憧れのその先へ   作:くま子

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第二話 佐為vs.緒方

 白と黒の世界が、少しずつ盤上に広がっていく。

 緒方精次は、進藤ヒカルの背後──そこに佇んでいるはずの藤原佐為へと視線を向け、わずかに目を細めた。

 

 黒の佐為は、古い呼吸をそのまま持ち込んだような、美しい布石を広げていく。

 対する緒方の白は効率を求め、最短距離で要所に先回りしていく。

 

(140年のアドバンテージ、フルに使わせてもらう)

 

 黒は外の厚みへ。白は隅の実利へ。

 互いに相手を否定せぬまま、それでも噛み合わずに進んでいく数手。

 そのズレを決定的にする一手が、白により打たれた。

 

 白、右上三々。

 

 黒の星に滑り込む一手。

 石が置かれた瞬間、空気がわずかに変わった。

 

「佐為……?」

 

 ヒカルが、石を摘んだまま不思議そうに佐為を見上げる。

 それまでテンポよく指示していた佐為の、初めての小考だった。

 

(……早い)

 

 佐為の視線が白石に注がれる。

 彼にとって三々とは、決して急ぐ場所ではない。周辺の大勢が決まった後、隅の陣地を確定させるために踏み込む地点だ。

 だが白は、盤がまだ広く開かれているこの段階で、ためらいなく潜り込んできた。

 地を、確定させに来ている。

 

(外を与えてまで、なぜこれほど急ぐ……)

 

 ヒカルの戸惑い、そして盤上から伝わる微かな動揺を、緒方は見逃さなかった。

 

(お前にとっての三々は守りの手だろうが、俺にとっては序盤から地を取り切るための攻めの一手だ。……さて、どう受ける、藤原佐為)

 

 わずかな沈黙の後、佐為の扇が閉じられ、パチンと小気味よい音を立てた。

 

『右上星の一路左へツケ』

(佐為、座標座標!)

『あ、そうでした!』

 

 コトリと置かれた黒は、白に隅の地を与える代わりに、外側へ厚みを築く応手だった。

 佐為の感覚では、白はこの厚みに備え、右上の形を収める一手を入れるのが筋である。

 

(悪いが、付き合う気はない)

 

 白は右上の形を決めず、左辺へと向かった。

 

(まだ定まっていない石を捨て置くというのですか⁉︎)

 

 佐為は目を見張った。

 白の打ち回しが、あまりにも彼の知る流れから逸脱していたからだ。

 しかし、相手の狙いが読みきれない。

 それゆえに佐為は、己の経験を生かせる最善へと石を運ぶ。

 

 対して白は形を整えることよりも、先手を取ることを徹底して優先していた。厚みをまともに受けず、利かせるだけ利かせて、すぐに離れる。

 数手の内に、美しく正しいはずの黒を、白がじわじわと侵食していた。

 

(くっ……)

 

 白は確定地を積み重ね、黒は可能性を広げる。

 だが、可能性はまだ地にはならない。

 

(AI時代の碁を、俺はあまり知らない。プロを諦めた後に、アルファ碁が現れたからな。だが、それでも三々の評価が大きく変わったことくらいは知っていた)

 

 次の石を置く。

 

(序盤の三々は品がない、実利に走りすぎだと――そう言われながらも、この時代でそれを活かすための腕を磨き、名人に認められるところまで持ってきた)

 

 黒の広がりへ、さらに深く踏み込む。

 

(どうだ、佐為。本因坊秀策よ。お前の目に、俺の碁はどう映る?)

 

 下辺の構想を、無慈悲に削り取る一手だった。

 普通なら、やや無理のある踏み込みに見える。だがその石は、不思議なほど自然に盤上へ溶け込んでいた。

 

(……切れない)

 

 佐為は、盤上を見つめたまま確信した。

 この男は、形ではなく、目まぐるしく移り変わる変化そのものを打っている。

 黒が厚くなる前に荒らし、攻められるなら、その途中で手を抜く。

 一手ごとの完結を求めず、流れの中で収支を合わせる。局地に閉じず、全局で成立させる打ち回しだった。

 

(面白い)

 

 佐為の口元には、歓喜の笑みが浮かんでいた。

 千年の時を長らえた甲斐があった。これほど未知の思想、これほど見慣れぬ牙に出会えるとは。

 

 ならば、と。黒はその模様をさらに広げた。

 包み込むように、白石の動きを制限する構え。本来なら、相手へ重圧をかけるはずの布陣だ。

 

 だが──白は、止まらない。

 

 踏み込み、利かし、そして鮮やかに逃げる。

 必要な実利だけをかすめ取り、形が悪くなる前に離脱する。

 その繰り返しの中で、気づけば黒の模様には白石が点々と食い込み、連続性を失わせていた。

 厚みはある。だが、それを攻めへ転じる前に、局面そのものが先へ進んでいく。

 

『まるで、壇ノ浦を駆ける判官殿のようですね』

(はんがん……誰?)

『ですが、私は新中納言殿のようにはなりませぬ。必ず捕まえてみせましょう』

(だから、誰だよ⁉︎)

『ヒカル、反撃に転じますよ!』

(人の話聞けよっ!)

 

 そんな二人の脳内会話を知る由もなく、緒方はゆっくりと盤上を見渡した。

 右上、左辺、下辺。確定した白地が、静かに広がっている。

 黒の勢力圏は広い。だが、まだ地にはなっていなかった。

 

(悪くない)

 

 むしろ、上出来だ。

 少なくとも、主導権はこちらにある──。

 

 コトリ、と石が置かれた。

 緒方の錯覚か、ヒカルの指先に、時代を置き去りにした佐為の影が重なる。

 それは、これまでの流れを裏切る一手だった。

 模様を広げるでもない、守るでもない。むき出しの闘志で白の心臓へ切り込んでくる一手。

 

(……来たか)

 

 緒方の口角が、わずかに上がった。

 

 

 

 

 

 

 盤上に置かれた黒の一手。

 それは、中央の白の首を真っ向から獲りにきていた。

 

(さあ、切り結びましょう!)

 

 しかして、黒は挑発しているわけでも、戦いを求めているわけでもない。

 ただ、最善を尽くした結果として、ここへ辿り着いている。

 それがわかるが故に、白には逃げる理由も、受けない理由もなかった。

 

(厄介な……)

 

 白が一手、受ける。
 さらに黒が一手、絡む。

 互いに最善を積み重ねた先──ようやく佐為の見ていた景色が現れる。

 

(――ここです!)

 

 ヒカルの指先が、迷いなく盤を打った。

 それまで死んだように静まり返っていた外側の黒の厚みが、一瞬にして獰猛な牙を剥く。

 

(……導き出した最適解が、大陸の連中みたいな厚みの使い方か。そう簡単に、時代へ適応してくれるなよ!)

 

 黒は中央へ踏み込み、白は形を整えながら活路を探る。

 だが、逃げる先にも黒がいる。

 遮る先にも黒がいる。

 中央の石が絡み合うたび、白の自由は少しずつ削られていく。

 ただの壁であったはずの厚みが、ここへ来て盤面を支配し始めていた。

 

 これまでの静かな間合いの取り合いとは、まるで別物の、骨を断ち切るような接近戦。

 盤上の均衡が、ゆっくりと黒側へ押し込まれていく。

 

 数手。

 さらに数手。

 激しい接触によって、盤上の密度が一気に跳ね上がる。

 

(逃しません)

(まだ来るか!化け物め)

 

 佐為はただひたすらに、盤上で最も正しく、最も厳しい一手だけを選び続けていた。

 読み筋が、際限なく枝分かれしていく。

 

(読み合い……か)

 

 緒方はゆっくりと上着を脱いだ。

 張り詰めた静寂のなか、ジャケットの擦れる音がやけに大きく響く。体にこもった凄まじい熱を吐き出すように、深く、重い息を吐いた。

 たとえこの局地戦で数子を失おうとも、これまでに築き上げた地合いは揺るがない。合理的に考えるなら、いなしながら勝ち切ればいいだけだ。

 そう判断してなお、指先が守りの手を拒んでいた。

 

(生ぬるい安全策で誤魔化せる相手なら、名跡など残るはずもない)

 

 相手は、あの本因坊秀策なのだ。

 

(いいだろう。受けて立つ!)

 

 緒方は眼鏡の奥の双眸に戦意を宿し、白石を指先に挟んだ。

 佐為がこじ開けた泥沼の、そのさらに奥。

 白は局面の芯へと、一手を真っ直ぐに突き立てた。

 

 

 

 

 

 

 

 盤上に広がる石は、すでに大きな動きを失っていた。

 激しくぶつかり合った中央も、今は形を整え、残されたヨセの余地は、境界線を削り合うわずかな隙間だけだった。

 白地は多い。

 だが黒も、中央の厚みを地へ変え切っている。

 差は、わずかだった。

 

(ここまできて、まだ見えないか……)

 

 脳細胞が焼き切れるほどの速度で、ヨセの計算を繰り返す。

 これほどまでに動きを失った盤上で、明確な終局図が見えないなど、そうあることではない。

 

 緒方は、黒地の境界へ一子を滑り込ませた。

 自らの形を収めながら、黒の懐をわずかに削る。

 

(くっ……)

 

 だが、返ってきた黒の応手もまた、先手を渡さぬための鋭い利きを伴っていた。

 

 緒方の眉間に、深く皺がよる。

 

 長考の後、緒方は確信を持って白石を掴んだ。

 中央へ手を入れ、残された揺らぎをひとつ潰す。


 未来の知識でも、前世の記憶でもない。

 この世界で『緒方精次』として血の滲むような研究を重ねてきたからこそ辿り着けた、この局面における最大の一手だった。

 

(……!)

 

 佐為の扇を持つ細い指に、力がこもった。

 応じれば、先手を失う。だが、放置すれば、地が減る。

 勝敗を決する一手だった。

 

(見事……)

 

 握りしめていた指先から、ゆっくりと力が抜けていく。 

 

『……ヒカル、長い時間、ありがとうございました』

(佐為?)

『終局です。「参りました」とお願いします』

「えっと……参りました」

 

 ヒカルの、少し戸惑いを含んだ声が敗北を告げる。

 緒方はわずかに視線を上げ、あらためて盤上を見渡すと、静かに息を吐いた。

 

「白、一目半勝ち」

『……はい、お見事です。ありがとうございました』

「ありがとうございました」

「……ありがとうございました」

 

 緒方の凛とした声に合わせるように、ヒカルもおずおずと頭を下げた。

 

 すぐに、碁石を弾く乾いた音が続く。

 緒方が何も言わず、盤上の石を整え始めたからだ。

 ヒカルはただ、その様子を見つめることしかできなかった。

 

(……さっぱり分かんねぇ)

 

 勝敗は聞いた。白の一目半勝ち。

 だが、それがどういった意味を持つのか、今のヒカルにはまるでわからなかった。

 

(だけど……なんか、すごかった)

 

 大人が、何かにあれほど真剣に向き合う姿を見るのは、ヒカルには初めての経験だった。

 唾を飲み込むことすらためらわせるような緊張感。

 肌を刺すような気迫。

 ただ言われるまま石を置いているだけなのに、途中で本当に息が詰まりそうだった。

 真剣勝負という言葉の本当の意味を、ヒカルは今日、初めて知った気がした。

 だからこそ、盤上に広がる世界が、自分にはただの白と黒の集まりにしか見えないことが、少し悔しかった。

 

 パチリ、と静かな音がした。

 

 緒方の長い指が、中央の一角に石を戻していく。
 盤上には、緒方が中央に切り込む前の局面が、再現されていた。

 

「ここだ」

 

 低い声だった。

 ヒカルは思わず身を乗り出す。
 だが、その盤面の意味はやはり分からない。

 

『……はい』

 

 ヒカルのすぐ後ろで、佐為が愛おしそうに盤面を見つめて応じた。

 

「この時点では、まだ黒が打ちやすい」

『ええ』

「厚みが十分に働いている」

 

 緒方が一手、白を置いた。

 

『この一手で、私は後手を引かされました』

 

 緒方は答えない。聞こえるはずがないのだから、当たり前だ。

 ただ、もう一手、黒を盤上に戻した。

 

「受けるしかない」

『はい。放置すれば、地が崩れます』

 

 さらに白が打つ。黒が応じる。その繰り返しだった。

 ヒカルの目には、ただ石が規則的に並べ直されているだけにしか見えなかった。

 

『ここで、白に利かされました』

「そこで差がつく」

 

 言葉は交わされていない。

 それでも、見ている景色は同じだった。

 

「ここで振り切れなきゃ、終わってたな」

 

 緒方は盤上を見つめたまま、小さく息を吐いた。

 

「だが、その前が悪い」

 

 指先が、中央から右辺の流れをなぞる。

 

「ここで詰められすぎた」

『厚みを活かそうと、打ちながら答えを探した場所ですが……我ながら、よくぞ形になったものです』

「ここでツギを入れて、早めに勝負に出るべきだったか……」

『それでしたら、コチラを先に……ヒカル、お願いします』

「えっと──」

 

 ヒカルは躊躇いがちに、佐為の言葉を緒方へと伝える。

 続く言葉の応酬に、聞き慣れぬ用語にまごつきながらも、ヒカルは訳もわからぬまま一生懸命言葉を続けた。

 そうして双方から粗方の感想が出終わる頃には、佐為の口元に自然と、微笑みが浮かんでいた。

 

『ヒカル。この方へ、私と打ってくれたことへの感謝を伝えてくれませんか。──本当に、楽しかった、と』

 

 おずおずと伝えられた伝言に、緒方は一瞬動きを止めた。

 それから眼鏡の奥の瞳を伏せて、ほんのわずかに口元を緩めた。

 

「幽霊の名は、佐為だったな」

「うん」

「江戸で取り憑いていたのは、本因坊秀策だな?」

『虎次郎をご存知なのですか?』

「トラジロウを知ってるのかって」

「知らぬ碁打ちはいないさ」

 

 崩した膝に肘をつき、緒方はゆったりと笑った。

 

「……俺は、秀策に勝ったのか」

 

 どこか酔いしれるような、声だった。

 

(なあ、佐為……)

『なんでしょう?』

 

 どこか気恥ずかしさを覚えながら、ヒカルは盤上へ視線を落としたまま、ぽつりと心の中で尋ねた。

 

(囲碁、教えてくれるか?)

『!』

 

 一瞬、佐為が大きく目を見開く。

 

『ええ、もちろんですとも‼︎』

 

 死力を尽くしてなお、届かなかった悔しさはあった。

 だが、それを遥かに上回る純粋な喜びが、今の佐為の胸に溢れていた。

 現世へと戻って早々に、これほどの強者と打ち合えるなど、望外のこと。なにより、一局の中でこれほど未知に触れ、学びを得た対局は初めてだった。

 

 神の一手は、まだ遥か先にある。

 

『ヒカル、一緒に強くなりましょうね!』

(お、おう……?)

 

 まばゆいばかりの笑顔で覗き込んでくる囲碁幽霊の熱量に、ヒカルは若干引きながらも、目の前の白黒の世界を、さっきとは少しだけ違う瞳で見つめ返していた。

 




成り主の死亡時期は、コロナちょい前くらいを考えてます。
vs.佐為でダイレクト三々ネタは外せない。
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