本営への帰還は、昼前には完了した。
老師は、事後処理でもあるのか、まだ村にとどまったままだ。
本営に着くと、このまま順調にいけば王都・フィオルへは明朝の出立だと聞かされた。
そう決まったらしい。
王都では討伐軍の解隊式が盛大に行われ、どうやら“勇者一行”なるものも、そこでいったん解散となる。
勇者一行。その言葉に、トウジはまだ妙なむず痒さを覚えていた。
自分がその中に含まれていることに、どうにも実感がない。
天幕の周囲では、兵たちが忙しなく動いている。
荷物をまとめる者。馬の手入れをする者。夜営用の焚き木を積む者。武具の点検をする者。
戦が終わった後特有の、妙に間の抜けた慌ただしさ。
張り詰めていた糸が切れたような空気の中で、それでも手だけは止まらない。
そんなざわめきの端に、オルドがいた。
天幕の陰。
腰を下ろし、大剣を膝の上に横たえている。
大きな手に白い布。
その布が、刃の上をゆっくりと滑っていた。
傍らには、手入れ用の油壺が布に包まれて転がっている。
近づいて初めて、その剣の傷がよく見えた。
刀身のあちこちに刻まれた深い傷跡。
魔物の牙を受けた跡か。
甲殻を叩き割った痕か。
無数の戦場をくぐってきたことが、一目でわかる。
それでも折れずにいる。
オルドの剣は、持ち主と同じく頑丈らしい。
トウジが足を止めると、オルドは顔を上げないまま言った。
「座れよ」
顎をしゃくる。
油壺をぞんざいに脇へ避ける。
トウジは黙って隣に腰を下ろした。
しばらく、言葉はなかった。
布が刃を滑る音。
遠くから聞こえる兵士たちの掛け声。
馬の嘶き。
どこかで鍋の蓋が鳴る音。
昼前の本営には、戦いとは違う種類の騒がしさが満ちていた。
「縮地」
不意に、オルドが言った。
トウジは顔を向ける。
「昨夜のやつ」
「……はい」
「初めて使ったって?」
「あれ、縮地って名前が付いてるんですね。気づいたら目の前に魔物で、ビックリしました」
オルドの手が一瞬だけ止まる。
すぐにまた、布が刃を撫で始めた。
「馬も」
「乗れちゃいましたね」
トウジは苦笑した。
「乗ったこと、なかったはずなんですけど」
言葉にしてから、自分でも妙な気分になる。
「なんか……体が覚えてた、みたいで」
「マジかよ」
オルドが鼻を鳴らす。
だが、トウジの胸の内には別の違和感が残っていた。
覚えていた――違う。考えるより先に身体が動いていた。
昨夜の戦いもそうだった。
「そういや、王都への帰り、馬貸してくれるらしいぞ」
「へぇ」
「その方が箔がついていいらしい」
「ここに来るときは徒歩でしたから、かなり出世しましたかね?」
「違いねぇ」
二人して、へへへ、と少し品のない笑い声を漏らす。
その軽さが、ありがたかった。
少しだけ、胸の重さが薄れる。
けれど。
「で、ありゃなんだ?」
次の一言で、トウジの視線が落ちる。
左腕。
「お前、あれが瘴気だったって、わかってる?」
「……みたいですね……」
「なんであんなことができる?」
「……わかりません」
それしか言えなかった。
わからない。
本当に。
「自分の中から溢れた黒い靄、までは覚えているんですが……」
それが魔物の瘴気へ食らいつき、喰らい、飲み込んでいった。
「……その後のことは……」
ただ守りたかった。母娘を。あの場にいた全員を。
……それだけは、確かだ。
「ったくよぉ……途中、飛んでんのか」
オルドが低く呟き、油を一滴、刃へ落とす。
光を受けて、薄く艶が走った。
「……あの、オルドさん……」
「この剣な」
トウジは言葉を飲み込んだ。
「戦場に出るようになったガキの頃から、ずーっとこの剣一本でやってきてるンだ」
トウジは黙って聞く。
「巨人族だからってんじゃなくてよ、扱いが粗ぇからすぐ潰れると思ってた」
鼻を鳴らす。
「他の奴らは何本も使い潰してんのによ。一体どういうことになってんだろうな?」
そこで初めて、オルドが顔を上げた。
傷だらけの、それでも整った顔。
まっすぐにこちらを見ている。
「使い方……間違ってなきゃ、なんとかなんだよ」
短い沈黙。
その言葉が、胸の奥へ静かに沈んでいく。
まるで剣の話ではないみたいだった。
オルドはまた視線を落とし、刃を拭き続ける。
トウジはしばらく何も言えなかった。
胸の奥が詰まる。
この人はどうして。
言葉遣いは乱暴で。
行動も豪快で。
なのに、どうしてこんなにも優しいのか。
「……オルドさん」
「あ?」
「新しい剣、買ってあげましょうか?」
オルドの手が止まった。
まじまじとトウジを見る。
その目に、わかってねーのか? と書いてある気がした。
だが次の瞬間。
「王宮の宝物庫によ」
「はい?」
「技物の剣があるってよ。破邪の剣とかってすっげー有名なやつ」
真顔だった。
「おめーがよ、『魔物首魁討伐の恩賞に賜りたい』っつーたら、くれんじゃねぇか?」
しかもわざわざトウジの声真似付きだ。
妙に似ていて腹が立つ。
「そんなことしたらエストに殺されますよ!」
「……だろーなぁ。へへへ、それは残念」
オルドが笑う。
低く、喉の奥で転がるような笑い声。
それにつられて、トウジも笑ってしまう。
さっきまでの重苦しさが、少しだけほどけた。
「オルドさん」
「ん?」
「その剣、いつまで持つんですかね?」
「んなこったぁ、わかんねぇよ」
「でも……間違いさえしなければ、これからもずーっと……」
オルドの手が止まる。
剣を立て、表と裏を検分する。
陽の光が刃を細く走った。
「……ま、こんなもんか」
そう独りごちて、新しい布を取り出し、剣を丁寧に包み始める。
戦場では剥き出しで背負われる剣も、こうして休ませるときは驚くほど丁寧だ。
「よっしゃ。腹が減った、飯食おうや」
立ち上がる。
その大きな手が、トウジの腕を引き上げた。
力強い。
けれど優しい。
そして、ぽん、と頭を軽く叩く。
「肩の力抜きな、トウジ」
オルドは背を向けたまま言う。
「そんときゃそんときで、なんとかするさ」
ぶっきらぼうな声。
だが、その背中はどこまでも大きかった。
真新しい布に包まれた剣を肩に担ぎ、さっさと歩き出す。
その背を見つめながら、トウジは小さく息を吐いた。
胸の奥にあった重さが、少しだけ軽くなる。
なんとかなる。
その言葉に根拠なんてない。
でも、オルドが言うと、本当にそう思えてしまう。
どこまでも不器用で、どこまでも優しい。
大きな背中が、昼の陽の中でゆっくり揺れていた。