もう一度めぐり逢えたら   作:つま先のアイドル

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もう一度めぐり逢えたら #2

 泥のように眠っていた。身体よりも心が疲れていた。

 夢を見たのか、見ていないのかわからないうつろな状態で、ネルの眠りは破れた。

 部屋の外が騒がしい。窓からはもう朝の光が部屋の中を照らしていた。

 ネルは重い頭をなんとか持ち上げて起き上がる。いつも朝はきっちり起きるのに、今の自分はボロボロの状態だと思った。

 声は廊下からきこえていた。ふらふらとベッドを立ち上がって扉まで何とか歩いていった。扉を開けると、すぐに明るい声が耳に飛び込んできた。

「フェイト様、本当に記憶を失われたんですねぇ」

「何だかぁ、別人みたいですぅ〜」

 タイネーブとファリンだ。二人はフェイトの寝室の扉のところに立って、中を覗いている。

「ということは、お二人とも僕のことを知ってくれていたんですね」

 フェイトの明るい声が聞こえる。

「それはもう、もっちろん」

「フェイト様のぉ、あんなことやこ〜んなことまでぇ、知ってましたよぉ〜」

「ええっ!」

「こら、タイネーブ、ファリン!」

 寝ぐせだらけのネルが、二人を叱りつける。

「フェイトをからかうんじゃないよ。記憶がなくて大変なんだから」

 タイネーブとファリンは直立して、敬礼した。

「ネル様」

「すみませんですぅ〜、ついつい〜」

 するとフェイトは笑って、

「いいんですよ。少し気が楽になりましたから」

 一晩寝て気持ちが楽になったのか、二人と話して楽になったのか、どこかすっきりした顔をしている。

「フェイト。こちらはタイネーブとファリン。私の直属の部下だよ」

「はい。さっき聞きました」

「あっネル様、フェイト様も。下で朝食の用意が出来ていると、クレア様がお呼びです」

「みんなでぇ〜、一緒に食べましょう〜」

 ネルはフェイトを見た。フェイトはその視線に気づいて、頷いた。

「……そうですね。一緒に食べましょう」

 部下の能天気な雰囲気が、フェイトの心をとかしてくれたようだった。

 朝日がよく入るダイニングに、ネルとフェイト、タイネーブにファリン、クレアにクレアの部下数人と大所帯がテーブルを囲んだ。

 パンを何種類かと、目玉焼きに焼いたウインナー、野菜のスープ、それに海老のサラダがボウルに山盛りにしてある。

「クレア、朝食を用意してくれてありがとう」

「いいのよ。用意したのは部下だけどね」

「あっタイネーブ〜、食パン半分も切ったらぁ、ネル様たちの分が無くなりますぅ〜!」

「ふがっ、どうしよファリン、もう食べちゃったよ!」

「大丈夫ですよ、念のためにまだありますから……」

 ヘタに家庭的で貧乏くじの部下が、あわてて食パンをもう一斤持ってくる。

「クレア、すまないけどバターを取ってくれないかい」

「はい、どうぞ。あっネル、こっちにハムもあるわよ」

「ファリン、もう食べ終わっちゃったよ……おかわりあるかな?」

「タイネーブは早すぎだし食べすぎですぅ〜」

「スープならまだたくさんありますよ……」

 突然のにぎやかな食卓の雰囲気に気圧されてないか、ネルは隣の席のフェイトを盗み見ると、フェイトは丁寧な仕草で目玉焼きを食べながら、クレアの部下と談笑していた。心配にはまったく及ばないようだ。

 ネルはフェイトのほがらかな笑い声を聞きながら、何故だかいたたまれない気持ちになった。昨夜、ギクシャクして終わった自分たちとは違って、みんなは記憶を失ったフェイトを変わらず迎え入れてあげられる。フェイトに記憶があろうとなかろうと、あっけらかんと話しているみんながとても眩しかった。

 ネルは、クロワッサンを真ん中からちぎった。隣にいる‘‘恋人’’に話しかけられなかった。ただ彼が笑って話す声を聞いていた。

 

 二階の寝室に戻って身支度をしていると、クレアが入ってきた。

「なんでフェイトさんと話をしないの」

 クレアは怒ったように眉を釣り上げているので、ネルは虚を突かれた。

「なんでって……」

「目の前で見てておかしかったわよ。目も合わせないじゃない」

「仕方ないじゃないか。フェイトは記憶がない……」

「言い訳しないで」

 クレアがピシャリと言うので、ネルは思わず下を向いた。こういう時、クレアには何も言い返せない。

「あんなに幸せそうなふたりだったじゃない。どうしてこうなるの」

 幸せそう。その言葉は今朝みたいなささやかな朝食のことを言うような気がして、ネルは自嘲するように首を振った。どこにもいない。自分の恋人であったフェイトは、今はもうどこにもなくて、喪失感だけがあった。

「もともと夢みたいな話だったんだよ、私とフェイトの仲は……星の王子様が現れて幸せに暮らしましたなんて、そんな都合の良いおとぎ話、少しのあいだ夢を見られただけでも贅沢だったのさ……」

「そんな言い方、フェイトさんが聞いたら一番怒るんじゃないの」

 怒るフェイトはどこにもいない……。ネルはただその事実だけが寂しかった。

『そっとしておいてください』

 フェイトの拒絶する姿がよみがえる。

「とにかく、今のままじゃだめよ。どうするか、ちゃんと考えなさい」

 クレアはそう言い置いて、部屋を出ていった。

 

 意を決してふたたびフェイトの寝室の扉を叩いたのは、昼も近くなってからだった。

 フェイトは扉を開けるなり、「よかった」と笑顔を見せたので、ネルは思わずたじろいだ。

 チェスの並んだテーブルセットに向かい合わせに座ると、フェイトはまず頭を下げた。

「昨日はあんなことを言ってすみませんでした」

 予想外のことを言われたので、ネルは驚いた。

「あんたが謝ることじゃないんだよ。一気に聞かせて混乱させた私が悪いんだから」

「そんなこと、ないですよ。僕も気になっていたし、聞かせてもらってよかった。正直すぐには信じられなかったけど、あなたが嘘をついているとも思えない」

 まっすぐな眼で言われると、戸惑ってしまう。ネルは思わず、チェスのポーンを見つめた。指をぎゅっと握りしめる。

「ねぇ、ネルさん」

 フェイトが上目遣いで探るように語りかけてくる。

「……なんだい」

 フェイトは少し迷っているようだったが、やがて意を決したように問いかけた。

「あなたと僕の関係は、何なんですか?」

「えっ?」

 また予想外のことを訊かれて、ネルはどう答えたものかと目が泳いだ。

「……どうして、そんなことを訊くんだい?」

「他の皆さんと、あなたは少し、違って見えるから……」

 フェイトも迷いながら、訊いているようだ。少し眼が揺らいでいる。

「それは……あんたと一緒に旅をしていたからじゃないかい? それに──」

「……それに?」

 ネルはしばらく口ごもる。恋人だなんて、言えるはずがなかった。

「……あんたには、私を救ってもらった」

 全部は言えなかったが、これも本当のことだ。

 ネルの答えが、フェイトの納得のいくものだったのかわからなかったが、フェイトは「そうですか……」と頷いたきり黙ってしまった。

 ネルが口を開く。

「……一晩経って、何か思い出したことはあるかい?」

「いえ、残念ながら何も……。話に聞いたことは理解できるんですが、記憶としては空白で」

「あんたは、ここに来る前、クリフと旅をしたり地球にいた頃のことは覚えているんだろう?」

「ええ。旅と言っても、クリフとは出会ったばかりでしたけど」

「だったらまだ救いがある。あんたは人生のすべてを忘れたわけじゃない」

「えっ……?」

 フェイトは不思議そうにネルを見た。ネルはフェイトを見据えて言う。

「あんたの『通信機』を貸してくれないかい?」

 

 しばらくの通信音が鳴って、クリフが映像に出てきたのは数分後のことだった。ネルはふたたび自分の寝室に篭もって、通信機を見守っていた。

『おっ、わりぃわりぃ。今ちょうど仕事が終わったところでよ』

 目の前でクリフの立体映像がたちあがり、手を振ってみせる。今まで何度かフェイトに使わせてもらったことがあるが、ネルは毎回新鮮に驚いてしまう。

『ネルじゃねぇか。珍しいな』

「クリフ。忙しいところ悪いね」

『いいっていいって。で、どうした? 何かあったんだろ?』

 クリフにまで見抜かれているので、ネルは本当に自分が情けなくなる。

「実は──」

 ネルはフェイトが記憶を失ったこと、エリクールでの日々を覚えていないこと、そして彼が元の世界に戻れないかどうかを、クリフに相談した。もともと住んでいた、彼の覚えている家族や幼馴染のいる場所に。

 だがクリフは、それを聞くなり顔をしかめた。

『お前なぁ……それでいいワケねぇだろ。暗ぇ顔して何を言ってくるのかと思ったらよ』

「でも、それが一番丸く収まると思うんだ」

『収まるかよ。お前が一番つらそうじゃねぇか』

「私はいいんだよ。それより見知らぬ土地で見知らぬ人に囲まれて過ごすフェイトの気持ちを考えると……」

『そんなの思い出しゃいいだろ。だいたい、お前らの積み重ねてきた日々ってのはそんなモンだったのか?』

「そういうわけじゃないけど……」

 ネルは思わず口ごもる。確かに、積み重ねてきた日々はどこへ行くのだろう。

『忘れられた現実がつらくて逃避したいだけじゃねぇのか?』

「それは……」

『死んだわけじゃねぇんだ。そこにいるんだろ? だったらそばにいてやれよ。アイツがお前にしたようにさ』

「クリフ……」

 ネルは思わずこみ上げるものを飲み込む。忘れていたのは、自分の方だったのかもしれないと思った。

「……ありがとう。腹は決まったよ」

 ネルは、フェイトとの日々を思い出していた。

 

 

 ネルとフェイトは、昼過ぎにアリアスを立った。シランドへ戻ることにしたのだ。普通の日常を送っていれば、記憶を取り戻すことができるかもしれない、という医師の言葉を思い出していた。

 パルミラ平原を歩きながら、ふたりとも数日間寝てばかりだったから無理せずに行こうと話し合った。

「ずっと気になっていたんですけど、この装備って、もしかしてネルさんが……?」

 フェイトは腕や脚のプロテクターを見下ろす。ネルはすっかり忘れていた。

「そうだったね。アーリグリフ城の地下牢で出会った時にあんたに渡したものだ。私も忘れていたよ」

「じゃあ、旅でもずっと使っていたんですね。すごく身体に馴染んでる」

 フェイトはクイクイと身体を動かした。その様子がなんだか嬉しそうで、新鮮に映ってしまう。

 一時期は卑汚の風が吹いてエクスキューショナーが出現していたパルミラ平原も、今はエクスキューショナーの姿が消え、元の動物系の魔物たちがまた戻ってきている。

「少し、戦ってみるかい?」

 ネルが水を向けてみると、フェイトは心なしかわくわくした顔で、

「はい!」

 と頷いた。

 ふたりは大きな亀に向かっていった。ネルは手出しをせず、フェイトは見事な剣さばきで一瞬のうちに倒してしまった。

 フェイトは身体が覚えている自分の力に目を丸くした。

「すごい。今までの僕では考えられないほど戦える」

 ‘‘今までの僕’’はもっとすごいけどね、とネルは内心笑いながら、何匹も倒して帰ってくるフェイトを出迎えた。

「あんたはかなり腕が立つよ。旅のあいだじゅう、誰よりも努力してた」

 ネルが言うと、フェイトは意外そうな顔をしてネルを見た。

「……僕が?」

「ああ。旅の最初の頃はよく、朝方ひとりで剣を振っているあんたを見たものだよ。身体を壊すからやめなって叱ったものだけど、あんたは強くなった。それこそ、国を救えるくらいにね」

「意外だな……」

 フェイトはしげしげと自分の腕を眺めた。自分でも知らない力が知らないうちに流れてくると言っていた。

 ペターニのカフェテラスで少し遅めの昼食をとった。昼下がりの中央広場は人々の往来も緩やかで、まったりした空気が流れていた。

 ネルがオレンジジュースを飲んでいると、フェイトが藪から棒に言った。

「そういえば聞きましたよ。僕とあなたの関係は恋人だって」

 ネルは思いっきりむせてゴホゴホ言った。鼻からオレンジジュースが出てくるかと思った。

「大丈夫ですか?」

「だっ、大丈夫じゃない……一体誰がそんなことを!?」

「クレアさんから聞きました」

「……クレア〜〜〜」

 ネルはアリアスの方角を振り返って睨みつけたが、フェイトは真面目な眼をして、ネルをまっすぐ見た。

「なんで隠してたんですか?」

「か、隠してたわけじゃ……」

「僕がここにいる理由は、あなたなんでしょう?」

 フェイトはパズルが解けたみたいに、右の口角を上げた。

 ネルは本当は記憶が戻っているんじゃないかと疑ったが、怖いので黙っておいた。

 イリスの野を抜け、シランドの町に着いたのは夕方の日が暮れかかった頃のことだった。

 シランドの町並みを見ると、

「綺麗なところだね」

 フェイトは初めて来た時と同じことを言ったので、ネルは笑った。

「だろう? 私たちの自慢の町さ」

 ネルはシランドの大通りを東に抜け、ふたりが暮らしていた家に案内した。

「ここがあんたが暮らしていた家だよ」

「へぇ」

 フェイトはもの珍しそうに小さな家を見上げた。エメラルド色の屋根に、白木の雨戸が開いて白いレースのカーテンと植木鉢の花が覗いている。屋根の上にはバルコニーが立ち、洗濯物を掛ける紐がぶら下がっていた。どこにでもある普通の家だった。しかし、私たちの大切な家だ、とネルは思った。

 ネルは玄関を示すと、

「鍵はあんたが持っているはずさ」

 フェイトははっとしたように懐を探ると、やがてひとつの小さな鍵を取り出した。ネルが頷くと、それを鍵穴に嵌める。ガチャリと音がして、玄関の鍵が開いた。驚いたのはフェイトだ。

「本当に住んでたんだ……」

「だからそう言っているだろう?」

 玄関扉を開けると、懐かしい匂いがした。フェイトは宇宙船に連れ去られた人のようにきょろきょろと中を確かめながらゆっくり、ゆっくりと足を踏み締めながら入っていく。

 短い廊下を抜けると右手にキッチンがあり、目の前には小さな一輪挿しの乗ったダイニングテーブル、その向こうにはリビングがあり、そのまた向こうには中二階に上がる階段が横を向いている。その下には寝室へ続く扉もあった。

 フェイトはゆっくりと足を踏み入れると、ダイニングテーブルの上を見ていた。

「これ……」

 フェイトが何かを取り上げて読んでいるので、ネルが覗き込むと、フェイトがあの日の朝に残していったポストイットだった。

〈先に出るね。今日も気をつけて。愛してるよ〉

 朝食のサンドイッチの横に添えられていたものだ。

「僕の字だ」

 ネルは書いた本人でありながら本人じゃないような人に見られる気恥ずかしさを感じながら、ためつすがめつ眺めているフェイトの横でどうしたらいいかわからず固まっていた。

「信じられない、僕がこんなことを書くなんて……」

 フェイトが口を押さえるので、見るとフェイトの耳が真っ赤に染まっていた。

 あまりに新鮮な反応なので、ネルは驚いた。

 ふたりにしばらく沈黙が訪れた。

 ようやく動揺が落ち着いた頃、ネルが口を開いた。

「フェイトはよく料理を作ってくれてね……私の仕事が終わった時や、先に起きた時。たまに一人で仕事に行く時はこんなふうにポストイットを残してくれた」

「意外だな……自分のことなのに。僕はまったく料理をしないんです」

「ああ。あんたは地球ではまったくしなかった料理を私に振る舞ってくれた」

 ネルは食器棚のコーヒーカップに手を伸ばした。

「中でもあんたの淹れてくれるコーヒーは絶品だった」

「コーヒーを?」

「ああ。朝仕事が始まる前のコーヒーに砂糖ふたかけらとミルクを少々、たまに仕事中のブラックコーヒー、仕事終わりのカプチーノ……あんたはよく私を気遣ってくれた」

 フェイトはじっとネルを見つめた。ネルは少し視線をそらす。フェイトとの日々をあらためて振り返ると、後悔ばかりだ。自分は満足にお礼を言えていただろうか? 自分はどれだけフェイトに返してやっていただろうか?

「……私はあんたに甘えすぎていたよ」

 ネルがぽつりとこぼすと、フェイトはやがてゆるゆると首を振った。

「恋人なら、きっと僕は嬉しかったんじゃないかな」

 ネルはフェイトを見た。嬉しかった?

「だって今、嬉しいからさ」

 そう言って、フェイトは笑った。

 

 その日は、フェイトを家に残して、ネルはシランド城に戻った。仕事をほっぽり出して飛び出して行ったことが気にかかっていたが、女王陛下はネルとフェイトをひどく心配していた。フェイトの記憶は依然失われたままだということを報告して、ネルは自室に引き上げた。

「嬉しい……か」

 数日分の仕事をすべて片付けた後、ネルはベッドに寝転がり、そうつぶやいた。

 恋人でありながら、恋人ではない状態。フェイトはあの家で眠っている頃だろうか、と窓辺の月を見た。

 あの家に帰りたい。そう思ったが、彼にどう接したらいいのか、測りかねていた。まるで付き合う前の頃に逆戻りしたようだ。恋人であった私たちはあまりにも身近すぎた、とネルは思った。恋人ではない状態では、今さらどう接したらいいのかわからなくなる。

「フェイト……」

 ネルは、行き場のない思いを持て余すように、シーツを握りしめた。

 

 翌日、フェイトを迎えに行くと、シャツにパンツ姿のフェイトが、恨みがましそうに出迎えた。

「ネルさん、昨日帰ってこなかったでしょ。ひどいですよ、恋人なのに」

「えっ……だってあんた、覚えてないんじゃ」

「僕は覚えてないですよ。だけどあなたは、覚えてるはずなのに」

 すねたように言うので、笑ってしまった。部屋の中からコーヒーの香りがした。

「コーヒーを淹れたのかい?」

「はい。砂糖をふたかけらとミルクを少し、でしたよね」

 フェイトはキッチンに回って、あれこれ物を取り出していた。

「砂糖を探してて……どこに何があるのか、わからなくて」

「あっ、砂糖はここの台の一番上の左から二番目だよ」

 ネルはコンロの脇の調味料台を示しながら、昨日の話を覚えていてくれたのだと感動していた。フェイトなりに、失われた日々を取り戻そうとしているのだ。

 やがて香ばしい湯気を立てながら、ネルの目の前にコーヒーが運ばれてきた。

「はい、ネルさん」

「あ、ありがとう……」

 ダイニングテーブルを囲んで、ふたりで一緒にコーヒーを飲んだ。

「ありがとう、フェイト。美味しいよ」

「でも、いつもと味が違うんじゃないですか?」

 確かに、ミルクはいつもより少なかったが、それもまた美味しかった。

「ううん。美味しいよ。まさかあんたが淹れてくれるとは思わなくて感激したよ」

「いえ、そんな……聞いておいてよかった」

 フェイトは爽やかに笑って、コーヒーカップをぎゅっと握った。

「ネルさん」

「なんだい」

「僕、必ず記憶を取り戻してみせます」

 見ると、いつもの意志の強い瞳がネルを見ていた。

「……うん。一緒に取り戻そう」

 ネルは頷いた。

「うん……。だからネルさん」

 フェイトはコーヒーカップを置いた。

「僕たちが出会った場所を教えてください」

 

 久しぶりに訪れたアーリグリフは、長い冬が終わっても冷涼としていて、乾燥した土が時々足元にからからと音を立てていた。標高の高い周囲の山々には今も雪が積もっている。フェイトが寒そうに腕をさすったので、防寒用の施術をかけてやった。

 ネルは大通りの先に堂々と聳え立つアーリグリフ城を指差し、「あそこさ」と言った。

「城……?」

「の、地下牢」

 ふたりは大通りを歩きながら、自然と大きな城を見上げていた。

「そっか。僕は最初、アーリグリフに捕らわれてたって話でしたよね」

「ああ。クリフと共にね。そこに私が現れたってわけさ。最初あんたたちはグリーテンという隣国の技術者だと勘違いして、あんたたちもその体で振舞っていた。バンデーンが襲ってくるまでね」

「敵国の地下牢での出会いか……ロマンティックだな」

「まったく、どこがだい」

 ネルは城の入口まで来ると、西側の城壁を指し示した。

「今は跡形もなく綺麗になってるけど、ここに落ちてきたんだ。イーグルっていったかな。クリフの宇宙船でね」

「イーグルに乗ってたことは覚えてる……クリフとミラージュさんもいた。ミラージュさんとは、後で合流する約束をしたことまで覚えてる」

「ミラージュとは、後にシランドを訪れた時に偶然再会することになる。倒れてるアミーナを介抱しててね」

「アミーナっていうのは、ソフィアにそっくりな子だっけ……?」

「そう。本当に瓜二つだったよ」

 ネルは、戦時下に負傷したディオンとふたり、頽れるように亡くなっていったアミーナのことを想った。

 フェイトはしばらく考え込むようにしていたが、やがて思いついたように言った。

「……ネルさんは、僕と出会った時、どう思った……?」

「フェイトと出会った時……?」

「運命を感じたりしなかったのかな?」

「感じるわけないだろ。こっちは敵国にあんたを置いておきたくなくてそれどころじゃないんだから」

 ネルがにべもなく言うと、フェイトは苦笑して、

「それは冗談だけどさ……」

「ま、でも、後から思わないでもなかったよ。あれは運命だったのかもしれないってね」

「ふぅん……」

 フェイトは意外そうにネルを見た。

「ねぇ、僕はどうしてネルさんのことを好きになったのかな?」

「あんたは初めて会った時からって言ってたけど、嘘だと思う。私たちは出会った時、本当に険悪だったから」

「そうだったの?」

「そりゃあ、出会って一言目に自分に従うかここで死ぬかって二択を迫られたら、誰だって嫌なんじゃないかい。特にあんたみたいに真っ直ぐなやつはさ」

「あはは、ネルさんそんなこと言ったんだ」

 フェイトはあの時の怒りっぷりが嘘のようにからからと笑った。

「こっちも切羽詰まってたんだよ。戦争は始まってるし、ゆっくり交渉してる場合じゃなくて、いきなりあんたに決断を迫った……前も言ったけど悪かったよ」

「ああ、うん……」

 フェイトは記憶がない自分を持て余すように曖昧に頷いた。

 それからふたりはカルサアへ向けて歩き始めた。

「ここは、最初馬車で移動してたんだ。そして疾風を振り切るために、タイネーブとファリンが囮になって捕まることになる」

「ネルさん、助けに行ったんだよね、ひとりで」

「ああ。アリアスまで行って、あんたたちをクレアに引き渡した段階でね。正直、あんたには散々怒られたよ。命をなんだと思ってるんだってね……」

「ああ……ひどい話だよね。最初から話してくれればよかったのにさ。たったひとりで、無謀だよ」

「うん、言われた。あんたはクレアに、私を一発殴らせてほしいとまで言ったらしい」

「本当に? 僕が? 女性に対して?」

「実際に殴られることはなかったけどさ」

「本当に僕が言ったんだとしたら、信じられない……よっぽど……あなたに惚れたんだな」

「えっ?」

「正気じゃいられないほど、カッコつけたかったんだ」

 カルサアを抜けて、ふたりはグラナ丘陵に出た。そして遠くに見えるカルサア修練場の無骨な建物を見た。

「あそこには三つの意味がある」

「三つ?」

「まずひとつはあそこでタイネーブとファリンと共に捕まっていたのを、あんたとクリフに助けられた」

「そっか。ここだったんだ」

「ふたつ目は、バンデーンとの人質交換の時」

「ああ、父さんとソフィアが捕まっていた時の……」

「そう。ここに私もいたんだよ。たまたまね。それで成り行きでまた一緒に旅をすることになった」

「二度目の再会ってわけだね」

「ああ。そして最後は、ここであんたのお父さんが亡くなられた」

「……そうか。ここだったんだ」

「……ああ」

 フェイトは、カルサア修練場を見て、目を細めた。それからしばらく、目を閉じていた。

「……思い出した」

「えっ?」

 ネルははじかれるようにフェイトを見た。

「いや、断片的にだけど、父さんが僕を庇って撃たれたこと、思い出したんだ……」

 フェイトは抱えきれないというように、その場にしゃがみ込んだ。ネルは思わず膝をついて、フェイトの肩を抱いた。フェイトはしばらく、短い呼吸を繰り返した。

「……ごめん。こんなつもりじゃ……なかったのに」

「いいんだよ」

 フェイトが落ち着くまで、ネルはただ黙って背中を撫でていた。そうしているうちに、フェイトの動揺がおさまってきた。

「ごめん、もう大丈夫」

「こっちこそすまない……あんなことを思い出させて」

 トラウマのように思い出させてしまったことを、ネルは悔いた。フェイトは、ゆるゆると首を振った。

「いや、全部思い出したいから」

 フェイトはやわらかな笑みを作ると、ゆっくりと立ち上がった。

「行こう。次の場所へ」

 カルサア丘陵とも呼ばれるアイレの丘は、今日は風が強く土埃が舞っていた。

「ここで戦争が行われた」

 ネルは、あの日の光景を忘れたことはなかった。

「ひどい状態だったよ。漆黒兵と私たちの部下が血みどろに揉み合いながら戦い、その間隙を縫うように走って、ここで疾風の団長ヴォックスと戦った。その時だよ。バンデーンの光線がヴォックスを貫いたのは」

 ネルがあの日、バンデーン艦を初めて目にした空を見上げると、フェイトも同じように、今は何もない空を見上げた。

「突然降って湧いた光線に、戦場はますます混乱を極め、その時、バンデーンの狙いがフェイトであることを知らされた。次々に倒れていく部下たちや、アミーナの幼馴染のディオンを見て、フェイトはその時初めてディストラクションを発動した」

「FD空間に繋がる、僕の能力だったってわけだね」

「ああ。でもその時はそんなこと知らないから、いきなりとてつもない力でバンデーン艦を撃沈させたのを見て、とても驚いたよ……力を解き放った後、目の覚まさないあんたを、クリフに担いでもらって、死んだように眠っていたあんたの顔は今でも忘れられない……もう二度と目を覚まさなければどうしようと思った」

 ネルはふいに泣き出しそうになる自分に気づいて、顔をそむけた。

「ネルさん……」

 フェイトは神妙に、感じ取るようにネルの話を聞いていた。

 ふたりはふたたびペターニで休憩がてらに食事をとった。

 フェイトがボロネーゼを食べながらしみじみというように言った。

「ネルさんは、思っていたよりずっと、僕と運命を共にしているね」

「そうかい? でも私は見てただけだよ。何もできなかった」

「そんなことない」

 フェイトがきっぱり言うので、ネルは少し笑った。

「うん……そうかもね……」

 それからネルは食べながら、停戦協定への道中や、エアードラゴンとの交渉など細かい話をした。フェイトは時に真剣に、時に楽しそうに、竜の喉笛の話になると頭にハテナを浮かべながら聞いていた。

 ネルがサンダーアローの操縦がどれだけ難しかったか話をしながら、やがてシランドへ帰ってきた。

 シランド城の庭園のバルコニーに立ち、ふたりはフェイトが宇宙へ帰る時の話をした。

「あんたたちはそこに立って、転送の準備ができるのを待ってた。私たちはこっちに立って、最後に別れの挨拶をした」

「ネルさんはなんて言ったの?」

「さよなら」

 それを聞くと、フェイトは力なく笑った。

「はは……ひどいな」

「なんでだい?」

「きっと永遠の別れなんかじゃなかった。どんなに時間がかかっても、きっと僕は会いに来れた。それなのに、さよならなんてさ……」

「でも、あんたには未開惑星保護条約があるだろ」

「ここまで関わっておいて?」

「……あんたに言われる筋合いはないんだけどね」

 ネルは苦笑して言った。クリフが『アイツは未開惑星保護条約が口癖だった』と愚痴っていたのを思い出す。

「でも、確かにあんたにはまた会えた。カルサア修練場でね」

「あなたを迎えに来た?」

「そんなわけないだろ、そこにいることも知らないのに」

「でも結果的に、連れていくことに決めた。やっぱり会いたかったんだ」

「あんた……発言がいつもより過激だよ。本当は記憶が戻ってるんじゃないのかい?」

「ごめん、ちょっと調子に乗ってる。あなたの反応が面白くて」

 フェイトが面白そうに笑うので、ネルはむくれた。これじゃあいつものやり取りと同じだ。そんなことも知らずに、フェイトは笑いながら階段に座るので、ネルも同じようにした。

「ねぇ……ネルさん」

「なんだい」

 フェイトは空を見上げながら言った。

「なんだか、わかった気がするよ……」

 ネルはその横顔を見ながら訊いた。

「なにか思い出したのかい?」

「いいや……でもあなたがあそこでさよならと言った時……すごく頭が痛くなった」

「なんだ、苦情かい」

 フェイトは頭を振って、ネルを見つめた。

「あなたがすごく恋しくなった……」

 そのフェイトの眼がとても潤んでいて、ネルは思わずドキリとした。

 フェイトは手を伸ばして、ネルの指先に触れた。ネルは目を見開いた。フェイトはそっと糸を握るように指先を絡ませてきた。

「恋人なら、こういうことをしても、問題ありませんよね……?」

 ネルはもっとすごいことをしてきた過去を思ったが、

「でも、今のあんたは……」

 フェイトは頷いた。

「思い出せないのに、あなたが恋しくてたまらない……」

 フェイトの睫毛が、まばたきをするように震えた。ネルはぽっと顔が熱くなるのを感じた。

「僕があなたを好きになった気持ちが、すごくわかるんだ……」

 ネルは胸がいっぱいになり、思わずフェイトの頬に触れると、フェイトの顔が近づいてきた。いつもするようなのとは違う、懐かしくて初々しいキスだった。あまりに触れるだけのようなキスだった。

 フェイトが顔を真っ赤にしながら言った。

「僕、こういうことを女性とするのは初めてで……」

 ネルはいつものフェイトを思い出してちょっと噴き出しそうになってしまった。

 それからネルはフェイトの手を取り、自分の頬に当てると、フェイトを深いキスに導いていった。自分でも思いもよらないほど、恋しくて仕方ない瞬間だった。

 ふたりは家に帰り、ベッドの上で宝物のように互いを求め合った。

 気がついたら、安心感に包まれて深い眠りをさまよっていた。

 

 

 髪を耳にかける感触で、目が覚めた。

 ゆっくりと目を開けると、フェイトの優しい笑顔が、朝日に照らされていた。

「ネル」

 ネルは陶然としてフェイトを見つめていると、フェイトが言った。

「思い出したよ、全部」

「えっ?」

「記憶が戻ったんだ」

 ネルは目を見開くと、フェイトを強く抱きしめていた。

「本当かい!? 本当に戻ったのかい!?」

「ああ。月影団長の人相が悪かったことまで思い出したよ」

 ネルは噴き出すと、フェイトの胸に顔を埋めた。フェイトはそんなネルの頭を撫でながら、

「心配かけてごめん」

 と謝った。

 ネルは夢中で頭を振ると、「よかった、よかった」と何度も零した。

「本当にごめん。僕はずっと、ネルに心配ばかりさせてた」

「いいんだよ、そんなこと」

 ちょうどいい体温の、ちょうどいい力加減で、ここにフェイトがいることが感じられる。それだけで十分だった。

 ふたりは手を繋いで、目を合わせた。しばらく見つめ合った後、笑い合った。ふたりの間に、何か可笑しいことが起こったみたいな気持ちになった。

 それから、ダイニングでフェイトがコーヒーを淹れてくれた。

 ちょうどいい温度の、ちょうどいい味の、それはカプチーノだった。

「もう忘れたりしたくない」

 フェイトはそう言ってネルの手を握り、キスをした。それは数日分の充電をするように、深いキスだった。

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