馬車は変わらず揺れていた。
軋む車輪の音と、外を行く隊列の足音が、布越しに鈍く重なって聞こえる。
差し込む光が、机の上の紙束をゆっくりと滑り、インクの跡を淡く浮かび上がらせていた。
老師は筆を止め、しばらく何も言わずにいたが、やがて視線だけをトウジへ向ける。
「おぬしの周囲に渦巻いておった瘴気な」
声は低く、揺れに紛れるように落ちる。
「あれは、突然、消えた」
トウジが顔を上げる。
「突然、消えた?!」
思わず声が強くなる。
馬車の中でわずかに反響して、すぐに吸われる。
「何が起こったのかは、わしにもわからぬが、ただ……」
言葉が途切れる。
老師は一度だけ視線を外し、どこか遠くを見た。
トウジは言葉を挟めない。そのまま続きを待つ。
「小さな光が舞っておったの」
ぽつりと落ちる。
「魔物が消滅するときに出る、あれかの」
その言葉で、記憶が引きずり出される。
首魁が崩れた時の光景。瘴気が、剥がれるようにほどけていく。雨粒がその中を抜けるたび、小さな光が弾けて、すぐに消える――綺麗なあの光景。
「……」
トウジは、無意識に息を止めていた。
「なんの力が働いて、そうなったのかは、いまだ不明じゃ」
老師の声で、意識が戻る。
トウジは少し遅れて口を開く。
「聖騎士の人達がやったとばかり……」
言いながら、少しだけ自信が揺れる。
「それこそ、エストに聞けばよかろう」
あっさりと返される。
トウジは言葉に詰まる。
「……口止めされました」
「ほう」
「聖騎士の人と話をしたいって言ったときに」
老師の眉がわずかに動く。
「おぬし、その話をどこでした?」
「今と同じで、行軍中に。馬上でしたけど」
一瞬の間。
それから、老師が小さく息を吐く。
「おぬしはつくづく……」
呆れたように首を振る。
「あのエストが、聞き耳がたくさんある中で、そんな話をするワケがなかろう」
トウジがはっとする。
「……え、でもこの馬車も……」
視線が、頭上の幌へ向く。
薄い布。外の光を通して揺れている。
頼りない。そう見える。
「わしを一体、誰と思うておる?」
低く、はっきりとした声。
老師がジロリと睨む。
トウジの背筋が、ぴんと伸びる。
「……すみません……」
小さく頭を下げる。
しばらく、筆の音だけが戻る。
紙に走る音が、一定の調子で続く。
やがて、老師がふと手を止める。
「トウジよ」
トウジが顔を上げる。
「おぬしに、ひとつ謝らねばならぬと思うておった」
「え?!」
思わず声が漏れる。
老師はそのまま、視線を外さない。
「わしは、お前のことを見誤っておった」
その言葉に、トウジの表情がわずかに揺れる。
聞いたことのある言葉だった。
「おぬしは……魔法士として導ける類いではなかった」
静かに言う。
断定の形だが、責める響きはない。
「おぬしの才を見て、力を見て」
ほんのわずか、言葉を選ぶ間。
「導けると思うてしもうたのは、わしの驕りじゃ」
トウジは、何も言えない。
頷くことも、否定することもできない。
ただ、その言葉を受け止める。
神妙な顔のまま、どこか困ったような色が残る。
馬車が、ひときわ大きく揺れる。
外から、角笛の音が遠くに響く。
「討伐軍は、まもなく解隊じゃ」
老師が続ける。
「勇者一行も、そこで解散とあいなる」
紙の束が、わずかに崩れかけるのを、手で押さえる。
「トウジよ」
改めて、名を呼ぶ。
「おぬしは、一人で立たねばならぬ」
短く、しかし重く落ちる。
トウジは言葉を探すが、見つからない。
「すべては、お前が決めることじゃ」
少しだけ声の調子が変わる。
「勘違いしてくれるなよ?」
老師の口元がわずかに緩む。
「バカじゃが優しい兄と」
指を一本立てる。
「厳しいが面倒見のよい姉と」
もう一本。
「ひたすら甘々のジジが」
三本目。
「ちゃんと見守っておるからの」
トウジの目が、わずかに見開かれる。
空気が、少しだけ緩む。
「戻ってくる場所は、ちゃんとある」
筆を置く。
視線をまっすぐ向ける。
「それだけは、決して忘れんようにの」
言葉が、胸の奥に静かに落ちる。
「……はい」 小さく、答える。
――これで、終わりなのか。
老師はそれ以上言わない。
再び筆を取り、紙へ向き直る。
馬車は、変わらず揺れている。
外では、隊列が進み続けていた。
街道を外れた開けた場所に、雑然とした野営地が広がっていた。
天幕はあるようでない。
焚き火はあちこちで勝手に上がり、煙が好き放題に流れている。
そして、その周りにいる連中がまた――
統一感がない。
鎧の上に毛皮を引っかけた男。やけに軽装なのに、武器だけはやたらと物騒な女。片手剣と槍を両方背負っている意味不明なやつ。盾だけやたら立派で、本人は妙に軽そうな男。
装備はバラバラ。
どいつもこいつも、妙に“慣れて”いる。隙はある。だが、油断はない――面倒そうな連中だ。
「ここが……就活…先?」
トウジが小さく呟く。
「ああ。まともそうに見えたら逆に疑え」
隣でオルドが肩をすくめた。
「仕事はある。だが、礼儀はない。腕はもちろんいる。ま、それだけって訳じゃねーけどな」
「なるほど」
「つまり」
オルドは少しだけ笑う。
「絡まれる」
「え」
「おいおい、新顔か?」
焚き火の向こうから声が飛ぶ。
出てきたのは、大柄な男だった。
片手に分厚い円盾。縁は削れており、何度も打ち合った痕が残っている。もう片手には、片刃の戦斧。柄は短いが、刃は広く、重い――前に出る役だ。
視線が、トウジに向く。
上から下まで、ゆっくりと。
そして。
笑った。
「……場所、間違っちゃいねぇか?」
トウジは、ゆるく立っている。
身長差が結構ある。低い。重心は落ちているが、構えがない。剣も、ただ持っているだけに見える。
――薄い。壁役の男から見れば、なおさら。
押せば終わる。そういう相手にしか見えない。
「はン!」
男が盾を軽く叩く。鈍い音が鳴る。
「ぶつけたらすぐに壊れっちまいそうだ」
周囲が笑う。
「ポッキリってか」
「獲物いらねぇだろ、盾だけで十分だろそれ」
「むしろ盾もいらねぇよ!」
好き放題だ。
トウジは少し困った顔をした。
「えっと……」
オルドは何も言わない。ただ、ニヤついて黙って見ている。
楽しんでいる顔だった。
男が一歩前に出る。盾を構える。斧を軽く回す。
「なあ、新人」
にやりと笑う。
「壁ぇ、抜いてみせちゃくれねぇか?」
ザッ、と周囲が空く。あっという間に円ができて、二人を取り巻く。
誰も止めない。どころか、待ってましたと言わんばかりだ。
トウジは少し首を傾げた。
「試すって……こと?」
「軽くでいい」
男は盾を前に出す。斧を肩に乗せる。
「剣士だろ? 押し込めるか、見てやんよ」
軽い調子だが、完全に“潰す側”の目だ。
トウジは少し考えて――
「じゃあ、お願いします」
あっさり頷いた。
向かい合う。
男は、構える。盾を前。半身。斧は後ろ。
隙がない。まさしく、壁だ。
トウジは――
ゆるい。低い。剣先が遊んでいる。
構えになっていない。
周囲から失笑が漏れる。
「おいおい……」
「何すんだそれ」
「盾に当たって終わりだろ」
男も笑った。
「怖いならやめとけ」
「いや、大丈夫です」
トウジは普通に答える。
「たぶん」
いきなり、男が踏み込んだ。
盾打ち。
重い。
前に出る圧。
逃げ場を潰す動き。
同時に。
半身に隠されていた斧が、いきなり振り下ろされる。
遅くない。
むしろ十分に速い。
普通なら、これで終わる。
トウジは、動いた。
すり足で半歩。わずかに横――斧の正面から、外れる。耳の横を空気が勢いよく抜ける。
そのまま継ぎ脚でさらに一歩、内へ。盾の縁、その外へするりと入り込む。
――近い。
男の視界からトウジが消える。
斧が落ちきる。
とん。
脇腹に浅く剣が触れる。
盾の内側。
あっという間に、抜けられた。
男が固まる。何が起きたか分からない顔。
周囲も止まる。
風だけが抜ける。
トウジは首をかしげた。
「あの、今のでいいですか?」