ヒカ碁の世界で緒方精次となったからには、打倒saiを掲げたい。 作:くま子
真夏の陽光が、障子越しに柔らかく座敷へ滲んでいる。
数寄屋造りの離れは、静けさそのものを金で買ったような空間だ。
普段であれば、日々の喧騒から離れ、涼やかな時を過ごせる場所。だが今日ばかりは、先ほどまで盤上を駆け巡っていた思考の熱が、未だ座敷の空気に溶け残っているようだった。
検討が終わった今もなお、塔矢先生と進藤──いや、佐為は盤を挟んで向かい合っている。
余韻を味わうような沈黙。
盤上に残るのは、佐為の白一目半勝ちの形。
先生の2連敗だった。
「この一局は、あなたが今を生きているのだと、感じることができました」
言ってから、先生は珍しく言葉を選び直すように口を閉ざした。
「……む。少々、配慮に欠けましたな」
『いえ。仰りたいことは、よく伝わっております』
すっかり代弁が板についた進藤の口から、佐為の言葉が淀みなく伝えられる。
「この短期間で、これほど学ばれるとは」
『緒方殿のおかげです。学ぶ機会を得られたこと、感謝に絶えません』
「緒方君が力になれたようで何よりです」
まるで「よくやった」とでも言いたげな先生の視線に、俺は軽く頭を下げた。
「しかし、学ばれてなお、最後に盤上へ残るのはあなたの碁なのですね」
『…と、申しますと?』
「現代の形を取り入れても、石が窮屈になっていない。呼吸がある。中央の感覚など、むしろ以前より鮮やかで」
先生はそこで一度言葉を切った。
「実に、美しい石の流れでした」
『こうも褒められますと、照れてしまいますね』
「──佐為のやつ、扇で顔を隠してる。すっげー照れてるみたい」
進藤の茶々に、小さな笑いがこぼれる。
『行洋殿の碁は驚くほど広く、早くいらっしゃる。途中で何度、ここはもう黒が打ちやすいと思わされたことか』
「恐縮です」
『特に、右辺から中央へかけての打ち回し。ああして石が離れて働く様は、江戸の頃にはまだ薄かった感覚です。磨いてはおりますが、未だ読みきれませんね』
「ですが、あなたは追いついてこられた」
『……どうでしょう。置いていかれぬよう夢中ではありましたが、前回以上に翻弄された気がしております』
「それでも、道を見つけられるのだからまいります」
『ヨセまで、私に勝ち筋は見えておりませんでした。ですが長年打っておりますと、あれほど石が働いていれば、どこかに道が残されていると、体が教えてくれるのです』
「経験、ですか……」
先生は小さく息を吐いた。
「私もまだまだ、学んでいかねばなりませんな」
互いを認め合い、相手の長所を嬉しそうに語り合う。だがその一方で、どこか探り合うような緊張も残っていた。
……以前、どこかで似たような空気を感じたことがある。
しばし考え、ふと思い至る。
(……見合いか)
前世の弟夫婦が初めて顔を合わせた時も、確かこんな妙な間合いだった気がする。
一度そう思ってしまうと、先ほどまで感じていた厳かな空気は遠のき、また対局したいという下心を持った、囲碁好き同士の口説き合いにしか見えなくなった。
中座し、冷えた茶と茶菓子を手に座敷に戻る。
碁盤を片付け、先生は進藤と話しているようだった。
「──で、筒井さんはオレと同じくらいの棋力だけど、先輩だから副将。オレは三将で参加して……」
どうやら、夏休み前にあった中学の囲碁大会の話らしい。
進藤は、大袈裟な身振りまで交えながら、楽しげに語っていた。
「ネットでも勝てたら嬉しいけど、団体戦だとオレの勝敗がチーム全体の勝ち抜きに関わってくるから、責任感?みたいなのもあって、いつもより負けるもんかって気合いが入るんです!」
「それは楽しそうだ」
「塔矢先生はやったことないんですか?」
「機会に恵まれなくてね。団体戦に参加したことはないな」
多少言葉は選んでいるようだが、それでも進藤は、名人相手に近所の知人へ話しかけるような調子で喋っている。無知ゆえの無遠慮というより、たぶん生まれつきの才能なんだろう。
少なくとも、俺には真似できん。
「プロって団体戦ないんですか?」
「イベントなどであれば行われることもあるようだが、公式戦にはないな」
「えぇ〜っ。もったいない。すげぇ楽しいのに」
「中国では、プロリーグとして団体戦が始まったようだが、残念なことに、日本ではそういった話は持ち上がっていなくてね」
「日本もやればいいのに」
話の合間に差し出した茶菓子は、一口で進藤の口の中に消えた。
物足りなかったのだろう。
ちらりと落ちた視線の先に気づいた先生が、自分の茶菓子を進藤へ差し出す。
そしてそれも、止める間もなく進藤の口の中へ消えていった。
(お前……お前なぁ……)
頭を抱えたい俺を置き去りに、会話はそのまま続いていた。
だが、大会の話を続ければ、避けて通れぬのが海王中との対局だ。
「それで、海王中と当たったんだけど、オレ三将なのに、とう……アキラが、前に座ってて」
途端、進藤の声音が明らかに沈む。
大会後から、アキラ君の覇気が明らかに薄れたため、原作に近い何かしらがあったのだろうとは察していた。
ただ、あれだけヒントを渡したのにもかかわらず、佐為と──進藤の中の誰かと打たせてくれと掛け合ってこない。そのせいで、実際どんな流れになったのか、俺にもよく分かっていなかった。
進藤とは今日まで顔を合わせる機会がなく、かといってアキラ君へ無遠慮に聞くわけにもいかない。
ちょうどいいと、俺は2人の会話へ耳をそばだてた。
「対局の最初の辺りは、佐為が打ってたんです。アキラが、佐為と打ちたがってるの知ってたから。でも、途中でオレが打ちたくなって、勝手に石を置いて……」
「大会のために部員を集め、努力してきたのだろう?その気持ちは当たり前のものだよ」
「……違う」
進藤は、小さく首を振った。
「オレ、あの時そんなこと考えてなかった。自分がアキラにどれくらい追いついたか、知りたかっただけなんだ。強くなったはずだって、きっと近づいてるはずだって」
「……」
「だけどアイツ、終わった後、オレを見てなかった。きっと、幻滅させたんだと思う……」
深くうつむいた進藤は、痛々しかった。
だが同時に、それは碁打ちとして決して珍しい姿でもない。
割って入るべきか迷っているうちに、沈黙していた先生が静かに口を開いた。
「キミは、プロを目指す気はあるかね?」
「プロ?……え、ええっと。……考えたこと、ないです」
「アキラはこの夏から、プロ試験に挑む」
「えっ?」
進藤は何を言われたのかわからないといった風に、瞳を瞬かせた。
「オレたち、中1だよ?」
「棋士の殆どは、10代でプロになる。中学卒業前に同僚になった棋士を、私は多く知っているよ」
嘘だろと言いたげにオレを振り向いたため、とどめを刺しておく。
「事実だ。俺も、親の理解があれば中学の内に受けていた」
「じゃあ、学校は?」
「手合い…対局のある日は休む」
「休む⁉︎休んでいいの⁉︎学校の先生怒らない⁉︎」
「事前に伝えておけば、怒られることはないだろうな」
「……プロなんて」
進藤は、アキラ君との間にある差が棋力だけではないことを突きつけられ、それを上手く飲み込めないようだった。
「アイツがプロになるなんて、オレ、ずっと先の話だと思ってた。もっと大人になってからで、こんなに早いなんて……」
「親の贔屓目なしに見ても、アキラの棋力は多くのプロ低段者を凌駕している。試験で躓くとは思えない。来年の春には、プロ入りしているだろう」
「来年……」
目の前にある『プロ』という現実の輪郭を、進藤はまだ掴みきれないのだろう。
掠れた声は、そのまま途切れた。
「進藤君。驚くのも無理はない」
先生の、重みのある声が座敷に響く。
「普通の中学生にとって、学校を休みながら仕事をするなど、現実味のない話だろう。だが、囲碁の世界では珍しいことではない。棋士を目指すというのは、盤上を優先して生きると決めることだ。学校生活も、友人との時間も、そのために削っていく」
「・・・・」
「アキラは、その道へ進む覚悟を決めた」
「覚悟……」
言葉を噛み締める進藤を、先生は静かに見つめていた。
その眼差しは、自分の息子と同年代の子供へ向けるものではなく、一人の棋士を見るようだった。
「アイツ……学校の部活のときも、ずっと真剣だった。真っ直ぐに、オレに……佐為に挑んできた。オレ、アイツがどれだけ強いか、本当は何も分かってなかったのかもしれない」
「ならば、どうする?」
「どうって……」
「幻滅されたまま、アキラの背を見送るのか?」
「そんなのは嫌だ!」
柔らかい部分を容赦なく抉られ、進藤は思わず腰を浮かせていた。
そんな進藤へ、先生は静かに問いを重ねる。
「ならば、どうする?」
「オレも!オレもプロになるっ‼︎」
勢いに任せて飛び出したはずの言葉だった。
だが、その一言は進藤自身の中にあった何かを動かしたらしい。
自らの言葉に驚いたように見開かれていた瞳が、瞬く間に覚悟の色へと変わる。
そんな進藤へ、先生は満足げに小さく頷いた。
俺も、いずれは院生へ誘導するため、多少発破を掛けるつもりではいた。
だがどうだ。進藤は、一足飛びにプロを目指す覚悟を決めてしまった。
進藤が主人公らしい、バカみたいな成長曲線を描いているのを、俺と佐為は知っている。
さらに言えば、俺は進藤がいずれプロとなり、アキラ君と肩を並べて戦う未来も読んでいる。
だが先生は違う。
今日ようやく進藤へ指導碁を打ったばかりだ。
そこで将来性を見出したのかもしれないが、今の進藤はアマチュア初段程度の棋力。その程度の棋力の子供へ、プロの厳しさを誰より知る人間が、何の躊躇いもなくアキラ君を追えと──つまりはプロになれと言外に言ってのけたのだ。
……なんとも恐ろしい。
「プロってどうやってなるんですか?」
「年1回行われるプロテストに合格する必要があるが、進藤君の場合は、院生から始めるのがいいだろう」
「院生?」
「その辺りは、緒方君に聞くといい」
2人の視線が、揃ってこちらへ向く。
一応師匠だからなと、俺は説明役を引き継いだ。
進藤が院生になる上で、ひとつ看過できない問題があった。
進藤のHNであるfiveが、saiと同一PCを使うアカウントだと、既に特定されているのだ。
掲示板の特定班というのは、いつの時代も暇を持て余しているらしく、saiのログアウト直後にfiveがログイン。あるいはその逆が頻繁に繰り返されていることを見つけ出し、同一環境説を唱え始めたのだ。
最初はsaiのサブ垢かとも騒がれたようだが、碁の若さから『孫が爺さんにPCを貸している説』が広まり、今では『saiお爺ちゃん』と『孫のfive君』は掲示板の定番ネタである。
ついでに、saiとRX-7の対局が始まるたび、緒方九段ネタが流れるのも見慣れた光景だ。
安易なHNだったとは思うが、なぜそれがこうなるのか。
しかも、saiとfiveの関係まで含めて、ほぼ正解なのだから頭が痛い。
ただ、RX-7=緒方九段があまりにもネタとして定着しすぎたせいで、逆に本気で探りを入れてくる連中がいないのは助かっている。
本題に戻ろう。
進藤の棋風は、ある程度固まり始めている。
院生になれば、進藤=fiveを疑う者も出てくるだろう。
問題は、その時どこまで誤魔化せるかだ。
(……いや)
むしろ、どこまで開示するかを考える時期なのかもしれない。
saiは、2年後の5月5日に消える。
だがそれは予測で、塔矢先生との対局がこれからも続けば、その時はもっと早まる可能性すらある。
それまでに、できるだけ多くの高段者と打たせ、研究のための棋譜を残させたい。
しかし、今のワールド囲碁ネットは勝率等で階層分けされておらず、棋力を測る物差しは、自己申告のアマチュア段位だけだ。
それ故に、実力のある相手と打てるかは、ほぼ運任せ。
これを改善するには、事前に実力者のHNを入手するしかないが、それが難しい。何かしらの形で窓口を作り、向こうから名乗り出させるしかないだろうが──
そんなことをつらつら考えながら、愛車のハンドルを握る。
先ほどまで、この夏は打って打って打ちまくって、12月の院生試験程度、余裕で突破してやるんだと息巻いていた助手席の進藤は、先生から送られた花籠を抱えて夢の中だ。
「碁を打つのと、碁で食ってくってのは、天地ほど違うんだがな……」
碁を打つのは楽しい。
だが、プロを目指すということは、不甲斐なさに眠れぬ夜を過ごし、悔しさにのたうち回り、どこまでも孤独に身を削る。勝負師の世界に足を踏み入れるということだ。
進藤がいずれそうなることは知っている。
それでも、呑気に寝こける姿を見ていると、このクソガキがなぁと思わずにはいられなかった。
行洋「才も情熱もある。であれば、あれほどの師がつきっきりで伸びないわけがない。アキラにとって良い刺激になってくれればよいのだが」
国際アマチュア囲碁カップは、盛り上がりどころが思いつかなかったので描写飛ばします。
緒方:日本代表の激励に行くと面倒ごとになりそうな予感がして回避。
和谷:「ツヨイダロ オレ」はキーボード操作してくれる人がいないので、発生せず。saiとfiveに関しては、両方と打っていて、スレ民と同じ程度の認識。
アキラ:ほぼ原作通り。ただ、ヒカルの中の人がsaiだとすぐ気づく。「あ、彼だ」
参加者:何の成果も‼︎得られませんでした‼︎