ホロ  オリ   作:raian sinra

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**【第10話】 音の求道者たちと、置いてきぼりの観測者**

### Scene 1:午後3時00分・スタジオCの平和な日常

カバー株式会社、地下第3フロア。

主にボーカルレコーディングや小規模な音声収録に使われる『スタジオC』は、木目調の防音壁に囲まれた、温かみのある空間だ。

調整室(コントロールルーム)のふかふかのソファには、出番を待つ白上フブキ、夏色まつり、そして博衣こよりの三人が並んで座り、持ち込んだお菓子をつまみながら談笑していた。

「いやー、今日の収録巻いてるね! この後みんなで焼肉行かない?」

「いいねぇ、まつりちゃん! フブキ、今日はハラミの気分だなー」

「こよりも行きます! 脳みそ使った後はタンパク質が必須ですからね!」

和やかな女子会の空気。

しかし、そのすぐ数メートル先――分厚いガラス窓の向こうのボーカルブースと、手前の巨大なミキシングコンソールを挟んだ空間だけは、全く別の『重力』が支配していた。

コンソールの前に座り、眉間に深いシワを寄せているチーフ・■■春樹。

そして、その真横に立ち、腕を組んで真剣な眼差しでスペクトラムアナライザー(音の周波数分布を視覚化するモニター)を睨みつけている、ホロライブ0期生・AZKi。

「……チーフ。このテイク、悪くはないんだけど」

AZKiが、普段の穏やかなトーンとは少し違う、ピンと張り詰めた「アーティスト」の声で口を開いた。

「サビの『あ』の母音の抜け際、8kHzから12kHzの帯域にかけて、ほんの少しだけ位相が滲んでない? コンデンサマイクのダイヤフラムの共振っていうより、ADコンバーターを通った後のクロックジッター(時間軸の揺らぎ)みたいな違和感があるの」

AZKiのその一言が、パンドラの箱を開けた。

「……お前もそう思うか。俺もさっきからそこが引っかかってた」

春樹はキーボードから手を離し、顎に手を当てた。その目には、徹夜明けの疲労を吹き飛ばすような「技術者としての狂気」が宿り始めていた。

「マイクプリの真空管のサチュレーション(飽和感)は悪くない。だが、DAW(音楽制作ソフト)に流し込む時のバッファサイズが、この特殊なプラグインの内部演算と干渉して、0.1ミリ秒単位の微小なレイテンシを生んでるんだ。結果として、高音域の倍音成分が相殺(フェーズキャンセル)されて、音が『曇って』聞こえる」

「やっぱり! じゃあ、汎用のオーディオインターフェースのドライバーじゃなくて、コンソールから直接FPGA(書き換え可能な集積回路)のカスタムDSPにルーティングして、リアルタイムで位相補正をかけたらどうかな?」

「……なるほど。だがそれだと、お前の声の『生々しさ』である奇数次倍音が削られる危険がある。いっそ、ソフトウェア側の処理を全部バイパスして、俺が今からC++で専用の畳み込み演算(コンボリューション)スクリプトを書いて、ハードウェアレベルで処理を最適化するか?」

「最高。チーフ、それならインパルス応答(IR)のデータは、私が持ってるこのホールの環境データを使って。ここの残響特性、私の声のフォルマント(周波数特性)と完全に一致するから」

「よし、USB貸せ。5分でコンパイルする」

カタカタカタカタカタカタカタッ!!!!

突如として、春樹の指がキーボードの上で目にも留まらぬ速さで踊り始めた。

AZKiも春樹の肩越しにモニターを覗き込み、「あ、そこのハイパスフィルターのQ値、もう少しなだらか(ブロード)にして」「了解、スロープは-12dB/octで設定する」と、即座に指示を飛ばす。

ソファでポテトチップスを咥えていたまつりが、口をポカーンと開けた。

「……ねえ、フブキ」

「……んー?」

「あの二人、今、何語喋ってるの?」

「フブキにもわからん。なんか魔法の詠唱みたいになってるね……」

### Scene 2:共鳴する二人の「変態(クリエイター)」

春樹とAZKi。

ホロライブという巨大な箱庭において、この二人の関係性は少し特殊だ。

そらが「太陽」、すいせいが「彗星」だとするなら、AZKiは音の深淵を探求し続ける「求道者」である。

そして春樹にとってAZKiは、タレントであると同時に、自身と同じ匂いを感じる**『重度の技術オタク(変態)』**の同志だった。

音楽と音響に対する並々ならぬ執着。一切の妥協を許さない耳。そして、春樹の専門用語の弾幕(フルオート)を、ノータイムで理解して撃ち返してくる圧倒的な知識量。

「AZKi、スクリプト組めたぞ。テストトラック流す」

「うん、お願い」

スピーカーから、先ほど収録したAZKiのアカペラ音源が流れる。

ソファにいる三人には「さっきと同じすごく綺麗な歌声」にしか聞こえない。しかし、コンソール前の二人の顔は険しいままだった。

「……違う」

「……ああ、ダメだ」

二人の声がハモる。

「チーフ、位相のズレは消えたけど、今度はトランジェント(音の立ち上がり)が丸くなりすぎてる。私が表現したい『息を吐き捨てるようなエッジ』が死んでるよ」

AZKiがモニターを指差す。

「ダイナミックEQのコンプレッション・スレッショルドが深すぎるのかな?」

「いや、違う。これは俺が組んだスクリプトの演算精度の問題だ。浮動小数点演算を32bitから64bit(ダブルプレシジョン)に引き上げれば解決するが、それだとCPUのL3キャッシュに乗らなくて処理落ちする可能性がある」

「じゃあ、マルチスレッド処理の並列化(マルチコア・アサイン)を強制的に割り当てたら? 別のタスクを全部切って、音の処理だけにマシンの全リソースを突っ込めばいけるでしょ」

「……お前、相変わらず無茶言うな。このPC、他のスタジオの空調管理とセキュリティネットワークのサブホストも兼ねてるんだぞ」

「チーフの『本気』はそんなものなの?」

AZKiが、少しだけ首を傾け、春樹を下から覗き込むようにして微笑んだ。

それは、純粋な好奇心と、「もっとすごい音を作ろうよ」というクリエイター特有の蠱惑的な挑発だった。

春樹の口元が、ニヤリと歪む。

「……上等だ。空調が10分止まったところで誰も死なない。セキュリティの監視プロセスを一回落とす。メインサーバーの第4クラスターをこっちのローカルにブリッジ接続して、演算能力を暴力的に引き上げるぞ」

春樹は手元のコンソールにコマンドを打ち込み始めた。

> 『Warning: System Resource Allocation Override』

>

モニターに警告の赤い文字が表示されるが、春樹は躊躇いなくエンターキーを叩く。

「AZKi、ついでにお前が前言ってた『真空管を通したようなアナログの温かみ』も、アルゴリズムで完全再現してやる。偶数次倍音を動的に付加するエキサイター回路を仮想空間上にエミュレートするぞ」

「本当!? じゃあ、サンプリングレートは192kHzにアップサンプリングして処理して! ナイキスト周波数の折り返しノイズを完全に排除したい!」

「処理速度ギリギリの綱渡りになるぞ。だが……やってやる」

二人はモニターを見つめたまま、完全に「自分たちだけの世界」へと没入していった。

専門用語と数字の羅列が、卓球のスマッシュのような恐ろしい速度で飛び交う。

### Scene 3:思考停止する少女たち

「……ねえ」

ソファ席で、まつりが完全に死んだ魚の目をしていた。

「チーフが今、『空調切る』とか『セキュリティ落とす』とか、ヤバいこと言ってなかった?」

「言ってたねぇ。スタジオC、なんかちょっと暑くなってきた気がするよぉ……」

フブキも狐の耳をしんなりと寝かせ、手で顔を扇ぎ始めた。

「待ってください! こより、二人の会話をメモして今後の配信の音質向上に役立てようと思ったんですが……!」

ホロライブの頭脳を自称するこよりが、白煙を上げそうな勢いでタブレットにペンを走らせていた。

「だ、ダイナミックイーキュー? サンプリングレート? ナイキスト周波数……? ダメです、こよりのIQを以てしても、途中から全く翻訳できません! チーフとAZKi先輩、あの短時間で情報量多すぎます!」

「こよこよ、諦めな。あれは『変態』の領域の会話だから、一般人のうちらが理解しようとしたら脳味噌が焼き切れるよ」

フブキが、仙人のような悟った顔でポテトチップスを齧る。

「でもさ」

まつりが、呆れ半分、感心半分といった表情で二人を見つめた。

「AZKi先輩って、普段はあんなに清楚でおしとやかなのに。音楽のことになると、チーフと同じくらい『ヤバい目』になるよね」

「そうなんですよー。チーフもチーフで、普段は『徹夜明けで死にそう……』とか言ってるのに、AZKi先輩と話し出すと突然生き生きし始めるんですよね。類は友を呼ぶってやつですかね」

こよりがタブレットを置いてため息をつく。

スタジオの中央では、相変わらず理解不能な専門用語の応酬が続いていた。

「AZKi、ここのクロスオーバー周波数、3.5kHzで切るぞ」

「ダメ、チーフ! 私のファルセット(裏声)の一番美味しい成分が削られちゃう! 4.2kHzまで上げて、急峻なカーブで落として!」

「わかった、ならQ値は8.0だ! これでどうだ!」

「ああっ……最高! 今の音、チーフ天才!!」

「だろ!? 俺も今、脳汁出たわ!!」

ハイタッチを交わし、歓喜に湧く春樹とAZKi。

その光景は、もはやアーティストとエンジニアの枠を超え、マッドサイエンティスト同士の狂宴のようだった。

「……ねえ、フブキ。うちら、いつまで待てばいいの?」

「さあ……。このままだと、うちらの収録枠、彼らの『究極の音作り』の生贄になるかもしれないね……」

### Scene 4:究極の『音』の完成と、観測者たちの敗北

それから約20分後。

突如として、スタジオCのスピーカーから、圧倒的な密度を持った「音」が流れ出した。

『――――♪』

それは、先ほどまで流れていたAZKiのアカペラ音源と同じもののはずだった。

しかし。

「え……っ?」

まつりが、持っていたポテトチップスをポロリと落とした。

フブキの狐の耳が、ビクッと逆立つ。

こよりは、目を限界まで見開き、言葉を失っていた。

音が、違う。

いや、「次元」が違った。

スピーカーから鳴っているという感覚がない。まるで、AZKi本人が目の前10センチの距離に立って、耳元で直接歌いかけてくれているような、恐ろしいほどの生々しさ。

息を吸い込む時の微かなリップノイズ。

声帯が震え、空気が振動するその「体温」までが、肌にビリビリと伝わってくる。

高音はどこまでも澄み渡り、低音は空間全体を優しく包み込む。

「なに、これ……」

フブキが腕をさすった。そこには、びっしりと鳥肌が立っていた。

「これが、俺とAZKiの導き出した『最適解』だ」

コンソールの前で、春樹が疲れ切った――しかし最高に満足そうなドヤ顔で、ソファの三人に向けて親指を立てた。

隣に立つAZKiも、頬を紅潮させ、満面の笑みで頷いている。

「すごいよチーフ! 私の頭の中で鳴っていた『理想の音』が、寸分の狂いもなく完全に再現されてる! ……チーフの魔法、本当に世界一!」

「お前の耳が変態的に良すぎるんだよ。普通、そこまで細かい位相のズレなんて聞き取れねえよ」

「えへへ。チーフと一緒じゃないと、ここまでできなかったよ」

二人は互いの健闘を称え合い、固い握手を交わした。

その光景は、完全に『全てをやり遂げた主人公とヒロイン』のそれである。

「……あのー」

まつりが、恐る恐る手を挙げた。

「チーフ、AZKi先輩。すごいのは、めちゃくちゃすごいのはわかったんだけど……」

「ん? どうした、まつり」

春樹が振り返る。

「うちらの収録の順番、あとどれくらい待てばいいのかな……?」

まつりの言葉に、春樹とAZKiの動きがピタリと止まった。

春樹が手元の時計を見る。

「……あ」

予定されていたAZKiの収録枠は、とっくに終了時間を30分オーバーしていた。

そして、システムのリソースを全て「音」に全振りしたため、スタジオの空調は切れたままで、室内はサウナのような熱気に包まれている。

「……AZKi。お前、ボイトレの予約入ってなかったか?」

「……あっ。Aちゃんに『絶対に遅れないでくださいね』って念押しされてたんだった」

二人の顔から、スッと血の気が引いていく。

「チーーフ!! AZKiさぁぁん!!」

その時、スタジオの防音扉がバンッ!と勢いよく開かれ、スケジュール帳を握りしめたAちゃんが般若のような顔で立っていた。

「なぜ空調のシステムアラートが鳴っているんですか!? というか、AZKiさんの収録はとっくに終わっているはずですよね!? 次のまつりさんたちのスケジュールが押してるじゃないですか!!」

「ひぃっ!! Aちゃんごめん、チーフと音の話で盛り上がっちゃって……!」

「俺のせいじゃない! AZKiがミリ秒単位のノイズにケチをつけるから……!」

「問答無用です! チーフは後で始末書! AZKiさんは直ちにボイトレへ向かってください!!」

Aちゃんの怒号が響き渡り、AZKiは「ご、ごめんなさいー!」と泣きそうな顔でスタジオを飛び出していった。

春樹はガクリと項垂れ、再び空調のシステムを復旧させるためにキーボードを叩き始める。

そのドタバタ劇を見ながら、ソファの三人は顔を見合わせてクスクスと笑い出した。

「やっぱり、あの二人は『変態』だね」

「フブキもそう思う。でも、あんなすごい音を作られちゃったら、誰も文句言えないよねぇ」

「こよりも、いつかチーフにあれくらい自分の機材を最適化してもらえるように、専門用語の勉強頑張ります!」

ホロライブの裏側に隠された、音の求道者たちによるマニアックで変態的な日常。

彼女たちの見えない情熱と狂気が、今日もホロライブの「世界一のステージ」を影から支え続けているのだった。

 

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