エストが、渋い表情のまま、一歩二歩とトウジへ近寄る。
が、何かに気づいたように立ち止まり、顔を横に向けた。トウジも、エストが向いた方へ視線を走らせる。
瘴気の霞の向こうから二つの影が近づいてきた。
背に大剣を負った筋骨隆々の大男と、粗いローブをまとった細身の老人。見慣れた顔に、トウジはようやく肩の力を抜いた。エストも表情を少しゆるめた。
「オルドさん、老師」
大きな影の持ち主は、戦士のオルドだ。巨人族らしい岩みたいな体格で、鎧の隙間からのぞく筋肉がもはや鎧より硬そうに見える。剥きだしで背負う大剣の柄だけが肩から生えているようだった。
その隣の小柄な老人が、老師と呼ばれる高齢の魔法士だ。戦場には似つかわしくない簡素なローブ姿だが、存在感の大きさでオルドを完全に食っている。
「どうしてこっちに? 二人とも本営にいると思ってましたけど」
「……なんだよお前、ボロボロじゃねぇか」
皮製の防具はかろうじて残っているが、防具の下に着こんでいた防護服のいたるとこが破れ、ちぎれ、肌の露出した部分は、打撲や擦り傷だらけになっていた。
少し痛みは感じるが、魔物との戦いではよくあることだ。気にしていなかった。
「そんなことより、こっちにくるの早すぎませんか?」
「そんなことってなぁ……」 オルドがいつもの呆れ顔を見せる。
「あー……じーさんがな。どうしても前線に出るって聞かなくてよ」
オルドが頭をかきながら、少しだけ気まずそうに老師を見る。
「今回のは大物じゃと聞いておったからのう」
老師は白い髭を撫でながら、にこにこと笑った。
「魔核が気になっておったんじゃよ」
魔核。
魔物の核にして、魔素の結晶。
魔法士にとっては喉から手が出るほど欲しい代物だ。携帯できる魔素供給源。要するに、持ち歩ける予備燃料みたいなものだ。
「すみません、老師」
トウジは少しだけ頭を下げた。
「魔核、残りませんでした。たぶん、戦闘の最後で壊してしまったと思います」
「ふむ」
老師は一瞬だけ目を細めたあと、すぐに柔らかく笑った。
「まあ、よいよい。おぬしが無事なら、それで十分じゃ」
そう言いながら、老師の視線は傷よりも顔を見られている気がした。
「そっちはもう終わったのか?」
オルドがエストに問いかける。
「騎士団はまだ眷属の掃討中です」
エストは、小さく息をついた。
「今回は質も量もこれまでとは違って、かなり手こずっています」
魔物本体に群がる雑魚や眷属を引き受けるのが騎士団の役目だ。その隙に、自分が単独で本体を叩く――いつもの形。でも今回は、その“いつも”が四日も続いた。さすがに長かった。いや、長すぎた。無窮の勇者と呼ばれる自分が、集中力を無くすほどに。
エストの視線がこちらに向く。
「……どうやらこちらも、無事に討伐、という体じゃないようですが……」
「え、いや、あー……これからそっちを手伝いに――」
「本気で言っているのですか?」 一言で切られた。
「他人の心配をする前に、自分の心配をしろと何度言えばわかるんです」
声は静かだ。でも逆に怖い。
「大丈夫だって」
「それ、前回も聞きました」
「あ~……」
「倒れて、そのまま三日も眠った人の言葉でした」
エストの視線が外れない。
「ごめんなさい……」
怒られた。完全に怒られた。
視線を逸らすと、そっちでオルドが鼻を鳴らして笑っていた。老師も苦笑している。
「雨の中で立ち話もなんじゃ」
老師が空を見上げる。
「どこかで雨宿りでもせんかの」
エストが来た方向を指差した。
「あちらに廃屋がありました。ひとまず、そこで休みましょう」
オルドが周囲を見回しながら、賛同した。
「そうだな。この瘴気の濃さじゃ、まだここを離れられねぇ。新しく湧く可能性もある」
瘴気とは魔素の集まりだ。ただし魔素とは位相が違うとかなんとか――老師の言葉はときどき理解できなくなる。いわば、魔物の根源。
普通の人族なら、その中に長く浸れば、あり様が変わる。命にもかかわる。
魔物を倒したおかげか、だいぶ薄くはなってきたけど、油断は禁物だった。
とは言え、自分たちには効かない。
少なくとも、自分には空気と変わらない。
瘴気の中でも動ける。いつもと同じように。
森の中。ぽつんと建てられて朽ちた廃屋の石庇の下。
雨粒が糸みたいに垂れ続けていた。
四日と四晩降り続いている雨。老師が仕込んだ魔法雨だ。
ただの雨じゃない。
微量の魔力を含ませて、雨音の数だけ瘴気や周囲の魔素を少しずつ削っていく。
魔力と魔素とが交わることでお互いを打ち消し合うのだと老師は言う。
地味だけど、確実な浄化方法。
手足を伸ばし、雨の様子をぼんやり見ながら空白の時間を過ごしていると、身体のあちこちがどんどん弛緩していくのがわかる。
隣に腰を下ろしたエストが治癒魔法を発動する。淡い光が傷口を包む。
しばらく無言だった。傷を治しているというより、一つ一つ確かめているようだった。
ときおり視線が向けられ、何かを言いたそうな顔をしていた。
「なんで毎度毎度、こんなに傷だらけになるんですか」
エストの心の声が聞こえてくるようだった。
治療が終わったはずの箇所に、もう一度魔力を流し込む。
まるで見落としがないか確かめているようだった。少し大袈裟じゃないだろうか。
「これで、ようやく終わりか」
壁にもたれていたオルドがぽつりと漏らす。
終わり。
その言葉が妙に重い。
「そうじゃな」
老師が静かに頷いた。
「八十年近く続いた大掛かりな魔物討伐も、今夜で終幕じゃ」
「……じゃあ」
オルドが眉をひそめる。
「俺たち、失業か?」
思わず少し笑ってしまった。
「本当に失業するのって、オレとオルドさんの二人」
エストは四柱聖環院の神官様だし、老師は言わずと知れた大魔法士様だ。
「ますます笑い事じゃねえぞ、そりゃ!」
でも、その声にもいつもの棘はない。むしろ、少しだけ寂しそうだった。
ずっと戦ってきたはずだ。それこそ、自分がこの戦に加わるずっと以前から。
失業といえば、無窮の勇者もか。
魔物に特化して、魔物が倒れるまで戦い続けることから名づけられたトウジの二つ名。
そんな大仰な呼び方をされるのも、今日で終わりだ。
明日からどうしよう? 少し考え、真っ先に浮かんだのは……。
どこで戦うか、だった。
「トウジ」
エストがこちらを見る。
「あなたは、この先どうするつもりですか」
「……あ…えー」
正直に言えば確実に怒られる。
でも他は何も思いつかなかった。
この五年、戦うことしかしていない。
戦わない自分を想像してみる。
うまく思い浮かばなかった。
「考えて……なかったです」
「本当にあなたは……」
呆れたようなエストの声。でもその目は、言葉以上に心配そうだった。
老師も、オルドも同じだ。
まるで今にも倒れると思っているようだ。
三人とも大袈裟だ。
今回は少し疲れただけだ。
前みたいなことには――ならないはず……だ……。
あれ?
体が、妙に重い。
指先の感覚が遠い。
眠い。
急に。
ものすごく。
「トウジ?」
エストの声が遠くなる。
老師が杖を握り直している。
オルドが立ち上がる。
三人とも、これをまるで予測していたみたいな顔だった。
世界が、ふっと傾く。
次の瞬間。
トウジの意識は、静かに闇へ沈んだ。