転生勇者の再就職   作:三連九

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1-7 ホローム村(第1章エピローグ)

 トウジは村の広場の端に座っていた。

 

 短い時間だったが、本営への帰還前に数刻の仮眠を取って、さきほど起きたところだった。

 

 崩れた石垣の残骸に背を預け、ぼんやりと空を見上げる。夜は、もう完全に明けきって、午前中の光が辺りを照らしている。柔らかな斜光が無残な広場の様子を際立たせ、未明のできごとを思い出せた。

 

 空気は冷たい。

 

 広場では、エルン王国騎士団が動いていた。戦闘の事後処理だろう、淡々と――だが、どこか張り詰めた空気がまだ残っている。

 

 その向こうで、村人たちが少しずつ戻り始めていた。

 

 南の森へ避難していた者たちだろう。慣れない場所で夜を明かし、不安と寒さに耐えていた顔が見える。

 

 家の前に立ち尽くす老人、崩れた屋台を黙って見つめる男、子どもの手を引いて、焼け跡を歩く女。

 

 誰も泣いていないのは、泣く気力すら残っていないのか。あるいは、まだ現実が心に追いついていないのか。

 

 トウジは、その光景を黙って見ていた。

 

 胸の奥に、小さな安堵がある。村人たちを見ていると、胸の奥が少し軽くなる。ただ、それだけで十分だと思いたいのに、心の底に別の感触が沈んでいた。

 

 視線を落とす。

 

 左腕。

 

 あれから、まだそこにある、皮膚の下を這うように走る数条の黒い筋。細い血管のようにも見えるが、色はあまりにも濃い――まるで墨を流し込まれたような黒。今も、かすかに脈打っている。

 

 とくり、とくり。

 

 心臓の鼓動とは、微妙に拍がずれている。

 

 指先でそっと触れてみる。痛みはない、熱もなくなっている、腫れもない。だが、確かにそこにある。消えない。夢ではなかった。

 

 昨夜、自分の中で何かが変わった。

 

 その証、なのだろうか。

 

 ――喰っていた。ふいに、昨夜の光景が脳裏によみがえる。

 

 黒い靄、瘴気――それが自分の周りに沸き、渦を巻き、瘴気が瘴気を飲み込んでいった。あれは本能だった。飢えにも似た衝動。そして魔物達の恐怖。怯え。怒り。断末魔。それらが一瞬だけ自分の中を通り過ぎていった。

 

 あれは一体なんだったのだろうか……。思い出した瞬間、胸の奥が不意にざわつく。

 

 無意識に、左手を握りしめ胸に当てていた。

 

「はぁ……」

 

 吹っ切れぬ思いを吐き出し、顔をあげた。

 

 広場の中に、見覚えのある姿が映った。

 

 昨夜の母娘だった。

 

 母親は両手に荷物を抱え、娘は母親の服の裾を握りしめながら、慎重な足取りで広場を横切っている。崩れた荷車を避け、黒ずんだ地面を踏まないように。一歩ずつ、丁寧に。娘の方はまだ眠そうだった。

 目をしょぼつかせ、母親の裾をぎゅっと掴んでいる。昨夜の怯えきっていた顔とは少し違う。

 

 それを見ただけで、胸の奥が少し鎮まってくる。

 

 母親がトウジに気づいた。一瞬、足が止まる。それから、深く頭を下げた。

 

 言葉はない。

 

 娘が顔を上げた。眠たげな目が、こちらを見つめ、そして無表情のまま、小さく手を振った。トウジは思わず口元を緩めた。

 

 小さく手を振り返す。

 

 娘はすぐに視線を逸らし、あくびをひとつして、母親と一緒にまた歩きはじめた。

 

 二人の背中が路地の向こうへ消えていく。

 

 その姿を見送りながら、トウジは息を小さく吐いた。

 

 守れた……んだな。

 

 胸の奥のざわつきは、ほとんど無くなっていた。

 

「少しいいだろうか?」

 

 不意に声がした。

 

 振り向く。

 

 総司令へ復命していた聖騎士の人だった。整った鎧姿に、鋭い目。

 

 おそらく、この場の聖騎士の中では最も位の高い人物なのだろう。

 

 男は何かを言いかけて、口を閉じた。

 

 視線が、トウジの左腕へ落ちる。

 

 言葉を選んでいる。いや、選びきれずにいる。

 

 そんな沈黙だった。

 

「ロアン」

 

 聞き慣れた声が割って入った。

 

 エストだ。

 

「お話し中すみません。帰営の準備が整い、全員待機しております。最終点呼をお願いします」

 

「あぁ、そうだったな。すまん。また改めて」

 

 ロアンは短く言い残し、足早に去っていった。

 

 鎧の擦れる音が遠ざかる。

 

「誰?」

 

 トウジが問うと、エストは視線をロアンの背に向けたまま答えた。

 

「小隊長の一人です。私の同僚ですね」

 

「エストぐらいできる人?」

 

 少し冗談めかして言うと、エストは小さく息を漏らした。

 

「先任ですし、私以上ですよ」

 

 その声音は淡々としている。

 

 だが、どこか言葉を選んでいる気配があった。

 

「なんだったんだろうね?」

 

「……さぁ」

 

「敵意はなさそうだったけど」

 

「あった方が良かったですか?」

 

「わかりやすいよね」

 

 トウジが肩をすくめる。

 

 エストは一瞬だけ、目を細めた。

 

「聖騎士にとって、瘴気は払うものです。浄化すべきものです」

 

 静かな声だった。

 

「それを操る者がいるとしたら……どう受け取るべきか、判断をしなければなりません」

 

 朝の冷気より、その言葉の方が少し冷たく感じた。

 

「エストは?」

 

 問い返す。

 

 エストがこちらを見る。

 

 琥珀色の瞳が、真っ直ぐだった。

 

「私は」

 

 一拍。

 

 ほんのわずかな沈黙。

 

 けれど、その間に迷いはなかった。

 

「もう決めてます」

 

 それだけ言って、エストは踵を返した。

 

「そろそろ出立します。準備をお願いします」

 

 足音が遠ざかっていく。

 

 甲冑の音が、朝の空気に溶けていく。

 

 トウジは、その背を見つめたまま動けなかった。

 

 もう決めている。その言葉の意味を、聞けなかった。聞くのが、少し怖かった。

 

 左腕の黒い筋が、また小さく脈打った。

 

 とくり。

 

 朝の静けさの中で、その音だけがやけに大きく響いた気がした。

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