「……神殿に任せる、か」
低い声だった。
評価でも否定でもない。
指先で机を軽く叩きはじめ、視線を上げる。
「では問おう。神殿に、あれを御せる実があるのか?」
エストは視線を落とさない。
「完全に御することは、できません」
即答をした。
わずかに空気が揺れる。
公爵の目が細くなる。
「ほう」
短く返す。
エストは続けた。
「命令で従う類の存在ではありません」
止まらない――あれは。
「枠にはめれば、歪みます。いずれ、破綻します」
言葉は静かだが、揺らがない。
公爵は否定しない。ただ見ている。
「ならば、なおのこと王国が押さえるべきではないか」
机を叩く音が、わずかに強くなる。
「逃がせば、どこへ流れるか分からん」
「はい」
エストは頷く。そのまま言葉を継ぐ。
「ですから、囲うのではなく、繋ぎます」
公爵の眉がわずかに動く。
「繋ぐ、だと」
「選ばせます。自分がどこに立つのかを」
短く、明確に言い切る。
沈黙が落ちる。
公爵の指は止まったまま動かない。
「……理想論に聞こえるな」
「そうかもしれません」
エストはわずかに息を整える。
「ですが、あれを“物”として扱えば、必ず破綻します」
視線を外さない。
「人として扱う以外に、持たせる方法はありません」
公爵の視線が鋭くなる。
「人、か」
低く呟き、すぐに続ける。
「その“人”が、牙を向いたらどうする」
試しではない。現実の問いだった。
エストは一度だけ息を吸う。
そして逃げない。
「その時は――神殿が責を負います」
静かに置いた。
公爵の目が細くなる。
「神殿が、か」
「はい」
エストは頷く。
「四柱聖環院の名において、彼の行動は神殿の監督下に置きます」
言葉を重ねる。
「記録、報告、必要に応じた介入。王国とも共有いたします」
そこで一度区切り、視線を上げる。
「責任の所在は神殿に置きます。私は、その窓口として任に当たります」
沈黙。
空気がわずかに張る。
公爵は動かない。
「……軽い言葉ではあるまいな」
「承知しております」
即答だった。
「監督が及ばぬ場合、その責はすべて神殿が負います。私も含めて」
公爵の指がわずかに動き、止まる。
「お前ひとりで、抱える気か」
「ひとりではありません」
間を置かずに返す。だが視線は逸らさない。
「ただ、現場での判断と報告は私が引き受けます」
揺らがない。
公爵の口元がわずかに歪む。
「……似てきたな」
誰に、とは言わない。
エストは反応しない。
「神殿は、お前にそこまでの裁量を与えているのか」
鋭い問い。
核心だった。
エストはほんのわずかに息を止める。
「正式な裁定は、まだ下りておりません」
正直に答える。
「では独断か」
「いいえ。想定の範囲内です」
言い切る。
公爵の目が細くなる。
「……便利な物言いだな」
「そうかもしれません」
わずかに目を伏せ、すぐに上げる。
「逸脱すれば責を問われましょう。それも承知しております」
沈黙が落ちる。
公爵は動かない。
測っている。
やがて、短く言った。
「条件がある」
エストは頷く。
「王都への同行は必須。定期報告、軍との共有」
「問題ありません」
「単独行動は制限する」
エストはすぐに答えない。
わずかに思考を巡らせてから、口を開く。
「全面ではなく、状況に応じた制限であれば」
視線を合わせる。
「神殿として監督責任を負う以上、柔軟性は必要です。過度な拘束は、制御を失います」
短い沈黙。
「……よかろう」
公爵が言う。
「拘束はしない。だが完全な自由でもない」
指先で机を軽く叩く。
「神殿預かりとする。王国はその監督を認める」
さらに続ける。
「必要と判ずれば、こちらからも人を出す」
軽い口調。だが内容は重い。
エストの視線がわずかに動く。
「……連携のため、ですね」
「そうだ」
即答だった。
それ以上は言わない。
エストは頷く。
「承知いたしました」
「逸脱があれば、即時介入する」
「異論はありません」
短い沈黙。そして、手で払う仕草。
「これ以上は目立つ」
エストは一礼し、立ち上がり背を向ける。
「エスト」
呼び止められる。
振り返る。
公爵は、少しだけ言葉を選ぶように口を閉じた。
一瞬だけ、視線の硬さがほどける。
「――抱え込むなよ」
低い声だった。でもどこか、聞き覚えのある響き。
エストは、わずかに目を細める。
「……心得ております」
それだけ言って、外へ出た。
夜気が、少しだけ冷たかった。
本陣の外は、思っていたよりも暗かった。
かがり火はある。だが、内側の明るさとは違う。
光が届ききらない。
人の気配も、少しだけ遠い。
夜の匂いが濃い。焚き火の煙と、湿った土。馬の気配、鉄の残り香。
エストは、そこで一度足を止めた。
息を吐く。思っていたより、浅い。
胸の奥にまだ何かが引っかかっている。
言葉。視線。選んだはずの答え。どれも間違ってはいない。
それでも、身体のどこかが、まだ固い。肩の力が抜けきらない。
視線を落とす。
指先が、わずかに震えている。自分でも気づかないほどの、小さな揺れ。
――宿営に戻るべきだ。
そう思う。だが、足は動かない。
ふと、音がした。
乾いた打音。規則的な間隔。木が打ち合う音。
顔を上げる。
火の明かりの向こうに、人影が二つ。踏み込み、打ち合い、呼吸。そのリズムが、妙に心地よかった。
考える前に、足が動いていた。
近づく。
輪郭がはっきりしていく。
トウジとオルドだった。
木剣が打ち合う乾いた音が、夜気の中に響いていた。
エストは足を止める。
「こんな時間に何をやってるんです?」
思っていたより強い声が出た。
木剣が止まる。
オルドが肩越しに振り返り、軽く手を振った。
「おう。ちょっとな」
トウジは、息を整えながら苦笑する。
「ずっと馬に乗りっぱなしで、身体がなまるって」
「主に、お前がな」
オルドが鼻で笑う。
「ほら、続けるぞ」
トウジは、ゆるく剣を構えた。
低い。重心が落ちている。
だが。
剣先が、定まらない。線が通っていない。隙だらけの構え。
――あれでは守れない。
エストは静かに目を細めた。防御の形がなく、剣を合わせて主導権を取る意図も見えない。
まともに組めば、押し潰されるだけの構えだと判断できる。
オルドが踏み込む。
速い。上から叩き潰すように落とす。
重い斬撃。
トウジは受ける――とみえたが、剣が、わずかに傾く。
正面でまともに受けない。剣と剣とをぶつけないようにして、流す。
軌道が逸れる。
それに合わせて、半歩内へ入り込む。
浅く、木剣がオルドの腹部に触れた。オルドの動きが止まる。
「……今の動き」
トウジは戸惑う。
「いや、なんか……避けようとしたら」
受けていない。流している。だが、技として成立しているわけでもないはずなのに当てている。
……少し、驚いていた。
「もう一回」
再び構える。同じ構え、同じように感じる隙。
エストの視線はトウジの一挙手一投足を追う。
今度は最初から速い。オルドの連撃。
上下、左右。崩しに来る。剣を絡める。捕まえにいく。
トウジはそれを受ける。ぎこちなく、不格好な体裁き。
だが。
オルドの剣を真正面から止めない。受け切らない。
触れた瞬間、外れる。角度がずれ、力が逃げる。
滑る。離れる。噛み合わない。当たらない。
エストはそこで確信に近いものを得る。
――接触そのものを成立させていない。
だから、噛み合わない。気づけばオルドの剣筋だけが外れている。
オルドが間をとりなおし。
再度、踏み込んだ。
強い。決めにいった。
と、その動きを察知したかのように、トウジの身体が、わずかに先に動いた。
半歩前に出て、横にずれた。
オルドの剣が空を切る。
トウジがヌルりと体を入れ替え、間合いを変えた。
二人が静止する。
焚き火が、小さくはぜた。
オルドは剣を下ろし、短く息を吐く。
「……今日はここまでだ」
「え、もう?」
「もういい」
エストは腕を組んだまま、その場で動かなかった。
オルドがエストの方へ歩いてくる。
木剣を肩に担ぎ、ちらりと後ろを見た。
「エスト」
声を落とす。
「どう見た?」
エストは答えず、しばらく考えた。
構えは低く、崩れている。捕まえさえすれば、どうとでもできる。でもトウジは「受けない」。正面から剣を合わせず、触れる前にずれ、触れた瞬間に外れる。
戦う段階そのものが違うのだ。
間合いの正確さ。その間合いを制御する足さばき。いずれも以前のトウジには見られなかった挙動だった。
エストは小さく息を吐いた。
「……少し」
言葉を選ぶ。
「噛み合っていませんね」
「だろ?」
オルドが小さく笑う。
だが、目は笑っていない。
「あいつ、ちょっと強くなってねぇか?」
エストはすぐには答えない。
もう一度だけ、トウジを見る。
焚き火の向こうで、木剣を振っている。同じ動き。同じ癖。だが、ほんのわずかに。何かがずれている。
これまでのトウジとは、なにかが違っている。
「……どうなんでしょうね」
トウジを見ながら顎に手を当てて考えていると。
「どうやら気分は晴れたっぽいな」
笑いながらオルドが言った。
「さっきは、なんか難しい顔してたからよ」
ハッとして、すぐに表情を戻す。
「……オルドさんって、ときどき鋭いですね」
「そういう
ニヤリと笑う、オルド。
素振りを終えて、トウジが、オルドとエストのところまでやってきた。
木剣を肩に担いだままで、少しだけ息を整えるようにしている。
「すみません、なんか……変でしたよね」
言いながら、軽く笑う。力の抜けた、いつもの調子。
「変なのは前からだろ」
オルドが間を置かずに返す。
「ひどいなぁ」
トウジが苦笑する。
「ねぇ、エス――」
そこで、言葉が止まる。
エストの白い神官衣が、火の明かりに浮かんでいた。
揺れる炎に合わせて、輪郭がゆっくりと変わる。白が、金に近づき、また白へ戻る。
下ろした銀髪が、光を受けてほどけるように広がって見えた。
小さな光の粒が、髪の間に絡む。
動いているのに、静かに見える。
いつもと同じはずなのに、距離が違って見える。
視線を外すタイミングを、一瞬だけ見失う。
「……トウジ?」
呼びかけられて、遅れて気づく。
「あ、いや……」
言葉がうまく繋がらない。
「どうした?」
オルドの声。
「い・いえ、なんでも」
呼吸が、合わない。
さっきの打ち込みよりもずっと。
エストが、その様子を見ていた。
何も言わない。ただ一度だけ、視線を合わせて、すぐに外す。
火が弾ける音だけが、はっきり聞こえる。
トウジは、わずかに遅れて息を吐いた。