ヒカ碁の世界で緒方精次となったからには、打倒saiを掲げたい。   作:くま子

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第十三話

 俺がいるこの世界での、原作と最も大きなズレは何か。

 それは、佐為の神話にも等しい絶対性の喪失だろう。

 

 俺が師でも、森下九段は『打倒塔矢アキラ』の意気込みを買い、進藤を研究会に招き入れた。

 院生仲間にfiveだと知られたこともあったが、相手が口をつぐんでくれたおかげで騒ぎになることはなかった。

 若獅子戦でも、結局アキラ君と進藤の対局は実現せず──それでもアキラ君は、進藤を意識し始めた。

 多少のズレはあれど、物事は予定調和のように、あるべき形に収まっていた。

 

 だがそれは、今年初めの一局で崩れた。

 黒番の先生が、佐為を破ったのだ。

 

 素晴らしい戦いだった。

 多くの者と検討できればと、そう思わずにはいられない一局だった。

 だがこれで、無敗のまま消えるはずだった佐為に、二つ目の黒星がついたことになる。俺との初戦のような不意打ちではない、現代囲碁を学び、磨き上げた末の敗北だった。

 

 しかし、それほどのズレが生じても、佐為に消える様子はなかった。

 

 ネットでの激闘から一夜明けた日曜日。

 俺はこの日、念を入れて1日オフにしていたため、午前中から進藤の部屋に押しかけ、佐為に検討を持ちかけた。

 もちろん、進藤が逆転の一手に気づいていないかも探ったが、俺たちの検討を追うので精一杯といった様子で、自らの読みを示すことはなかった。

 俺が原作をかき回したせいで、その時が先延ばしになったのだろう。そう結論づければ、もうしばらくこの幽霊と打てるのだと、知らず安堵していた。

 午後は互いに空いている。ならば一局打つかと盤を挟み──。

 

 俺の先番で始まった佐為との一局は、日の入り後、俺の2目半勝ちで終局した。

 

「勝った……」

 

 礼を終え、視線が盤上に戻った時、思わず呟いていた。

 佐為と打ち初めて2年少々。自分の実力が伸びているのは感じていた。

 それでも、どうしてもあと一歩が届かない。

 先生に先を越され、若木のように成長していく進藤をわき目に、自分だけが取り残されていくような焦燥感。

 己が偽物だから届かないのかと、そんな馬鹿げたことまで考えた。

 それが、ようやく届いたのだ。

 

(たかが一勝。されど一勝、か……)

 

 山のように積み上がった敗北の上であっても、前世から憧れ続けた相手への勝利だ。これまでの全てが報われたような思いが、じわじわと胸に満ちていく。

 そんな、どこか夢心地になりかけた俺の視界に、進藤の手が映り込んだ。

 

「このトビ、すごかった」

 

 盤上の黒石が指さされる。

 

「置かれた瞬間、盤面がひっくり返った気がした!」

 

 思わぬ言葉に、顔を上げた。

 

「これで、左辺の黒石の薄みが消えて、佐為がずっと狙ってたシボリが不発になった。それに、このトビを無視して手抜きしたら、今度は黒からここへ割り込まれて、中央の白の連絡まで怪しくなるようになってる」

 

 興奮冷めやらぬといった風に、進藤の指が石の流れをなぞっていく。

 

「だから佐為は、中央のツナギに一手、守りの手を戻すしかなかった。でもそうすると今度は、この黒石が起点になって、右下の白大石への攻めまで見えてくる!」

 

 それを、置かれた瞬間に見抜いただと?

 

「守りながら中央の白を窮屈にして、さらに遠くの右下を攻める土台まで作っちまった!一石で3つの狙いが繋がってる、すげえ一手だ‼︎」

「……よく、そこまで読めたな」

「佐為の代わりに打ってる時って、普通に人の対局見てる時と全然違う感覚になることがあるんだ。盤の真ん中にいるっていうか……先生の読みも、佐為の狙いも、凄くクリアに感じてさ」

 

 内心で愕然としながら、得意満面の進藤を眺める。

 無邪気に笑う進藤は、気づいていない。

 右下の白の大石への攻め。

 そこへ繋がる感覚はあった。だが、包囲の要に──勝敗を決する一手になるとは、打った時点の俺は読み切れていなかった。

 そして、その後の応手を見る限り、佐為もまた、あの一手の真価までは見抜けていなかったのだろう。

 だというのに進藤は、盤がひっくり返るほどの感覚を得たと言う。ならばコイツは、俺と佐為よりよほど深く盤を見ていたということだ。

 

「なぁ、佐為もこの一手、凄いと思っただろ!……佐為?」

 

 背後を振り返った進藤は、返事を待つように黙り込み、しばらく待ってからひらひらと手を振った。

 それでも反応がないのだろう、首を傾げる。

 

(──まさか、この一局なのか⁉︎)

 

 俺と同じ衝撃を受けていたとしても、囲碁幽霊がそれだけで黙り込むとは思えない。

 

「なんだ?連敗で拗ねてんのか?」

 

 進藤は首を傾げたまま、再び背後へ声をかけている。

 

(作中のsaiに憧れ、打ち合いたいと願った。勝ちたいと手を伸ばし続けた。その果てに掴んだ一勝が、佐為を終わらせるというのか?)

 

 愕然とした思いで盤を見つめ、そして何も知らぬ進藤へ目を向けた。

 原作のように、勝敗をひっくり返す一手を見出したわけではない。ただ、打たれた一手の価値に気づいただけだ。

 だからどうか、勘違いであってくれと祈る。

 

「先生、佐為がマジで凹んでるみたい。ちょっとこれ感想戦無理そう」

「……そうか」

 

 それ以上、言葉は出なかった。

 この時のために用意していた言葉はある。

 だが、いざ口にしようとすると、そのどれもがひどく空々しく思えた。

 結局俺は何も告げることなく、その日、進藤家を後にした。 

 

 

 

 

 

 

 ゴールデンウイークなどの連休に組まれるイベントは、数少ない学生棋士の仕事どころだ。

 

「いいか進藤。お前は大盤解説を見たことがないという、トンデモ生物だ。だが、プロになった以上、いずれそういう仕事も回ってくる。最初は裏方だろうが、その裏方を務めるにも多少の知識は必要だ。今日の公開対局で流れぐらい掴んでおけ」

「公開対局中って、オレ指導碁してるんだけど……」

「初段のお前に割り振られる客数なんぞ、たかが知れている。打ちながら聞け」

「んな無茶な」

「明日、残って解説を聞いてから帰るか?」

「ガンバリマス」

「客には悟らせるなよ?」

「……ガンバリマス」

 

 頑張りますしか言わなくなった進藤に一抹の不安を覚えながらも、俺はゼミの準備へ戻った。

 今日から1泊2日で、棋院主催の合宿型囲碁ゼミナールが始まる。

 大型宿泊施設をほぼ貸し切り、広間では公開対局と大盤解説が行われる。プロによる指導碁や参加者同士の自由対局もあり、夜には懇親会まで用意されている。

 要するに、俺は非常に忙しい。

 初日の指導碁だけが仕事の進藤が、羨ましい限りだ。

 

 終わりへ向け、佐為の砂時計が再び動き出したであろうことを、俺は、5月4日となる今日まで進藤に伝えていない。

 なぜなら、十段戦第五局のために1度頭を切り替え、塔矢先生からタイトルを奪取した後、冷静になり思ったのだ。

 

 馬鹿みたいに長いロスタイムを得ながら、腹を括れていない幽霊が悪いと。

 

 だから、俺は何も言わなかった。

 今日までの日々は、佐為自身の選択だ。

 

(だがまぁ……)

 

 うだうだしている幽霊に、ひとこと言っておきたいことはある。

 何にしても話は夜だ。

 慣れない仕事にばたついている進藤を横目に、公開対局のため壇上へ向かった。

 

 公開対局に大盤解説、指導碁に懇親会の挨拶。

 夜は部屋に引っ込む前に芦原やゼミの参加者に捕まってしまい、三冠の祝いと銘打たれ、街に連れ出された。

 酔い潰れた芦原を部屋に放り込み、一息ついたところで時計を見る。

 忙しない1日も、残すところあと1時間だった。

 

 進藤の部屋を覗いたが不在だったため、大広間に向かう。

 途中、ジャージ姿の進藤が俺を見つけ、駆け寄ってきた。

 

「あ、先生。よかった見つかった」

「どうした?」

「なんか先生と打ちたいって、佐為がうるさくてさ〜」

「……わかった」

「あ〜、でも大丈夫?結構お酒の匂いがするけど」

「舐める程度にしか飲んでいない。酔っちゃいないさ」

 

 同室の芦原は、どうせ酔い潰れて意識がない。

 俺は進藤を連れ、自室に戻った。

 

「芦原が寝てるから、奥で打つぞ」

 

 電気をつけぬまま部屋を横切る。

 大きな窓から街明かりが差し込む広縁の椅子に腰掛けると、格子組みの背もたれが小さく軋んだ。

 

 パチリ、パチリと、碁石が盤に打たれる音だけが部屋に響く。

 よく知る石の流れ。

 共に研鑽を重ねた打ち回し。

 互いに答え合わせをしているような、それでいて相手の反応を楽しむような時間。

 

 礼以外交わすことなく始めた対局は、ただ相手との手談を楽しむだけの穏やかな一局になっていた。

 

 とはいえ、無意識に勝ち筋を探して手を止めてしまうのが棋士という生き物で……。

 しばらく考えた末に一手を打つ。

 返らぬ反応に顔を上げると、進藤は背もたれに身を預けたまま、寝息を立てていた。

 

『ヒカル……』

 

 その横には、憂い顔の貴人が静かに佇んでいた。

 

「佐為」

 

 呼べば、切長の瞳が俺に向けられた。

 意外にも鋭い目つきをしているのだなと眺めていると、視線が合っていることに気づいたのだろう。佐為は己の胸に手を置くと、俺に問いかけた。

 

『見えて……いるのですか?』

「ああ、見えてるよ」

『驚かれないのですね』

「お前の美しさには驚いたよ」

 

 たかが幽霊が見える程度、俺がここにいること以上に驚くことではない。

 だから軽口を返したのだが、それに対し佐為は目を瞬かせ、扇で口元を隠しながらふふっと笑った。

 

『そりゃあ私は、やんごとなき帝の御前に仕えることを許された殿上人ですから。見目麗しくて当然です』

 

 悲壮感を投げ捨て、ドヤ顔をする幽霊を眺める。

 師弟揃って締まらないことだ。

 

「会話ができるのは都合がいい。佐為、お前の身は明日まで持ちそうか?」

『……お気づきでしたか』

「で、どうなんだ」

『おそらくは』

 

 なら今、進藤を叩き起こす必要もあるまい。

 芦原がいるここでというのは、憚られる。

 

「それなら俺から言うことはひとつだけだ。必ず進藤と別れを交わせ」

『別れ……ですか?』

 

 疑問系の語尾に、思わずこめかみを押さえた。

 

「お前なぁ……身内を亡くしたこともないガキが、墓も葬儀もないお前との別れを、まともに受け入れられると思うのか?」

『あっ……』

 

 間の抜けた声が返る。

 思い出を語る相手もいなければ、喪失を共有する相手もいなかった原作の進藤は、よくぞ立ち直れたものだと思う。

 

「何に対する未練でうだうだしてるのかは分かるが……この残された時間を無駄にする気か」

 

 しばらく沈黙が落ちた。

 

『……貴方は、誠に良き師であらせられる』

「はぁ?」

 

 思いもよらない言葉に、思わず声が大きくなり、慌てて口をつぐんだ。

 街明かりに透ける佐為は、そんな俺を見て静かに微笑んだ。

 

『貴方は名を貸しているだけだと仰いますが、ヒカルは貴方のことを、己の師匠だと思っていますよ』

「進藤が?馬鹿を言え。俺は碁を教えた覚えはないぞ」

 

 進藤ヒカルの師匠は藤原佐為だ。俺じゃない。

 

『……ヒカルが院生になると御父母に告げた時、彼らはヒカルに覚悟を問いましたが、その中身を尋ねることはありませんでした。それは、プロ試験の時も同じでした』

「それは、お前と打つためだ」

『学校でも、教員の方々はヒカルがプロ試験のために、あるいは手合いのために休みたいと申し出た時、日付を確認されるだけで、詳しく尋ねられることはありませんでした』

「・・・・」

『学校に、碁会所。棋院でも、貴方はヒカルが関わる人々を、その目で確かめておられた』

「……師を名乗って預かった以上、それぐらいはする」

『それぐらいと仰るのなら、貴方もまた、師に恵まれていたのですね』

 

 前世と今世の師の顔が浮かぶ。

 返せぬまま終わった恩と、返してもなお足りぬ恩がある。

 

『貴方は、ヒカルが囲碁以外のことでつまずかぬよう、道を整えられた。それを成す者を師と呼ばずして、誰を師と呼べましょうか』

 

 情が湧き、弟分のように見ている自覚はある。だが、師匠というのは柄じゃない。

 ……いや、そもそも、敬われた記憶なんぞないんだが。

 

「……まぁ、俺のことはいい。ともかく、やることはわかったな?」

『はい。必ずや』

 

 椅子の背にもたれると、一息つく。

 千年生きた幽霊の成仏なんぞ、「やっとか。よかったな」で済ませたい俺としては、面倒でしょうがない。

 

『緒方殿』

 

 呼びかけに視線を向ければ、佐為は俺の傍らで、衣を乱れなく畳んで座っていた。

 

『あの子の手を引き、囲碁の世界へ導いてくださったこと。行洋殿を始めとする数多の強者と引き合わせていただけたこと。本当に、本当に感謝しております』

 

 美しい所作で、深々と頭を下げる。

 

『そしてなによりも。貴方という稀代の棋士と出会い、共に盤上を駆けられたこと。私の永き時の中でも何物にも代えがたい──とても、楽しい時間でした』

 

 しばし、その姿に見惚れた。

 微笑む麗人に、素直に「こちらこそ」と返すのがおもはゆく、俺は視線を逸らすように、進藤が石を取っていた黒の碁笥へ手を伸ばした。

 

「……そういうのはな、打ち終わった後にしろ」

 

 じゃらり、と石を鳴らす。

 佐為はきょとんと目を瞬かせ、それから花が綻ぶように破顔した。

 




碁石を片付けた後でヒカルを起こしたので、この晩の勝敗は2人だけの秘密ということで。

芦原さんが酔い潰れたのは、緒方が自分への酌をはじから彼に飲ませるアルハラをしたせい。
ただし、飲み会に巻き込まれる流れを作ったのは芦原さんなので、自業自得でもある。
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