ヒカ碁の世界で緒方精次となったからには、打倒saiを掲げたい。   作:くま子

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第十二話

 11月上旬、進藤はプロ入りを決めた。

 この年の合格者は、首位通過の越智康介、2位の進藤ヒカル、3位の和谷義高。進藤は途中で連敗を挟んだものの、危なげなく合格を掴み取った。

 期間中も何度か顔を合わせたが、進藤が試験について口にしなかったため、俺もあえて話題にはしなかった。

 そのため、戦績の推移だけは棋院のHPで確認していたが、合格を決めるその日まで、棋譜を見ることもなかった。

 

「……待て」

 

 進藤の手から放たれた黒が、左辺の白の頭を押さえたところで声をかける。

 

「なに?」

「この局はここで中断だ」

 

 そう言って、中盤に差し掛かったばかりの盤上を崩し、石を分ける。

 そして黒を二子置き、白石を握り直した。

 

「仕切り直しだ」

「!……よっしゃっ!」

 

 三子局では、勝負が崩れる。

 最初は不思議そうにしていた進藤だったが、俺が置いた石の数を見るなり、小さくガッツポーズを作った。

 男子三日会わざればと言うが、目覚ましいことだ。この様子なら、定先になるのもそう遠くはないだろう。

 やはり真剣勝負は人を成長させる。

 とりわけプロ試験は違う。勝者が敗者の屍の上に立つものなのだと否応なく突きつけられ、腹を括らせる。

 

「来春には初段か……」

 

 あのクソガキがなぁという思いから、しみじみと呟いてしまう。

 

「待っててよね先生。俺が本因坊もらいに行くからさ」

「せめて互先になってから言え」

 

 塔矢先生も欲しがっているようだし、桑原のジジイもまだ諦めちゃいない。

 防衛には骨が折れそうだ。

 大口を聞き流しながら、今日のところは叩きのめしておいた。

 

 進藤がプロになるということは、俺が先延ばしにしていた問題に手をつけなければならないということでもあった。

 進藤の、囲碁界に関する知識の無さをなんとかしなければならない。

 棋院でも毎年、新入段者研修は行われている。だが、あれは書類の出し方や事務手続きなどを教える場であって、基本的な知識は身についている前提で話が進む。

 今の進藤を放り込んだところで、内容は右から左へ抜けていくだけだろう。

 

「──といった理由から、この冬は勉強会だ」

「えぇーっ⁉︎」

「年を越すと、俺は棋聖戦が始まる。それまでに詰め込むから覚悟するように」

「囲碁の世界の勉強?そんなのわざわざしなくても……」

「棋聖について、知っていることを述べよ」

「えーっと……」

 

 斜めに逸れていく視線に、だろうなとしか思えない。

 

「棋院では、お前の師匠は俺だ。お前の無知は俺の恥。いいな?」

「・・・・」

「いいな?」

「……はいぃ」

 

 作法は時間がないので佐為に任せ、俺は棋戦の名称や歴史から始め、昇段基準、記録係の棋譜のつけ方などを叩き込んだ。

 ありがたいことに、最低限の敬語や敬称の使い方については、森下九段の研究会で学んでいたらしい。

 後日、菓子折りを持って挨拶に行くことを決める。

 通い始めたと聞いた時から、いずれ一度は頭を下げに行かなければと思っていたのだ。丁度いい頃合いだろう。

 

 そうして慌ただしく年末を過ごせば、年始は挨拶回りと棋聖戦七番勝負が始まり、その裏では十段戦の挑戦者決定戦だ。

 それだけでも忙しいというのに、俺はその間も、佐為のプロデューサーもどきとしてネット対局を斡旋し続けていた。

 問い合わせは日本語と英語に限定したものの、届くのはほとんど英語だ。本人確認を行い、日程を調整し、ようやく対局に漕ぎ着ける。

 いくら韓国や中国の高段者と佐為の対局が拝めるとはいえ、さすがに手間がかかりすぎて辟易した。

 もし今年の5月5日に佐為が消えなかった場合、投げ出してやろうと心に誓っている。

 

 そして俺は二冠目となる棋聖を手にし、季節は春へと巡った。

 

 進藤との新初段シリーズを白星で終えた塔矢先生は、いつも通り悠然とした佇まいで俺を迎え撃った。

 始まった十段戦五番勝負は、第一局を俺が制し、第二局は先生に取り返された。

 互いに手の内は知り尽くした間柄。だが、この二年で先生の碁はさらに力強さを増し、俺もまた成長した。
 勝負の行方は、まだわからない。

 そして、運命の第三局──前日。

 先生は心筋梗塞で倒れ、病院へと運ばれた。

 

 

 

 

 

 

 盤の前に座っていた俺へ不戦勝が告げられると、第三局の対局地である愛媛から、急ぎ東京へ戻った。

 すでに関係者から命に別状はないと聞かされていたが、それでも病室の先生を見るまでは落ち着かなかった。記憶通りの展開だとしても、平静でいるのはなかなか難しい。

 そんな心配も、顔を合わせるなり「暇だからネット碁をしてみたい」と言われては、引っ込むしかなかったが。

 

 翌日、購入したばかりのノートPCと進藤を連れ、先生の病室を訪れた。

 

「その……体調、大丈夫ですか?」

 

 どこか遠慮がちの進藤に、ベッドで起き上がっていた先生が、頬を緩める。

 

「大丈夫、今はもうなんともないよ。あと10日ばかり入院してろと言われてるがね」

「よかった。佐為も、お加減が良さそうで安心しましたって」

「ありがとう」

 

 俺がPCの設定を進める中、進藤を通した佐為と先生の定番のやり取りが始まる。

 

『先日は、美しい花をありがとうございました』

「ああ。届きましたか」

『この度の花々も誠に美しく。特にハナキンポウゲなる名のお花は、まるで幾重にも重ねた絹を花にしたような、なんとも贅沢な姿で……。ただただ、見惚れてしまいます』

「楽しんでいただけたなら、何よりです」

 

 季節ごとに、先生は佐為に花籠を送っている。

 俺にその辺の知識はないのでさっぱりわからないが、毎回何かしらの見立てをしているらしい。

 これが佐為に非常に好評だ。

 今回は桜と藤に見立てた配色に、黒塗りの漆調の籠を合わせたとかで、佐為いわく、春の内裏を思わせる雅な趣だという。

 やはりあれだけの奥方を射止めるには、こういった気配りが自然にできなければならないのだなと感心する。

 ……俺には無理だな。

 

 PCの操作に関しては、なぜか進藤がノリノリでレクチャーし始めた。

 不思議なことに、先生とアキラ君ならちゃんと親子に見えるのに、先生と進藤が並ぶと、どうにも祖父と孫にしか見えない。

 決して口には出せないが、しみじみと2人を眺めていると、追加の見舞客が訪れた。

 

 現れたのは、市河さんと広瀬さんを連れたアキラ君だった。

 先ほどまでの和やかな空気が、こちらを認識したアキラ君によって、一瞬でかき消される。

 

「緒方さんに……進藤、君。わざわざ父の見舞いに来てくれてありがとう」

「あ、うん……」

 

 ベッドに乗り上げるようにして操作を教えていた進藤が、気まずそうに身を引く。

 市河さんたちも、急にアキラ君の雰囲気が変わったことに戸惑っているのだろう。所在なさげに立ち尽くしていた。

 誰も最初の一言を見つけられず、沈黙が落ちる。

 そのどこか張り詰めた空気に耐えられなかったのは、意外にもアキラ君本人だった。

 

「……飲み物を買ってきます」

「アキラ……?」

 

 先生の呼びかけに返すことなく、アキラ君は足早に病室から出ていった。

 残された市河さんと広瀬さんが、どこか重たい空気に戸惑ったように顔を見合わせる。

 

(フォローは俺か)

 

 先生はショックを受けていて、当てになりそうにない。

 思春期の子供が、親の言葉を無視するなど珍しくもない。それをいちいち真に受けるのだから、うちの先生にも困ったものだ。

 

「先生が倒れられた日は、アキラ君とここにいる進藤の初手合いの日でした。不戦で勝敗がついてしまったので、顔を合わせづらかったのでしょう」

「そうだったのね……」

 

 わかりやすい理由を得てほっとした様子の2人を、ソファーへ促す。

 

「先生、俺たちはこれで失礼します」

「……そうか」

 

 俺に残って欲しそうな先生の目を、そっと見なかったことにして鞄を手に取る。

 

「塔矢先生、最初はオレと打たない?アイツとは慣れてからの方がいいでしょ」

「……そうだな。そうしようか」

「じゃ、決まり!」

 

 先生の表情が、ほんの少しだが和らいだ。

 気を遣っているのか、何も考えていないのか。どちらにしても得難い資質だとは思う。

 

 そうして廊下に出た俺たちを、腕を組んだアキラ君が待ち構えていた。

 ……流石にひやりとした。

 

「随分と前から、父さんの碁が変わっていくのを感じていました」

 

 押さえた声が、病棟の廊下に静かに響く。

 個室が並ぶ区画だ。人影といえば、少し離れたスタッフステーションに見える程度。開けた場所ではあるが、誰かに聞かれることもないだろう。

 俺は咎めることなく、こちらを見つめるアキラ君の視線を受け止めた。

 

「父さんは、saiと打っているんですね?」

「……そうだ」

 

 確信が込められた問いに、肯定を返す。

 背後で進藤が俺のジャケットを掴んだが、ここで誤魔化したところでなんになる。

 アキラ君は昨年の夏にsaiと打っている。俺とsaiの関係も、今さら隠し立てできるようなものではない。そのため、説明を求められれば話すつもりだった。

 だが、アキラ君はそれ以上問いを重ねることなく、俺から視線を外すと、進藤を静かに睨んだ。

 

「……っ」

 

 開きかけたアキラ君の口が、今一度きつく結ばれる。

 咀嚼しきれない何かを、無理やり飲み込んだのだろう。脇に下ろされた手が、握られているのが見えた。

 

「……次は、自分たちの手で勝敗を決めよう」

「──ああ、もちろん!」

 

 力強く答えた進藤をさらに1度睨み直し、アキラ君は病室へと入っていった。

 

(へぇ……)

 

 あれほど直情的だったアキラ君が、感情そのままにぶつかって来ないとは。

 弟弟子も成長したものだなと感心していると、進藤が首を傾げながら病室を振り返った。

 

「あれ?なんでアイツ手ぶら?」

 

 色々台無しだった。

 

「はぁ…。帰るぞ」

「うわっ?」

 

 空っぽそうな頭を軽く小突くと、さっさと歩き始める。

 

「なに?オレなんかした?」

 

 不思議そうについてくる進藤に、こいつは当分クソガキのままだろうなと頭が痛くなった。

 

 

 

 翌週の十段戦第四局。

 塔矢先生の牙城を崩しきれず、俺は敗れた。これで2勝2敗。勝負は最終第五局へともつれ込んだ。

 その週の、土曜日。

 ワールド囲碁ネットにて、ひとつの対局が注目を浴びた。

 

 sai vs. toya koyo

 

 ネットにて2年間無敗を誇る棋士と、現役最強を謳われる五冠棋士。

 極限まで研ぎ澄まされた両者の対局は、多くの観戦者を熱狂させ──黒、toya koyoの中押し勝ちで幕を閉じた。

 

 先生の、2度目(・・・)の勝利だった。

 




緒方精次全盛期の始まり始まり。
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