくトントンと叩き続けた。

彼女の背負っていた孤独とプレッシャーが、涙と共に完全に溶けていくのを感じながら。

### Scene 5:YabaiRySの逆襲と、過労死寸前のビッグダディ

数分後。

すっかり泣き止み、スッキリした顔になったIRySは、目を赤くしながらも、いつもの明るい笑顔を取り戻していた。

「……えへへ。ごめんねチーフ、シャツ濡らしちゃった」

「気にするな。サーバーが濡れたわけじゃない」

春樹がティッシュを差し出すと、IRySはそれを受け取りながら、チラリと上目遣いで春樹を見た。

「ねぇ、チーフ」

「なんだ」

「チーフは私の声の『天使』と『悪魔』の両方が好きで、私を全部繋いでくれる『架け橋』だって言ってくれたよね」

「……ああ。データとトラフィックがそう証明しているからな」

IRySは、悪戯っぽい、まさに『小悪魔』のような笑みを浮かべた。

「じゃあさ。……チーフの『個人的な好み』としては、私の天使と悪魔……**どっちにイジめられたい?**」

「…………はい?」

IRySが、春樹のネクタイをクイッと引っ張り、顔を限界まで近づけた。

イランイランの香水とは違う、海外特有の少し甘くてスパイシーな香りが、春樹の鼻腔をくすぐる。

「私の純粋な声で、優しく耳元で囁かれるのと……低い声で、チーフのこと『私の言うこと聞きなさい』って命令するの。……チーフの『プラグ』には、どっちの『ジャック』が挿さるのがお好みかなぁ〜?」

「っ!?!? お、お前!! またそういう言い回しを!!」

春樹の顔が、先ほどの感動的な空気から一転し、再び爆発的に赤く染まる。

「あははは!! やっぱりチーフ、純情だなぁ〜! YabaiRySの攻撃にはファイアウォールが効かないみたいだね!」

IRySは、真っ赤になって狼狽える春樹を見て、お腹を抱えて大爆笑した。

「からかうな!! さっさと自分のスタジオに帰れ!!」

「はーい! じゃあね、私の最高のチーフ! 今度は、私の『ナマの音』、たっぷり聞かせてあげるから覚悟しててね〜♡」

IRySは、バチコン!と強烈なウインクを投げ放ち、嵐のようにコントロールルームから去っていった。

バタン、と防音扉が閉まる。

「……あいつ、絶対わざと言ってるだろ……」

春樹は、真っ赤になった顔を両手で覆い、机に突っ伏した。

日本のホロメンたちのプロレスや、海外組の直球のスキンシップとはまた違う。

ネフィリムの放つ『天然と計算が入り混じったYabai発言』という、新種のサイバー攻撃。

「……もうダメだ。俺の脳内メモリが完全にクラッシュした……」

午前7時15分。

ホロライブという箱を繋ぐ架け橋(HOPE)の少女は、完全に自信を取り戻して歌い続ける。

そして、その少女の歌声を支える絶対防壁のエンジニアは、今日も彼女たちの規格外の愛情表現に翻弄されながら、胃壁と寿命を削り続けるのだった。

 

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