行軍三日目の昼頃。
討伐軍は、大陸古道の分岐点に差し掛かっていた。
緩やかな丘の手前で、踏み固められた街道が三つに分かれている。
西へ、北へ、そして南へ。
その手前で、長く続いていた隊列が、ゆるやかに足を止めた。鎧の列は視界の端まで続き、掲げられた旗が風に揺れている。
やがて総司令であるマルヴォロス公爵が、幕僚を伴って列の後方から進み出る。
それに応じるように、各隊の指揮官たちが列を離れ、整列した。
行軍途中の解隊式は、驚くほど簡素だった。
公爵は一人ひとりと短く言葉を交わし、指揮官と連なる各隊はそれに答礼する。
それだけで終わった。勝利を誇る声もなければ、士気を鼓舞する演説もない。ただ最後に、角笛が各隊から一斉に吹き鳴らされた。
それが、合図だった。
旗が動く。北へ向かう隊が、列の一部を引き連れて道を外れていく。南へ折れる隊も、それに続く。
やがて、西へ向かう本隊も動き始めた。
金属の擦れる音が、徐々に遠ざかる。馬のいななきと、荷車の軋みが、別々の方向へ散っていく。
トウジは、馬に乗ったままそれを眺めていた。
昨日まで、同じ列にいたはずの背中が、少しずつ距離を取っていく。
……終わり、か。
胸の奥が落ち着かず、妙に居心地が悪かった。
そのまま、ぼんやりと隊の流れを目で追った。
「おい」
横から声がかかった。
オルドだった。馬を寄せてくる。
「ぼさっとしてんな。置いてかれるぞ」
「あ、はい」
トウジは手綱を軽く引く。
馬が一歩、前へ出た。
オルドは馬を並べながら、ちらりと周囲を見る。
分かれていく隊列を一瞥してから、口を開いた。
「トウジ」
「はい?」
「夜、どうせ暇だろ」
「……訓練は?」
少しだけ間があく。
オルドは鼻を鳴らした。
「勘弁してやるから、付き合え」
「?」
「就活すんぞ」
ニヤリと笑う。
トウジは面食らったような顔をした。
「……しゅうかつ?」
その反応を見て、オルドは満足そうに肩を揺らした。
午後の日が傾き始めた頃、後方から伝令がやってきた。
「老師殿がお呼びです」
トウジに向けられた言葉だった。
隊列の少し後方に、幌付きの馬車があった。
老師のものだ。
普段は自分の足で歩く老師が、さすがにこの行程では馬車を使っている。
御者台の横に立った伝令に一声かけて、トウジは馬車の横に馬を寄せた。
「乗りなさい」
幌の内側から、老師の声。
促されるままに馬を預け、幌をくぐる。
馬車の中は、昼の光を薄く通しながら、静かに揺れていた。
布越しに差し込む光が、床に広げられた紙の上をゆっくりと流れていく。インクの匂いと、乾いた羊皮紙の匂いが混じっていた。
老師はその中に座り込み、膝の上と周囲に資料を広げたまま、何かを書き付けていた。積み上げられた記録束が、揺れに合わせてわずかに擦れ合う。
「トウジ、すまんかったの、なかなか声をかけれんでの」
顔を上げずに言う。
「お忙しそうですので」
トウジはそう返して、少しだけ視線を巡らせる。
記録板、封蝋のされた報告書、途中で止まったままの地図。討伐の痕跡が、そのままここに積み上がっている。
「魔物討伐の報告じゃよ。今回は数も多いし、証言もばらばらじゃ。いまのうちに整理しておかんと、あとで余計に混乱する」
筆を置き、ようやく顔を上げる。
「まだしばらくは、こんな調子じゃろうな」
トウジは小さく頷く。
「それでじゃ」
老師は紙束を軽く押さえ、崩れないように整えながら言う。
「呼んだのは他でもない、おぬしのこれからのことについてじゃ」
「……あの」
トウジが、わずかに言葉を挟む。
「その前に、お伺いしたいことが……」
「ん?」
老師は眉をわずかに動かす。
「何事かの?」
トウジは一度だけ視線を落とし、すぐに上げる。
「老師は、ホローム村……眷属に襲われた村の件、見ていらっしゃいましたよね」
「ふむ」
少しだけ考えるように視線を上げる。
「全部ではないがの。おぬしが縮地で前に出たあたりからは、見ておる」
その言葉を聞いて、トウジの肩の力が、わずかに抜けた。
目に見えないほどの変化だったが、呼吸が少しだけ深くなる。
老師は何も言わず、そのまま続きを待つ。
「……あの村で、何が起こったのか」
トウジは言葉を探すように間を置き、
「お伺いしても……いいですか」
老師の目が細まる。
問いの形に、わずかな違和感がある。
「どういうことじゃ」
トウジは言葉をつなげる。
「えっと……縮地で眷属の前に出たところまでは覚えていて」
手のひらを軽く握る。
「そのあと、自分の周りに瘴気が集まってきて……」
視線が少し遠くを見る。
「あれが、こう……渦を巻いて、竜巻みたいになって」
指先が、無意識にその動きをなぞる。
「その向こうに、エストとか聖騎士の人たちが見えて……魔物を倒し始めて……そこまでは、憶えてるんです」
そこで、言葉が止まる。少しだけ眉が寄る。
「……そこから先が、よく分からなくて」
老師が、静かに引き取る。
「そこから先は、憶えておらん……っと?」
「はい」
トウジは頷く。
「気づいたら、座り込んでて……体が動かなくて」
視線が、足元へ落ちる。
「でも……後ろから、女の子の泣き声が聞こえて」
わずかに、声が揺れる。
「お母さんの声もして……あやしてて……」
ゆっくりと息を吐く。
「無事だったんだなって、助かったんだなって……それは分かって」
一瞬、表情が緩む。
「よかったなって、思って……」
そこで、止まる。
沈黙。
馬車の揺れだけが、静かに続く。
老師は、白い髭を指で引きながら、わずかに視線を落とす。紙の上でも、トウジの方でもない、どこでもない場所を見る。
思案の間。
トウジは、その様子を待てずに、顔を上げる。
「一体、ボクの周りで何が起こったんですか」