トウジは村の広場の端に座っていた。
短い時間だったが、本営への帰還前に数刻の仮眠を取って、さきほど起きたところだった。
崩れた石垣の残骸に背を預け、ぼんやりと空を見上げる。夜は、もう完全に明けきって、午前中の光が辺りを照らしている。柔らかな斜光が無残な広場の様子を際立たせ、未明のできごとを思い出せた。
空気は冷たい。
広場では、エルン王国騎士団が動いていた。戦闘の事後処理だろう、淡々と――だが、どこか張り詰めた空気がまだ残っている。
その向こうで、村人たちが少しずつ戻り始めていた。
南の森へ避難していた者たちだろう。慣れない場所で夜を明かし、不安と寒さに耐えていた顔が見える。
家の前に立ち尽くす老人、崩れた屋台を黙って見つめる男、子どもの手を引いて、焼け跡を歩く女。
誰も泣いていないのは、泣く気力すら残っていないのか。あるいは、まだ現実が心に追いついていないのか。
トウジは、その光景を黙って見ていた。
胸の奥に、小さな安堵がある。村人たちを見ていると、胸の奥が少し軽くなる。ただ、それだけで十分だと思いたいのに、心の底に別の感触が沈んでいた。
視線を落とす。
左腕。
あれから、まだそこにある、皮膚の下を這うように走る数条の黒い筋。細い血管のようにも見えるが、色はあまりにも濃い――まるで墨を流し込まれたような黒。今も、かすかに脈打っている。
とくり、とくり。
心臓の鼓動とは、微妙に拍がずれている。
指先でそっと触れてみる。痛みはない、熱もなくなっている、腫れもない。だが、確かにそこにある。消えない。夢ではなかった。
昨夜、自分の中で何かが変わった。
その証、なのだろうか。
――喰っていた。ふいに、昨夜の光景が脳裏によみがえる。
黒い靄、瘴気――それが自分の周りに沸き、渦を巻き、瘴気が瘴気を飲み込んでいった。あれは本能だった。飢えにも似た衝動。そして魔物達の恐怖。怯え。怒り。断末魔。それらが一瞬だけ自分の中を通り過ぎていった。
あれは一体なんだったのだろうか……。思い出した瞬間、胸の奥が不意にざわつく。
無意識に、左手を握りしめ胸に当てていた。
「はぁ……」
吹っ切れぬ思いを吐き出し、顔をあげた。
広場の中に、見覚えのある姿が映った。
昨夜の母娘だった。
母親は両手に荷物を抱え、娘は母親の服の裾を握りしめながら、慎重な足取りで広場を横切っている。崩れた荷車を避け、黒ずんだ地面を踏まないように。一歩ずつ、丁寧に。娘の方はまだ眠そうだった。
目をしょぼつかせ、母親の裾をぎゅっと掴んでいる。昨夜の怯えきっていた顔とは少し違う。
それを見ただけで、胸の奥が少し鎮まってくる。
母親がトウジに気づいた。一瞬、足が止まる。それから、深く頭を下げた。
言葉はない。
娘が顔を上げた。眠たげな目が、こちらを見つめ、そして無表情のまま、小さく手を振った。トウジは思わず口元を緩めた。
小さく手を振り返す。
娘はすぐに視線を逸らし、あくびをひとつして、母親と一緒にまた歩きはじめた。
二人の背中が路地の向こうへ消えていく。
その姿を見送りながら、トウジは息を小さく吐いた。
守れた……んだな。
胸の奥のざわつきは、ほとんど無くなっていた。
「少しいいだろうか?」
不意に声がした。
振り向く。
総司令へ復命していた聖騎士の人だった。整った鎧姿に、鋭い目。
おそらく、この場の聖騎士の中では最も位の高い人物なのだろう。
男は何かを言いかけて、口を閉じた。
視線が、トウジの左腕へ落ちる。
言葉を選んでいる。いや、選びきれずにいる。
そんな沈黙だった。
「ロアン」
聞き慣れた声が割って入った。
エストだ。
「お話し中すみません。帰営の準備が整い、全員待機しております。最終点呼をお願いします」
「あぁ、そうだったな。すまん。また改めて」
ロアンは短く言い残し、足早に去っていった。
鎧の擦れる音が遠ざかる。
「誰?」
トウジが問うと、エストは視線をロアンの背に向けたまま答えた。
「小隊長の一人です。私の同僚ですね」
「エストぐらいできる人?」
少し冗談めかして言うと、エストは小さく息を漏らした。
「先任ですし、私以上ですよ」
その声音は淡々としている。
だが、どこか言葉を選んでいる気配があった。
「なんだったんだろうね?」
「……さぁ」
「敵意はなさそうだったけど」
「あった方が良かったですか?」
「わかりやすいよね」
トウジが肩をすくめる。
エストは一瞬だけ、目を細めた。
「聖騎士にとって、瘴気は払うものです。浄化すべきものです」
静かな声だった。
「それを操る者がいるとしたら……どう受け取るべきか、判断をしなければなりません」
朝の冷気より、その言葉の方が少し冷たく感じた。
「エストは?」
問い返す。
エストがこちらを見る。
琥珀色の瞳が、真っ直ぐだった。
「私は」
一拍。
ほんのわずかな沈黙。
けれど、その間に迷いはなかった。
「もう決めてます」
それだけ言って、エストは踵を返した。
「そろそろ出立します。準備をお願いします」
足音が遠ざかっていく。
甲冑の音が、朝の空気に溶けていく。
トウジは、その背を見つめたまま動けなかった。
もう決めている。その言葉の意味を、聞けなかった。聞くのが、少し怖かった。
左腕の黒い筋が、また小さく脈打った。
とくり。
朝の静けさの中で、その音だけがやけに大きく響いた気がした。