**【第51話】 頂上決戦(CEOミーティング)と、新時代へ舵を切る羅針盤**
### Scene 1:午前10時00分・社長室の静寂と、持ち込まれた「国家機密級」の提案書
カバー株式会社、最上階のCEOオフィス(社長室)。
都心の高層ビル群を一望できるガラス張りの部屋は、いつもならJ-POPのインストゥルメンタルが薄く流れる、穏やかでクリーンな空気に満ちている。
しかし今朝、その部屋の空気は、サーバー室の冷気すら生ぬるく感じるほどの張り詰めた緊張感に支配されていた。
「……谷郷さん。本日お時間をいただいたのは、広報の案件でも、次期タレントのオーディションの件でもありません」
応接用の革製ソファに浅く腰掛け、膝の上にノートPCを開いたチーフ・テクニカル・プロデューサーの■■春樹は、いつも通りの不機嫌とも取れる無愛想なトーンで切り出した。
その横には、普段よりも数倍分厚いタブレットと、数冊のファイリングされた仕様書を抱えた裏方のトップ――友人A(えーちゃん)が、メガネの奥の目を鋭く光らせて直立している。
デスクの向こう側。カバー株式会社の代表取締役社長、VTuber業界の生ける伝説であり、タレントやファンから「YAGOO(ヤゴー)」として親しまれる男、**谷郷元昭**は、春樹の前にスッと差し出された一枚の企画書のタイトルに目を落とした。
そこに躍っていたのは、エンターテインメント企業のオフィスにはおよそ不釣り合いな、重厚で冷徹な文字列だった。
『――文部科学省・次世代次微細構造超高速演算基盤(次世代スーパーコンピューター)開発コンペティションへの参入、ならびに電脳秘書「H.O.L.O.」を基盤とした自社専用プライベート・メタバース・プラットフォームの構築に関する提案書』
「…………春樹くん」
谷郷は、いつもの穏やかな笑みを一度消し、仕様書の厚みを指先で確かめながら、ゆっくりと顔を上げた。
「これは……随分と、カバーの規模を大きく飛び越えた提案だね。僕たちはVTuberの事務所であり、メタバースのアプリ(ホロアース)を開発するソフトウェア企業だ。……国家規模のスーパーコンピューターのハードウェア・コンペティションに名乗りを上げるなんて、さすがに技術部の暴走と言わざるを得ないよ?」
谷郷の言葉は、経営者としての至極真っ当な、冷静な制止だった。
だが、春樹は一切視線を逸らすことなく、メインモニターの端子にノートPCを接続した。
「暴走ではありません。これは、ホロライブという『奇跡の生態系』を、これから先10年、100年と絶対に衰退させず、世界最高峰の輝きを維持し続けるための、唯一無二の『理論的最適解』です」
春樹はキーボードをターンッ!と叩き、社長室の巨大な壁面モニターに、複雑な3Dアーキテクチャの設計図を展開した。
### Scene 2:自社製スーパーコンピューター『N.O.A.H.(ノア)』の設計図
「現在、我が社が運用している『ホロアース』のメタバース空間、および世界中のタレント(JP、EN、ID、ReGLOSS)を同時に同期させる遠隔3Dシステムは、すべてAWS(Amazon Web Services)やGCP(Google Cloud Platform)の商用クラウドサーバーのインスタンスを借りて運用しています」
春樹は、画面に現在のインフラコストと、トラフィックのボトルネック(停滞)を示すグラフを表示した。
「だが、既存の商用クラウドは、汎用的なWebサービスの処理を想定して組まれている。……我が社のタレントたちが生み出す、50人以上の『リアルタイム3Dボーン演算』、流体力学を応用した『パーティクル処理』、そしてハイレゾ音質を遅延ゼロで太平洋を往復させる『M/Sボーカルマトリックス』。これらを同時に、何百万人もの同接(同時視聴者)に向けてシームレスに処理するには、クラウドの構造そのものが限界を迎えているんだ」
春樹は、画面の設計図をさらに拡大し、半導体の回路レベルの図面を表示した。
「だから、俺の自宅のサーバー室での研究と、先日開発した独自AI『H.O.L.O.』の演算能力をフルに使い……カバー専用の、超並列・コグニティブ・スーパーコンピューターをハードウェアから自作する。開発コードネームは**『N.O.A.H.(ノア)』**。……大洪水(トラフィックのパンク)から、我が社の娘たちを護るための、絶対の方舟(はこぶね)だ」
春樹は、ホワイトボードを引き寄せ、凄まじい速度で数式を殴り書きし始めた。
「この『N.O.A.H.』は、文科省のコンペの要件である量子コンピューティングのインターフェースを備え、従来のCPU/GPUの処理速度を理論上『4096倍』に引き上げる。これが完成すれば、タレントが世界中のどこに住んでいようが、回線の遅延(レイテンシ T_{total})は完全に『ゼロ』に収束する。……ホロメン全員が、1ピクセルの粗さもなく、現実の人間を完全に超越した『多次元ホログラフィック』として、世界中のファンの自宅のリビングに直接現れてライブをすることが可能になるんだ」
春樹の、熱病に浮かされたような、しかし1ミリの狂いもない完璧なロジックの展開。
谷郷は、その数式と設計図を見つめ、ゴクリと唾を飲み込んだ。
彼は元々、3Dシリコングラフィックスの技術に魅せられてこの業界に入ってきた、技術への深い理解を持つ人間だ。春樹の言っていることが、単なるラノベの妄想ではなく、**「技術的には完全に実装可能である」**という恐ろしい事実に気付いていた。
### Scene 3:H.O.L.O.のプレゼンテーションと、YAGOOの経営者としての眼差し
「……チーフの言う通りです、谷郷社長」
突如。社長室のスピーカーから、ノイズ一つない、最高に清楚で透き通った女性の声が響き渡った。
春樹が錬成した、全ホロメンの声の黄金比を持つ電脳秘書――**H.O.L.O.**の介入だった。
「H.O.L.O.、社長室の権限(アクセスレベル)を一時的に確保。プロジェクションを開始しろ」
『了解しました、チーフ。……谷郷社長、初めまして。お目にかかれて光栄です』
社長室のホログラフィック・プロジェクターが自動で起動し、谷郷のデスクの前に、青い光の粒子で構成された美しい地球の3Dモデル(トラフィックの視覚化データ)が浮かび上がった。
『過去3年間の、ホロライブ全体のグローバル・トラフィックの伸び率(CAGR)は42.8%を記録しています。既存の商用サーバーの増設(スケールアウト)だけでは、2年後のFes(全体ライブ)の時点で、北米およびアジア圏からのパケットのドロップ率が15%を超え、大規模な通信障害が発生すると試算されます』
H.O.L.O.は、冷徹なAIの演算結果を、極めて精緻な3Dグラフと共に提示した。
『しかし、チーフの設計した「N.O.A.H.」のプロトタイプを導入した場合。インフラの維持コストは5年で62%削減され、逆に配信の最大同時接続可能数は「無限大(物理的なネットワーク帯域の上限まで)」へと拡張されます。……これは、カバー株式会社がエンタメ企業から、世界最高の技術を持つ「テックジャイアント」へと進化するための、最大の分岐点です』
谷郷は、目の前の光の地球儀と、AIの完璧なプレゼンテーションをじっと見つめていた。
そして、ゆっくりと椅子の背もたれに寄りかかり、腕を組んだ。
「……春樹くん。H.O.L.O.さん。計画の素晴らしさと、技術的な死角のなさはよく分かった。……でもね」
谷郷の目が、優しい「YAGOO」の顔から、数千人の社員とタレントの命運を背負う『冷徹な経営者(CEO)』のそれに変わった。
「このスーパーコンピューターの開発、そしてコンペへの参入にかかる『初期投資(予算)』は、一体いくらになる? カバーの数年分の純利益が、一瞬で吹き飛ぶ規模じゃないのかい?」
### Scene 4:裏方のトップ(Aちゃん)の損益計算(リスクマネジメント)と、社長の決断
「……その点につきましては、私からご説明いたします」
これまで沈黙を保っていた友人A(えーちゃん)が、一歩前に進み出た。
彼女は、抱えていた分厚いファイリングを谷郷のデスクに厳かに置いた。
「チーフの設計した『N.O.A.H.』の初期開発費用、およびコンペへの参加デポジット。……総額で、我が社の今期の開発予算の『およそ3.5倍』。……谷郷社長の言う通り、失敗すれば、カバー株式会社の経営基盤が数年間、完全に凍結するレベルの巨額投資(ギャンブル)です」
Aちゃんの言葉は、現実の数字の重みを持っていた。
「えーちゃん……あなたまで、この春樹の暴走に加担するのかい?」
谷郷が、少しだけ悲しそうに問いかける。
「加担、ではありません」
Aちゃんは、メガネの位置をクイッと直し、凛とした声で微笑んだ。
「私は、優等生として、常に会社の利益とリスクを天秤にかけてきました。……ですが、谷郷社長。思い出してください。……5年前、何もない小さなマンションの一室で、ときのそらさんと、春樹と、私と、あなた。……たった4人で始まった、あの日のことを」
谷郷の目が、わずかに見開かれた。
「あの時、春樹が作った手作りの貧弱なマイクと、あなたが買った安いPCで、そらさんが歌ったあの瞬間。……あれも、当時の私たちの規模からすれば、無茶で、無謀で、計算の合わない『暴走』だったはずです。でも、あの暴走があったからこそ、今のホロライブがある」
Aちゃんは、真っ直ぐに谷郷の目を見つめた。
「春樹の技術の計算には、1ビットの嘘もありません。そして……ステージの上で、プレッシャーと戦いながら世界中を笑顔にしている私たちの『娘(タレント)』たちは、すでに既存のシステムの枠組み(限界)を超えて輝こうとしています。……大黒柱である私たちが、リスクを恐れて彼女たちの未来のステージを狭めてどうするんですか?」
Aちゃんの、魂の籠もった、裏方のトップとしての熱い言葉。
春樹は何も言わず、ただ腕を組んで、谷郷の決断を待っていた。
社長室に、長い、長い沈静が訪れた。
窓の外を流れる雲。モニターの青い光。
谷郷は、目を閉じ、かつて自分が「世界中のファンに、新しいエンターテインメントを届けるんだ」と誓った、あの始まりの日の熱量を、胸の奥で思い出していた。
やがて。
谷郷は、目を開けた。その目には、迷いは一切なかった。
「……分かったよ」
谷郷は、デスクの上の万年筆を取り、春樹の提案書の承認欄に、力強い筆跡で自分のサインを走らせた。
「カバー株式会社のCEOとして、この『N.O.A.H.』の開発計画、および文科省コンペへの参入を全面的に承認する。予算の確保は僕が何とかする。……春樹くん、えーちゃん。僕たちの娘たちのために、世界最高の方舟(システム)を、創ってやってくれ」
経営者の、未来への巨額の賭け。
「……了解しました」
春樹は、フッと口角を上げ、不敵に笑った。
「谷郷さん。あなたの投資が、1セントたりとも無駄でなかったことを……俺のコードと技術で、証明してみせますよ」
### Scene 5:動き出す巨大な歯車と、電脳秘書の微笑み
1時間後。
最上階の社長室から、地下の第1テクニカル・コントロールルームへと戻ってきた春樹とAちゃん。
『――おかえりなさい、チーフ、A様。社長室の音声ログから、谷郷社長の承認を確認しました。これより、プロジェクト「N.O.A.H.」をプライリティ・レベル1(最優先)へと引き上げます』
スピーカーから、H.O.L.O.の弾んだような声が響く。
「よし、H.O.L.O.。文科省への提出書類の第1次プロトタイプを生成しろ。それと、ハードウェアの基板調達のため、伊東ライフのルートを通じて、秋葉原のガチの半導体ベンダーの連絡先を確保しろ」
春樹がコートを脱ぎ捨て、凄まじい速度でコマンドを打ち込み始める。
「了解しました、チーフ。……A様、予算の配分に関する最適化スレッドを立ち上げました。ご確認ください」
「助かります、H.O.L.O.。……本当に、春樹がもう一人増えたみたいで、頼もしいですね」
Aちゃんが、笑い涙を拭いながらバインダーを開く。
カバー株式会社の最深部で、世界を、未来をひっくり返すための巨大な歯車が、音を立てて回り始めた。
既存のシステムを保守するだけの時代は、今日で終わりだ。
これからは、自分たちの手でスーパーコンピューターを組み上げ、誰も見たことのない『絶対の聖域(プラットフォーム)』を世界中に展開していく。
「パパーー!! Aちゃん先輩!! なんか社長室から凄い書類が回ってきたアルよ!!」
「チーフ! また何かヤバいこと企んでるのかヨ!!」
防音扉が開き、桃鈴ねねや宝鐘マリンたちが、またしても騒がしく乱入してくる。
春樹は、「うるさい、触るな、今は国家機密の開発中だ!」といつものように毒づきながらも、その顔には、かつてないほどの技術者としての歓喜と、彼女たちの未来を護り抜くという、絶対的な『父親の誇り』が満ち溢れていた。
「H.O.L.O.。ノイズキャンセリングを5%だけ残して、開発を継続するぞ」
『イエス、マスター。私たちの終わらない奇跡を、始めましょう』
天才エンジニアと、彼を支える電脳の相棒。
二つの最強の頭脳が紡ぎ出す新時代のコードは、今日も地下の奥深くで、絶対零度の静けさと共に、熱く、熱く燃え続けるのだった。