行軍九日目。
明日はいよいよ、
オルドは、しばしば列を離れていた。
エストは、逆に忙しそうだった。
馬を降りることも少なく、常にどこかへ向かっている。「トウジは、どっしりと落ち着いていてください」――動き回るな、という意味だと理解した。
老師は、時折、馬車の横を歩いていた。目が、少し遠い。焦点が合っていないようにも見える。書類の山か、揺れる馬車のせいか。どちらにせよ、大変そうだと思った。
この丘陵地帯を越えれば、
そう聞いていた。
緩やかな起伏。森と草地が、なだらかに繋がっている。
その途中で、行軍が止まった。
前触れはなかった。ただ、流れが止まる。
列の奥から、早馬が駆けてくる。土を蹴る音が、まっすぐ伸びる。
やがて、近くにいた聖騎士団へと伝令が届く。空気が変わる。鎧の音が、わずかに増える。
ロアンが先頭に出る。その後を追って数騎が、そのまま西へと駆けていく。
何かが起きている。
「トウジ」
横に、馬の気配。
エストが寄せてきていた。
「先頭付近の森で、瘴気が発生しているようです」
その言葉で、体が先に動く。
踏み出しかけて、止められる。
「落ち着いてください」
声は静かだった。
「いやでも!」
「
トウジは眉を寄せる。
「瘴気が、よく発生するってこと?」
「はい」
エストは頷く。
「人が多く住まう場所の周辺には、かならず瘴気が沸きます」
「……?」
「そういうものだと思ってください」
少しだけ、間を置く。
「あまり、いいことではありませんが」
風が吹く。草が揺れる。
「そのために、聖騎士や神官が周囲を巡回しています」
「でも、
「結界がありますから」
視線が少しだけ前へ向く。
「そのための神殿でもあります」
「マルヴォロス隊長、準備できました」
聖騎士が一人、馬を寄せてくる。
エストが振り向く。
「いまから、二陣として後詰に入ります。ついてきますか?」
トウジは一瞬だけ間を置く。
「え? いいの?」
「はい」
短く返る。
「私がいますので」
その言い方で、十分だった。
「行きます」
トウジは頷く。
馬を飛ばす。列を抜ける。前へ。
風が強くなる。
森が近づく。
空気が変わる。わずかに、重い。
現場は、すでに兵士たちが作った簡素な柵で囲われていた。
その先、下草のあまりない疎らな木々の中で、聖騎士たちが円を作る。
その中心に、薄墨色の揺らぎ。
瘴気。
それほど濃くはない。
先陣の聖騎士たちと距離を若干取ったエストの横に並んで、様子を見守る。
詠唱が始まる。低い声。揃っている。
重なりながら、ずれていく。完全には一致しない。だが、崩れない。
足元に、紋が浮かぶ。細い線。光が、ゆっくりと巡る。
円が徐々に閉じていく。瘴気が、押される。逃げ場を失うように、さらに中心へと寄せられる。
紋の淡い光の層が厚くなる。何層にも重なり、徐々に瘴気を封じ込める。
逃げ場を求めていた揺らぎが、やがて止まり――光に飲み込まれるように、音もなく形が崩れていった。
トウジは、その光景に違和感を覚えた。
消えているが、何かが違う。あの時と、違う。
少しずつ、確実に、安全に、時間をかけている。でも、あの時は――
……答えが見つからない。
瘴気は、ほとんど消えた。
残りが、細く漂う。
その時、何かが触れた。
頭の奥。思考よりもっと深い場所。指先でなぞるような感触。だが、確かにある。
それが――すっと消える。跡を残さずに。
トウジは、瞬きをする。
またこの感覚だ……。
「……トウジ?」
横で、エストが声をかける。
トウジは、ゆっくりと視線を戻した。
「……あ」
言葉を選ぶ。
「いえ、なんでもないです」――そう言うしかなかった。
聖騎士たちが、わずかに息を吐く。
瘴気も光も、完全に消えていた。
周囲を確認していたロアンが、エストの方へ頷いてみせた。
エストも頷き返すと、それを見た聖騎士たちも動き始めた。
任務は終わった。
柵の後ろで成り行きを見ていた部隊から伝令が走る。
柵が撤収され、周囲に喧騒が戻ってきた。
トウジは、その場に立ったまま、
さっきの感触を探そうとして――やめた。
すでに、どこにも残っていなかった。
だか、確かに何かが触れた。