監察官のちょっと奇妙な冒険 作:プロメイア推しの人
プロメイアを強く使えて大変嬉しいのであります。
家に帰ってきてから、ずっと部屋の照明が眩しかった。
別に明るさを上げた覚えはない。
いつもと同じ、少し黄ばんだ安物の照明。
机の上には、書きかけの報告書。
床には、脱ぎっぱなしの上着。
見慣れた部屋だった。
なのに、今日は少しだけ他人の部屋みたいに見えた。
「……疲れてんのかな」
フラマはそう呟いて、椅子に腰を下ろした。
端末の画面には、報告書の入力欄が開かれている。
件名。
ホロウ・ザ・ヒーロー大会中の違反行為及びロームル関連事案について。
そこまでは書いた。
えらい。
非常にえらい。
自分を褒めてもいい。
むしろ誰か褒めてほしい。
だが、本文は白紙だった。
「白紙ってさ、可能性の塊だよな」
誰もいない部屋に言ってみる。
返事はない。
まあ、そりゃそうだ。
ここにいるのは自分だけだ。
シーシィアもいない。
リンさんもいない。
ビリーもいない。
セヴェリアンさんもいない。
誰かの前に立つ必要もない。
怖がる後輩を安心させるために笑う必要もない。
冗談を言って、場の空気を軽くする必要もない。
だから。
少しだけ、顔から力が抜けた。
「……隊長、ねぇ」
ロームルの声が、耳の奥に残っている。
なぁ、隊長。
あの呼び方。
あの目。
懐かしむような、恨むような、期待するような顔。
フラマは右腕を見下ろした。
普段は人の腕に見えるよう整えているそれは、今は静かに沈黙している。
赤く灼けてもいない。
炎を吐いてもいない。
ただ、自分の身体の一部として、そこにある。
けれど今日は、少しだけ違って見えた。
この腕は、昔、何を燃やしたのだろう。
誰の前に立った。
誰に命令した。
誰を守った。
誰を置いてきた。
「……知らねぇよ」
思わず声が低くなった。
本当に知らない。
フラマのフラマとしての始まりは、ゴミ捨て場だった。
冷たい地面。
壊れかけた身体。
うまく動かない指。
視界に映った、よく分からない光。
そこへ来たのが、ニコだった。
ニコに拾われて、邪兎屋にいて、六課に関わって、今は監察官っぽいことをしている。
その全部は覚えている。
今の自分を作っているものだと、ちゃんと言える。
でも、それ以前はない。
この世界においては。
空白だ。
ないはずなのに。
隊長、と呼ばれた瞬間、胸の奥がざわついた。
知らないはずの言葉に、身体の方が先に反応した。
視界の端に、赤い光がちらついた。
誰かが叫んだ気がした。
炎の音がした。
雨の匂いがした。
そして、ひどく遠くから。
戻るな。
そんな声が、聞こえた気がした。
「……誰だよ」
フラマは椅子の背にもたれて、天井を見上げた。
知らない声だった。
聞いたこともない。
少なくとも、覚えていない。
けれど、なぜか胸が痛かった。
痛む理由が分からないのが、一番気持ち悪い。
「記憶喪失系主人公って、もっとこう、かっこよく悩むもんじゃないの?」
現実の自分は、報告書から逃げながら、安物の椅子で天井を見ている。
しかも腹が減っている。
非常に締まらない。
フラマは立ち上がり、棚を開けた。
非常食の隣に、豆の缶詰があった。
「豆かぁ……」
手に取った瞬間、鼻の奥に、ありもしない匂いがした。
豆。
乾燥肉。
薄い塩気。
古い鍋。
湯気。
月明かり。
誰かが、泣いている。
その誰かに向かって、自分ではない誰かが言う。
食え。
「……っ」
フラマは缶詰を棚に戻した。
かん、と軽い音が鳴る。
それだけで、胸の奥が妙に重くなった。
「いやいや、ただの豆だろ。豆に情緒を揺さぶられる男、フラマ。だいぶ嫌だな、それ」
笑おうとした。
けれど、うまく笑えなかった。
ロームルは何かを知っている。
昔の自分を知っている。
自分が知らない名前で、自分を呼んだ。
そして、自分が何かを置き去りにしたみたいに言った。
誰を率いて、誰を置き去りにしたのか。
あの言葉だけが、棘みたいに残っている。
「……俺が、何したってんだよ」
問いかけても、答える者はいない。
自分は知らない。
知らない以上、責任なんてない。
そう言い切れたら、どれだけ楽だっただろう。
でも、ロームルは今も人を傷つけている。
シーシィアを怖がらせた。
大会を滅茶苦茶にした。
倒れていた参加者たちの顔が、ふと脳裏をよぎる。
もし、あいつの恨みが昔の自分に関わっているなら。
覚えていないから知らない、で済ませていいのか。
端末が鳴った。
シーシィアからだった。
『パイセン、生きてる?』
短い文面だった。
いつものスタンプも、変な絵文字もない。
フラマは少し迷ってから、返信した。
『生きてる。報告書に殺されかけてる』
すぐ既読がついた。
『それはいつものじゃん』
『今日はマジで無理しないでよ』
『隊長とか知らんし』
『あーしからしたらパイセンはパイセンだから』
フラマは画面を見たまま、しばらく黙った。
「……そっか」
胸の奥が、少しだけ緩む。
シーシィアにとって、自分は隊長ではない。
フラマパイセン。
頼りない時もある。
報告書を溜める。
後輩に甘い。
すぐ軽口を叩く。
でも、怖がっている時は前に立つ。
それが、今の自分だ。
『ありがとな。お前もちゃんと寝ろよ』
送る。
返事はすぐだった。
『パイセンもね』
『明日もなんかあったら秒で来て』
「秒は無理なんだよなぁ」
言いながら、少し笑った。
今度は、ちゃんと笑えた。
フラマは椅子に戻り、端末に向き直る。
報告書は白紙のままだ。
でも、さっきよりは少しだけ、何を書くべきか分かる気がした。
書かなければいけない。
覚えていないからこそ、残さなければいけない。
見なかったことにしないために。
「……俺は今の俺しか知らない」
ロームルに言った言葉を、もう一度呟く。
それは本音だった。
けれど、今は少しだけ足りない気がした。
俺は今の俺しか知らない。
だから、知らない俺のことも、知らなきゃいけない。
それが今の自分を守ることになるなら。
シーシィアやリンさんたちを、余計な火の粉から守ることになるなら。
怖いとか、嫌だとか言っている場合じゃない。
いや、怖いものは怖い。
普通に嫌だ。
自分の中に、自分の知らない誰かがいるみたいで気持ち悪い。
その誰かが、誰かを守って、誰かを傷つけて、誰かに恨まれているかもしれないなんて、正直しんどい。
でも。
「……後輩の前でビビってる場合じゃねぇしな」
フラマは右手を軽く握った。
隊長。
その名前は、まだ自分のものではない。
でも、無関係だと笑い飛ばすには、もう遅すぎる。
端末に文字を打ち込む。
隊長。
その二文字を入力した指が、一瞬だけ止まった。
消さなかった。
「よし」
フラマは小さく息を吐いた。
「フラマさん、報告書第二ラウンド開始です」
部屋は相変わらず静かだった。
けれど、さっきより少しだけ息がしやすい。
外は夜。
明日になれば、また面倒ごとが来るかもしれない。
むしろ来ない方が珍しい。
それでも今は、文字を打つ。
知らない過去から逃げないために。
今の自分が、今の自分でいるために。