ヒカ碁の世界で緒方精次となったからには、打倒saiを掲げたい。   作:くま子

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第八話

 真夏の陽光が、障子越しに柔らかく座敷へ滲んでいる。

 数寄屋造りの離れは、静けさそのものを金で買ったような空間だ。

 普段であれば、日々の喧騒から離れ、涼やかな時を過ごせる場所。だが今日ばかりは、先ほどまで盤上を駆け巡っていた思考の熱が、未だ座敷の空気に溶け残っているようだった。

 

 検討が終わった今もなお、塔矢先生と進藤──いや、佐為は盤を挟んで向かい合っている。

 余韻を味わうような沈黙。

 盤上に残るのは、佐為の白一目半勝ちの形。

 先生の2連敗だった。

 

「この一局は、あなたが今を生きているのだと、感じることができました」

 

 言ってから、先生は珍しく言葉を選び直すように口を閉ざした。

 

「……む。少々、配慮に欠けましたな」

『いえ。仰りたいことは、よく伝わっております』

 

 すっかり代弁が板についた進藤の口から、佐為の言葉が淀みなく伝えられる。

 

「この短期間で、これほど学ばれるとは」

『緒方殿のおかげです。学ぶ機会を得られたこと、感謝に絶えません』

「緒方君が力になれたようで何よりです」

 

 まるで「よくやった」とでも言いたげな先生の視線に、俺は軽く頭を下げた。

 

「しかし、学ばれてなお、最後に盤上へ残るのはあなたの碁なのですね」

『…と、申しますと?』

「現代の形を取り入れても、石が窮屈になっていない。呼吸がある。中央の感覚など、むしろ以前より鮮やかで」

 

 先生はそこで一度言葉を切った。

 

「実に、美しい石の流れでした」

『こうも褒められますと、照れてしまいますね』

「──佐為のやつ、扇で顔を隠してる。すっげー照れてるみたい」

 

 進藤の茶々に、小さな笑いがこぼれる。

 

『行洋殿の碁は驚くほど広く、早くいらっしゃる。途中で何度、ここはもう黒が打ちやすいと思わされたことか』

「恐縮です」

『特に、右辺から中央へかけての打ち回し。ああして石が離れて働く様は、江戸の頃にはまだ薄かった感覚です。磨いてはおりますが、未だ読みきれませんね』

「ですが、あなたは追いついてこられた」

『……どうでしょう。置いていかれぬよう夢中ではありましたが、前回以上に翻弄された気がしております』

「それでも、道を見つけられるのだからまいります」

『ヨセまで、私に勝ち筋は見えておりませんでした。ですが長年打っておりますと、あれほど石が働いていれば、どこかに道が残されていると、体が教えてくれるのです』

「経験、ですか……」

 

 先生は小さく息を吐いた。

 

「私もまだまだ、学んでいかねばなりませんな」

 

 互いを認め合い、相手の長所を嬉しそうに語り合う。だがその一方で、どこか探り合うような緊張も残っていた。

 ……以前、どこかで似たような空気を感じたことがある。

 しばし考え、ふと思い至る。

 

 (……見合いか)

 

 前世の弟夫婦が初めて顔を合わせた時も、確かこんな妙な間合いだった気がする。

 一度そう思ってしまうと、先ほどまで感じていた厳かな空気は遠のき、また対局したいという下心を持った、囲碁好き同士の口説き合いにしか見えなくなった。

 

 中座し、冷えた茶と茶菓子を手に座敷に戻る。

 碁盤を片付け、先生は進藤と話しているようだった。

 

「──で、筒井さんはオレと同じくらいの棋力だけど、先輩だから副将。オレは三将で参加して……」

 

 どうやら、夏休み前にあった中学の囲碁大会の話らしい。

 進藤は、大袈裟な身振りまで交えながら、楽しげに語っていた。

 

「ネットでも勝てたら嬉しいけど、団体戦だとオレの勝敗がチーム全体の勝ち抜きに関わってくるから、責任感?みたいなのもあって、いつもより負けるもんかって気合いが入るんです!」

「それは楽しそうだ」

「塔矢先生はやったことないんですか?」

「機会に恵まれなくてね。団体戦に参加したことはないな」

 

 多少言葉は選んでいるようだが、それでも進藤は、名人相手に近所の知人へ話しかけるような調子で喋っている。無知ゆえの無遠慮というより、たぶん生まれつきの才能なんだろう。

 少なくとも、俺には真似できん。

 

「プロって団体戦ないんですか?」

「イベントなどであれば行われることもあるようだが、公式戦にはないな」

「えぇ〜っ。もったいない。すげぇ楽しいのに」

「中国では、プロリーグとして団体戦が始まったようだが、残念なことに、日本ではそういった話は持ち上がっていなくてね」

「日本もやればいいのに」

 

 話の合間に差し出した茶菓子は、一口で進藤の口の中に消えた。

 物足りなかったのだろう。

 ちらりと落ちた視線の先に気づいた先生が、自分の茶菓子を進藤へ差し出す。

 そしてそれも、止める間もなく進藤の口の中へ消えていった。

 

(お前……お前なぁ……)

 

 頭を抱えたい俺を置き去りに、会話はそのまま続いていた。

 だが、大会の話を続ければ、避けて通れぬのが海王中との対局だ。

 

「それで、海王中と当たったんだけど、オレ三将なのに、とう……アキラが、前に座ってて」

 

 途端、進藤の声音が明らかに沈む。

 大会後から、アキラ君の覇気が明らかに薄れたため、原作に近い何かしらがあったのだろうとは察していた。

 ただ、あれだけヒントを渡したのにもかかわらず、佐為と──進藤の中の誰かと打たせてくれと掛け合ってこない。そのせいで、実際どんな流れになったのか、俺にもよく分かっていなかった。

 進藤とは今日まで顔を合わせる機会がなく、かといってアキラ君へ無遠慮に聞くわけにもいかない。

 ちょうどいいと、俺は2人の会話へ耳をそばだてた。

 

「対局の最初の辺りは、佐為が打ってたんです。アキラが、佐為と打ちたがってるの知ってたから。でも、途中でオレが打ちたくなって、勝手に石を置いて……」

「大会のために部員を集め、努力してきたのだろう?その気持ちは当たり前のものだよ」

「……違う」

 

 進藤は、小さく首を振った。

 

「オレ、あの時そんなこと考えてなかった。自分がアキラにどれくらい追いついたか、知りたかっただけなんだ。強くなったはずだって、きっと近づいてるはずだって」

「……」

「だけどアイツ、終わった後、オレを見てなかった。きっと、幻滅させたんだと思う……」

 

 深くうつむいた進藤は、痛々しかった。

 だが同時に、それは碁打ちとして決して珍しい姿でもない。

 割って入るべきか迷っているうちに、沈黙していた先生が静かに口を開いた。

 

「キミは、プロを目指す気はあるかね?」

「プロ?……え、ええっと。……考えたこと、ないです」

「アキラはこの夏から、プロ試験に挑む」

「えっ?」

 

 進藤は何を言われたのかわからないといった風に、瞳を瞬かせた。

 

「オレたち、中1だよ?」

「棋士の殆どは、10代でプロになる。中学卒業前に同僚になった棋士を、私は多く知っているよ」

 

 嘘だろと言いたげにオレを振り向いたため、とどめを刺しておく。

 

「事実だ。俺も、親の理解があれば中学の内に受けていた」

「じゃあ、学校は?」

「手合い…対局のある日は休む」

「休む⁉︎休んでいいの⁉︎学校の先生怒らない⁉︎」

「事前に伝えておけば、怒られることはないだろうな」

「……プロなんて」

 

 進藤は、アキラ君との間にある差が棋力だけではないことを突きつけられ、それを上手く飲み込めないようだった。

 

「アイツがプロになるなんて、オレ、ずっと先の話だと思ってた。もっと大人になってからで、こんなに早いなんて……」

「親の贔屓目なしに見ても、アキラの棋力は多くのプロ低段者を凌駕している。試験で躓くとは思えない。来年の春には、プロ入りしているだろう」

「来年……」

 

 目の前にある『プロ』という現実の輪郭を、進藤はまだ掴みきれないのだろう。

 掠れた声は、そのまま途切れた。

 

「進藤君。驚くのも無理はない」

 

 先生の、重みのある声が座敷に響く。

 

「普通の中学生にとって、学校を休みながら仕事をするなど、現実味のない話だろう。だが、囲碁の世界では珍しいことではない。棋士を目指すというのは、盤上を優先して生きると決めることだ。学校生活も、友人との時間も、そのために削っていく」

「・・・・」

「アキラは、その道へ進む覚悟を決めた」

「覚悟……」

 

 言葉を噛み締める進藤を、先生は静かに見つめていた。

 その眼差しは、自分の息子と同年代の子供へ向けるものではなく、一人の棋士を見るようだった。

 

「アイツ……学校の部活のときも、ずっと真剣だった。真っ直ぐに、オレに……佐為に挑んできた。オレ、アイツがどれだけ強いか、本当は何も分かってなかったのかもしれない」

「ならば、どうする?」

「どうって……」

「幻滅されたまま、アキラの背を見送るのか?」

「そんなのは嫌だ!」

 

 柔らかい部分を容赦なく抉られ、進藤は思わず腰を浮かせていた。

 そんな進藤へ、先生は静かに問いを重ねる。

 

「ならば、どうする?」

「オレも!オレもプロになるっ‼︎」

 

 勢いに任せて飛び出したはずの言葉だった。

 だが、その一言は進藤自身の中にあった何かを動かしたらしい。

 自らの言葉に驚いたように見開かれていた瞳が、瞬く間に覚悟の色へと変わる。

 そんな進藤へ、先生は満足げに小さく頷いた。

 

 俺も、いずれは院生へ誘導するため、多少発破を掛けるつもりではいた。

 だがどうだ。進藤は、一足飛びにプロを目指す覚悟を決めてしまった。

 

 進藤が主人公らしい、バカみたいな成長曲線を描いているのを、俺と佐為は知っている。

 さらに言えば、俺は進藤がいずれプロとなり、アキラ君と肩を並べて戦う未来も読んでいる。

 だが先生は違う。

 今日ようやく進藤へ指導碁を打ったばかりだ。

 そこで将来性を見出したのかもしれないが、今の進藤はアマチュア初段程度の棋力。その程度の棋力の子供へ、プロの厳しさを誰より知る人間が、何の躊躇いもなくアキラ君を追えと──つまりはプロになれと言外に言ってのけたのだ。

 ……なんとも恐ろしい。

 

「プロってどうやってなるんですか?」

「年1回行われるプロテストに合格する必要があるが、進藤君の場合は、院生から始めるのがいいだろう」

「院生?」

「その辺りは、緒方君に聞くといい」

 

 2人の視線が、揃ってこちらへ向く。

 一応師匠だからなと、俺は説明役を引き継いだ。

 

 

 

 

 

 

 進藤が院生になる上で、ひとつ看過できない問題があった。

 進藤のHNであるfiveが、saiと同一PCを使うアカウントだと、既に特定されているのだ。

 掲示板の特定班というのは、いつの時代も暇を持て余しているらしく、saiのログアウト直後にfiveがログイン。あるいはその逆が頻繁に繰り返されていることを見つけ出し、同一環境説を唱え始めたのだ。

 最初はsaiのサブ垢かとも騒がれたようだが、碁の若さから『孫が爺さんにPCを貸している説』が広まり、今では『saiお爺ちゃん』と『孫のfive君』は掲示板の定番ネタである。

 ついでに、saiとRX-7の対局が始まるたび、緒方九段ネタが流れるのも見慣れた光景だ。

 

 安易なHNだったとは思うが、なぜそれがこうなるのか。

 しかも、saiとfiveの関係まで含めて、ほぼ正解なのだから頭が痛い。

 ただ、RX-7=緒方九段があまりにもネタとして定着しすぎたせいで、逆に本気で探りを入れてくる連中がいないのは助かっている。

 

 本題に戻ろう。

 

 進藤の棋風は、ある程度固まり始めている。

 院生になれば、進藤=fiveを疑う者も出てくるだろう。

 問題は、その時どこまで誤魔化せるかだ。

 

(……いや)

 

 むしろ、どこまで開示するかを考える時期なのかもしれない。

 saiは、2年後の5月5日に消える。

 だがそれは予測で、塔矢先生との対局がこれからも続けば、その時はもっと早まる可能性すらある。

 それまでに、できるだけ多くの高段者と打たせ、研究のための棋譜を残させたい。

 しかし、今のワールド囲碁ネットは勝率等で階層分けされておらず、棋力を測る物差しは、自己申告のアマチュア段位だけだ。

 それ故に、実力のある相手と打てるかは、ほぼ運任せ。

 これを改善するには、事前に実力者のHNを入手するしかないが、それが難しい。何かしらの形で窓口を作り、向こうから名乗り出させるしかないだろうが──

 

 そんなことをつらつら考えながら、愛車のハンドルを握る。

 先ほどまで、この夏は打って打って打ちまくって、12月の院生試験程度、余裕で突破してやるんだと息巻いていた助手席の進藤は、先生から送られた花籠を抱えて夢の中だ。

 

「碁を打つのと、碁で食ってくってのは、天地ほど違うんだがな……」

 

 碁を打つのは楽しい。

 だが、プロを目指すということは、不甲斐なさに眠れぬ夜を過ごし、悔しさにのたうち回り、どこまでも孤独に身を削る。勝負師の世界に足を踏み入れるということだ。

 進藤がいずれそうなることは知っている。

 それでも、呑気に寝こける姿を見ていると、このクソガキがなぁと思わずにはいられなかった。

 




行洋「才も情熱もある。であれば、あれほどの師がつきっきりで伸びないわけがない。アキラにとって良い刺激になってくれればよいのだが」

国際アマチュア囲碁カップは、盛り上がりどころが思いつかなかったので描写飛ばします。
緒方:日本代表の激励に行くと面倒ごとになりそうな予感がして回避。
和谷:「ツヨイダロ オレ」はキーボード操作してくれる人がいないので、発生せず。saiとfiveに関しては、両方と打っていて、スレ民と同じ程度の認識。
アキラ:ほぼ原作通り。ただ、ヒカルの中の人がsaiだとすぐ気づく。「あ、彼だ」
参加者:何の成果も‼︎得られませんでした‼︎
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