ホロ  オリ   作:raian sinra

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そら 11

## 観測される特異点・焦燥編:仮想世界の歌姫と、密室のアップデート

### 第1章:静寂のラウンジと、開拓者の憂鬱

カバー株式会社が誇るタレント専用のプライベート・ラウンジ。

防音設備が完備され、間接照明が柔らかく照らすその空間は、配信や収録の合間にホロメンたちが羽を伸ばすためのオアシスである。

しかし今日のラウンジの片隅には、オアシスには似つかわしくない、どんよりとした暗雲が立ち込めていた。

「……はぁ」

ときのそらは、手元のアールグレイの紅茶をティースプーンでカチャカチャと無意味にかき混ぜながら、今日で何度目かわからない深いため息を吐き出した。

その左手の薬指には、CTOである■■春樹が開発した特注の『生体データ監視リング(純チタン製プラチナコーティング)』が鈍い光を放っている。

「そらちゃん。紅茶、もう冷めちゃってるよ?」

向かいの席に座り、優雅にハーブティーを傾けていたAZKiが、くすくすと笑いながら声をかけた。

ホロライブ0期生であり、共に音楽の道を切り拓いてきた戦友。AZKiの落ち着いた大人のオーラと、すべてを見透かすような優しい視線に、そらは力なくテーブルに突っ伏した。

「AZKiちゃん……私、もうどうしたらいいかわかんないよ……」

「この前の『ReGLOSS』の新人ちゃん……音乃瀬奏ちゃんのことだよね。春樹くんを『パパ』って呼んでたっていう」

AZKiの言葉に、そらの肩がビクッと跳ねた。

「そう、それ! ……私、春樹のことなら何でも知ってると思ってた。春樹がコーヒーには絶対に砂糖を入れないことも、徹夜明けには首の後ろを揉んであげると喜ぶことも、システムがエラー吐いた時の貧乏ゆすりの癖も……全部、私だけの特権だと思ってたのに」

そらは突っ伏したまま、恨めしそうに自分の薬指のリングを見つめた。

「奏ちゃんは、春樹の親戚なんだよ。血が繋がってるの。私がまだ春樹に出会う前の、ちっちゃい頃の春樹を知ってるの。……それに、『パパ』なんて反則みたいな呼び方で甘えて、春樹もそれを当たり前みたいに受け入れてて……」

「焦ってるんだね、そらちゃん」

「焦るよ! だって……私と春樹って、結局のところ『幼馴染』っていうステータスから、一歩も進んでないんだもん!」

そらの悲痛な叫びに、AZKiはふふっと微笑み、カップを置いた。

「でも、春樹くんはその指輪をくれたんでしょ? 『君の心臓の動きを全て把握したい』なんて、普通の人ならドン引きするようなセリフと一緒に」

「う、うん……」

「春樹くんにとって、そらちゃんは間違いなく『特別』だよ。彼の構築する世界(システム)の中心には、いつだってそらちゃんがいる。……でもね」

AZKiは、少しだけ真剣な表情になり、そらの目を真っ直ぐに見つめた。

「『特別』であることと、『女の子として愛されている』と自覚することは、少し違うのかもしれないね。春樹くんは、そらちゃんを神聖化しすぎているところがある。だから『幼馴染』という安全な枠(ファイアウォール)の中に閉じ込めて、それ以上関係を進めようとしない」

「……」

「そこに、奏ちゃんみたいな『家族』という絶対的なパスワードを持った子が、物理的な距離を詰めてきた。そらちゃんが焦るのも無理はないわ。……だからこそ、そらちゃん自身が、関係性のアップデート(プロトコル変更)を仕掛けなきゃダメなんじゃない?」

AZKiの的確すぎるアドバイスに、そらはハッと息を呑んだ。

「関係性の、アップデート……」

「そう。幼馴染でも、手のかかるアイドルでもなく……『一人の女性』として、彼を独占したいって、ちゃんと伝えるの」

そらは、自分の薬指のリングをぎゅっと握りしめた。

春樹は鈍感だ。論理とシステムでしか世界を測れない彼に、自分のこのドロドロとした独占欲や焦燥感を、どう伝えればいいのか。

「……AZKiちゃん、私」

「ん?」

「今から、CTO室に行ってくる。……春樹のファイアウォール、強行突破してくる」

立ち上がったそらの瞳には、かつての不安は消え、ホロライブのトップアイドルとしての、そして「春樹の絶対的ヒロイン」としての強い覚悟の炎が宿っていた。

AZKiは「ふふっ、見学させてもらおうかな」と微笑み、そらの後ろをついて歩き出した。

### 第2章:密室の甘いノイズと、父親の言い分

その頃。最上階のCTO室では、そらの懸念が最悪の形で現実のものとなっていた。

「ハルパパー、コーヒー冷める前に飲んでー?」

「……お前なぁ。Aちゃんの監視網をどうやってすり抜けてきたんだ。ここは役員室だぞ」

春樹は、トリプルモニターに映し出された膨大なコードの海から視線を外すことなく、呆れた声を出した。

しかし、彼の声に怒りの色は全くない。それどころか、彼の背中には、金髪の少女——音乃瀬奏が、コアラのようにぴたりと張り付いていたのだ。

「えへへ、Aちゃん先輩は別フロアで会議中だったもん! それよりパパ、最近パソコンばっかり見ててつまんなーい! 私の頭撫でてよー!」

「今コンパイルの最終チェック中だ。手は離せん。……ほら、コーヒーはそこに置いておけ」

「むーっ!」

奏は不満げに頬を膨らませると、背中から離れ、今度は春樹が座る最高級チェアの肘掛けにちょこんと腰掛け、春樹の肩に自分の頭をコテンと乗せた。

「……あのさ、パパ」

「なんだ」

「そら先輩ってさ、パパの彼女なの?」

その直球すぎる質問に、春樹のタイピングの手がピタリと止まった。

「……は?」

「だってこの前、私がお部屋に入ってきた時、そら先輩すっごい怖い顔してたもん。私がパパに抱きついたから、怒ってたんでしょ? 完全に彼女のオーラだったよ」

奏の言葉に、春樹は深いため息をつき、チェアを少しだけ回転させて奏に向き直った。

「あのな、奏。オレとそらは、そういう陳腐な言葉で括れる関係じゃない」

「えー? じゃあ何?」

「オレは裏方で、あいつはオレの技術を証明するための最高の光だ。あいつが輝くためのシステムを組むのがオレの存在意義で、あいつはオレのシステムに命を吹き込んでくれる。……言うなれば、ハードウェアとOSのような不可分の関係だ」

「うわぁ、エンジニア特有のキモい例え出たー」

奏がドン引きした顔をするが、春樹は全く気に留めない。

「だから、お前があいつに『敵意』を向けられるのは筋違いだ。そらは優しい奴だが、ホロライブの看板を背負ってる自負がある。オレの時間を無駄に奪うような真似をすれば、あいつが怒るのも当然だ。……お前も、デビューしたなら自分の歌に集中しろ」

春樹の言葉は、CTOとしての正論であり、保護者としての説教だった。

しかし、奏はその言葉の裏にある「春樹の甘さ」を、親戚として長年付き合ってきたが故に完璧に見抜いていた。

「パパはそうやって、理屈ばっかり並べて逃げてるだけじゃん。……でもさ」

奏は、春樹の首に両腕を回し、下から覗き込むようにして上目遣いで微笑んだ。

「パパが『そういう関係じゃない』って言うなら、私がいっぱい甘えても問題ないよね? そら先輩には内緒で、私だけの『ハルパパ』でいてね?」

「……お前は本当に、昔から計算高いというか何というか……」

春樹は苦笑いしながら、奏の金髪を乱暴に、しかし優しくわしゃわしゃと撫でた。

「えへへ……パパの手、おっきくてあったかい……」

奏は嬉しそうに目を細め、春樹の胸にすり寄る。

血の繋がりという、絶対的な安心感。

春樹にとって奏は、どれだけワガママを言っても「世話の焼ける親戚の子供」であり、警戒心を解いてしまう相手だった。

——しかし。

このCTO室の防音扉が、ほんの数センチだけ開いていたこと。

そして、その隙間から漏れ出る甘い会話を、世界で一番聞かれてはならない人物が聞いてしまっていたことに、春樹はまだ気づいていなかった。

### 第3章:限界突破の生体データ(アラート)

CTO室の扉の外。

そらは、AZKiと共に立ち尽くしていた。

少し開いたドアの隙間から、春樹の膝の横に座り、彼の首に腕を回す奏の姿が見える。

そして、春樹が奏の頭を優しく撫でる姿も。

『私だけのハルパパでいてね?』

『……お前は本当に、昔から計算高いというか……』

その会話が耳に届いた瞬間。

そらの脳内で、何かが限界を超えてバツンッと弾け飛んだ。

同時に。

CTO室の内部で、鼓膜を劈くようなけたたましい電子音が鳴り響いた。

**『WARNING! WARNING!』**

「な、なんだ!?」

春樹が弾かれたようにモニターに振り返る。

トリプルモニターの中央。そこには、春樹が最も重要視しているウィンドウ——ときのそらの生体データを監視する専用アプリケーションが、画面全体を真っ赤に染め上げて警告を放っていた。

「BPM(心拍数)150突破!? 血圧急上昇、コルチゾール値(ストレスホルモン)の異常検知!? なんだこの異常な波形は……不整脈か!? いや、過呼吸の兆候か!?」

春樹の顔から完全に血の気が引いた。

彼は奏を半ば強引に膝から下ろし、キーボードを狂ったような速度で叩き始める。

「GPSトラッキング……現在位置は……本社ビル最上階!? なんでこんな近くに……くそっ、そら、どこで倒れてるんだ!!」

春樹がインカムを掴み、医療スタッフを呼ぼうとした、その時だった。

**バンッ!!**

CTO室の重厚な扉が、蹴り破られるかのような勢いで開かれた。

「——春樹」

そこに立っていたのは、医療スタッフの助けなど全く必要としていない——しかし、別の意味で「極限状態」にある、ときのそらだった。

その後ろで、AZKiが「あらあら」と口元を押さえて微笑んでいる。

「そ、そら……!? お前、無事だったのか!? 心拍数が異常な数値を吐き出して——」

「春樹」

そらは、春樹の言葉を遮り、ズンズンと彼に歩み寄った。

その顔には一切の笑顔がない。アイスブルーの瞳は、春樹の横で固まっている奏を一度だけ冷たく射抜き、そして再び春樹へと固定された。

「……私、春樹に言ったよね。春樹の隣は、譲ってあげられないって」

「そ、そら? お前、息が荒いぞ。とりあえずソファに座れ、今心拍を落ち着かせる薬を——」

「いらない!!」

そらの怒声が、CTO室に響き渡った。

春樹も、奏も、ビクッと肩を震わせる。ホロライブの女神が、これほどまでに感情を露わにするのは、春樹でさえ見たことがなかった。

「春樹は、本当にバカ! データばっかり見て、数字ばっかり見て……私の『心』なんて、これっぽっちも見てない!!」

そらは、春樹の胸ぐらを両手で強く掴み、ギリッと睨みつけた。

「この心拍数が、病気のせいだと思ってるの!? 違うよ! 春樹が、私以外の女の子に甘い顔をしてるから! 私以外の女の子を『特別』に扱うから!……嫉妬で、どうにかなりそうだから上がってるんだよ!!」

その言葉に、春樹の思考回路が完全に停止した。

天才エンジニアの論理的思考が、「嫉妬」という非論理的な感情のバグによって、完全にオーバーフローを起こしたのだ。

「し、嫉妬……? オレと奏に? だから言っただろ、こいつは親戚の——」

「関係ない!!」

そらは春樹の胸ぐらを掴んだまま、つま先立ちになり、春樹の顔を自分に引き寄せた。二人の鼻先が触れ合うほどの至近距離。

「……ハードウェアとかOSとか、そんな理屈はどうでもいい。私は、春樹の幼馴染でも、仕事のパートナーでも、管理するデータでもいたくない」

そらの声が、震え、そして熱を帯びた甘いものに変わる。

「……私を、ただの『女の子』として見て。奏ちゃんみたいな家族の枠じゃなくて……春樹の『一番』にして。春樹の奥さんに、してよ」

### 第4章:システムダウン、そして再構築される世界

CTO室は、水を打ったような静寂に包まれた。

「お、奥さん……っ!?」

奏が顔を真っ赤にして両手で口を覆う。

AZKiは「言ったね、そらちゃん」と満足げに頷いている。

そして、直撃を受けた春樹は。

顔から首まで、茹でダコのように真っ赤に染め上げ、完全にフリーズしていた。

「……そ、そら、お前……今、なんて……」

「言った。もう一回言おうか? 私を、春樹のお嫁さんにして。……他の子に頭なんて撫でさせないで」

そらは、潤んだ瞳で春樹を真っ直ぐに見つめ、彼を拘束していた手を解くと、今度は春樹の首に両腕を回し、ぎゅっと抱きついた。

春樹の胸に、そらの激しい心拍が直接伝わってくる。モニターの数値など見なくても、彼女がどれだけの勇気を振り絞ってこの言葉を伝えたのか、痛いほどに伝わってきた。

「……っ」

天才エンジニアの脳内で、これまで強固に張り巡らされていた「幼馴染」という名のファイアウォールが、音を立てて崩壊していく。

彼女を神聖視し、裏方として線引きをしていたのは、自分の方だった。彼女はとっくの昔に、そんな線を飛び越えて、自分の胸の中に飛び込んできていたのだ。

春樹は、深く、深く息を吸い込んだ。

そして、ゆっくりと腕を上げ、そらの背中を強く、そして優しく抱きしめ返した。

「……オレの負けだ。お前のその感情(データ)は、オレのシステムじゃ処理しきれない」

春樹の声は、これまでにないほど優しく、そして男らしいものだった。

「……わかった。もう言い訳はしない。お前の心臓の音も、そのバカみたいなヤキモチも、これからは全部、オレが一生かけて受け止めてやる」

「春樹……っ」

「だから、もう泣くな。……愛してるよ、そら」

春樹のその言葉に、そらは春樹の胸の中で「わぁっ」と声を上げて泣き出してしまった。

それは悲しみの涙ではない。長すぎた「第0エピソード」がようやく終わりを告げ、本当の物語が始まった歓喜の涙だった。

「……あのー」

完全に二人だけの世界(絶対不可侵領域)が完成してしまったCTO室の隅で、奏が気まずそうに手を挙げた。

「私……なんか、すっごく邪魔みたいなんで、帰ってもいいですか……?」

「ふふっ、奏ちゃん。大人たちの邪魔をしちゃダメだよ。ほら、一緒に行こうね」

AZKiが奏の手を引き、優しくCTO室の外へと連れ出していく。

ドアが閉まる直前、AZKiは抱き合う二人を見て、「おめでとう、春樹くん、そらちゃん」と小さく呟き、パタンと扉を閉めた。

夕暮れの光が差し込むCTO室。

トリプルモニターに映し出された生体データのアラートは、いつの間にか解除され、激しくも安定した、幸福な波形を刻み続けていた。

「……なあ、そら」

「ん……?」

「お前、今週末の実家の予定、空いてるか」

「うん、空いてるけど……どうして?」

春樹は、そらの涙を指先で優しく拭いながら、真剣な顔で言った。

「……親父さんとお袋さんに、挨拶に行かないとな。オレのシステムに、お前という存在を正式にインストールする許可をもらいに」

「もう、春樹ってば……そういう時まで、変な言い回しなんだから」

そらは吹き出し、そして、世界で一番幸せな笑顔で、春樹にキスをした。

観測され続けた特異点は、ついに融合を果たした。

完璧な技術者と、最高のトップアイドル。

二人の物語は、ここからまた、誰も見たことのない新しい星空のステージへと続いていくのである。

 

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