## 魔法使いの休日:提灯の明かりと、彼女の切実な願い
### 第1章:強制シャットダウンの果て、藍色の浴衣
「……ん」
重い瞼をこじ開けると、見慣れない……いや、かつて嫌というほど見慣れていた木目の天井が視界に広がった。
規則正しい電子音も、ファンの排熱音も、網膜を焼くモニターの青白い光もない。代わりに聞こえてくるのは、遠くで鳴く蜩(ひぐらし)の合唱と、開け放たれた窓から吹き込む生ぬるい夏の風が風鈴を揺らす音だけだった。
■■春樹は、ゆっくりと上体を起こした。
体中が鉛のように重いが、頭の芯を覆っていた分厚い霧は晴れている。どうやら、10時間以上は死んだように眠っていたらしい。
「起きた?」
部屋の入り口に、凛とした声が響いた。
振り返ると、そこには昨夜、会社から春樹を文字通り「拉致」した幼馴染の姿があった。
しかし、その装いは普段のアイドル衣装でも、見慣れた私服でもなかった。
「……そら、その格好」
「ふふん。どう? 似合ってる?」
ときのそらは、藍色を基調に朝顔があしらわれた涼しげな浴衣を身に纏っていた。
綺麗に結い上げられた髪からは、うなじが白く覗いている。いつもより少しだけ大人びたその姿に、春樹は一瞬だけ言葉を失い——そして、照れ隠しのように咳払いを一つした。
「ああ。布地のテクスチャと藍色の彩度が、環境光の夕暮れにうまくマッチしてる。和装のモーション特有の重心の低さも——」
「はいはい、そういう技術的な感想は求めてません! もう、すぐ仕事の目になるんだから」
そらは呆れたように笑いながら、コロン、と下駄の音を立てて春樹のベッドに近づき、その鼻先をツンと突いた。
「おはよう、春樹。よく眠れた?」
「……おかげさまでな。スマホが見当たらないんだが」
「没収中。Aちゃんから『月曜の朝まで春樹くんに電子機器を触らせないで』って厳命されてるからね」
そらは悪戯っぽく微笑むと、ベッドの横に畳んであった春樹用の甚平を指差した。
「さ、着替えて。今日は一日、私のわがままに付き合うって約束でしょ? 神社のお祭り、もう始まってるよ」
### 第2章:夏祭りの喧騒と、消えない技術者の性(さが)
実家を出て、裏山の麓にある神社へと続く参道を二人で歩く。
夕闇が迫る中、道の両脇にはオレンジ色の提灯が等間隔に並び、屋台の香ばしい匂いと、行き交う人々の熱気が辺りを包み込んでいた。
「わあ……! 昔より出店増えてるかも! りんご飴もあるし、イカ焼きも……あ、春樹、綿飴屋のおじさん、まだいたよ!」
「本当だ。相変わらず凄い手付きだな。遠心力を利用したザラメの射出軌道を完全に制御してる……あの回転数なら、かなり密度の高い綿飴になるはずだ」
はしゃぐそらの横で、春樹の視線は無意識のうちに「構造」や「物理法則」へと向かってしまう。
「……ねえ春樹。お面屋さんの屋根の電球、見てみて」
「ん? ああ、白熱電球か。消費電力は高いが、あの色温度はLEDじゃなかなか出せない暖かみがあるな。光の拡散率も——」
**「ちーがーうーの!」**
そらが急に立ち止まり、春樹の甚平の袖をぐいっと引っ張った。
見下ろすと、そらは少しだけ頬を膨らませ、上目遣いで春樹を睨んでいた。
「私は『光の拡散率』の話をしたいんじゃないの。『提灯の明かりが綺麗だね』って言いたいの。……春樹は、私と一緒にいるのに、ずっと別の世界を見てるみたい」
その言葉に、春樹はハッとして立ち止まった。
そらの瞳の奥に、単なる拗ねた感情とは違う、もっと深い「不安」のようなものが揺らいでいるのに気がついたからだ。
「……悪い。職業病みたいなもんだ。お前たちが立つステージの解像度を上げるためには、現実世界のあらゆる物理現象をデータとしてインプットしておく癖がついてて」
「……」
そらは何も言わず、少しだけ俯いて、繋いでいた春樹の袖をきゅっと強く握り直した。
「……神社の上、行こ。あんまり人がいない、見晴らしのいい場所があるから」
いつもなら「もう、仕方ないなぁ」と笑って許してくれる彼女が、今日は静かにそう言って歩き出した。
その背中が少しだけ小さく見えて、春樹は言い知れぬ胸のざわめきを感じながら、下駄の音を追った。
### 第3章:神社の石段、彼女の懸念と懇願
本殿の裏手、鎮守の森に囲まれた古い石段の上。
そこは夏祭りの喧騒から少しだけ離れ、眼下に広がる街の夜景と、参道の提灯の列を一望できる静かな場所だった。
二人は石段に並んで腰を下ろした。
遠くで、祭りの太鼓の音がドンドンと低く響いている。
「……春樹」
長い沈黙の後、そらがぽつりと口を開いた。
その声は、アイドルとしての張り詰めたものではなく、等身大の一人の女の子としての、震えるような響きを持っていた。
「私ね、最近すごく怖いんだ」
「……怖い?」
「うん。ホロライブがどんどん大きくなって、ドームでライブができるようになって、世界中の人が私たちの配信を見てくれるようになって。……それは、私がずっと夢見てきたことで、すごく幸せなことなんだけど」
そらは膝の上で両手をぎゅっと組み合わせ、視線を足元に落とした。
「私が夢に向かって走れば走るほど、春樹が『私のために』自分を削っていくのがわかるの」
「そら、それは違う。オレは裏方として当然の——」
「当然じゃないよ!」
そらが顔を上げ、春樹を強い視線で射抜いた。その瞳には、うっすらと涙が浮かんでいた。
「38時間も寝ないでシステムを組むのが当然? 自分のご飯も食べずに、メンバーのトラブル対応のためにPCの前に張り付いているのが当然? ……違うよ。春樹は、私やみんなの夢を叶えるために、自分の『人生』を犠牲にしてる」
「……」
春樹は言葉を返すことができなかった。
「私が『こんなステージに立ちたい』って無茶を言うたびに、春樹は絶対に『不可能』って言わない。徹夜して、血を吐くような思いをして、必ず最高のステージを作ってくれる。……嬉しいよ。でも、そのせいで春樹がボロボロになっていくのを見るのは、もう嫌なの」
そらの小さな手が、春樹の大きな右手を包み込んだ。
少しだけ冷たい彼女の指先が、春樹の指の間に絡められる。
「ねえ、春樹。春樹の目は、いつも『私たちがどうすれば一番綺麗に見えるか』『どうすればシステムが安定するか』っていう、私たちが立つ『ステージ』ばかりを見ている。……私のことも、『ときのそらというアイドル』として、完璧にプロデュースしようとしてる」
「……そんなことは」
「お願い、春樹」
そらの声が、切実な懇願に変わる。
「私を見て。アイドルとしての私じゃなくて、ただの『そら』を。……春樹が私の夢を支えてくれるのは嬉しい。でも、私が一番叶えたい夢のゴールに、春樹が笑って隣にいてくれなきゃ、何の意味もないんだよ」
### 第4章:完璧な裏方の告白
蜩の声が止み、夏の夜の静寂が二人を包んだ。
春樹は、そらに握られた自分の手を見つめ、そして、大きく息を吐き出した。
「……怖いのは、オレの方なんだよ」
絞り出すような春樹の声に、そらがハッと息を呑む。
「お前は、本当にすごい。圧倒的な努力と、天性のカリスマ。……あの小さな防音室で『横浜アリーナに立ちたい』って言った時から、お前は少しもブレてない。光に向かって、一直線に走っていく」
春樹は、視線を夜景に向けたまま言葉を紡いだ。
「そんなお前の背中を見ていると、時々、恐ろしくなるんだ。お前がどんどん手の届かない場所へ行ってしまうんじゃないかって。……だから、オレはお前のために最強のシステムを作るしかなかった。お前がどんなに高く飛んでも、絶対に落ちないように。お前の光を、世界中の隅々まで届けられるように」
春樹の言葉は、天才エンジニアとしてのプライドではなく、一人の不器用な男としての、弱くて純粋な告白だった。
「オレが立ち止まったら、お前の歩みを止めてしまうかもしれない。オレの技術がお前に追いつけなくなったら、オレは……お前の隣にいる資格がなくなる。それが怖くて、コードを書き続けてないと不安で仕方なかったんだ」
その瞬間。
そらの両腕が、春樹の首に回された。
藍色の浴衣から漂うほのかな石鹸の香りと、温かい体温が、春樹の胸に押し付けられる。
「……バカ。大バカ」
春樹の肩口で、そらが泣き笑いのような声を出した。
「そんなの、理由にならないよ。春樹が何もしなくたって、システムが作れなくたって、私は絶対に春樹を置いていったりしない。……春樹は、私の魔法使いでしょ? 魔法使いが不安な顔してたら、魔法にかけられたお姫様は安心して歌えないんだから」
「……そら」
「約束して」
そらは春樹の胸から少しだけ顔を離し、真っ直ぐに彼の目を見つめた。
「私のために生きるんじゃなくて、春樹自身のために生きて。ちゃんと寝て、美味しいものを食べて、休みの日はこうやって一緒に綺麗な景色を見て『綺麗だね』って言って。……私の隣を歩くのは、完璧な技術者じゃなくて、ただの『春樹』でいいの。それが、私のたった一つの願い」
そのアイスブルーの瞳に映る、自分の顔。
目の下にはまだクマが残っていて、情けない顔をしているだろう。
けれど、彼女はそんな自分を、愛おしそうに見つめてくれている。
春樹は、ようやく心の底から張り詰めていた「何か」が解けるのを感じた。
「……ああ。わかった。約束する」
春樹は、そらの背中にそっと腕を回し、優しく抱きしめ返した。
「これからは、お前を輝かせるためだけじゃない。オレ自身が、お前と一緒に最高の景色を見るために……ちゃんと、休む。Aちゃんの胃に穴を開けるのも、これで終わりにするよ」
「ふふっ、絶対だよ? Aちゃん、本気で胃薬持ち歩いてるんだから」
二人は石段の上で、もう一度静かに笑い合った。
「……ほら、春樹。見て」
そらが夜空を指差す。
その瞬間、ドーン!という轟音と共に、色鮮やかな大輪の花火が夏の夜空に打ち上がった。
赤、青、緑の光の粒子が、重力に従ってゆっくりと落ちていく。
「……綺麗だね」
「ああ。……本当に、綺麗だ」
春樹は今度こそ、光の拡散率も、物理演算の式も頭に浮かべなかった。
ただ、隣で花火を見上げて微笑む幼馴染の横顔が、どんな高度なCGよりも、どんなに美しいエフェクトよりも、圧倒的に美しく、かけがえのないものだと感じていた。
最強のエンジニアの長い休日は、こうして、優しい花火の光の中で更けていった。