ヒカ碁の世界で緒方精次となったからには、打倒saiを掲げたい。 作:くま子
初めて訪れるはずなのに、どこか既視感のある中学校の廊下を、来客用スリッパでパタパタと間抜けな音を立てながら歩く。
案内の教師が「こちらです」と示したのは、古びたアクリルの室名札に『理科室』と書かれた部屋だった。
「おーい、進藤君。お客さんだよ」
ガラリと戸が開く。
その先には、水道付きの実験机がずらりと並び、3人の制服姿の男女が椅子に座っていた。
「あれ、伊藤先生どした──うぇえっ⁉︎緒方先生⁉︎」
「お前、メール見てないな」
驚いて腰を浮かせた進藤を気にもせず、伊藤と呼ばれた女教師は「何かあったら職員室に来てくださいね」と言い残して部屋を出ていった。
セキュリティにおおらかな時代とはいえ、まさか俺ひとり置いていかれるとは。
あらためて室内を見れば、何度か顔を合わせたことのある進藤の幼馴染が、ぎこちなく会釈してくる。
残るひとりのメガネの少年は、「緒方九段だ……」と呟き、今にもサインを求めてきそうな様子だった。
なんというか、俺に対する反応としては非常に珍しい。
「先生、何しに来たの?」
「はぁ……。学校への事前の顔見せだ。お前を迎えに来ることもあるだろうからな」
「なるほど、通報対策」
軽くでは済まない程度に、チョップを落とす。
「あだっ!」
「お前、ほぼ毎日PC立ち上げてるんだから、ついでのメールチェックくらいサボるな」
「はーい」
自主的には無理そうなので、後で佐為にアラームになってもらうこととする。
「し、進藤君。緒方九段と知り合いなの⁉︎」
「ん?まぁ、師匠みたいな?」
「弟子⁉︎……じゃあ、時々信じられないような力を発揮するのは……」
ぶつぶつと呟く少年と、進藤が挟む碁盤の横に椅子を引っ張ってきて座る。
「どうした?続けないのか?」
「先生暇なの?」
「今まさに予定を消化中だが?」
「ならさ、筒井さんと打ったげてよ。筒井さん、塔矢モンカ?のファンなんだ」
「ししし進藤君っ⁉︎」
「構わんが、お前も形式上は塔矢門下だぞ」
「そうなの?」
「お前の根っこは別だから、俺も先生も門下の枠に拘る気はないが、周りはそう見ないこともある。一応覚えておけ」
「?……わかった」
進藤は、わかってない顔で頷いた。
プロになる頃には理解しているといいが。
筒井という上級生との指導碁を進めながら、のんびりと夕暮れ時を過ごす。たまにはこういう時間も悪くない。
「しかし、ずいぶん傷んだ碁盤だな」
足が取れ、角の丸くなった碁盤の縁へ指を這わせる。
管理が悪かっただけで、物はいいのだろう。漆の線だけはほぼ欠けることなく、盤としては生きている。
「伊藤先生のオヤジさんが使ってた碁盤だって言うから、年季がなー」
「他にはないのか?」
「コレだけ。部費が入っても雀の涙みたいだし、部員増えたら碁盤どうするか悩み中」
「俺がやった碁盤を持ってくればいい」
会話に妙な間が空いたため顔を上げると、机に腰掛けていた進藤は、なぜか不満げな顔をしていた。
「爺さんに足つきの碁盤を買ってもらったんだ。もう使うこともないだろ」
「そうだけど……」
「使われてこその道具だ。どうせお前の家にあっても埃をかぶるだけなんだし、部で使えばいい」
「でもあの碁盤は──」
「進藤!」
ボソボソとした進藤の声をかき消すように、ハリのある声が耳を打つ。
声に振り返った先、理科室の窓の向こうに、アキラ君が立っていた。
「塔矢じゃないか。どうしてこんな所に」
「進藤。キミほどの人がなぜ学校の囲碁部なんかに……」
窓を挟んで話し始めた2人……というより、一方的に語り始めたアキラ君を見て、ああ、そういえばこんなシーンもあったなと思い出す。
『ヒカルの碁』は、前世で馴染みの碁会所に置かれおり、対局からあぶれた時など、手持ち無沙汰な時に読み返していた。
だからこの身になってすぐは、割と内容を覚えていた。しかし、流石にこれだけ生きると、前世の記憶なんざあやふやになってくる。
つまりこの状況は、完全に想定外。狙ったわけでもないのにかち合うなど、運が悪いにも程がある。
(面倒な……)
さてどうしたものかと窓辺を脇目に見ていると、アキラ君と目が合った。
「緒方さん⁉︎」
驚きに目を見張り、俺を呼ぶアキラ君へ顔を向ける。
もうしばらく考える時間が欲しい。
それもあって、言葉を返すことなく、対局中であることを示すように碁石を手に取る。
するとアキラ君は、答えを求めてだろう。進藤に向き直った。
「あのな──」
「進藤、どうして緒方さんがこんなところにいるんだ?」
「・・・・」
アキラ君の言葉に、進藤の雰囲気が変わった。
「どうしてって、緒方先生はオレの師匠だからだよ」
「師匠⁉︎緒方さんが⁉︎」
「それと、オレ、お前とは打たないぜ」
「えっ⁉︎」
ひどく硬質な声音での宣言に、アキラ君があっけに取られている。
……原作での進藤は、こんなにも不機嫌そうに対応していただろうか?
「待て、どういうことだ!」
「オレ、筒井さんと囲碁部で頑張るんだ。そんでまた大会に出る。お前とは打たない」
「ボクと打たない⁉︎進藤!」
窓をピシャリ閉め、遮光カーテンを引く。
外からなおも「進藤!」と声が飛んだが、こうも露骨に拒まれては、流石にアキラ君も押せなかったのだろう。それを最後に、静かになった。
進藤の状況を思えば、拒絶するしかないのはわかる。
それでも少し可哀想に思ってしまうのは、俺がアキラ君と過ごした時間が長かったせいか。
「進藤君…いいのかい?」
「ヒカル……」
周囲の困惑に、進藤は鼻を鳴らした。
「いいのいいの。それよりも筒井さん、時間がなくなっちゃうぜ?」
「でも……」
「外野がどうこう言うことでもないさ」
そう言って、促すようにパチリと一手進める。
少し躊躇っていた筒井も、椅子に腰掛け直すと、小考の後に一手を置いた。
パチリ、パチリと応手が続く中、むっつりとしたままの進藤に声をかける。
俺は外野じゃいられないからな。
「進藤」
「ん?」
「話さない方がいいか?」
「うん」
「なら、あまり待たせてやるなよ」
「!……もちろん‼︎」
今後アキラ君に睨まれるであろう、俺のためにも。
「緒方さん、この後時間はありますか?」
やはり来たなと、腹を括る。
定例の名人の研究会。
終了直後にアキラ君からかけられた声に、俺は頷いた。
「なぜ進藤は、ボクと打ってくれないんですか?」
彼の部屋に移動した直後、開口一番にど直球の質問をぶつけられた。
アキラ君らしいと緩みそうになる頬を、奥歯を噛み締めて堪える。
拗ねると長いのだ。この子は。
「答えることはできるが、おそらくキミには意味不明だぞ」
「それでも教えてください!」
言葉を並べ立てることもできるが、本質だけを言うなら一言だった。
「男の子だから、だな」
「…………は?」
アキラ君は瞳を瞬かせた後、キリリと眉を吊り上げた。
「ふざけないでください!」
「ふざけてない。正真正銘、俺はそう思っている」
俺の回答に、アキラ君は乗り出していた体を引き、悔しげに唇を噛み締め、拳を握りしめた。
重たい沈黙が落ちた。
「質問は、それだけか?」
「……本当に、彼の師なんですか?」
「ああ。名義貸しのようなものだがな」
「お父さんはそれを?」
「知っている」
「・・・・」
視線を落とした姿に、なけなしの良心が痛む。
身内から蚊帳の外にされているのだ。疎外感もひとしおだろう。
(はぁ…。俺も甘いな)
どうやら俺は、想像よりもこの子に絆されているらしい。
適当に煙に巻くだけのつもりだったが、やめだ。
「進藤と打った時、アキラ君は彼の棋力をどれぐらいだと感じた?」
突然の質問に、アキラ君は訝しむように眉をひそめながらも口を開いた。
「プロ高段者相当……。いえ、あるいはもっと……」
「それだけの実力を得るまでに、どれだけ盤上に石を打ち下ろす必要があるか、わかるか?」
「途方もない数だということしか」
「なら、なぜ進藤は石を持ち慣れていない?」
「……わかりません」
アキラ君の顔から厳しさが消え、純粋な疑問が浮かび上がる。
どうせ疑問を持つなら、建設的な方向で持たせればいい。
「俺と先生は、その理由を知っている。だが、進藤が望まない限り、俺たちの口から語ることはない」
「どうして、ですか?」
「それが、『進藤ヒカル』という碁打ちを殺しかねない秘密だからだ」
「……ボクは、進藤を追うべきではないと?」
「いいや。言葉で問うても答えは返ってこない……いや、返せないと知っておけというだけだ」
「進藤がボクと打とうとしないのは、その秘密が関係しているのですか?」
「一因ではある。だが、アイツがそう決めた理由は、先に言った通りだ」
考え込んだアキラ君を前に、静かに答えを待つ。
「……それでも、ボクは彼と打ちたい」
「いずれプロとして相対するとしてもか」
「ボクは彼を恐れてしまった。その感情に決着をつけるまで、前には進めません」
「ならどうする?」
「逃げようがない、大会という場で、彼の前に座ろうと思います」
「中学の囲碁部に入ると?」
「はい」
原作通りの流れ。
その結果は、傷つけ合うだけだと知っている。
だがま、それも青春か。
「ならばそこで、存分に語らってくるといい」
「でも、さっきは尋ねるなと──」
「俺たちは碁打ちだぜ?語らう場なんて決まりきってる」
なぜ囲碁が手談と呼ばれるか。
盤上の石ほど、雄弁に相手を語るものもない。
(しかし、囲碁部か……。確か、イジメに遭うんだったな)
何やら、やる気を漲らせ始めたアキラ君を見つめる。
愛想も礼儀もそれなりにこなすが、経験不足から、共感性にはまるで期待が持てない子だ。
そんな子が、同年代の等身の違う世界に入り込む。軋轢を生まないわけがない。
……一応身内だ。何をしたところで焼け石に水だろうが、一手置いておくことぐらいはするか。
「突然話は変わるが、競技人口の少ない囲碁なんかに、なんで夢中になってるんだと言われたら、どう思う」
「腹が立ちます」
「なら、学校の囲碁部なんかに、と言われた相手がどう思うかもわかるな」
「あっ……」
「キミの思ったままを口に出す癖は、他者への配慮が欠ける以上、悪癖でしかない」
「すみません」
「俺に謝ってどうする。謝るべきはあの場にいた囲碁部の面子だ」
シュンとしてしまった。
「これからは気をつけることだ」
「はい!」
あまりに率直に頷くものだから、数年ぶりに彼の頭を撫でていた。
途端に機嫌を直してしまったアキラ君に、別の意味で良心が痛む。
禁煙中のタバコが、無性に呑みたくなった。
本来5巻で手に入れる碁盤を初期から所持し、佐為と打っているこの世界線のヒカルは、少し成長が早いです。