卒業式まで、あと少しだった。
三年生の教室には、もう授業とは違う空気が流れている。
黒板の端には、誰かが小さく書いた卒業までの日数。
机の中には、使い終わった教科書と、まだ捨てられないプリント。
廊下には、卒業文集の確認を促す張り紙。
放課後になると、教室のあちこちで写真を撮る声が聞こえる。
「もうすぐ終わりなんだね」
誰かがそう言った。
藤崎詩織は、その言葉に微笑んだ。
「そうね」
いつも通りの声で答える。
寂しい。
けれど、寂しすぎてはいけない。
嬉しい。
けれど、浮かれすぎてもいけない。
藤崎詩織は、そういう表情を選ぶことに慣れていた。
誰かに見られている時の顔。
誰かに声をかけられた時の声。
先生に頼まれた時の返事。
クラスメイトに囲まれた時の笑い方。
そのどれもが、詩織にとっては特別なことではなかった。
昔から、そうだった気がする。
成績が良いと言われた。
運動もできると言われた。
何でもできてすごいと言われた。
しっかりしていると言われた。
藤崎さんなら大丈夫、と言われた。
そのたびに、詩織は笑ってきた。
できるだけ自然に。
できるだけ感じよく。
できるだけ、藤崎詩織らしく。
それが嫌だったわけではない。
むしろ、嬉しいこともあった。
期待されること。
頼られること。
誰かに名前を呼ばれること。
それに応える自分でいられること。
詩織は、それを大切にしてきた。
けれど卒業式が近づくにつれて、その一つ一つが、ほんの少しだけ重くなっている気がした。
「藤崎さん、卒業式の日って、やっぱり伝説の木のところ行くの?」
突然、隣の席の女子がそんなことを言った。
教室の空気が、少しだけ軽くなる。
「あ、それ私も気になる」
「藤崎さんって、そういう噂の中心にいそうだよね」
「幼馴染もいるし」
誰かがそう言って、笑った。
幼馴染。
その言葉に、詩織はほんの少しだけ反応した。
水瀬悠真。
近所に住んでいた男の子。
小さい頃から知っている男の子。
高校に入ってからも、同じ学校で、同じ教室で、何度も名前を呼び合ってきた相手。
幼馴染。
そう言えば、二人の関係は簡単に説明できる。
簡単すぎるくらいに。
「もう、そういう話ばかりしないの」
詩織は困ったように笑った。
「えー、だって本当に似合うんだもん」
「藤崎さんなら、伝説の木の下に立ってても違和感ないよね」
「むしろ絵になる」
「そんな予定はないわ」
詩織は穏やかに返した。
声は乱れなかった。
顔も、たぶんいつも通りだった。
からかわれているだけ。
卒業式前の、少し浮ついた会話。
だから、笑って流せばいい。
実際、詩織はそうした。
けれど、その言葉は少しだけ胸に残った。
藤崎さんなら。
詩織なら。
伝説の木に似合う。
そう言われることに、詩織は驚かなかった。
驚かなかったことに、ほんの少しだけ戸惑った。
伝説の木。
きらめき高校に通う生徒なら、誰でも知っている噂。
卒業式の日、伝説の木の下で女の子から告白されて結ばれた二人は、永遠に幸せになれる。
詩織も、一年生の頃から知っていた。
本気で信じていたわけではない。
けれど、卒業式が近づくにつれて、その木はただの木ではなくなっていく。
誰かが勇気を出す場所。
誰かが想いを届ける場所。
誰かが選び、誰かが選ばれる場所。
そういう意味が、自然と重なっていく。
詩織は窓の外へ目を向けた。
校庭の向こう。
校舎の陰に少し隠れるようにして、伝説の木が立っている。
冬を越えた枝は、まだ少し寂しい。
けれど、近づく春の気配をまとっているようにも見えた。
あの木の下に立つ自分。
それは、想像できないわけではなかった。
卒業式の日。
制服姿で。
少し緊張しながら。
誰かを待っている自分。
その想像は、どこかきれいだった。
自分でそう思ってしまったことに、詩織は少しだけ目を伏せた。
「詩織?」
声がした。
詩織は振り向く。
教室の入口に、水瀬悠真が立っていた。
手には、先生から頼まれたらしいプリントを持っている。
昔から知っている少年。
けれど、最近は少しだけ違って見える少年。
「先生が、これ確認しておいてって」
悠真がプリントを差し出す。
詩織は受け取った。
「ありがとう、悠真くん」
「たいしたことじゃないよ」
悠真はそう言って、少しだけ笑った。
その笑顔を、詩織は昔から知っている。
困った時にごまかすような笑い方。
本当は少し照れている時の笑い方。
何かを言いかけて、結局言わない時の笑い方。
昔から変わらないところもある。
でも、変わったところもある。
高校に入ってから、悠真は少しずつ変わった。
勉強を真面目にするようになった。
体育の授業でも、前より手を抜かなくなった。
身だしなみにも気を遣うようになった。
友人との付き合い方も、少し大人びた。
詩織は、それに気づいていた。
気づいていたのに、どうしてそうなったのかを聞いたことはなかった。
「卒業式、もうすぐね」
詩織は言った。
「そうだな」
悠真は窓の外を見る。
その視線の先に、伝説の木がある。
詩織は、それに気づいた。
「早かったような、長かったような」
「そうね」
短い会話だった。
けれど、その短さに違和感はなかった。
二人の間には、そういう会話がたくさんあった。
踏み込もうと思えば、踏み込めたかもしれない。
けれど、踏み込まなくても成り立ってしまう会話。
幼馴染だから。
そう言えば、たいていのことは説明できた。
「卒業式の日ってさ」
悠真が言いかけて、少し止まった。
詩織は続きを待った。
「いや、何でもない」
「そう?」
「うん」
悠真はまた曖昧に笑った。
詩織も、それ以上は聞かなかった。
聞けばよかったのかもしれない。
でも、何を聞けばいいのか分からなかった。
伝説の木のこと?
卒業式の後のこと?
大学へ行ってからのこと?
それとも、もっと別の何か?
分からないまま、詩織は微笑んだ。
「じゃあ、私、これ先生に確認しておくわ」
「ああ、頼む」
悠真は軽く手を上げて、自分の席へ戻っていった。
詩織はその背中を見送った。
昔から知っている背中。
けれど、いつの間にか少しだけ大人びた背中。
その背中が、教室の中へ紛れていく。
詩織は視線を落とし、プリントを机の上に置いた。
友人たちは、また卒業式の話に戻っている。
誰と写真を撮るか。
卒業後も連絡を取るか。
大学が始まったら、どれくらい会えるのか。
そういう話が、教室のあちこちで交わされている。
詩織も、いくつかの約束をした。
写真を撮ろう。
卒業後も連絡しよう。
大学が落ち着いたら会おう。
どれも自然な言葉だった。
言えば、相手も笑ってくれる。
また会える気がする。
けれど、その「また」は、今までの「また」とは少し違う。
明日また会う。
来週また話す。
同じ教室でまた顔を合わせる。
そういう当たり前の「また」ではなくなる。
卒業式の後は、会おうと思わなければ会えない。
話そうと思わなければ話せない。
幼馴染であることも、同じ学校にいることも、もう日常を自動で続けてはくれない。
詩織は、そのことをまだ深く考えないようにした。
考えれば、何かを決めなければならない気がしたから。
放課後になると、教室は少しずつ静かになっていった。
詩織は帰り支度を終え、廊下に出た。
夕方の光が、窓から斜めに差し込んでいる。
窓際を歩くと、伝説の木がまた見えた。
詩織は足を止める。
さっきよりも、少し暗い色に見える。
枝の隙間から、夕方の空がのぞいている。
あの木の下に立つ自分。
その想像は、やはりできる。
けれど、そのすぐ外側に、もう一つの場所があることに気づいた。
木の下ではない。
ほんの少し離れた場所。
そこに立つ自分。
誰かを見ている。
何かを言おうとしている。
けれど、その声は届かない。
一瞬だけだった。
本当に、一瞬。
詩織は瞬きをした。
窓の外には、いつもの校庭がある。
伝説の木も、ただ静かに立っているだけだった。
今のは、何だったのだろう。
想像。
きっと、そうだ。
卒業式が近いから。
伝説の木の話をされたから。
だから、少し変なことを考えただけ。
詩織はそう思おうとした。
「詩織」
背後から声がした。
悠真だった。
詩織は振り向く。
「悠真くん」
「帰るのか?」
「ええ。悠真くんも?」
「ああ」
短い会話。
二人は廊下に並んだ。
けれど、すぐには歩き出さなかった。
窓の外の伝説の木が、二人の視界の端にある。
悠真も、それを見ているようだった。
「卒業式の日ってさ」
悠真が言う。
さっきと同じ言いかけ方だった。
詩織は、今度こそ続きを待った。
悠真は少しだけ迷ってから、笑った。
「いや、やっぱり何でもない」
詩織は、ほんの少しだけ胸が詰まった。
「そう」
それ以上、聞けなかった。
聞きたかったのかもしれない。
でも、聞かなかった。
悠真も言わなかった。
二人は、また何もない会話へ戻る。
「じゃあ、また明日」
詩織は言った。
悠真は一瞬だけ、こちらを見た。
それから頷く。
「ああ。また明日」
また明日。
何度も交わしてきた言葉。
けれど、卒業式が近づいた今、その言葉は少しだけ軽く、少しだけ重い。
いつもの言葉なのに、いつものようには響かない。
詩織は微笑んだ。
悠真も、曖昧に笑った。
二人はそこで別れた。
詩織は廊下を歩き出す。
背中に、悠真の気配が残っているような気がした。
振り返れば、まだそこにいるかもしれない。
でも、振り返らなかった。
振り返る理由がない。
そう思った。
そう思うことで、いつも通りに歩けた。
昇降口を出ると、空気は少し冷たかった。
春は近い。
けれど、まだ冬の名残がある。
詩織はマフラーを直し、校門へ向かった。
途中で一度だけ、校舎の奥を振り返る。
伝説の木は見えなかった。
校舎の陰に隠れている。
それでも、そこにあることは分かっていた。
卒業式の日。
女の子から告白する場所。
誰かが選び、誰かが選ばれる場所。
詩織は、その木の下に立つ自分を想像した。
そして、もう一度だけ。
木の外側に立つ自分を想像してしまった。
声が届かない場所。
何かが終わるのを見ている場所。
知らないはずの場所。
詩織は小さく息を吸った。
自分は、まだ何も知らない。
伝説の木の下に立つことも。
その外側に立つことも。
そこに立った時、自分が何を思うのかも。
まだ、何も知らない。
けれど、知らないはずの場所から吹く風の冷たさだけが、胸の奥に小さく残った。
藤崎詩織は、伝説の木の外を知らない。
知らないはずだった。
それでも、その外側から吹く風の冷たさだけを、なぜか少しだけ知っている気がした。