市ヶ谷の緩やかな坂の途中に立つ、日本棋院会館。
その大ホールには今、碁盤が整然と並べられ、その数だけ小さな背中が盤面を見つめている。
俺はその卓の狭間を、ゆったりとした足取りで歩いていた。
(アキラ君が小6の年の、全国こども囲碁大会。原作の記憶もだいぶ曖昧になってきたが、今日という日のはず……)
近くの盤面を覗くふりをしながら、意識を常に出入口へ向ける。
今日そこに、
(頼むぜ、原作通り来てくれよ)
ふと顔を上げた子供が、俺を見てびくりと肩を震わせた。
顔に出ていたのかと、誤魔化すようにメガネのブリッジを押し上げ、何食わぬ顔でその場を離れた。
祈るような気持ちで、一回戦の進行を見守る。
やがて、ぽつぽつと対局を終える組が出始めた頃。
引率者の人混みの中に、見間違えようのない金の前髪が覗いた。
(進藤ヒカル!)
はやる気持ちをぐっと抑え込み、目立たぬようゆっくりと近づく。
興味深げに会場を見つめていた少年の肩をそっと叩くと、突然のことに驚いたのか、弾かれたように顔を上げた。
「大丈夫か?」
「へ?」
「後ろの奴だ。憑かれてるんだろう?」
「えっ、見えて──モガッ」
耳元での囁きに、大声で返されそうになったため、慌てて少年の口元を押さえて遮る。
人差し指を自分の唇に当てて見せると、見開かれていた瞳から、わずかに力が抜けた。
それを確認してから、そっと手を離す。
「森さん。この子、気分がすぐれないようなので、少し外の空気を吸わせてきます」
「緒方先生、それなら私が──」
「すぐに戻るので」
被せるように言い切り、戸惑う少年の手を引いてホールを出る。受付で適当な理由を並べ、空き部屋をひとつ借りて連れ込んだ。
「あんなところで叫ぶ奴がいるか」
「そんなことより、オッサン、佐為が見え──っ!」
物分かりが悪い頭に、軽くチョップを入れる。
「そんなことで片付けるな。キミは真剣勝負を邪魔しかけたんだぞ?少しは反省しろ」
「……はぁい」
唇を尖らせた返事に、思わずため息が漏れそうになる。
どうせ内心では、俺が妙なことを言って驚かせたせいだ、くらいに思っているのだろう。
「それと、誰がオッサンだ。俺はまだ27だ」
「?…オッサンじゃん」
「・・・・」
クソガキにも程がある。
精神年齢は、人生2周目のためオッサンかもしれない。だが、このガワでオッサン呼ばわりされるのは、納得できない。
「お前、名前は?」
「えっ?」
知ってはいる。
だが、先に口にして不審がられるのも面倒だ。俺は改めて問い返した。
「名前」
「進藤ヒカル……」
「よし、進藤。俺の名は緒方精次だ。今から俺のことは緒方先生と呼べ」
「えぇっ⁉︎なんでだよ!」
「俺がお前より偉いからだ」
腕を組み、睨みつける。
進藤は最初こそ反発したそうに顔を歪めたが、佐為に何か言われでもしたのか、やがて居心地悪そうに視線を落とした。
「……わかったよ。オガタセンセー」
渋々ながら受け入れた進藤に、これでようやく本題かと気を引き締める。
なにせ、ここからの会話の大半は嘘になる。人生2周目の演技力が試される、正念場だった。
「話を戻すぞ。狩衣に立烏帽子の幽霊は、お前に取り憑いている。間違いないか?」
「かり?……ああ、うん。白い着物の幽霊はオレの連れだよ。やっぱり見えるんだ」
「いや、見えたと言っても一瞬だけだ。今はもう見えない」
「えっ?」
進藤の背後──佐為がいるはずの位置へ視線を向ける。だが、俺の目に映るのは、見慣れた調度品だけだ。
見えれば話が早かったんだが、そこまで都合よくはいかないらしい。
なので、あらかじめ考えておいた設定を口にした。
「ガキの頃は、そういうモノが見えていた。だが、もう長いこと縁が切れていてな。それなのに、ホールに入ってきたお前の背後に、一瞬だけ妙なモノが見えた。平安貴族のような格好をした何かだ。今さら見えるなら、相当タチの悪い類だと思ったんだが……」
「迷惑はしてるけど、悪霊ってほどじゃない…かな……?」
「それなりに仲良くやっている、と?」
「まぁね」
「なるほど。見えているにしては顔に陰気さがないと思ったが、そういうことか」
進藤はわずかに視線を泳がせた。
「……なんか見えてるって、バレバレ…でしたか?」
「取ってつけた敬語はいらん。バレバレかどうかは、見えた俺には判断できないが……苦労してるのか?」
「だって、話しかけられたらつい反応しちゃうじゃん。おかげで学校じゃ、変になったって言われるし、散々だよ」
佐為とも会話しているのだろう。
こちらとの会話の最中にも、ときおり斜め上へ視線が向く。戸惑ったり、笑ったり、げんなりしたり。なかなかに忙しそうだ。
「その様子なら、心配はいらなかったようだな」
「なに?センセーってば、オレを心配して声かけてくれたわけ?」
「そう言っている」
「へ〜。見かけによらないんだ」
思わず、少し強めにチョップを入れる。
心配して声をかけたわけじゃないが、そう言われると妙に腹が立つ。
「いった!」
「まったく……。連れ出して悪かったな。会場には誰かの応援で来ていたんだろう?」
「いや、こいつ…佐為が、囲碁囲碁うるさいから、しょうがなく見に来たんだよ。あんまほっとくと、こいつの感情が流れてきて、気持ち悪くなるからさ」
「ほぅ…。幽霊は囲碁を嗜むのか」
「打ちたい打ちたい、打て打てって、うるさくってさー」
「ならば俺と一局、と言いたいところだが……」
「だーっ!うるせーよ‼︎」
耳を押さえ、背後を振り仰ぐ進藤に、思わず笑みが漏れた。
「そちらも乗り気らしいな。だが残念なことに、俺は仕事中だ」
「センセー、余計なこと言わないでよ。うるさくなっちゃったじゃん」
「悪い悪い。そうだな……今日は無理だが、明日の放課後はどうだ?」
「えっ?本気なの⁉︎」
「幽霊と打てる機会なんて、そうないだろう?お前が暇なら頼みたい」
「暇っちゃ暇だけど……石置くの疲れるんだよなぁ」
今の進藤に言ったところで詮無きことだが、実にもったいない。
「……囲碁に未練があるなら、悔いのない一局を打てば成仏してくれるかもしれんぞ?」
「もう一回って言うだけな気が……あ〜、も〜、わかったって。打てばいいんだろ。打てば」
後ろから相当せっつかれているのだろう。
押し負けたらしい進藤は、ガックリと肩を落とした。
「はぁ…。センセ、明日付き合うよ」
「学校は何時ごろ終わる?」
「6時間目まであるから、4時ぐらいかな」
「なら、放課後に校門まで迎えに行く。場所はお前の家でいいな?」
「ええぇ⁉︎オレんち⁉︎」
「ひとり部屋じゃないのか?」
「ひとり部屋だけど、囲碁の道具とかないよ?センセーんちじゃダメ?」
「駄目だ。親御さんの許可なく、未成年を連れ込むわけにはいかない」
「店とかは?」
「人がいる場所で、幽霊の話はできないだろう。お前も、隠しながら話すのは面倒じゃないか?」
「まぁ、確かに……」
「それに、時間が遅くなりすぎる。盤と石は俺が持っていくから、お前の部屋を使わせろ」
「遅くなりすぎるって、そんな時間かかるの?」
「夕飯ギリギリまで打たせてもらう」
「えぇ〜っ⁉︎それだと2時間近く座ってないといけないじゃん!やだよ」
「コンビニで好きなだけ買い物していいぞ」
「ゴチになります!」
現金なガキである。
名刺を渡し、小学校名を聞き出す。
会場に戻るか聞くと、場違い感があったらしく、そのまま帰るという。
棋院の入口で別れ、俺は会場へと引き返した。
(楽なものだったな)
佐為から待ったがかかる可能性も考えていたが、誌面から受けた印象そのままの囲碁馬鹿だったらしい。
全て、思惑通りに進んでいる。
これで明日には、あの藤原佐為と──本因坊秀策と打つことができるのだ。
腹の底から湧き上がる高揚感に、自然と口元が綻んでいた。
「んふふ……っぷふ……」
「いつまで笑ってる」
翌日、学校からの帰り道。
ランドセルを背負った進藤は、忍び笑いを漏らしながら俺の横を歩いていた。
「センセーが悪いんだよ。センセーが。白スーツにマフィアみたいなコートで学校に来るからさ……ぶふっ!」
「うるさい」
終業を校門付近で待っていたのだが、気づけば警官に囲まれ、職質を受けていた。
そこを進藤に見つかり、この有様だ。
白スーツに、チャコールグレーのポロコート。
自分がどう見られるかくらい、普段なら理解している。
それなのに、警官に声をかけられるまで、小学校前に俺が立つという絵面が周囲にどう映るのか、まるで頭から抜け落ちていた。
(ああ、そうさ。完全に浮ついていたとも)
だからといって、コイツにここまで笑われるいわれはない。
「……俺がこの後、お前の財布になるってことを忘れてないか?予算を削ることもできるんだぞ」
「えぇっ⁉︎勘弁してよセンセー。それだけを楽しみにしてんだからさ〜」
クソガキである。
だが、仕方ない面もある。
この時期の進藤は、まだ囲碁に興味を持っていない。
そんな子供を2時間以上拘束するのだ。報酬でもなければ、付き合っていられないだろう。
結局、好きなだけ菓子を買わせ、進藤家を訪れることになった。
話を通しておけと名刺まで渡したにもかかわらず、母親に何の説明もしていなかった進藤に頭を痛めつつ、『囲碁普及のため』という苦しい言い訳で上がり込み、ようやく一息つく。
「余計なことで神経を使わせやがって」
「あはは……」
思ったより物の少ない、整理された部屋だった。
中央には、折りたたみ式のちゃぶ台が置かれている。
何かしら台を準備するよう伝えていたが、こちらは忘れていなかったらしい。
作りがしっかりしていることを確かめると、その上に折り畳み式の碁盤を拡げた。
「幽霊の棋力はわかるか?」
「棋力……強さだっけ」
「そういう認識でいい」
「黒持ったら負けたことないって言ってた。でも、140年前の話だからな〜」
「140年?平安貴族じゃないのか?」
「江戸時代にも人に取り憑いて、碁を打ってたんだってさ」
「……先番一生不敗か。これは気合を入れないとな」
碁石に触れた指先が、わずかに震える。
「互先で。コミはわかるか?」
「5目半であってる?」
「あっている。俺が握るぞ」
生まれ直したこの身が、『ヒカルの碁』の緒方精次だと気づいてから、どれほどこの時を待ち望んだか知れない。
一度、深く深く息を吸う。
胸の昂りを押し込み、静かに碁石を握った。
GWにヒカ碁を読むというファンの義務をこなしていたところ、急に降りてきたので1月ほどで書き上げました。
出だしこんなんですが、師弟モノのつもりで書いてます。
おまけで、たまに佐為と名人がイチャイチャします。
対局シーンは今夜投稿です。