もう一度めぐり逢えたら   作:つま先のアイドル

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もう一度めぐり逢えたら #1

 石造りの静謐な部屋に、トントンとノックの音が響いた。

 連綿と続いてきた報告書の束も、あと数ページというところだった。ネルは書き物机から目を上げ、「どうぞ」と心もち大きめに声を上げ、扉の上から二十センチ辺りのところを見た。ノックの主はわかっている。

「お疲れ」

 ネルの視線の先に、物腰の柔らかい笑顔が現れた。

「フェイト」

 ネルは、緊張していたわけでもないのにほっとして、ふっと体の力を抜いた。

「そっちはもう終わったのかい?」

「うん。もう帰れるよ」

 フェイトは片手に持っていたマグカップの取っ手を、ネルに向けて差し出した。

「はい。お待ち遠さま」

 マグカップの中に、コーヒーとミルクが泡立ってやわらかくとけ合っている。

「フフ。ありがとう」

 ネルは少し笑って、温かいマグカップに口をつけた。優しい味がする。フェイトがくれる、仕事終わりのご褒美だ。

「こっちも、この報告書を片付け終わったらすぐ帰れるから待ってな」

 ネルはあと数ページの紙片をペラペラとめくり、フェイトに指し示した。

「うん。わかった」

 フェイトはいつものように応接セットから椅子を取り出してきて、背もたれを前にしてネルの斜め後ろに座る。

 ネルは報告書に目線を戻しながら、心もち急ぎめに報告書に目を通した。

 このところ、アーリグリフとの国交は実に平穏で、グリーテンからの不穏な動きも鎮静化している。サンマイト方面は相変わらず平和だ。シーハーツ国内の問題もあらかた片付いて、今は戦争で被った損失からの復興に向けた対策が最優先だ。

 光牙師団『光』が牽引するアリアスの再建計画が目下のところ人々の希望だった。国境の河岸の村はアーリグリフによって戦火に焼かれたが、本来は農産物の豊かな平和で素朴な町だった。人々が本来の町の暮らしを思い出し、海の幸や川の幸の流通を正常化することができれば、村も元の顔を取り戻すに違いなかった。

 ネルは手早く一番最後の欄にサインをしながら、どことなくうなじや頬に視線を感じて、くすぐったさを抑えられなかった。

「フェイト……」

「ん?」

「……見すぎだよ」

 フェイトは斜め後ろで頭を搔くと、椅子の背もたれを抱いた。

「バレてた?」

「バレてたっていうか……そもそも体勢がもう近すぎるっていうか……」

「だって、可愛い彼女を見つめて何が悪いのさ」

 年下の恋人は、急に甘すぎる言葉を大真面目に言うので、ネルは対処に困ってしまう。せめてものお返しに横顔で睨みつけると、フェイトは嬉しそうに笑った。

「もう、あんたは……」

 ネルは、報告書をファイルにまとめると、サイドボードに収めた。それから疲れた指先を温めるようにマグカップを包み込む。

「終わり?」

「うん」

 するとフェイトは待ち構えていたように両手を伸ばしてくる。ネルはマグカップの中身を一口。コーヒーの苦味に甘いミルクが舌の上でとろけた。そんなネルの身体をフェイトは丸で囲むように抱きしめる。

「ん、こぼれる」

「しっかり飲んで」

 フェイトは椅子を斜めに倒し、ネルの耳にキスをした。ネルは敏感に反応して、思わずマグカップがちゃぷりと鳴る。危うく波打つところだったカプチーノが、ギリギリのところで泡立ったミルクの粘りに押しとどめられた。

「フェ、フェイト〜〜〜!」

「ごめん、ごめん」

 フェイトは笑ってネルの横髪を耳にかけると、手を背もたれに戻してステイのポーズをした。ネルは熱くなる自分の耳の体温に驚いていた。きっと真っ赤に違いない。とんだご褒美タイムだ。

 それでも、仕事終わりのネルのささやかな幸せな時間だった。フェイトはいつも仕事が終わるとネルを何らかの形で癒してくれる。その気持ちはネルにも伝わっていたのだった。

 ふたりはシランド城からの帰り道、今日あったことをあれこれ話していた。

「今日は一日、設計図を書いてて疲れたよ」

 フェイトはため息をこぼすが、最近は研究所に篭ってシーハーツのためにオーバーテクノロジーにならない範囲での新開発を進めていることを、ネルは知っている。

 ネルはつないだ手を、ポンポンと太ももに当ててフェイトを讃えた。

「あんたには感謝してもし足りないよ」

「なんだよ、水臭いな」

 ふたりはシランドの大通りを東に曲がる。

「だから明日は、身体を動かしたくてさ。アリアスの手伝いに行ってくるよ」

 アリアスの再建計画のことだ。

 フェイトがそう言うと、ネルは少し寂しさを覚えた。ということは明日のご褒美タイムも無しか。ネルの悄然とした様子に気づいたのか、フェイトが肩を添わせた。

「大丈夫、夜には帰ってくるからさ」

「本当だろうね」

「当たり前だろ?」

 我ながら重い彼女だと思いながら、フェイトと片時も離れたくない思いを飲み込むように、ネルはフェイトの手を握り直した。今ではこの手ごたえがないと、どうしていいかわからなくなる。

 フェイトとネルのふたりの家が目の前に迫ってきた。

 城下で暮らすことを女王陛下が許可してくれたのは、ひとえにフェイトの功績があってのことだろう、とネルは思っていた。基本的に軍人であっても城外で暮らすことは許されているが、幹部であるネルは別だ。しかし、フェイトは陛下に直談判して、平和であること、できるだけ近くであることを条件にこの家を勝ち取ったのだ。

 ふたりだけの小さな城。フェイトが鍵を開けて、玄関に入る。なんともほっとした安堵感がネルの胸を満たす。こんな平穏な生活を自分が享受していいのかと迷いもする。その度にフェイトがネルの手を引くのだった。

「ほら、ボーッとしてないで早く入って」

「え、ああ」

 フェイトがネルを引っぱり入れ、後ろ手に扉を閉める。

「あー、帰ってきたぁ」

 フェイトがネルの手を連れたまま、伸びをする。その様子が可笑しくて、ネルは笑った。

 ふいにフェイトと目が合う。フェイトの眼が、うす昏い玄関のどこかの反射でキラリと輝く。フェイトの手が頬に伸びてきて、優しくネルの頬を触った。ネルは少し目を細める。フェイトの身体が向き合って近づいてきた。ネルは少し背筋を伸ばしてやわらかく受け入れる。ふたりは片手を繋いだまま、欲のままにキスをした。甘い果実のように舌が潤んでいた。なめらかなその感触を、互いに息もつかないくらい確かめあっていた。いつのまにかネルの背中が玄関の扉に押し付けられていて、フェイトの指先が玄関窓の枠に思わせぶりに掛かっていた。ふたりは一日分の充電をするかのように、深いキスを繰り返した。

 やがて、これ以上は身体が疼きすぎてしまうというように、ネルが笑い声のような息を漏らした。

「フェイト……」

 フェイトはいじわるをするようにネルの頬にキスをし、マフラーをめくって首筋にキスをした。

「フェイト!」

 今度は本当に笑い声だった。くすぐったくて、どうしようもなく身体が反応してしまう。少し横に避けると、フェイトも笑っていた。今ここでそんな気分になるわけにはいかなかった。

「まずは夕飯だよ」

「ちぇっ」

 ネルが上目遣いに見るとフェイトは舌を打つ真似をしたが、ネルの乱れた横髪をつまんで直してくれた。それはとても愛のある仕草だった。

 ふたりは装備を脱ぐと、キッチンに立って料理を作り始めた。今日はフェイトがメインを作ると言ってシチューを、ネルはサラダをシャキシャキとちぎったりしていた。

 それから一輪挿しの乗った食卓を共に囲み、おいしいと言い合い、笑い合った。

 食後はふたりで風呂に入り、中二階の天窓でまたおしゃべりをして、やがて同じベッドで眠った。

 翌朝早くに、フェイトはアリアスへ出向いて行った。そっとネルを起こさないように──。

 

 翌日も、ネルはきりきり働いた。情勢は平和でも、何だかんだとやることはある。一日中働いて、気がつけばもう夕方近くになっていた。

 女王陛下やラッセル執政官との会談を終えて、そろそろ自室へ引き上げようと水の回廊を歩いている時のことだった。自室の前で光牙師団の部下が右往左往しているのに気づいた。顔色が真っ青で、肩で息をしている。

 これは何かあったに違いないと、ネルは即座に当たりをつけた。早足でそちらへ向かう。

「何かあったのかい?」

 部下は、足音もなく突然現れたネルにビクーッと肩を震わせたが、即座に敬礼は忘れなかった。部下は緊張したように居住まいを正しながら、口が上手く回らないようにパクパクさせていた。

「ネル様! フェイト様が……」

 どろりと嫌な予感が広がる

「フェイトが、なんなんだい」

「至急アリアスへお向かいください! フェイト様が重体です!」

「何だって!?」

 フェイトが重体。

 重体──意識不明の状態。生死に関わる状態。

 フェイトが、死んでしまうかもしれない……?

 ネルはその場にくずれ落ちそうになるのを何とか踏みとどまった。

「……一体、何があったんだい?」

 どうにか喉から声を絞り出す。その喉はカラカラで、急に干からびたように思えた。

「倒壊した家屋の中にいた模様です。一緒にリーク家の男児がおりましたが、男児はほぼ無傷で助け出されました。恐らく、男児をかばって下敷きになったものかと」

 ネルは唇を噛んだ。目の前がクラクラする。急いでフェイトの元まで行かないといけない。

「わかった、ありがとう」

「陛下には私から報告しておきます」

 部下は気遣わしそうに頭を下げて、階段へ向かった。

 ネルは、ズキズキ痛む頭を振って走り出した。足が上手く動かない。身体が震える。

 ネルは水の回廊をすべるように走りながら、たった今聞いたことは嘘だと思っていた。きっと誤報に違いない。

 門番の間をくぐり抜け、シランドの町に飛び出す。

 嘘だ、そんなはずはない。フェイトに何かあるわけがない。

 きっと人違いだ。今頃何事もなかったようにアリアスで屋根を叩いているに違いない。

 リフレインのようにめちゃくちゃなことを思いながら、走り出す足を止めることもなかった。

 どうか、違うと言ってほしい。頼むから、フェイトを連れて行かないでほしい。フェイトだけは──

 そう思うと、足が前へ前へと気が急いだ。

 ムーンリットを抜け、イリスの野へ飛び出す。

 ネルは全速力で走り続けた。

 

 日も暮れそうになって、アリアスに着く頃には、もつれた足も精神もボロボロだった。

「ネル!」

 門の前でクレアが待ち構えていた。その心配そうな顔を見て、ああ本当のことだったんだ、と寒気が止まらなかった。泣きそうな気持ちになる。

「クレア……」

「こっちよ」

 クレアはネルの気持ちをわかっているかのように、すぐに手を引いた。十人近くの部下や住民が、遠巻きにネルを見ている。フェイトは領主邸の二階に運ばれているらしかった。

「クレア、一体どういうことなんだい。一体何があって……」

「意識がないの」

 クレアに言われると、やはりぞくりとした。

 ネルとクレアは領主邸の階段を上がりながら、知らず互いに手を握りあっていた。クレアの手がないと、ネルはもう階段も上がれないかのように足が震えていた。

 部屋に入ると、二台のベッドのうち左の方にフェイトは寝かされていた。

「フェイト……!」

 ネルはかじりつくように駆け寄ると、すぐさまフェイトの顔を見る。顔色が、真っ青というよりも白くて、いつもの健康的な肌色のフェイトはどこにもいないようだった。その瞼は静かに閉じられて、身体は胸まで布団が掛けられているが、ぴくりとも動いていなかった。頭には包帯が巻かれ、ところどころに血が滲んでいる。

「怪我は大丈夫よ。もう医師を呼んで治してもらったわ。でも、頭を打っていて意識が戻らないの」

 フェイトの美しい青髪に、赤い血がところどころこびりついていた。どれほど強く打ったのだろう。こんなに血が乾くまでここにたどり着けなかった自分に腹が立った。

「フェイト……」

 ネルは声が震えるのを抑えられなかった。こんな時にそばにいられなかった自分はなんてばかなんだろう。

 意味は無いと思いながらフェイトの呼吸を確認する。一応規則正しい呼吸をしているので、そのことに少しばかりほっとした。

 ネルはフェイトの腕をさすり、手を握り、何度も声をかけ続けた。クレアはそんなネルの肩を抱く。しかしフェイトは一晩中、目を覚まさなかった。

 

 ネルには永遠にも感じられる時間だった。

 このまま目が覚めないかもしれない。そう思うとぞっとした。クレアに止められても、フェイトのそばを離れる気にはなれなかった。

 爽やかな朝の光が、フェイトの顔を照らしている。血のついた包帯は取り外し、髪についた血も昨日のうちに拭いておいた。しかし相変わらず、フェイトの目は閉じられて動かなかった。

 どうして目を覚まさないのだろう。フェイトは自分にとってかけがえのない存在なのに。フェイトを失ったら、一体自分はどうしたらいいんだろう。

 ネルは一晩中、フェイトの顔を穴が空くほど見つめ続けた。しかし彼が目を覚ますことはなかった。

 ネルは隣のベッドに座り、よれよれの身体で、がくりと項垂れる。

 いつかも、こんな気持ちになったことがあることをふいに思い出した。戦争中、フェイトが初めてディストラクションの能力に目覚めた時だ。あの時も意識を失い、死んだように眠り続けるフェイトを前に、自分は何もできなかった。ネルは自分の無力さを呪った。

「フェイト……」

 やはり自分はすごく疲れている。神経がすり切れそうだ。やはり誰かに少し代わってもらおうか。そう思いかけていた頃だった。

「う……ん……」

 フェイトが初めて身じろぎした。ネルは勢いよくベッドから立つ。フェイトの睫毛が少し揺れている。

「フェイト、フェイト!?」

 ネルは前のめりにフェイトのベッドに身を乗り出した。

 フェイトの顔色が戻っている。唇がほのかに赤い色に染まっている。

「フェイト、大丈夫かい!? フェイト!」

 ネルは懸命に声をかけ続けた。

 フェイトの瞼がゆっくりと開く。目の焦点は合っていなかったが、意識は戻ったと確認できた。

 ネルは部屋の扉を開いて叫んだ。

「誰か! クレア! 医者を呼んでくれないかい!? フェイトが目を覚ました!」

 フェイトはその間も、朦朧としたように目を閉じたり、開けたりしていた。

 それからしばらくして、クレアと医師が足早に二階へ上がってきた。

 医師は冷静に、

「ネル様、少し離れてください。容態を確認いたします」

 と、ネルをフェイトのベッドから遠ざけた。医師がベッドの傍らに座る。

 ネルはクレアのそばに寄り、フェイトを見守った。

「きっと大丈夫よ」

 クレアはネルの肩を抱き、優しく励ましたが、ネルはまだわからないとハラハラ見守っていた。

 医師は瞳孔を確認したり、脈を測ったりした。医師は熟達した手さばきで、施術をかけ、フェイトに処置をしていた。やがて、フェイトはしっかりと目を開けた。

「ん……ここは……?」

 やがてフェイトがかすれた声を出した。

 その時ネルは、久しぶりに聞くフェイトの声にどれだけ安心したかわからなかった。思わず安堵のため息が漏れる口に、手を当てていた。

 よかった……フェイトの意識が戻った。生きている。それだけでどんなに嬉しいかわからない。

 しかし医師は少し眉をひそめて、フェイトに訊ねた。

「ここがどこか、わかりますか」

 フェイトはゆっくりと起き上がった。医師があわてて支えていたが、フェイトは部屋をぐるりと見回して、

「……わかりません」

 と答えた。ネルは「えっ」と思った。いくら時間が経ったと言っても、ここは旅のあいだにフェイト自身が何度か寝泊まりしたこともある部屋だ。そんなに大きく変わった様子もない。なんだかおかしいと思い、ネルはフェイトに近づいた。

「フェイト、ここがどこか、本当にわからないのかい?」

 するとフェイトはネルを見て、不思議そうにまばたきをして、言った。

「──どうして僕の名前を?」

 室内がしんと静まり返った。

 何を言っているのだろう? 何かの冗談なのだろうか。

 ネルが思わず黙っていると、医師が重ねて問いかけた。

「目の前の方に、見覚えはありますか」

 フェイトは怪訝そうにネルを見つめて、きっぱりと言った。

「……ありません。知らない方です」

 眩暈がした。

 足元がグラグラとくずれていく。ネルは膝の力が抜けて、思わず尻もちをついた。

「ネル!」

 クレアが叫ぶ声も、もはや耳に入らなかった。

 ベッドの上で、丸い瞳が当惑したようにネルを見ていた。

 

 

 夕立ちが降っていた。

 ずいぶん眠っていたようだ。あれから医師とクレアに引きずられるように睡眠をうながされ、フェイトとは別の寝室で仮眠をとっていた。

 ──記憶障害があるようです。

 ネルは、天井に反射した雨の影を見ていた。

 ──脳機能障害は外傷によっても発症します。おそらく一時的なものだとは思いますが、本人にとって重要な出来事や、意味のある期間の記憶が抜け落ちてしまうことがあるのです。

 ネルはかすかに頭痛を覚え、布団の中に入れていた手をのろのろと引き出し、こめかみを押さえた。

 ──運が良ければ自然に回復します。数日から数ヶ月のうちに記憶が戻ることもありますから、とにかく今は安静にしていることです。普段通りの生活を送っていると不意に記憶が戻ることも多いのです。

 ──戻らなかったら……?

 フェイトは、ネルのことをまったく覚えていなかった。それどころか、医師のことも、クレアのことも。アリアスのことも、シーハーツのことすら忘れてしまったようだ。

 戸惑ったような眼が、ネルは胸に焼きついてたまらない気持ちになった。いつものフェイトなどどこにもいなかった。あそこにいたのは、未開惑星に突然迷い込んでしまった繊細な青年だった。まるで出会った頃のフェイトのような。それよりもさらに不安そうだった。

 意識は戻ったものの、しばらく安静が必要とのことでフェイトの寝室を追い出されてしまった。

 ネルはフェイトのいる寝室側の壁に手を伸ばした。壁紙のやわらかい感触がそれを受け止める。

 生きていてくれてよかった。

 大半ではそう思いながら、少しだけ手放しにそう思えないネルが泣き出しそうな顔をしていた。

 何かを探すような瞳に、ネルは思いきって訊いてみたのだった。

『──クリフのことを探しているのかい?』

『……どうしてその名前を?』

 クリフのことは覚えていた。全部を忘れたわけじゃない。よかった、と思いながら同時にクリフを羨ましいと思ってしまった。羨ましくてたまらない……フェイトに覚えてもらえていることが。忘れられた瞳で、怪訝そうに見られないことが。

 ネルは腕を瞼の上に置いて、泣きそうな波が過ぎ去るのを待った。

 いつものように優しい笑顔で、冗談だよと笑うフェイトはどこにもいない。それが何よりも寂しくてたまらなかった。

 一番つらいのはフェイトだ、とネルは思った。少し訊いただけだが、覚えていることと、覚えていないことがある。それなら彼の内心でも、混乱が起きていることだろう。もし、エリクールの記憶が失われてしまっているのだとしたら、彼はふたたびたったひとりで宇宙を彷徨う男の子だ。きっと今頃、不安でたまらない気持ちになっているに違いない。そしてもしかしたら、彼がいつか言っていた未開惑星保護条約のことを気にして、彼はひとり口を閉ざしてしまうかもしれない。

 二人きりで話をする必要がある、とネルは思った。

 夕立ちはとうに止んで、夜の闇が忍び寄っていた。

 

 寝室の扉をノックすると、中からフェイトが「はい」と返事をした。それだけでも少しほっとする。

「入ってもいいかい?」

「……どうぞ」

 フェイトはベッドに座って、手を組んでいた。ネルが部屋に入ると、少し背筋を伸ばした。

「体調はどうだい?」

「悪くはありません」

 ネルは後ろ手に扉を閉めると、手に持った盆をベッドのサイドテーブルに置いた。

「お腹、空いてないかい? いきなり食べると胃に悪いから、少しだけ持ってきたけど、おかわりはあるよ」

「……ありがとうございます」

 フェイトは遠慮がちに頭を下げた。その様子がなんだか懐かしくて涙が出そうになる。ああ、本当に記憶がないんだと思った。まるで以前のフェイトに戻ったようだ。

 盆の上には魚介のスープにバターパン、そら豆に塩を振ったものと、オレンジが二切れ並んでいた。

 ネルは隣のベッドの、少しフェイトの向かいからずらして足もと側に座った。フェイトが意を決したように手をぎゅっと握りしめる。

「ネルさん……でしたよね」

 ああ、いつかしたやり取りだ、と思った。

「……ああ」

「本当なんですか、僕が記憶を失っているって……」

「自覚はないのかい? どこまで覚えている?」

「どこまでって……」

 フェイトは難しそうに眉をひそめた。どこまで話していいのか、逡巡しているのだろう。ネルもまた疑問に思っていた。どこまで覚えているのだろう。

「……僕は」

 フェイトは話しにくそうに口を開いた。

「……遠いところから来たんです。その……クリフと一緒に。そこまでは覚えているんですけど、そこから長い夢を見ていたように曖昧で……」

 やはりエリクールの記憶がごっそり抜け落ちているのか。遠いところだと誤魔化した場所をネルも知っていることを、フェイトは知らない。

「そうだ、クリフはどこにいるんですか?」

「クリフはここにはいないよ」

「じゃあどこに……」

「遠いところさ」

 フェイトの眼にわずかに警戒の色が走った。こちらが何かしたとでも思ったのだろう。いっそ全部話してしまいたいと思った。しかし、今の弱ったフェイトにどこまで耐えられるのだろうか。

「あなたは一体……何を知っているんですか」

 フェイトの指の爪の先が、強く握りしめて白くなった。こんなに警戒されるとは、さすがに悲しくなってしまう。

 ネルはゆっくりと首を振った。

「心配しなくていい。私とクリフとあんたは、一緒に旅をしていたんだ」

「……旅?」

「ああ……」

 ネルは、フェイトの訝しそうな眼をまっすぐ見据えた。

「あんたたちには、国を救ってもらった。あんたが今いる、この国をね」

 ネルが両手を広げると、フェイトは当惑した表情でネルを見て、暗い窓の外を見た。

「国を……!? それって……」

 未開惑星保護条約違反じゃないか。フェイトの心の声が聞こえるように、フェイトはあからさまに狼狽した。けれど、どこまで話したものかと迷うように、またすぐ黙ってしまう。

 ネルはため息をひとつこぼして言った。

「未開惑星保護条約のことだけど、世界はそれどころじゃなくなってね──」

「何故それを──!?」

 フェイトは弾かれたようにネルを見た。

 やはり、未開惑星保護条約のことを知らないと思っている。

 ネルはついに腹を決めて話し始めた。三人でした旅の話や、バンデーンの襲来、戦争中にフェイトがディストラクションに目覚めたこと、その能力が父親の研究チームによって遺伝子改造されたものだったこと、父親が何故そうしたのか、FD空間の存在やスフィア社との関係、創造主との戦いに至るまで、ネルは訥々と話した。

 フェイトはいきなり聞かされる信じがたい真実、聞きたくない現実にすっかり顔は青ざめて、ぶつぶつと否定する言葉を繰り返していた。とりわけ、父親の死の話になると、フェイトは激しく取り乱した。

「そんなっ……ウソだ、そんな……」

 がくりと項垂れるフェイトを見ると、ネルは一度ならず二度までもつらい現実を突きつけてしまっていることに胸が強く痛んだ。

「すまないね……でもそれが、あんたの辿ってきた宿命なんだよ」

「宿命……? 何を言っているのかわからない……」

 フェイトは組んだ手に額をつけて、すっかり力を失っていた。やはりすべて話すのは早まったか。ネルはそう思ったが、話してしまったものは仕方ない。

 だが、フェイトは拒絶するように、身体の向きをそらした。

「もう、聞きたくない」

「フェイト……」

「そっとしておいてください」

 フェイトは横を向いたまま、もう話したくないというように右手を軽く上げた。それは、フェイトのはっきりとした拒絶だった。ネルは愛する恋人だった人のその姿にショックを受けた。胸がズキズキと痛んだ。

「……わかった」

 ネルは立ち上がると、部屋を出ていった。

 盆の上のスープはすっかり冷めていた。

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