巨影が迫る。
直後。
眷属たちが一斉に地を蹴った。
重い。巨体のはずなのに速い。
踏み込みだけで地面が砕け、黒い瘴気が爆ぜる。
「っ――!」
最初の一体が腕を振り下ろした。
丸太のような巨腕。
まともに受ければ潰れる。
トウジは半歩ずれた。轟音。すぐ脇で地面が陥没する。飛び散った石片が頬を裂いた。
だが止まらない。
次。
横合い。別個体の触手が薙ぐ。低い。足を刈りに来ている。
跳ぶ。黒い鞭が足下を通過した。
そのまま空中で身を捻る。
三体目。正面から突進。
「はぁっ!」
着地と同時に踏み込んだ。真正面。ぶつかる寸前で半身へ滑り込む。剣閃。脇腹を浅く裂く。
黒い液が散った。
だが浅い。肉が硬すぎる。
眷属が唸り声を上げ、巨腕を振り回した。
近い。
避け切れない。
咄嗟に剣を立てる。
激突。
「ぐっ……!」
腕が軋む。
衝撃で体が流される。
踏み止まる。
だが、その隙へ別個体が踏み込んできた。
連携が早い。休ませる気がない。
触手。槍。巨腕。四方から攻撃が重なる。
トウジは地を蹴った。滑る。屈む。剣を振る。触手を断つ。
直後、頭上を巨腕が通過した。風圧だけで髪が舞う。
そのまま前転。背後へ瘴気槍が突き刺さる。じゅう、と地面が腐った。
囲まれている。
だが、不思議と恐怖は薄かった。
むしろ体がよく動く。
濃密な瘴気の中。黒い靄が肌へ纏わりつくたび、感覚が鋭くなっていく。
息遣い。踏み込み。筋肉の動き。全部、分かる。
森の夜に似ていた――魔物の群れに囲まれながら駆けていた、あの頃に。
「――っ!」
迫る巨腕の内側へ潜る。懐。ここなら振り切れない。
剣を突き上げる。黒い肉を裂いた。
眷属が吼える。
その咆哮が耳を震わせた瞬間。
横から別の巨体がぶつかってくる。
「ちぃっ!」
避け切れない。肩から激突した。
衝撃。息が詰まる。体が浮き、地面へ叩きつけられた。肺から空気が抜ける。視界が揺れた。
だが、即座に転がる。直後、さっきまでいた場所へ触手が突き刺さった。
危ない。遅れていたら終わっていた。
左肩が熱い。骨まではいっていない。まだ動く。
トウジは荒い息を吐きながら立ち上がった。
眷属たちがじりじり距離を取る。
こちらを警戒している。
無理に飛び込めば斬られる。
だが距離を取れば接近される。
互いに決め手がない。
瘴気が渦を巻く。
黒い靄の中。
トウジは剣を構えたまま、浅く息を整えた。
腕が痛む。
脇腹も裂けている。
それでも、まだ動ける。
眷属たちもまた、低く唸りながら距離を測っていた。
膠着。だが、その均衡はあまりにも危うかった。
――ズガガーン!!
広場の外れで建物が轟音と伴に崩れ落ちた。
木片と土埃が舞い上がる。
その中から、母親と幼い娘が転がるように飛び出してくる。
「お、お母さん……!」
小さな手が、母親の袖をぎゅっと掴んでいた。
「走って!」
その背後から、牙を剥き、黒い瘴気を吐きながら、中型の魔物たちが迫っていた。
眷族たちの目が一斉にそちらへ向く。
すると、トウジへの執着を捨てたのか、なんの躊躇もなく、足並みをそろえて母娘へ反転した。
先ほどまでいなされ続けた鬱憤を晴らすかのように。
暴虐の矛先が、無力な親子へ向く。
その光景に。
トウジの中で、何かが切れた。
「――うぬらぁぁ」
喉から絞り出すような、低い声だった。
怒りで震えるほどの。
胸の奥で、熱が爆ぜる。
守れない。届かない。
そんなことがあってたまるか。
届かぬなら――届いてみせる。
次の瞬間。
トウジの姿が、消えた。
地面が爆ぜ、砂煙が上がる。そして――母娘の目の前に、忽然と現れる。
剣を振り抜く。
一閃。
爆発的な斬撃が周囲を薙いだ。
中型の魔物たちがまとめて吹き飛ぶ。
眷属たちすら、たたらを踏んで自らの瘴気とともに後退する。
広場の空気が一変した。
オルドが村へたどり着いたのは、トウジに少し遅れてだった。
輜重馬は巨体を運ぶには十分だった。だが、速度は出ない。
村の入口で魔物の群れに行く手を阻まれ、それを力任せに叩き潰して進んだ。
ようやく広場へ辿り着いた時。
トウジはすでに眷属たちと対峙していた。
オルドは横合いから乱入しようと動きかけていた。
建物の崩壊。逃げ遅れた母娘。魔物の追撃。
「やばいっ!」
叫んだその直後。眷属と向き合っていたはずのトウジが、母娘の前にいた。
一瞬だった。
目で追えない。
「――縮地?!」
思わず声が漏れる。
まさか?! あれは獣人族が、あるいは鍛錬に鍛錬を重ねた武芸者たちだけが使える、武技と呼ばれる絶技だ。トウジがそんな技を使えるはずがない。
その背後から、落ち着いた声。
「じゃな」
老師だった。
「じーさん……あいつ、なんで? ありゃ魔力の応用技だぞ?!」
「魔力、というより魔素じゃがな」
老師の視線はトウジから離れない。
「それよりもじゃ」
杖の先が広場を指す。
オルドの目が見開かれた。
「なんだ……ありゃ」
トウジの周囲。
薄墨色の瘴気が、沸騰しているかのように泡立ち、渦を巻いていた。
激しく。
まるで生き物のように。
母娘すら巻き込む勢いで。
「瘴気じゃねーのか?!」
「そうじゃの」
「そうじゃの、じゃねぇよ!」
オルドが怒鳴る。
「このままじゃ後ろの二人まで呑まれっちまう!」
「いつでも動けるようにの」
老師の背後で、聖騎士二人が静かに構える。
「じゃが、——すべては、見届けてからじゃ」
老師の目がさらに鋭さを増し、その光景に注がれる。
「さて……トウジよ」
杖を握る手が、わずかに強くなる。
渦巻く瘴気、その中心に立つトウジの背、背後の母娘――老師の視線が巡る。
「おぬしはどちら側じゃ?」
トウジが、剣を持つ右手を左腕に沿わす。
左腕の周囲の瘴気が、わずかに揺れた。
次の瞬間、
渦巻く瘴気が、炸裂した。
地に伏せ怯える母娘の髪が激しく乱れる。
勢いよく四方八方に広がり、吹きすさぶ突風となって辺りを墨色に染める。
そして――
眷属たちから噴き出す瘴気へ、黒い渦が獣じみた勢いで喰らいついた。
――喰っている。
貪っている。
獲物を逃がすまいと喉元へ牙を突き立てる捕食者のように、容赦なく。
黒い靄を噛み砕き、引き裂き、根こそぎ呑み込んでいく。
奪われる、削られる――黒い靄が、トウジの周囲の渦へ飲み込まれていく。
最初は戸惑っていた眷属たちが、やがて恐慌をきたした。
自らの力が削られていく。
己の支配圏を誇示するための瘴気が薄れてゆき、別の瘴気がそれにとって代わる。
それは、自分たちよりも明らかな上位者がそこに存在する証。
――贄――
恐怖に満ちた異形の咆哮が夜空へ響いた。
老師の口元が、かすかにほどけた。
笑みとも、そうでないともとれる、曖昧な表情だった。
視線だけが、まだトウジの背を離れなかった。
「……トウジ、おぬしは……」
「老師、遅くなりました!」
甲冑の音を響かせ、エストが十数名の聖騎士を率いて駆け込んできた。
老師がはっとしたように気を取り直し、いつもの表情になった。
「適時かの」
振り返り、静かに告げた。
「エスト、村を制圧せよ」
「はっ!」
剣を抜き放つ。チラリと広場に目線を配る。
「総員、法気を高め、突貫!!」
聖騎士たちが一斉に広場へ雪崩れ込む。
老師は背後の二人にも視線を向けた。
「もう後詰めはよろしい。お二人も加わってくだされ」
無言の会釈。
二人も駆ける。
オルドは、その場にとどまりトウジを見つめていた。
渦巻く瘴気の中心で。
母娘を背に立つその姿を。
「……じーさん」
「なんじゃ」
「ありゃ、もう勇者ってもんじゃねぇぞ。あれじゃまるっきり――」
老師が、即座に言葉を被せる。
「英雄じゃよ。今は」
そして杖を鳴らす。
「さて、オルド。幕を引きに行こうかの」
エストは聖騎士たちの先頭に立って広場へ駆け込んだ。
だが、広場へ踏み込んだ瞬間、覚悟はしていたが、その情景にエストは息を呑んだ。
瘴気の乱流。薄墨色の靄が、まるで生き物のように広場一面を荒れ狂っていた。
渦を巻き、逆巻き、夜気そのものをねじ曲げている。
その中を、魔物たちが算を乱して逃げ惑っていた。
恐慌、混乱――先ほどまで村を蹂躙していたはずの異形たちが、まるで何かに追い立てられるように右往左往している。
広場へ散開し、三々五々魔物を討ち始める。
剣戟の音。咆哮。断末魔。
エスト自身も何体もの魔物を斬り伏せたはずだった。
だが、その感触がほとんど記憶に残っていない。
心ここにあらずだった。
妙に身体が重い。
剣を振る腕が、甲冑が、胸の奥が、重かった。
遅れた……。
その思いが、鋭く胸を刺していた。
広場を覆う激しい薄墨色の流れ。
その中心に、トウジが立っている。
倒れ伏した母娘を背に。
一人で。
その姿を見つけた瞬間、心臓が悲鳴を上げた。
これほどの濃い瘴気。
村人たちは無事なのか。自分は、間に合わなかったのではないか。彼一人に、この責を負わせてしまったのではないか。
「……っ」
喉元まで込み上げた声を、エストはかろうじて押し殺した。
激しく渦巻いていた薄墨色の靄が、ふっと揺らいだ。視界のにじみのせいかと、エストは思ったが、違っていた。
広場を埋め尽くしていたはずの瘴気が、トウジを中心にして目に見えてほどけていく。
黒く淀んだ靄が、みるみる色を失っていく。
薄墨は灰へ、灰は白い霧へ、そして、夜気に溶ける微光の粒へと変わっていく。
まるで夜明けの光が、闇を押し流していくように。
エストは思わず立ち尽くす。
「……浄化?」
後方で、聖騎士の一人が思わず漏らした。
いや、そうではない。
これは聖騎士の法気による浄化ではない。
――広場の中央。
母娘を背に立つトウジの周囲から、白い粒子が静かに広がっている。
狂気を孕んでいた瘴気が、急速にもとの魔素へ還っていく。
白い粒子が風に舞い、戦場を静かに覆っていく。
剣を握る手に力が入る。だが、出かかった言葉は飲み込んだ。
今は考える時ではない。
守るべきものが、まだここにある。
剣を握り直す。
声を張る。
「浄化不要! 残敵掃討に集中! 村人の保護を優先せよ!」
凛とした号令が広場に響いた。
白い粒子が舞う中、聖騎士たちが再び一斉に動き始める。
戦いの終わりは、すでに見えていた。