深い闇だった。
上下も左右もわからない。
ただ、遠くに赤い光がひとつだけ浮かんでいる。
何日もかけて歩いて近づいていく。いや、数時間か。一瞬だったかもしれない。
脈を打っていた。
どくん。どくん。どくん。心臓の鼓動と重なる。
それは巨大な魔核だった。人の頭ほどもある赤黒い結晶。
内部で濁った光が渦を巻いている。
『――届かなかった』
声がした。
低く、遠く、それでいて耳元で囁かれたように鮮明だった。
『守れなかった』
左胸の奥が締めつけられる。
何かを、誰かを――自分は守れなかった。そんな感情だけが、理由もなく胸に湧き上がる。
『今度こそ』
その声に呼応するように、魔核が大きく脈打つ。
次の瞬間、黒い光がトウジの胸へ流れ込んできた。
『今度こそ』
熱い。
胸が焼けるように熱い。
『今度こそ』
「――トウジ!」
鋭く名を呼ぶ声で、意識が浮上した。
まぶたを開けた瞬間、真っ先に飛び込んできたのはエストの顔だった。
近い。
琥珀色の瞳が、心配そうに揺れている。
「……エスト?」
「よかった……!」
張り詰めていたものが切れたように、彼女の肩が小さく落ちた。よく見ると、目の周りにうっすらと隈があった。
「起きたか!」
低く響く大声。
横を見れば、腕を組んだオルドが仁王立ちしていた。
その向こうでは、老師が杖を握ったまま、じっとこちらを見つめている。
いつもの好々爺めいた柔らかな笑みはない。目だけが、妙に鋭かった。
トウジはゆっくりと身を起こした。
体は重い。だが、動けないほどではない。ただ奇妙なことに、身体の芯に熱が残っている。胸の内側、心臓の裏あたりで、何かがまだじくじくと脈打っている。夢だったはずなのに、確かにそこにある。
「どこか痛むところはありますか?」
動きを止めたトウジにエストがすぐに身を寄せ、額や首筋に手を当てる。
ひやりとした指先。治癒魔法の発動光だろうか、ほのかに輝いている。
その感触に、ようやく現実感が戻ってくる。エストの指に柔らかく触れ、軽く押し戻すように動かす。
「ありがとう、もう大丈夫だから」
「本当に?」
「うん」
言いながら、確かめるように腕を振り、肩を回し、脚に力を入れる。
異常はない。
少なくとも、表面上は。
「毎度毎度、肝を冷やさせやがって」
オルドが鼻を鳴らした。
「四日四晩ぶっ通しで戦って、そのままぶっ倒れて。担いで戻るこっちの身にもなれ!」
「……ごめんなさい」
「ったく。今度こそダメかとおもったぜ」
ぶっきらぼうな言い方のくせに、その声音には安堵が滲んでいた。
「……そうじゃな」
老師が小さく頷く。
「ようやった」
老師がそう言うのは珍しかった。
だから少しだけ居心地が悪い。
「……ここは?」
視界に入ったのは、崩れた廃屋の天井ではない。厚い布で組まれた大きな陣幕。床には敷物が重ねられ、簡易の寝所が整えられている。薬草の匂いと、遠くから聞こえる兵士たちの怒号と足音。本営の救護所か?
「本営まで戻ったんですね」
「うむ。おぬし、丸一日以上眠っておった」
老師が低く告げた、その時だった。
「失礼する」
陣幕が大きく持ち上がる。
入ってきたのは、壮年の男だった。
銀を基調とした重厚な鎧。胸元に刻まれたエルン王国騎士団の紋章。
貴族然とした威厳を纏う姿に、エストが即座に姿勢を正す。
「叔父上……いえ、総司令殿!」
エストが騎士礼をとり、オルドと老師も軽く頭を下げた。立ち上がろうとするトウジを右手で軽く制して、総司令は穏やかにほほ笑んだ。
「気が付かれたようで何よりです、勇者殿」
「ご迷惑をおかけしました」
トウジが頭を下げると、総司令は首を横に振る。
「いや、なんの。魔物の首魁を討ち果たした功績は計り知れませぬ。貴殿のおかげで、多くの兵を失わずにすみました」
横でオルドが、当然といった顔をして頷いている。
「もっとも、運び込まれた時は本気で肝を潰しましたがな」
その場に、わずかな笑いが生まれる。
だが、それはすぐに消えた。
総司令の表情が引き締まる。
「エスト。聖騎士団が探しておる。急ぎの件だ。すぐ合流せよ」
「え……ですが、トウジが――」
「勇者殿の看病なら我らが行う」
ちらり、と意味ありげな視線がトウジへ向けられる。
「それとも、還俗を申請するか?」
エストが一瞬固まった。
「……叔父上」 声色が少し怖い。
「今はそのような話をしている場合ではありません」
いたって真面目な口調だった。
ただ、耳だけは赤い。
「では、失礼します」
さっそうとした足取りで、彼女は陣幕の外へ消えていった。
その背を見送りながら、オルドが小さく吹き出す。
「隠す気あんのか、あいつ」
「……何かありましたかの」
老師が問うと、総司令は懐から地図を取り出した。
「討伐軍の包囲網、その一部が破られました」
空気が変わる。
「首魁を失った眷属どもが暴走。北の村へ向かっております」
トウジの胸の奥が、どくん、と跳ねた。
「村……?」
「各地に散った騎士団を再編して向かわせておりますが……間に合うかどうか」
「チッ。頭がいなくなって、残党が好き勝手暴れてやがるってわけか」
オルドが舌打ちする。
「魔物じゃからの。自分が新たな頭になったつもりなんじゃろう」
老師の声音は静かだ。
総司令が地図上の一点を指差した。
「ここです。本営から北寄りの村、ホローム」
「近いな」
オルドが眉をひそめる。
「人里を見つけたら殺到するじゃろうよ、格好の得物じゃな」
――寝所から跳ね起きる。
理屈より先に、体が動いていた。
壁際に立てかけられていた剣を掴む。
「おい、トウジ!」
オルドの制止が飛ぶ。
だが、もう足は止まらない。
胸の奥の熱が、全身を突き動かしていた。
守れない結末だけは、絶対に駄目だ。
陣幕を跳ね上げ、トウジは外へ飛び出した。
冷たい夜気が肌を打つ。
北の空。星のない空。
ただ闇が広がっているはずのその空に赤黒い陽炎が立ち上り、揺らぎ、森の木々が織りなす黒を浮き立たせていた。
初めて見る光景だが、はっきりと分かった。あの下に魔物が
腰の剣を確かめて、勇んで駆け出そうとしたその時。
がっしりと乱暴に肩を掴まれた。
「っと待て、って言ってるだろうがっ!」