白と黒の世界が、少しずつ盤上に広がっていく。
緒方精次は、進藤ヒカルの背後──そこに佇んでいるはずの藤原佐為へと視線を向け、わずかに目を細めた。
黒の佐為は、古い呼吸をそのまま持ち込んだような、美しい布石を広げていく。
対する緒方の白は効率を求め、最短距離で要所に先回りしていく。
(140年のアドバンテージ、フルに使わせてもらう)
黒は外の厚みへ。白は隅の実利へ。
互いに相手を否定せぬまま、それでも噛み合わずに進んでいく数手。
そのズレを決定的にする一手が、白により打たれた。
白、右上三々。
黒の星に滑り込む一手。
石が置かれた瞬間、空気がわずかに変わった。
「佐為……?」
ヒカルが、石を摘んだまま不思議そうに佐為を見上げる。
それまでテンポよく指示していた佐為の、初めての小考だった。
(……早い)
佐為の視線が白石に注がれる。
彼にとって三々とは、決して急ぐ場所ではない。周辺の大勢が決まった後、隅の陣地を確定させるために踏み込む地点だ。
だが白は、盤がまだ広く開かれているこの段階で、ためらいなく潜り込んできた。
地を、確定させに来ている。
(外を与えてまで、なぜこれほど急ぐ……)
ヒカルの戸惑い、そして盤上から伝わる微かな動揺を、緒方は見逃さなかった。
(お前にとっての三々は守りの手だろうが、俺にとっては序盤から地を取り切るための攻めの一手だ。……さて、どう受ける、藤原佐為)
わずかな沈黙の後、佐為の扇が閉じられ、パチンと小気味よい音を立てた。
『右上星の一路左へツケ』
(佐為、座標座標!)
『あ、そうでした!』
コトリと置かれた黒は、白に隅の地を与える代わりに、外側へ厚みを築く応手だった。
佐為の感覚では、白はこの厚みに備え、右上の形を収める一手を入れるのが筋である。
(悪いが、付き合う気はない)
白は右上の形を決めず、左辺へと向かった。
(まだ定まっていない石を捨て置くというのですか⁉︎)
佐為は目を見張った。
白の打ち回しが、あまりにも彼の知る流れから逸脱していたからだ。
しかし、相手の狙いが読みきれない。
それゆえに佐為は、己の経験を生かせる最善へと石を運ぶ。
対して白は形を整えることよりも、先手を取ることを徹底して優先していた。厚みをまともに受けず、利かせるだけ利かせて、すぐに離れる。
数手の内に、美しく正しいはずの黒を、白がじわじわと侵食していた。
(くっ……)
白は確定地を積み重ね、黒は可能性を広げる。
だが、可能性はまだ地にはならない。
(AI時代の碁を、俺はあまり知らない。プロを諦めた後に、アルファ碁が現れたからな。だが、それでも三々の評価が大きく変わったことくらいは知っていた)
次の石を置く。
(序盤の三々は品がない、実利に走りすぎだと――そう言われながらも、この時代でそれを活かすための腕を磨き、名人に認められるところまで持ってきた)
黒の広がりへ、さらに深く踏み込む。
(どうだ、佐為。本因坊秀策よ。お前の目に、俺の碁はどう映る?)
下辺の構想を、無慈悲に削り取る一手だった。
普通なら、やや無理のある踏み込みに見える。だがその石は、不思議なほど自然に盤上へ溶け込んでいた。
(……切れない)
佐為は、盤上を見つめたまま確信した。
この男は、形ではなく、目まぐるしく移り変わる変化そのものを打っている。
黒が厚くなる前に荒らし、攻められるなら、その途中で手を抜く。
一手ごとの完結を求めず、流れの中で収支を合わせる。局地に閉じず、全局で成立させる打ち回しだった。
(面白い)
佐為の口元には、歓喜の笑みが浮かんでいた。
千年の時を長らえた甲斐があった。これほど未知の思想、これほど見慣れぬ牙に出会えるとは。
ならば、と。黒はその模様をさらに広げた。
包み込むように、白石の動きを制限する構え。本来なら、相手へ重圧をかけるはずの布陣だ。
だが──白は、止まらない。
踏み込み、利かし、そして鮮やかに逃げる。
必要な実利だけをかすめ取り、形が悪くなる前に離脱する。
その繰り返しの中で、気づけば黒の模様には白石が点々と食い込み、連続性を失わせていた。
厚みはある。だが、それを攻めへ転じる前に、局面そのものが先へ進んでいく。
『まるで、壇ノ浦を駆ける判官殿のようですね』
(はんがん……誰?)
『ですが、私は新中納言殿のようにはなりませぬ。必ず捕まえてみせましょう』
(だから、誰だよ⁉︎)
『ヒカル、反撃に転じますよ!』
(人の話聞けよっ!)
そんな二人の脳内会話を知る由もなく、緒方はゆっくりと盤上を見渡した。
右上、左辺、下辺。確定した白地が、静かに広がっている。
黒の勢力圏は広い。だが、まだ地にはなっていなかった。
(悪くない)
むしろ、上出来だ。
少なくとも、主導権はこちらにある──。
コトリ、と石が置かれた。
緒方の錯覚か、ヒカルの指先に、時代を置き去りにした佐為の影が重なる。
それは、これまでの流れを裏切る一手だった。
模様を広げるでもない、守るでもない。むき出しの闘志で白の心臓へ切り込んでくる一手。
(……来たか)
緒方の口角が、わずかに上がった。
盤上に置かれた黒の一手。
それは、中央の白の首を真っ向から獲りにきていた。
(さあ、切り結びましょう!)
しかして、黒は挑発しているわけでも、戦いを求めているわけでもない。
ただ、最善を尽くした結果として、ここへ辿り着いている。
それがわかるが故に、白には逃げる理由も、受けない理由もなかった。
(厄介な……)
白が一手、受ける。 さらに黒が一手、絡む。
互いに最善を積み重ねた先──ようやく佐為の見ていた景色が現れる。
(――ここです!)
ヒカルの指先が、迷いなく盤を打った。
それまで死んだように静まり返っていた外側の黒の厚みが、一瞬にして獰猛な牙を剥く。
(……導き出した最適解が、大陸の連中みたいな厚みの使い方か。そう簡単に、時代へ適応してくれるなよ!)
黒は中央へ踏み込み、白は形を整えながら活路を探る。
だが、逃げる先にも黒がいる。
遮る先にも黒がいる。
中央の石が絡み合うたび、白の自由は少しずつ削られていく。
ただの壁であったはずの厚みが、ここへ来て盤面を支配し始めていた。
これまでの静かな間合いの取り合いとは、まるで別物の、骨を断ち切るような接近戦。
盤上の均衡が、ゆっくりと黒側へ押し込まれていく。
数手。
さらに数手。
激しい接触によって、盤上の密度が一気に跳ね上がる。
(逃しません)
(まだ来るか!化け物め)
佐為はただひたすらに、盤上で最も正しく、最も厳しい一手だけを選び続けていた。
読み筋が、際限なく枝分かれしていく。
(読み合い……か)
緒方はゆっくりと上着を脱いだ。
張り詰めた静寂のなか、ジャケットの擦れる音がやけに大きく響く。体にこもった凄まじい熱を吐き出すように、深く、重い息を吐いた。
たとえこの局地戦で数子を失おうとも、これまでに築き上げた地合いは揺るがない。合理的に考えるなら、いなしながら勝ち切ればいいだけだ。
そう判断してなお、指先が守りの手を拒んでいた。
(生ぬるい安全策で誤魔化せる相手なら、名跡など残るはずもない)
相手は、あの本因坊秀策なのだ。
(いいだろう。受けて立つ!)
緒方は眼鏡の奥の双眸に戦意を宿し、白石を指先に挟んだ。
佐為がこじ開けた泥沼の、そのさらに奥。
白は局面の芯へと、一手を真っ直ぐに突き立てた。
盤上に広がる石は、すでに大きな動きを失っていた。
激しくぶつかり合った中央も、今は形を整え、残されたヨセの余地は、境界線を削り合うわずかな隙間だけだった。
白地は多い。
だが黒も、中央の厚みを地へ変え切っている。
差は、わずかだった。
(ここまできて、まだ見えないか……)
脳細胞が焼き切れるほどの速度で、ヨセの計算を繰り返す。
これほどまでに動きを失った盤上で、明確な終局図が見えないなど、そうあることではない。
緒方は、黒地の境界へ一子を滑り込ませた。
自らの形を収めながら、黒の懐をわずかに削る。
(くっ……)
だが、返ってきた黒の応手もまた、先手を渡さぬための鋭い利きを伴っていた。
緒方の眉間に、深く皺がよる。
長考の後、緒方は確信を持って白石を掴んだ。
中央へ手を入れ、残された揺らぎをひとつ潰す。
未来の知識でも、前世の記憶でもない。
この世界で『緒方精次』として血の滲むような研究を重ねてきたからこそ辿り着けた、この局面における最大の一手だった。
(……!)
佐為の扇を持つ細い指に、力がこもった。
応じれば、先手を失う。だが、放置すれば、地が減る。
勝敗を決する一手だった。
(見事……)
握りしめていた指先から、ゆっくりと力が抜けていく。
『……ヒカル、長い時間、ありがとうございました』
(佐為?)
『終局です。「参りました」とお願いします』
「えっと……参りました」
ヒカルの、少し戸惑いを含んだ声が敗北を告げる。
緒方はわずかに視線を上げ、あらためて盤上を見渡すと、静かに息を吐いた。
「白、一目半勝ち」
『……はい、お見事です。ありがとうございました』
「ありがとうございました」
「……ありがとうございました」
緒方の凛とした声に合わせるように、ヒカルもおずおずと頭を下げた。
すぐに、碁石を弾く乾いた音が続く。
緒方が何も言わず、盤上の石を整え始めたからだ。
ヒカルはただ、その様子を見つめることしかできなかった。
(……さっぱり分かんねぇ)
勝敗は聞いた。白の一目半勝ち。
だが、それがどういった意味を持つのか、今のヒカルにはまるでわからなかった。
(だけど……なんか、すごかった)
大人が、何かにあれほど真剣に向き合う姿を見るのは、ヒカルには初めての経験だった。
唾を飲み込むことすらためらわせるような緊張感。
肌を刺すような気迫。
ただ言われるまま石を置いているだけなのに、途中で本当に息が詰まりそうだった。
真剣勝負という言葉の本当の意味を、ヒカルは今日、初めて知った気がした。
だからこそ、盤上に広がる世界が、自分にはただの白と黒の集まりにしか見えないことが、少し悔しかった。
パチリ、と静かな音がした。
緒方の長い指が、中央の一角に石を戻していく。 盤上には、緒方が中央に切り込む前の局面が、再現されていた。
「ここだ」
低い声だった。
ヒカルは思わず身を乗り出す。 だが、その盤面の意味はやはり分からない。
『……はい』
ヒカルのすぐ後ろで、佐為が愛おしそうに盤面を見つめて応じた。
「この時点では、まだ黒が打ちやすい」
『ええ』
「厚みが十分に働いている」
緒方が一手、白を置いた。
『この一手で、私は後手を引かされました』
緒方は答えない。聞こえるはずがないのだから、当たり前だ。
ただ、もう一手、黒を盤上に戻した。
「受けるしかない」
『はい。放置すれば、地が崩れます』
さらに白が打つ。黒が応じる。その繰り返しだった。
ヒカルの目には、ただ石が規則的に並べ直されているだけにしか見えなかった。
『ここで、白に利かされました』
「そこで差がつく」
言葉は交わされていない。
それでも、見ている景色は同じだった。
「ここで振り切れなきゃ、終わってたな」
緒方は盤上を見つめたまま、小さく息を吐いた。
「だが、その前が悪い」
指先が、中央から右辺の流れをなぞる。
「ここで詰められすぎた」
『厚みを活かそうと、打ちながら答えを探した場所ですが……我ながら、よくぞ形になったものです』
「ここでツギを入れて、早めに勝負に出るべきだったか……」
『それでしたら、コチラを先に……ヒカル、お願いします』
「えっと──」
ヒカルは躊躇いがちに、佐為の言葉を緒方へと伝える。
続く言葉の応酬に、聞き慣れぬ用語にまごつきながらも、ヒカルは訳もわからぬまま一生懸命言葉を続けた。
そうして双方から粗方の感想が出終わる頃には、佐為の口元に自然と、微笑みが浮かんでいた。
『ヒカル。この方へ、私と打ってくれたことへの感謝を伝えてくれませんか。──本当に、楽しかった、と』
おずおずと伝えられた伝言に、緒方は一瞬動きを止めた。
それから眼鏡の奥の瞳を伏せて、ほんのわずかに口元を緩めた。
「幽霊の名は、佐為だったな」
「うん」
「江戸で取り憑いていたのは、本因坊秀策だな?」
『虎次郎をご存知なのですか?』
「トラジロウを知ってるのかって」
「知らぬ碁打ちはいないさ」
崩した膝に肘をつき、緒方はゆったりと笑った。
「……俺は、秀策に勝ったのか」
どこか酔いしれるような、声だった。
(なあ、佐為……)
『なんでしょう?』
どこか気恥ずかしさを覚えながら、ヒカルは盤上へ視線を落としたまま、ぽつりと心の中で尋ねた。
(囲碁、教えてくれるか?)
『!』
一瞬、佐為が大きく目を見開く。
『ええ、もちろんですとも‼︎』
死力を尽くしてなお、届かなかった悔しさはあった。
だが、それを遥かに上回る純粋な喜びが、今の佐為の胸に溢れていた。
現世へと戻って早々に、これほどの強者と打ち合えるなど、望外のこと。なにより、一局の中でこれほど未知に触れ、学びを得た対局は初めてだった。
神の一手は、まだ遥か先にある。
『ヒカル、一緒に強くなりましょうね!』
(お、おう……?)
まばゆいばかりの笑顔で覗き込んでくる囲碁幽霊の熱量に、ヒカルは若干引きながらも、目の前の白黒の世界を、さっきとは少しだけ違う瞳で見つめ返していた。
成り主の死亡時期は、コロナちょい前くらいを考えてます。
vs.佐為でダイレクト三々ネタは外せない。