憧れのその先へ   作:くま子

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第一話

 市ヶ谷の緩やかな坂の途中に立つ、日本棋院会館。

 その大ホールには今、碁盤が整然と並べられ、その数だけ小さな背中が盤面を見つめている。

 俺はその卓の狭間を、ゆったりとした足取りで歩いていた。

 

(アキラ君が小6の年の、全国こども囲碁大会。原作の記憶もだいぶ曖昧になってきたが、今日という日のはず……)

 

 近くの盤面を覗くふりをしながら、意識を常に出入口へ向ける。

 今日そこに、主人公(・・・)が現れるはずだからだ。

 

(頼むぜ、原作通り来てくれよ)

 

 ふと顔を上げた子供が、俺を見てびくりと肩を震わせた。

 顔に出ていたのかと、誤魔化すようにメガネのブリッジを押し上げ、何食わぬ顔でその場を離れた。

 

 祈るような気持ちで、一回戦の進行を見守る。

 

 やがて、ぽつぽつと対局を終える組が出始めた頃。

 引率者の人混みの中に、見間違えようのない金の前髪が覗いた。

 

(進藤ヒカル!)

 

 はやる気持ちをぐっと抑え込み、目立たぬようゆっくりと近づく。

 興味深げに会場を見つめていた少年の肩をそっと叩くと、突然のことに驚いたのか、弾かれたように顔を上げた。

 

「大丈夫か?」

「へ?」

「後ろの奴だ。憑かれてるんだろう?」

「えっ、見えて──モガッ」

 

 耳元での囁きに、大声で返されそうになったため、慌てて少年の口元を押さえて遮る。

 人差し指を自分の唇に当てて見せると、見開かれていた瞳から、わずかに力が抜けた。

 それを確認してから、そっと手を離す。

 

「森さん。この子、気分がすぐれないようなので、少し外の空気を吸わせてきます」

「緒方先生、それなら私が──」

「すぐに戻るので」

 

 被せるように言い切り、戸惑う少年の手を引いてホールを出る。受付で適当な理由を並べ、空き部屋をひとつ借りて連れ込んだ。

 

「あんなところで叫ぶ奴がいるか」

「そんなことより、オッサン、佐為が見え──っ!」

 

 物分かりが悪い頭に、軽くチョップを入れる。

 

「そんなことで片付けるな。キミは真剣勝負を邪魔しかけたんだぞ?少しは反省しろ」

「……はぁい」

 

 唇を尖らせた返事に、思わずため息が漏れそうになる。

 どうせ内心では、俺が妙なことを言って驚かせたせいだ、くらいに思っているのだろう。

 

「それと、誰がオッサンだ。俺はまだ27だ」

「?…オッサンじゃん」

「・・・・」

 

 クソガキにも程がある。

 精神年齢は、人生2周目のためオッサンかもしれない。だが、このガワでオッサン呼ばわりされるのは、納得できない。

 

「お前、名前は?」

「えっ?」

 

 知ってはいる。

 だが、先に口にして不審がられるのも面倒だ。俺は改めて問い返した。

 

「名前」

「進藤ヒカル……」

「よし、進藤。俺の名は緒方精次だ。今から俺のことは緒方先生と呼べ」

「えぇっ⁉︎なんでだよ!」

「俺がお前より偉いからだ」

 

 腕を組み、睨みつける。

 進藤は最初こそ反発したそうに顔を歪めたが、佐為に何か言われでもしたのか、やがて居心地悪そうに視線を落とした。

 

「……わかったよ。オガタセンセー」

 

 渋々ながら受け入れた進藤に、これでようやく本題かと気を引き締める。

 なにせ、ここからの会話の大半は嘘になる。人生2周目の演技力が試される、正念場だった。

 

「話を戻すぞ。狩衣に立烏帽子の幽霊は、お前に取り憑いている。間違いないか?」

「かり?……ああ、うん。白い着物の幽霊はオレの連れだよ。やっぱり見えるんだ」

「いや、見えたと言っても一瞬だけだ。今はもう見えない」

「えっ?」

 

 進藤の背後──佐為がいるはずの位置へ視線を向ける。だが、俺の目に映るのは、見慣れた調度品だけだ。

 見えれば話が早かったんだが、そこまで都合よくはいかないらしい。

 なので、あらかじめ考えておいた設定を口にした。

 

「ガキの頃は、そういうモノが見えていた。だが、もう長いこと縁が切れていてな。それなのに、ホールに入ってきたお前の背後に、一瞬だけ妙なモノが見えた。平安貴族のような格好をした何かだ。今さら見えるなら、相当タチの悪い類だと思ったんだが……」

「迷惑はしてるけど、悪霊ってほどじゃない…かな……?」

「それなりに仲良くやっている、と?」

「まぁね」

「なるほど。見えているにしては顔に陰気さがないと思ったが、そういうことか」

 

 進藤はわずかに視線を泳がせた。

 

「……なんか見えてるって、バレバレ…でしたか?」

「取ってつけた敬語はいらん。バレバレかどうかは、見えた俺には判断できないが……苦労してるのか?」

「だって、話しかけられたらつい反応しちゃうじゃん。おかげで学校じゃ、変になったって言われるし、散々だよ」

 

 佐為とも会話しているのだろう。

 こちらとの会話の最中にも、ときおり斜め上へ視線が向く。戸惑ったり、笑ったり、げんなりしたり。なかなかに忙しそうだ。

 

「その様子なら、心配はいらなかったようだな」

「なに?センセーってば、オレを心配して声かけてくれたわけ?」

「そう言っている」

「へ〜。見かけによらないんだ」

 

 思わず、少し強めにチョップを入れる。

 心配して声をかけたわけじゃないが、そう言われると妙に腹が立つ。

 

「いった!」

「まったく……。連れ出して悪かったな。会場には誰かの応援で来ていたんだろう?」

「いや、こいつ…佐為が、囲碁囲碁うるさいから、しょうがなく見に来たんだよ。あんまほっとくと、こいつの感情が流れてきて、気持ち悪くなるからさ」

「ほぅ…。幽霊は囲碁を嗜むのか」

「打ちたい打ちたい、打て打てって、うるさくってさー」

「ならば俺と一局、と言いたいところだが……」

「だーっ!うるせーよ‼︎」

 

 耳を押さえ、背後を振り仰ぐ進藤に、思わず笑みが漏れた。

 

「そちらも乗り気らしいな。だが残念なことに、俺は仕事中だ」

「センセー、余計なこと言わないでよ。うるさくなっちゃったじゃん」

「悪い悪い。そうだな……今日は無理だが、明日の放課後はどうだ?」

「えっ?本気なの⁉︎」

「幽霊と打てる機会なんて、そうないだろう?お前が暇なら頼みたい」

「暇っちゃ暇だけど……石置くの疲れるんだよなぁ」

 

 今の進藤に言ったところで詮無きことだが、実にもったいない。

 

「……囲碁に未練があるなら、悔いのない一局を打てば成仏してくれるかもしれんぞ?」

「もう一回って言うだけな気が……あ〜、も〜、わかったって。打てばいいんだろ。打てば」

 

 後ろから相当せっつかれているのだろう。

 押し負けたらしい進藤は、ガックリと肩を落とした。

 

「はぁ…。センセ、明日付き合うよ」

「学校は何時ごろ終わる?」

「6時間目まであるから、4時ぐらいかな」

「なら、放課後に校門まで迎えに行く。場所はお前の家でいいな?」

「ええぇ⁉︎オレんち⁉︎」

「ひとり部屋じゃないのか?」

「ひとり部屋だけど、囲碁の道具とかないよ?センセーんちじゃダメ?」

「駄目だ。親御さんの許可なく、未成年を連れ込むわけにはいかない」

「店とかは?」

「人がいる場所で、幽霊の話はできないだろう。お前も、隠しながら話すのは面倒じゃないか?」

「まぁ、確かに……」

「それに、時間が遅くなりすぎる。盤と石は俺が持っていくから、お前の部屋を使わせろ」

「遅くなりすぎるって、そんな時間かかるの?」

「夕飯ギリギリまで打たせてもらう」

「えぇ〜っ⁉︎それだと2時間近く座ってないといけないじゃん!やだよ」

「コンビニで好きなだけ買い物していいぞ」

「ゴチになります!」

 

 現金なガキである。

 名刺を渡し、小学校名を聞き出す。

 会場に戻るか聞くと、場違い感があったらしく、そのまま帰るという。

 棋院の入口で別れ、俺は会場へと引き返した。

 

(楽なものだったな)

 

 佐為から待ったがかかる可能性も考えていたが、誌面から受けた印象そのままの囲碁馬鹿だったらしい。

 全て、思惑通りに進んでいる。

 これで明日には、あの藤原佐為と──本因坊秀策と打つことができるのだ。

 腹の底から湧き上がる高揚感に、自然と口元が綻んでいた。

 

 

 

 

 

 

「んふふ……っぷふ……」

「いつまで笑ってる」

 

 翌日、学校からの帰り道。

 ランドセルを背負った進藤は、忍び笑いを漏らしながら俺の横を歩いていた。

 

「センセーが悪いんだよ。センセーが。白スーツにマフィアみたいなコートで学校に来るからさ……ぶふっ!」

「うるさい」

 

 終業を校門付近で待っていたのだが、気づけば警官に囲まれ、職質を受けていた。

 そこを進藤に見つかり、この有様だ。

 白スーツに、チャコールグレーのポロコート。

 自分がどう見られるかくらい、普段なら理解している。

 それなのに、警官に声をかけられるまで、小学校前に俺が立つという絵面が周囲にどう映るのか、まるで頭から抜け落ちていた。

 

(ああ、そうさ。完全に浮ついていたとも)

 

 だからといって、コイツにここまで笑われるいわれはない。

 

「……俺がこの後、お前の財布になるってことを忘れてないか?予算を削ることもできるんだぞ」

「えぇっ⁉︎勘弁してよセンセー。それだけを楽しみにしてんだからさ〜」

 

 クソガキである。

 だが、仕方ない面もある。

 この時期の進藤は、まだ囲碁に興味を持っていない。

 そんな子供を2時間以上拘束するのだ。報酬でもなければ、付き合っていられないだろう。

 

 結局、好きなだけ菓子を買わせ、進藤家を訪れることになった。

 話を通しておけと名刺まで渡したにもかかわらず、母親に何の説明もしていなかった進藤に頭を痛めつつ、『囲碁普及のため』という苦しい言い訳で上がり込み、ようやく一息つく。

 

「余計なことで神経を使わせやがって」

「あはは……」

 

 思ったより物の少ない、整理された部屋だった。

 中央には、折りたたみ式のちゃぶ台が置かれている。

 何かしら台を準備するよう伝えていたが、こちらは忘れていなかったらしい。

 作りがしっかりしていることを確かめると、その上に折り畳み式の碁盤を拡げた。

 

「幽霊の棋力はわかるか?」

「棋力……強さだっけ」

「そういう認識でいい」

「黒持ったら負けたことないって言ってた。でも、140年前の話だからな〜」

「140年?平安貴族じゃないのか?」

「江戸時代にも人に取り憑いて、碁を打ってたんだってさ」

「……先番一生不敗か。これは気合を入れないとな」

 

 碁石に触れた指先が、わずかに震える。

 

「互先で。コミはわかるか?」

「5目半であってる?」

「あっている。俺が握るぞ」

 

 生まれ直したこの身が、『ヒカルの碁』の緒方精次だと気づいてから、どれほどこの時を待ち望んだか知れない。

 一度、深く深く息を吸う。

 胸の昂りを押し込み、静かに碁石を握った。

 




GWにヒカ碁を読むというファンの義務をこなしていたところ、急に降りてきたので1月ほどで書き上げました。
出だしこんなんですが、師弟モノのつもりで書いてます。
おまけで、たまに佐為と名人がイチャイチャします。

対局シーンは今夜投稿です。
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