ヒカ碁の世界で緒方精次となったからには、打倒saiを掲げたい。 作:くま子
塔矢先生と佐為の感想戦も終わり、数寄屋造りの離れには静かな余韻が漂っている。
盤を囲んでいた緊張もようやく解け、俺は部屋の隅で柱にもたれかかっている進藤へ冷えた茶を差し出した。
「ご苦労だった」
「マジ疲れた……」
「ゆっくり休んでいろ」
何度か小休止は挟んだが、3時間強の対局に付き合わせるのは、まだ早かったかもしれない。
それに、盤を挟んでいたのは、現代囲碁の頂点と、千年を生きた化け物だ。
長時間座っているだけでも疲れるというのに、あの空気にさらされ続けた進藤の消耗は、相当なものだろう。
力なく落ちた肩を軽く叩き、俺は先生の前に腰を下ろした。
「先生。彼らのこと、どうか他言無用でお願いします」
「……進藤君も、打つのかね」
「はい」
進藤と佐為。
その二択なら、今は誰だって佐為と打ちたがるだろう。
そうなれば、進藤は『藤原佐為の依代』としてしか見られなくなる。
その結果は、語るまでもない。
「アキラはどうする」
「アキラ君には申し訳ないのですが、しばらくは伏せたほうがいいと考えています」
「何故かね」
「今アキラ君は、進藤のライバルたらんと気概を見せています。それに水を差したくありません」
「……」
「いずれ語る時は来るでしょう。ですが、今はまだこのままで良いのではと、私は思うのです」
「……わかった。彼らのこと、私ひとりの胸に留めておくことを約束しよう」
「ありがとうございます」
ほっと胸を撫で下ろす。
先生はまだいい。忙しさを考えれば、時間が取れても月に1度あるかどうかだろうし、2人の対局は俺の勉強にもなる。
だが、アキラ君はダメだ。
俺の対局時間が減る。
「しかし、歯がゆいな。あれほどの棋士が世に出ること叶わぬとは」
「それに関しては、私に少し考えがあります。形になれば、ご報告いたしますので」
「そうか。君に任せよう」
先生はそれ以上踏み込むことはせず、後援会との会食があるのだと、進藤たちへ再戦を約す言葉を残して席を立った。
先生の足音が玄関へ消えるのを待ち、俺は進藤の正面に座り直した。
「どうだ?話せそうか?」
「話すぐらいはできるけど……なに?」
進藤は、ぐっと体を伸ばし、あぐらをかいた。
「行きは佐為の話ばかりだったからな。大会はどうなった?」
「大会?一応、優勝はしたけど……」
「一応?」
「あっ、ええっと。そもそも中学生の大会で──」
進藤は、ぽつりぽつりと語り始めた。
なぜ中学の大会へ出ることになったのか。
団体戦で優勝したものの、その場で不正がバレて失格になったこと。
そして、気づけば会場にアキラ君がいたこと。
最初は億劫そうだった口調も、話しているうちに次第に熱を帯び、気づけばずいぶん楽しそうになっていた。
「中学に入ったらさ、部員集めて、また大会に出ようって筒井さんと約束してるんだ」
「囲碁部か。部員集めが大変そうだな」
「今んとこ、俺と筒井さんの2人だけの予定だからなー。でも、部員集めなんて漫画みたいじゃん。結構楽しみ」
進藤が、原作通り囲碁に傾倒し始めているのを確認し、ほくそ笑む。
これならば、俺の要望も通りやすいだろう。
「進藤、ひとつ提案がある」
「なに?」
「俺の弟子にならないか」
「……デシ?」
ぽかんとした間抜けズラに、笑いそうになる。
「デシって、あの弟子⁉︎」
「あのが何を指すのか知らんが、師弟関係の弟子だ」
「なんで⁉︎」
「お前に干渉するための理由付けが欲しい」
「……あー。佐為と打つため?」
「そうだ。だが、お前にもメリットはある。俺なら、佐為の知らない現代の定石や布石を教えられるからな。どうだ?」
「どうだって言われても……」
「それに、これからも囲碁を続けるなら、表で名乗れる師はいたほうが何かと便利だぜ?」
首を捻った進藤は、視線を横に向けた。
佐為と話し合っているのだろう。
「ついでに、最新の研究情報と、お前との繋がりを表に出さず、佐為が打てる環境も用意しよう」
「あっ、ずりぃ。んなこと言ったら──やっぱり……」
耳を押さえてうんざりした顔をする進藤に、やっぱりの内容を察してニヤリと笑ってやる。
「将を射んとする者はまず馬を射よと言うからな」
将と馬が逆転している気もするが。
「……そうまでして、佐為と打ちたいもんなの?」
「当たり前だ。明確な格上との対局なんてのは、俺ぐらいになると、そうできることじゃないからな」
「格上?先生、この前勝ってたじゃん」
「あれは、140年分の先人の積み重ねがあってこそで、2度は無理だ。だいたい、それだけのアドバンテージがあって僅差なんだぞ?察しろ」
進藤は、それらしく顎に手を当てて考え込み始めた。
「別に、今すぐ結論を出さなくてもいいぞ」
「……弟子って何するの?」
「特にすることはない」
「!?」
「求められるのは強くなることだが、それは今の生活を続けていれば十分だろうしな」
「それだけ?お金は?」
「金を取るわけないだろ。弟子は面倒を見てもらう側だ」
「ふ〜ん」
前世がどうだったのかは知らないが、この世界の囲碁の師弟文化には、古き良き伝統が今も色濃く残っている。
俺も一時期は住み込み弟子として、先生の世話になった。
それだけでなく、今も塔矢門下という看板で、随分と周囲の雑音から距離を取らせてもらっている。
俺の棋風はこの時代では、かなり異端だからな。
……その分、先生には苦労をかけたが。
世話になった分は、強くなることで返す。そして、師の碁を受け継ぎ、次へ繋いでいく。
本来なら、それが弟子というものだ。
だが、俺の碁は前世の影響が強すぎて、先生の碁は継げなかった。だからせめてもと、低段の頃は記録係を買って出たし、門下にまつわる雑事も積極的に引き受けている。
今日の対局を取り持ったのも、恩返しの面があるのは嘘じゃない。
「……弟子、なってもいいと思う。でも、オレとわからず佐為が打つ方法って?」
そんなもの、決まりきっている。
「ネット碁だ」
言質を取った俺は、早速、進藤を弟子にすべく動いた。
塔矢先生への報告を終えると、まずは身内で唯一の囲碁好きだという、進藤の祖父に引き合わせてもらう。
一局打ち、「この祖父にしてこの孫あり」と適当に持ち上げれば、強い味方の完成だ。
若くして最高段位である九段を持つ緒方は、棋界の次代を担う重鎮のひとり。その緒方が、ヒカルに才能があると言う。お任せして才能を伸ばしてやるべきだ──と熱弁する祖父のおかげで、ご両親との話し合いはスムーズにまとまった。
もっとも、ヒカルの才能云々より、『月謝のような金銭負担はない』という部分が決め手だった気もするが。
ともあれ、師匠という免罪符を手に入れた俺は、小学校卒業後の休みに入ると、足繁く進藤家に通った。
まずは保護者に俺という人間へ慣れてもらい、熱心な指導者だという印象を植え付ける。
そうして外堀を埋め、中学入学を控えたある日。
俺は満を持して、進藤を自宅マンションへ連れ込んだ。
「ここが先生んちか〜」
「少し準備がある。そこで待っていろ」
きょろきょろしている進藤を残して、書斎に移動する。
年度末で何かと忙しいため、少々散らかしている部屋を片付けリビングに戻れば、進藤はカージナルテトラが泳ぐ水槽を、佐為と何やら話しながら覗き込んでいた。
「随分熱心に見てるな」
「今の世の魚は、硝子の箱の中でこうも静かに、鮮やかに舞うのですね。私のいた頃は、魚は川を走り、波を蹴立てる猛々しい命の象徴として詠まれたものですが」
「……っ」
一瞬、水槽を覗き込む進藤の姿に、佐為が重なった気がした。
「佐為が、こんな綺麗な魚見たことないってさ」
「……よくつまらず口にできたな」
「検討の通訳で慣れてきた」
「これからも頼むぞ」
「はいはい」
俺に霊感なんてない。いると知っているからこその、錯覚だろう。
飲まれかけた空気を振り払うように軽口を叩き、書斎へ移動する。
部屋へ足を踏み入れた進藤は、壁一面を埋めるファイルと、積み上がった書籍の山を前に、圧倒されたように目を丸くした。
「すげ……。先生、このファイルって、もしかして全部棋譜?」
「もしかしなくてもそうだ」
呆けてる進藤の前へ、今日の目的である段ボール箱を置く。
今ならこれを渡しても、親から突き返されることはないだろう。
「なにこれ」
「お前のノートPCだ」
「オレのぉ⁉︎」
カッターで梱包用のテープを切り、中身を取り出していく。
「え、オレのって、くれるってこと?」
「そうだ」
「パソコンって高いんじゃないの?」
「大丈夫だ。俺の中古だからな」
「いや、どう見ても新品じゃん」
「俺が買って、一度起動した後に渡すんだ。立派な中古だ」
目を白黒させている進藤を床に座らせ、読んでおけと取説を渡す。
眉間に皺を寄せながら取説と格闘し始めた進藤の横で、俺は初期設定を済ませ、PCカードを挿してネットへ接続した。
モバイル通信になるため、有線より速度は格段に落ちる。だが、データ量の少ないワールド囲碁ネットで打つ分には十分だ。
メール設定を済ませ、ワールド囲碁ネットへのショートカットをデスクトップへ作成すれば、準備は完了。
「取説は……読めてないようだな」
「こんなのわかんないって!」
タブレットどころか、ろくにPCへ触れたこともない世代の子供には、荷が重かったらしい。
白旗を上げた進藤に、起動方法から基本操作まで、一通り教えていく。
「これがワールド囲碁ネットだ。ここからログイン。……まずは、佐為のアカウントを作ってやれ」
「あかうんと?」
「そこからか……。まぁいい。ここに名前、その下にパスワードを入力しろ」
目の前で、saiが生まれる。
ようやくここまで辿り着いたのだと、胸が躍った。
「これで、世界中の人と囲碁が打てるんだ……」
「まずは操作に慣れるためにも、俺と一局打ってもらう」
「やっぱり」
「何か言ったか?」
「ナンデモナイデース」
俺も自身のデスクトップPCを立ち上げ、この日のために作っておいたアカウントで、saiへ対局を申し込む。
「あーるえっくすなな?」
「RX-7だ。セブンと読め」
対局画面へ移ると、UIの説明をしながら実際に石を置かせてみる。
外付けマウスを握る手つきは、初心者丸出しだった。
「時間はかかっても構わん。石を置き間違えないことだけ意識しろ」
「りょーかい」
「長考は無しだ。操作に時間がかかるだろうから、早碁でいく」
そして、1時間後。
俺は無言で中押しの項目を選択していた。
「先生、早碁苦手?」
「うるさい」
大差での連敗記録更新に、煮えくり返るはらわたに蓋をし、進藤へと向き直る。
「どうだ?触った感想は」
「うーん……。先生、このまま他の人と打ってみていい?」
「それは構わんが、リビングに移動したらどうだ。クッションだけじゃ床は辛いだろ」
「慣れてるから大丈夫」
そう言って、早速対局を始める。
一局打ち、昼飯。その後三局打って、締めとした。
「強さも打ち方も、みんなバラバラだった」
棋譜整理をしながら観戦していたが、勝負にならない初心者もいれば、アマ高段者クラスの相手もいた。
「ネットの良さであり、悪さでもあるな」
「なんか、オモシロイ。オレもやってみよっかな」
「いいんじゃないか?ただし、アカウントは間違えるなよ」
「あかうんと……」
進藤のアカウントを作成し、ログイン、ログアウトの手順を覚え込ませてその日は終わった。
原作より数ヶ月早く、saiが誕生した。
ひと夏でログインしなくなった原作とは違い、こちらのsaiは、消えるその時までネット碁を続けるだろう。
だが俺は、日本の囲碁界がそれで何か変わるとは思えなかった。
今はネット黎明期。日本の高段者の多くは、まだネットそのものに馴染みがない世代だ。せいぜいアンテナを張った若手が何人か釣れる程度で、そこから棋譜がリアルに持ち込まれたとしても、大きく話は広がらないだろう。
中韓の注目は集めるだろうが、所詮は海の向こう。招聘状でもなければビザは下りない時代だ。言語の壁もある。いくら過熱しようとも、こちらまで騒がしくなることもあるまい。
騒動になるとしたら、先生がネットで打った後だろうが──。
とりあえず俺は、進藤家に行く時間が取れない時でも対局できるようになり、連敗記録が2桁に突入しようとも大満足だった。
佐為がsaiやってた頃って、某バスジャックにより2ちゃんの名前は知れ渡るも、それがどんな場所かリアルだと知ってる人は、若い世代のごく一部みたいな時代でした。
個人サイト全盛期。ブログの波はまだ来ておらず、SNSは影も形もありません。検索エンジンの精度も悪かったため、それぞれの趣味のサイトがリンクで緩やかに繋がって、情報やり取りしているような状況。
saiがどれだけすごいか、対局したアマチュアと観戦者以外が知るのは、日本では難しかったと思います。
今のように、ネットで話題の〜なんてテレビや雑誌で取り上げられることもないので、プロの世界では、一柳棋聖が負けてやっとざわつき、塔矢名人が負けて騒ぎになるくらいかなと。