ヒカ碁の世界で緒方精次となったからには、打倒saiを掲げたい。   作:くま子

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第九話 院生

「なァ、進藤。おまえ毎日の碁の勉強どうしてる?」

 

 研修後の片付けを終え、始まったばかりの2月期の手合い表を眺めていたヒカルは、かけられた声に振り返った。

 そこにいたのは、1組の和谷義高。

 棋院に通い始めてひと月のヒカルにとっては、院生仲間の中では比較的よく話す相手だった。

 

「どうしてるって?」

「だって、ここは第2土曜と日曜だけだろ。それ以外の毎日、どう勉強するかで差がつくんじゃねーか」

 

 和谷はニヤリと笑う。

 

「前期全勝の自称・塔矢アキラのライバルが、どんな勉強してるのか。気になるからな」

 

 ヒカルがこのまま勝ち星を上げ続ければ、さほど間を置かず席次を争う間柄になるというのに、和谷はどこまでもあっけらかんとしていた。

 そこへもう1人、ずいっと身を寄せてくる。

 

「それはオレも知りたいな」

 

 年長の伊角慎一郎だった。

 

「進藤君、九星会で見たことないし、誰かの弟子にしてもらってるの?」

「あ〜、うん。いるよ、師匠」

「おっ、ダレダレ?」

 

 ヒカルは頭の中で一度、緒方との取り決めを思い返した。

 嘘はつかなくていい。

 もしfiveだと気づかれ、saiについて聞かれたら、師匠に聞いてくれと誘導する。

 

「オレの師匠は、緒方先生だよ」

『それと私です!』

「緒方先生?塔矢門下で九段の?」

「そ」

 

 横から割り込んできた佐為を無視し、ヒカルはこくりと頷く。

 

「へぇ〜、あの人弟子なんて取ってたんだ」

「塔矢アキラとは同門なんだね。やっぱり、小さい頃からライバルだったの?」

「まっさかー。オレ、囲碁初めて1年ちょっとだぜ?」

 

 その瞬間、場の空気が固まった。

 和谷たちの後ろで片付けを続けていた院生たちまで手を止め、一斉にヒカルを見る。

 突然集まった視線に、ヒカルはオロオロと辺りを見回した。

 

「えっ?な、なに???」

「お前……それ、マジなの?」

 

 和谷の問いに、ヒカルは慌てて言葉を続けた。

 

「いや、マジだって。ほら、棋院でやってる全国こども囲碁大会ってあるじゃん。去年その会場を覗きに行った時に、緒方先生と知り合ってさ。そんで、オレんちに碁盤がないからって、先生がお古くれたくらいなんだから」

「……お古?」

「うん。折りたたみ式の碁盤もらった。今は使わなくなったから、中学の囲碁部に寄贈?したけど」

「お前、師匠からの貰い物を寄贈って。いいのかよ⁉︎」

「だって先生が部に顔を出した時、そうしろって。オレ、思い出もあるから取っとこうと思ってたのに」

「中学の部活に、九段が……?」

 

 それまで聞き役に徹していた伊角が、思わずといった風に呟く。

 なぜ大会を観戦していただけの部外者が、高段者と知り合いになり、道具を譲られるような間柄になるのか。

 さらにその後は、中学の囲碁部にまで顔を出しているという。

 伊角には囲碁歴などより、そちらの方がよほど理解不能だった。

 目を白黒させる伊角の横で、和谷がスッと目を細める。

 

「なら、塔矢アキラとは、名人の研究会で会ったのか?」

「研究会?」

 

 疑問形の復唱に、先ほどとは別の意味で場が固まった。

 

「研究会が何か知らないけど、塔矢とは偶然入った碁会場で打ったのが、知り合った切っ掛けだよ」

「……研究会、知らねーの?」

「知らない。何それ?」

 

 和谷は一瞬絶句した後、律儀にも研究会について説明し始めた。

 逐一感心したように頷くヒカルに、和谷はさらに尋ねる。

 

「緒方先生から誘われたりしなかったのか?」

「しないなー。いっつも先生が押しかけてくるから、どっか出かけることなんてほとんどないし」

「……はぁ?」

「オレ、もう驚くの疲れてきた」

 

 伊角が遠い目で呟いた。

 

「雨降ってるみたいだし、オレそろそろ帰るよ」

「あっ、ちょっと待てって」

 

 そう言って荷物を肩にかけるヒカルの後を、和谷と伊角も荷物を掴んで追いかける。

 

「緒方先生と、どれぐらいの頻度で打ってるんだ?」

「研修がない土日は、大抵どっちかウチに来てるかな?平日はたまに学校に迎えに来て、一局打って帰ってく」

「迎えに来るんだ……」

「うちの親、囲碁なんてちんぷんかんぷんだからさ。先生んちにっての、あまりいい顔しなくって」

 

 下駄箱で捕まったヒカルは、2人からの質問にのんびり回答しながら、靴紐と格闘していた。

 

「なんか……意外だな」

「何が?」

 

 和谷の疑問に、ヒカルが首を傾げる。

 

「緒方九段って、見た目からこう……俺様というか、怖い人ってイメージがあったからさ」

「わかるわかる。白スーツに黄色いネクタイとか、どう見てもインテリヤクザだもん」

『ヒカルったらまた、緒方殿を無頼の博徒のように言って!お顔は少々凄みがありますが、冬枯れの白樺のような、実に見事な佇まいではありませんか!』

 

 ぷりぷりと佐為が怒るも、ヒカルの感覚からすれば、白スーツを着るような職業など、ヤクザかホストか、正月特番の芸人くらいだ。どうにも同意できない。

 

「その上、赤いスポーツカーだもんな〜」

 

 ヒカルはカラカラと笑いながら、エレベーター前で2人を振り返った。

 

「先生と知り合ったの、小6の1月なんだけどさ。卒業までの間に、先生ったら、オレを迎えに来るたびに通報されて」

 

 ププッと、堪えきれない笑いが手の隙間から漏れる。

 

「計3回も警官に囲まれてんだよね!」

「ほぅ。ずいぶん楽しそうな話をしているな」

 

 ガシッと、大きな手が後方からヒカルの頭を掴んだ。

 気がつけば、目の前の和谷と伊角は顔色を失い、頬をひきつらせている。

 後方で、チンとエレベーターが閉まる音がした。

 

「いっ、痛いって!センセーっ‼︎痛いからぁ‼︎」

「痛くしてんだよ」

 

 片手でギチギチと頭部を締め上げられ、ヒカルが悲鳴を上げる。

 

「傘がないだろうと迎えに来てやった師匠に、随分な物言いじゃないか。ん?」

『ヒカルが悪いです』

「ごめん!ごめんなさーいっ!」

 

 じたばた暴れるヒカルを押さえ込んだまま、緒方は容赦なく頭を締め上げる。

 和谷と伊角は完全に引いていた。

 

「言っておくが、このスーツはオレの趣味じゃないからな」

「うっそだー」

 

 ようやく解放されたヒカルは、頭を押さえて涙目になりながらも、即座に言い返した。

 次の瞬間、メガネの奥からギロリと睨まれ、和谷と伊角の背後へ逃げ込む。矢面に立たされたくないとわちゃわちゃし始めた3人を前に、緒方は鼻を鳴らした。

 

「俺は顔がいい」

 

 一瞬、『あ、それ自分で言うんだ』という空気が流れたが、緒方は全く気にしなかった。

 事実だからだ。

 彼の中で『緒方精次』とは、容姿の整ったキャラクターだ。そのため、外見の維持は義務であり、そのために少なくない手間をかけている。

 

「顔がいいと面倒なことに、女が寄ってくる」

 

 さも嫌そうな言いように、和谷が「いいじゃん」と思わずこぼしていた。

 

「何がいいものか。名人の奥方のようなできた方なら俺だって嬉しいが、顔に寄ってくる女なんぞ、大抵囲碁に興味がない上に、『私と囲碁とどっちが大事なの』などと言い出す輩だぞ?」

 

 よほど面倒な目にあったのか、緒方は「囲碁に決まってるだろう。俺の時間をなんだと思ってる」と、ブツブツ不満げに呟く。

 

「この色のスーツを仕立てたのは、義理からだったが、着てみて驚いた」

 

 ハッ、と皮肉げに笑う。

 

「あれほど悩まされていた女の付きまといは無くなり、わざわざ嫌味を言いにくるような輩も遠巻きになった。人は見た目で判断するというが、実に実感した」

 

 お前たちも服装には気を配れよ、と忠告し、緒方はヒカルを引きずるようにしてエレベーターへ消えていった。

 

「……すごい人だったな」

「……アクがつえぇよ」

 

 残された2人は、後続の院生たちがわいわいとやって来るまで、しばらくエレベーターホールで立ち尽くしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 湯呑みを乗せた盆を手に台所へ入ってきたアキラに、洗い場に立っていた母親が振り返った。

 

「アキラさん、丁度良かった。ふきんを汚してしまったから、干し場から取ってきてくださる?」

「ふきんですね。わかりました」

 

 机に盆を置き、アキラは廊下へ引き返した。

 ここ数日雨が続いているため、塔矢家では、続き間の一部屋を室内干しの場として使っているのだ。

 窓の外では、大粒の雨が庭を打ちつけている。

 うるさい程の雨音に足音をかき消されながら、アキラは続き間のふすまを開けた。

 

「そうか、進藤君が……」

 

 薄暗い部屋の一角に置かれた物干し台へ手を伸ばしかけたアキラは、思わぬ名前に動きを止めた。

 研究会が開かれていた隣の一の間。そこから聞こえた父・行洋の声に、アキラは思わず耳を澄ませていた。

 

「今や俺と、三子局ですよ」

「早いものだ」

(これは……()の話じゃない。進藤本人のことだ!)

 

 緒方と三子で打つ実力というだけでも信じがたかったが、続く言葉はさらにアキラを驚かせた。

 

「研修も順調なようで、今年の若獅子戦へ出場を決めたそうです」

(若獅子戦⁉︎)

 

 思わず息を呑む。

 去年、自分が打った時の進藤の棋力では、とても院生になどなれるはずがなかった。それが今では院生一組の上位に名を連ねているという。

 

「組み合わせ次第なのでなんとも言えませんが、彼がアキラ君の起爆剤になってくれるといいのですが」

「……そうだな」

「今のままでは叩きがいがありませんからね」

 

 愕然とするアキラをよそに、2人の会話は続く。

 

「来年の新初段シリーズは、久々に受けるのもいいかもしれないな」

「指名するつもりですか?」

「それぐらいの我儘は通るだろう?」

「通るでしょうけど、できればその役目は俺に譲って欲しいのですが」

「珍しいな。君が取らぬ狸の皮算用とは」

「本因坊の冠は、今や俺にとって特別なものです。必ず今回で奪ってみせますよ」

「それを言うなら、私もなのだが」

「勘弁してください」

「はは。しかし、彼を君が迎え撃つなら、七番勝負の方がいいだろう」

「何年待たないといけないんですか」

「そうかからんと思うがね」

 

 父と緒方の間では、まるで進藤がそこへ辿り着くことなど当然であるかのように話が進んでいく。

 隣室から聞こえてくる笑い声が、ひどく遠く感じられた。

 

 アキラはふきんを掴むと、音を殺すようにして台所に戻った。

 

「ありがとう。……あら?アキラさん。顔色が悪いわ。疲れてらっしゃる?」

「……研究会で、頭を使い過ぎたのかもしれません。少し、休んできます」

「お夕飯は食べられそう?」

「大丈夫です」

 

 ぱたぱたと足音を立てて、アキラは逃げるように自室に飛び込むと、掻きむしるように胸元を掴み、詰めていた息を吐き出した。

 

 プロの世界に入り、勝ち星は順調に積み重ねている。だというのに、父も緒方も、自分には何かが足りていないと言う。

 その一方で、院生になったばかりの少年は、まるで頂へ辿り着くことが当然であるかのように期待が寄せられていた。

 

「進藤……っ」

 

 ゆらりと、アキラの瞳に炎が宿る。

 それは大人たちが望んだ炎とは、別の色をしていた。

 だが、身をこがし前へ進むための原動力としては、申し分のない燃料だった。

 




ヒカルの中学1年2学期はまるっとカットで院生編突入です。
その院生編も、緒方の出番がないので、ほぼ描写せず終わるんですが……。
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