ヒカ碁の世界で緒方精次となったからには、打倒saiを掲げたい。 作:くま子
現実は世知辛く、時間は有限だ。
勝利の余韻に浸る暇もなく、俺は帰り支度を始めた。
「進藤、また佐為と打たせてもらえるか?対価を金銭で、というのは当分無理だが」
「……うん。いいよ」
「なら、家の電話番号を教えてくれ」
伝えられたそれを、スケジュール帳に素早く書きつける。
「盤と石だが、いるか?」
「えっ?」
「昔使っていた安物だ。また持ってくるのも面倒だし、いるならやる。邪魔になるなら持って帰るが……」
「いるっ!」
予想外の食いつきに、俺はわずかに目を瞬かせた。
てっきり、「んなもんいらねー」とでも言われると思っていたのだが、どんな心境の変化か。
まぁ、なんにせよ都合はいい。
この先のことを考えれば、なおさらだ。
保護者に長居を詫び、進藤家を後にする。
冬の寒気が、じわりと熱の残る身体を撫でた。
20分ほど歩き、コインパーキングへ停めていた車へ乗り込むと、俺は座席へ深く身を沈めた。
「ふぅ……」
タバコに火をつけ、一息つく。
頭の芯が痺れるような、心地よい疲労感。
しばらく動けそうもなかった。
(一目半か……)
秀策の打碁は、多くの棋士がそうであるように、俺も並べたことがある。
その上で、佐為が知らない140年分の定石をぶつけ、読み負けぬよう時間まで制限して──それでようやく、一目半勝ちだ。
末恐ろしくて、笑うしかない。
(あの化け物と相対せたのも、この世界で緒方精次という役を与えられたおかげ。どこの神様の采配かは知らないが、感謝するぜ)
前世で囲碁に出会ったのは、大学3年の頃だった。
専攻の関係で、出入りするようになった研究室。その隅に、榧の盤が置かれていた。
きっかけが何だったのかは、もう覚えていない。
だが、気づけば教授を師として碁を学び始め、その奥深さに魅了されていた。
寝食を忘れるほどのめり込み、詰碁を手に通学し、空き時間には動画で学ぶ。教授とは、本業よりよほど囲碁の話をして過ごした。
あまりに傾倒していたせいだろう。プロを目指してみてはどうかと、言われたこともある。だが、碁に狂うには、当時の俺にはしがらみが多すぎた。
そのくせ、卒業後10年もたたず、病に倒れてお陀仏だ。
好きに生きておけばよかった。
それが俺の後悔だった。
(次は、saiだな)
ネット後最強の棋士、sai。
現代囲碁を学んだ本因坊秀策。
その化け物を、この手で下す。
それが、俺の目標だ。
そのためには、佐為に学びの場を与える必要がある。
そして俺自身も、奴に鍛えられなければならない。
(だが、その前に……)
スマホを知る身からすれば、ひどく古めかしい携帯電話。
懐から取り出したそれを操作し、コール音が鳴り終わるのを待った。
「──夜分に申し訳ありません。緒方です。先生はご在宅でしょうか」
進藤家への再訪は、進藤からの「また打ちに来ないか」という誘いで実現した。
当然ながら、俺に否やはない。
ちょうどこちらからも、佐為を交えて話したいことがあったため、仕事を調整し、足早に進藤家を訪ねた──のだが、進藤の言う「打ちに来ないか」は、佐為ではなく、自分と打たないかという意味だった。
してやったりと笑う進藤の頬を、思わず引っ張った俺を、誰が責められようか。
だが、進藤は佐為との橋渡し役だ。
ここで無下にすれば、関係が崩れ、今後の予定が狂いかねない。
結果、適当にあしらうこともできず、そのまま碁盤へ向かう羽目になった。
打ちはじめて40分。
対面に座る進藤は、集中を切らすことなく、しっかりとした意思を持って石を打ち込んでいる。
九子置かせても、ろくな形にならないだろう。そう思って始めた指導碁だったが、盤面は最低限の体裁を保っていた。
「まだ大きい場所が残っている。どこかわかるか?」
黒を持つ手が止まったところで問いかけると、進藤は首を捻り、おずおずと盤上を指さした。
「ここと、こっち……かな?」
「悪くない。だが、もう一箇所ある。ここだ。先手で打てる」
「ん……」
「最後まで打ち切るぞ」
進藤が眉を寄せながら盤を睨む。
一目を求め、地の境界を確定させていく。
先手と後手が入れ替わるたび、盤上の余白が少しずつ削れていった。
やがて、ヨセが尽きる。
「ここまでだな」
残ったダメを交互に詰めながら、そう告げた。
一礼の後、死石を指摘し、整地を補助する。
石を片付けながらの軽い検討を終えたところで、進藤はパタンと後ろへ倒れ込んだ。
「あ゛〜、疲れた〜……」
「おい、礼がまだだぞ」
「えっ?さっきやったじゃん」
「片付けの後にもするものだ」
進藤が身を起こすのを待ち、改めて礼を交わす。
文句ひとつ言わず従ったことに、少し驚いた。
「あれから毎日打っていたのか?」
「へへ。サマになっただろ!」
「サマにはなってるが……打ち筋がぼんやりしすぎだ。盤の広さを持て余してる。佐為の言うとおり、もう少し九路で読みの精度を上げてから広げた方がいい」
「えぇ〜。ヤダよカッコ悪い」
「お前なぁ……」
「だって、大会で俺だけデカい盤面に慣れてないとか、やじゃん」
「大会?」
「いゃ、その……知り合いに誘われてさ!小さいヤツだから、先生は知らないんじゃないかな〜」
あからさまなはぐらかしに、これでよく原作で佐為を隠し通せたものだと、逆に感心する。
この時期だと確か、中学の囲碁大会に不正参加する話だったか。
「いつだ?」
「今週の日曜」
「3日後か」
なるほど。それで俺に、佐為が九路でしか打ってくれないと泣きついてきたわけだ。
「なら、なおさら九路で練習しろ。十九路は一局に時間がかかりすぎる。今のお前に必要なのは、経験だ」
「え〜」
「九路は盤面が狭い分、ごまかしが効かない。なんとなく打つと、緩みがそのまま形に出るからな。だからこそ、反省しやすく成長につながりやすい」
盤面から視線を逸らしたまま、進藤は返事をしない。
理解はしている。それでも、納得はいっていない──そんな顔だった。
(ガキだな)
だからこそ、操縦方法も簡単だ。
「進藤、今の一局を最初から並べられるか?」
「……それぐらいできるけど?」
「やってみろ」
白の碁笥を渡すと、進藤は不思議そうな顔をしながらも、対局を再現していった。
「できたけど……」
数分で、一手の狂いもなく復元された棋譜に、苦笑いが浮かぶ。
知ってはいたが、こうして目の当たりにすると圧倒されるな。
クソガキだろうとも、コイツは主人公なのだ。
「いいか進藤。俺が一手目から終局まで並べられるようになったのは、囲碁を初めて1年以上が経ってからだ」
「えっ⁉︎」
「プロなら基本、誰でもできる。だが、碁盤を手にして10日程度の素人ができることじゃない。疑うなら、佐為に聞いてみろ」
横を振り仰いだ進藤の頬が、みるみる赤くなっていく。
よほど褒められたのだろう。やがて落ち着かない様子で、視線が盤上へと落ちていった。
「意識せずとも石の意味をつなげ、理解できるのなら、一局で得られる経験値は人より遥かに多いはずだ。そしてそれは、この一局が証明している。10日でここまで打てるようになる奴は、そうはいないぜ?」
畳みかけるように言うと、しまいには耳まで赤くして俯いてしまった。
少し褒めすぎた気もするが、まぁいい。
多少鼻が伸びたところで、どうせ大会で適度にへし折られるだろうからな。
「せっかくの才能だ、効率よく伸ばせ」
「…………うん」
蚊の鳴くような声で返事が返る。
もっと調子に乗るタイプかと思っていたが、意外と初心だったようだ。
可愛いところもあるじゃないかと眺めていると、耐えきれなくなったのか、進藤は「トイレ!」と逃げるように部屋を飛び出していった
暫くして戻ってきた進藤に、後回しになっていた本題を切り出す。
「来月の第1日曜だが、何か予定は入っているか?」
「ないけど……佐為と打ちに来るの?」
「いや、違う。お前さえ良ければ、佐為と俺の師匠を引き合わせたい」
「先生のシショー?」
「塔矢行洋三冠。日本で最も神の一手に近いと言われる人だ」
「アキラの、オヤジ?」
「そうだ」
霊感なんぞ皆無の俺でも、空気が変わったのを感じた。
「佐為……落ち着けって。……わかった、わかったってば。あーもうっ!誰も断るなんて言ってないだろ‼︎」
どうやら囲碁幽霊は大暴走しているらしい。
「ったく……。先生、その日は空けとくよ。でもさ、大丈夫なの?師匠に幽霊なんか紹介して。変な奴だって思われない?」
「大丈夫だ、幽霊だろうと妖怪だろうと、碁が強いならあの人は気にしない」
「そ、そうなんだ……」
先生には、人ならざるモノとの対局と伝えた上で、快諾を得ている。
何も問題はない。
「悪いが、対局には3時間ほど付き合ってもらうぞ」
「げっ、長い……」
「これでも短いくらいだ。その代わり、事前の昼飯で好きなものを奢ってやろう」
「ラーメン!」
「……だと思った」
まだ胃にもたれる歳じゃないが、対局中ニンニク臭いのは勘弁願いたい。
煮干し系ラーメンはこの時代もうあったか?
後で調べておくか。
「昼前に車で迎えに行く。日暮れ前には帰す予定だが、事前に親御さんへ伝えておけよ」
「はーい」
「……おけよ?」
「大丈夫。忘れてたら佐為が教えてくれるから」
それならまぁ、大丈夫か。
……いや、それでいいのか?
「まさかお前、佐為を目覚まし時計代わりになんて使ってないだろうな」
「・・・・」
「使ってるのか……」
「だって、コイツ寝ないし」
「少しは師匠を敬え」
「シショー?」
「お前にとって佐為は、そういう存在だろうが」
「佐為が?えぇー……」
訝しげな顔をして隣を見やる進藤に、数年後、お前はそれで泣くことになるぞと言いたくなった。
手入れの行き届いた小ぶりの庭園を横目に、きょろきょろと落ち着きなく辺りを見回す進藤を連れ、旅館内の小道を歩く。
佐為の存在をアキラ君や他の門下生に知られたくなかった俺は、先生との対局の場として、旅館の数寄屋造りの離れを一棟借りていた。
「失礼します」
室内には、すでに先生が座していた。
気後れしたのか、入り口から動こうとしない進藤の背をそっと押し、対局者の席へと促す。
進藤が座布団へ腰を下ろしたのを見届け、俺は静かに頭を下げた。
「先生。本日はお時間をいただき、ありがとうございます」
「……彼が?」
「進藤ヒカル君です。ですが、打つのは彼ではありません」
俺は、進藤の背後──佐為がいるのであろう空間へ視線を向けた。
「進藤君は……そうですね。さしずめ
先生の目が、わずかに見開かれた。
当の進藤は意味がわからないのだろう。何それ、と言いたげな顔でこちらを見ている。
「なるほど。アキラが相対したのは、鬼だったか」
「はい」
遣唐使として唐の地を踏んだ吉備真備は、皇帝により、囲碁のルールもよく知らぬまま、現地の名手と命懸けの対局を命じられてしまう。
その時助けに現れたのが、かつて唐で非業の死を遂げた、阿倍仲麻呂。
鬼となった仲麻呂は、盤上を読み、真備へ勝ち筋を示した。
そうして真備は、異国の名手を相手に互角に渡り合った──そんな逸話が残る人物だ。
進藤と佐為の関係を例えるなら、これ以上ない配役だろう。
「鬼が何者かは、対局後に。まずは手談で存分に語らってみてください」
「それは楽しみだ」
かつて『ヒカルの碁』に憧れた読者として。
塔矢行洋の弟子として。
そして、1人の碁打ちとして。
夢見た対局が、始まる。
佐為「真備公が、唐より囲碁を持ち帰られた偉大な先人であることは、疑いようもありません。ですが……どうにも、あの方の逸話は好きになれないのです。だってズルしてますし、何よりも汚いじゃないですか」
対局は夜に投稿します。
ちょっと頭を捻ってタイトル変更。
前よりマシになった気はすれど、微妙なのは変わらず。次点の候補が「緒方精次(偽)の野望」というセンスのなさなので、如何ともしがたく。
サブタイトルまで考えてる人凄いよ…。