衛兵に促されて、天幕をくぐり本陣の中へ入る。
本陣の内は、簡素ながらも整然としていた。無駄がない。配置も、動線も、すべてが機能のために置かれている。
伯父であるマルヴォロス公爵の性格が、そのまま形になったような空間だと、エストは思った。
大きな野戦用の机上には広げられた地図と、いくつかの報告書。駒や印がいくつも置かれ、書き込みも多い。まだ整理の途中なのだろう。
机の周りには幕僚とその部下たち。女性の姿もある。年齢も階級も様々だが、誰もが一定の緊張を保ったまま、低い声でやり取りをしていた。
エストは、その視線を受けながら天幕の奥へ進む。
神官の装束に気づいた何人かが、動きを止める。
軽く頭を垂れる者、胸元で祈祷の印を切る者。
それぞれの仕草は短いが、習慣として染みついたものだった。
その中を、歩みは止めない。
「エスト、呼び立ててすまぬな。普段はなかなか会えんものでな。よい機会だと思うて、聖環院に無理を通した」
机の中央に立つ男が声をかける。
重みのある声。
それだけで、周囲の空気がわずかに引き締まった。
エストは首を横に振る。
「ありがたいお言葉です。久方ぶりに叔父上とお話ができる、ということで楽しみにしてまいりました」
言葉は柔らかい。
だが声音は、わずかに整えられている。
そのわずかな“整え”を、公爵は見逃さなかった。
上機嫌に頷く。
「聞いての通り、なかなか会えぬ姪との私的な再会でな。皆には大変申し訳ないが、今日はいったんこれまでとさせてはもらえないだろうか?」
異論は出ない。
即座に応答が返り、机の周りの人間たちはそれぞれの資料をまとめ始める。
手際が良い。
無駄な動きがない。
それだけで、この場の統制の強さが分かる。
エストは、軽く視線を巡らせた。
見知った顔がいくつかある。
貴族、騎士団長、神殿関係者も一人。
それぞれが一瞬だけ視線を寄越し、軽く会釈を交わして去っていく。
誰も何も言わない。
だが、何も見ていないわけではない。
天幕の外へと人の流れが途切れていく。
残るのは、公爵とエスト。
そして従者たち。
机上の書類が片付けられ、代わりに簡素な軽食と飲み物が並べられる。
その間も、言葉は交わされない。
沈黙は重くはない。だが軽くもない。
測られている――そんな感覚が、空気の中にある。
やがて従者が一礼して下がろうとしたとき、公爵が口を開いた。
「そなた達もしばらくは席を外してくれぬか? 衛士たちにもその旨を伝えてくれ」
一瞬だけ、従者の動きが止まる。
だがすぐに頭を下げ、そのまま退出した。
足音が遠ざかる。
天幕の外にあった気配も、次第に薄れていく。
完全に消えるまで、公爵は何も言わなかった。
やがて静寂が落ちる。
遠くの喧騒だけが、かすかに届く。
公爵は、傍らの小さな机に手を伸ばした。
取り出したのは、掌に収まるほどの小さな装置だった。刻印を打たれた金属と魔石だけの簡素な作り。
それを机の上に、コトリと置く。
「気休め程度ではあるがな」
低く言ってから、どっかりと腰を下ろした。
顎で椅子を示す。
エストは無言でそれに従い、手近な椅子を引き寄せて浅く腰掛ける。
背筋は伸ばしたまま。
手は膝の上。
互いに視線だけが交わる。
続柄の近さとは裏腹に、二人の距離は一定以上に測られたままだった。
「で、エスト、あれはいったいどういうことかな?」
この場はすでに目立ちすぎている――長くはかけられない。
外に出た人間たちも、完全に無関心ではいない。
時間が経てば、それだけで“意味”になる。
エストは一度だけ瞬きをした。
呼吸を整える。
視線を逸らさない。
ほんのわずかに、唇が動く。
そして――言葉を選んだ。
「……どの件を指しておられますか、叔父上」
公爵は椅子に深く腰を預けたまま、指先で机を軽く叩いた。
「まだズレてはおらぬ、ということか」
柔らかな声だが、だが視線は冷たい。
「ならば、言い方を変えよう。あの勇者だ。無窮の、などと呼ばれているが」
わずかに口元が歪む。
「――お前は、どこまで把握している?」
「勇者、として認識しております」
公爵の指が止まる。
「それは、“呼び名”としてか。それとも、“中身も含めて”か」
エストは、ほんのわずかに視線を上げる。
「呼び名としては、ご存じのとおりすでに定着しております故」
すこし、逡巡してみせる。
「ただ――その内実については、全容を理解しているとは言えません」
公爵の視線が、わずかに細くなる。
「ほう」
短く返す。
「戦場で何が起きていたかは、報告に上がっている」
淡々とした口調。
「今回の件も含めて、過去の魔物の討伐もそうであったように、瘴気の中で動き続け、なお戦果を出し続けておる。普通の人間では説明がつかん」
「それを踏まえて聞いている」
視線が、真っ直ぐに刺さる。
「――お前は、あれをどう見ている? あれを、どう扱うつもりだ」
扱う……?
わずかに視線を動かす。
机上の地図。西方へ伸びる線。その道すがらの国々。
「……叔父上」
静かに切り出す。
「叔父上は、トウジをどうなさるおつもりですか?」
「欲しがる者は多い」
エストは頷きを返した。
「すでに、いくつか打診が届いているのではありませんか」
公爵の目が、わずかに細くなる。
「西方域諸国連合の各国から」
続ける。
「勇者一行、あるいは彼個人を召し抱えたい、という要望が」
言葉は柔らかい。
だが、刃は鋭い。
否定は返らない。
「……耳が早いな」
「推測です」
公爵の指が、再び机を叩く。
「戦果があれば、欲しがる者は出る。ましてや、あれだ。」
淡々と。
「抱え込めば戦力。渡せば脅威」
ジロリ、とエストをねめつけてみせる。
「だからこそ、我がエルン王国が管理する必要がある」
エストは、それには無言でほほ笑みながらわずかに首肯する。
「ただ叔父上——」
顔を上げ、少し困ったような表情で顔を傾ける。
「それだと、少々問題がおきませぬか?」
公爵の眉が動く。
「ほう」
「王国の意向が強いと知れたら、同盟諸国はそれをどう見るでしょうか」
幼かったころ、よくやった仕草だ。
――が、さすがにあざとい。雰囲気だけにしておく。
「独占?」
伯父の表情は変わらない、が、エストをじっと見ている。
「首魁級の魔物こそ討たれましたが、まだ脅威は残ったまま」
公爵の視線がわずかに緩む。
「せっかくできた同盟の礎を崩してまで、トウジにこだわることは下策ではありませぬか?」
指はまだ机を軽くたたき続ける。
もう少し踏み込む。
「神殿に任せていただければ、中立性を担保する形になります」
「少なくとも――、どこか一国の所有物にはなりません」
机を叩いていた音が、途切れた。
ゆっくりと、姿勢を正した。