藤崎詩織は、伝説の木の下に立つ   作:エーアイ

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水瀬悠真は、理想の藤崎詩織を壊せない

 扉のガラスに、藤崎詩織が映っていた。

 

 制服姿で、背筋を伸ばし、穏やかに微笑んでいる。

 

 乱れのない髪。

 

 整った表情。

 

 誰に見られても、藤崎詩織だと分かる立ち方。

 

 成績優秀で。

 

 運動もできて。

 

 先生から信頼されて。

 

 友人たちから頼られて。

 

 伝説の木にもっとも近い少女として語られる。

 

 そのすべてが、そこにあった。

 

 悠真は、息を止めた。

 

 違う。

 

 そう思った。

 

 これは詩織じゃない。

 

 少なくとも、自分が昔から知っている詩織そのものではない。

 

 小さい頃、転びそうになって少し怒った顔をした詩織。

 

 勝負に負けて、悔しそうに唇を結んだ詩織。

 

 悠真の忘れ物を見つけて、呆れながらも心配してくれた詩織。

 

 放課後の廊下で、何かを聞きかけて、聞かなかった詩織。

 

 そういう詩織が、そこにはいなかった。

 

「違う」

 

 悠真は小さく言った。

 

「これは、詩織じゃない」

 

 声は廊下に吸い込まれた。

 

 けれど、ガラスに映った藤崎詩織は消えない。

 

 微笑んだまま、こちらを見ている。

 

 その表情は静かだった。

 

 怒っていない。

 

 責めてもいない。

 

 ただ、そこにいる。

 

 藤崎詩織として、完璧に。

 

 悠真は、その像から目を逸らせなかった。

 

 綺麗だと思った。

 

 似合っていると思った。

 

 伝説の木の下に立っていても、何の違和感もないと思った。

 

 そう思ってしまった。

 

 その瞬間、胸の奥が冷えた。

 

 違うと言いながら、完全には否定できない。

 

 これは詩織ではない。

 

 でも、藤崎詩織らしい。

 

 自分は、そう思ってしまった。

 

「……何なんだよ」

 

 悠真は扉に手をついた。

 

 冷たい。

 

 ガラスの向こうに映る詩織は、悠真と同じように手を伸ばしているように見えた。

 

 けれど、触れられない。

 

 ほんの一枚のガラスの向こう。

 

 それだけの距離のはずなのに、果てしなく遠い。

 

 廊下の黒板が、かすかに軋んだ。

 

 白い粉が落ちる。

 

 そこに、文字が滲む。

 

 藤崎詩織にふさわしい者のみ通行可。

 

 悠真は、その言葉を睨んだ。

 

「だから、ふさわしいって何だよ」

 

 返事はない。

 

 代わりに、扉の横に貼られていた掲示物が、風もないのにめくれた。

 

 そこには、いくつもの言葉が並んでいた。

 

 成績。

 

 運動。

 

 品行。

 

 信頼。

 

 努力。

 

 向上。

 

 隣に立つ資格。

 

 悠真は、最後の言葉で息を呑んだ。

 

 隣に立つ資格。

 

 そんなものを、誰が決めた。

 

 そう思って、すぐに言葉が止まる。

 

 自分だ。

 

 少なくとも、自分もその一人だ。

 

 詩織の隣に立っても恥ずかしくない自分になりたかった。

 

 藤崎詩織の幼馴染だと言われて、曖昧に笑うだけではなく、胸を張りたかった。

 

 努力すれば、いつか詩織に近づけると思った。

 

 詩織に選ばれてもおかしくない自分になりたいと、どこかで願った。

 

 その願いは、誰かに押しつけられたものではない。

 

 悠真自身の中にあったものだった。

 

「違う」

 

 悠真は、また言った。

 

 けれど、何が違うのか分からなくなっていた。

 

 努力したことは本当だ。

 

 勉強した。

 

 逃げずに体育もやった。

 

 身だしなみを整えた。

 

 人付き合いからも逃げないようにした。

 

 以前より少しはましになった。

 

 それは嘘ではない。

 

 誰かに見せるためだけではなかった。

 

 変わることは、少しずつ自分のためにもなっていた。

 

 けれど。

 

 その奥に、いつも詩織がいた。

 

 詩織に見られても恥ずかしくない自分。

 

 詩織の隣にいても不自然ではない自分。

 

 藤崎詩織に届いたと言える自分。

 

 その言葉を考えた瞬間、悠真は目を閉じた。

 

 藤崎詩織に届いた自分。

 

 それは、甘い言葉だった。

 

 苦い言葉でもあった。

 

 自分は本当に詩織を見ていたのか。

 

 それとも、詩織に届いた自分を見たかったのか。

 

 答えはまだ出ない。

 

 出したくもなかった。

 

 悠真は扉を押した。

 

 開かない。

 

 もう一度押す。

 

 扉は動かない。

 

 ガラスの向こうの藤崎詩織は、微笑んだまま立っている。

 

 その背後には、伝説の木が遠く見えた。

 

 現実なら、少し歩けば行ける距離だ。

 

 校舎を出て、校庭を抜ければ届く。

 

 けれど、この学校では違う。

 

 廊下が長すぎる。

 

 扉が多すぎる。

 

 条件が多すぎる。

 

 そして、その条件を、自分も作っていた。

 

「開けよ」

 

 悠真は低く言った。

 

 扉は開かない。

 

 代わりに、ガラスの中の詩織が少しだけ顔を傾けた。

 

 実際に動いたのか、ガラスの歪みでそう見えただけなのか、分からない。

 

 彼女の唇が動く。

 

 声は聞こえない。

 

 けれど、言葉だけが頭の中に落ちた。

 

 あなたは、何を持って来たの。

 

 悠真は息を止めた。

 

 何を。

 

 何を持って来た。

 

 三年間。

 

 努力。

 

 成績。

 

 変化。

 

 少しはましになった自分。

 

 詩織に近づきたかった気持ち。

 

 隣に立ちたかった願い。

 

 言えなかった言葉。

 

 何も言わなかった卒業式。

 

 その全部。

 

 それを持って、ここまで来た。

 

 けれど、扉は開かない。

 

 ガラスの中の藤崎詩織は、また微笑む。

 

 その微笑みは優しい。

 

 優しすぎる。

 

 だから、苦しかった。

 

 悠真は気づいた。

 

 この藤崎詩織は、悠真を責めない。

 

 怒らない。

 

 拒絶もしない。

 

 ただ、条件の向こうにいる。

 

 届けば受け入れてくれるかもしれない少女として、そこにいる。

 

 努力すれば届くかもしれない場所として、そこにいる。

 

 それが、余計に残酷だった。

 

「俺は……」

 

 言葉が喉で止まった。

 

 俺は、詩織に会いたかった。

 

 そう言えばよかったのかもしれない。

 

 でも、その言葉がすぐには出なかった。

 

 代わりに、別の言葉が浮かぶ。

 

 俺は、詩織に届きたかった。

 

 その違いが、分からない。

 

 分からないまま、悠真は立ち尽くした。

 

 廊下の窓が一斉に白く曇った。

 

 その曇りの中に、いくつもの場面が映る。

 

 放課後の教室。

 

 参考書を開いている自分。

 

 忘れ物を取りに戻ってきた詩織。

 

「勉強していたの?」

 

 そう言った詩織。

 

「まあ、ちょっと」

 

 そう答えた自分。

 

 あの時、詩織はそれ以上聞かなかった。

 

 悠真も何も言わなかった。

 

 次の窓には、体育の授業が映っていた。

 

 苦手な競技で失敗し、それでも逃げずにもう一度やり直している自分。

 

 遠くに詩織の姿がある。

 

 見ていたのか、見ていなかったのかは分からない。

 

 でも、悠真はどこかで期待していた。

 

 見ていてほしい。

 

 そう思っていた。

 

 別の窓には、模試の結果が返された日が映っている。

 

「悠真くん、頑張ったのね」

 

 詩織の声。

 

「たまたまだよ」

 

 ごまかす自分。

 

「たまたまではないと思うわ」

 

 その言葉に、胸が熱くなったこと。

 

 でも、何も言えなかったこと。

 

 悠真は、窓を見つめた。

 

 努力は本物だった。

 

 けれど、その努力を誰に見せたかったのか。

 

 誰に認めてほしかったのか。

 

 何によって報われたかったのか。

 

 問いだけが増えていく。

 

 黒板に、また文字が浮かぶ。

 

 努力は、本物でした。

 

 悠真は目を見開いた。

 

 その下に、ゆっくり文字が滲む。

 

 けれど、あなたはその努力の先に、誰を置きましたか。

 

 悠真は答えられない。

 

 廊下の奥から、拍手が聞こえる。

 

 卒業式の拍手。

 

 その中に、友人たちの声が混じる。

 

 藤崎さんなら。

 

 詩織なら。

 

 伝説の木に似合う。

 

 水瀬くんとか。

 

 悠真は、奥歯を噛んだ。

 

 自分は、その言葉を否定しなかった。

 

 笑って流した。

 

 聞こえないふりをした。

 

 でも、胸のどこかで、その構図を想像していた。

 

 伝説の木の下に立つ詩織。

 

 そこへ行く自分。

 

 そして、詩織に選ばれる自分。

 

 その絵を、どこかで見たかった。

 

「違う……」

 

 声は、もうほとんど否定になっていなかった。

 

 違うと言いたい。

 

 でも、違わない部分がある。

 

 それが苦しい。

 

 ガラスの中の藤崎詩織が、少しだけ近づいたように見えた。

 

 彼女は悠真を見ている。

 

 優しく。

 

 穏やかに。

 

 誰からも信頼される少女の顔で。

 

 その顔は、悠真がずっと見上げてきたものだった。

 

「やめろ」

 

 悠真は呟いた。

 

「そんな顔で、見るな」

 

 自分で言って、胸が痛んだ。

 

 詩織は、何もしていない。

 

 この像は、現実の詩織ではない。

 

 悠真が見てきた藤崎詩織だ。

 

 悠真が遠くへ置いた藤崎詩織だ。

 

 だから、この顔をやめさせることはできない。

 

 やめさせるなら、見方を変えるしかない。

 

 でも、今の悠真にはそれができなかった。

 

 ガラスに映る藤崎詩織が、ゆっくりと手を差し出す。

 

 扉の向こう側から。

 

 届きそうで、届かない距離。

 

 悠真は、思わず手を伸ばしかけた。

 

 もし、この手を取れたら。

 

 もし、扉が開いたら。

 

 もし、藤崎詩織に届いたと言えたら。

 

 三年間は、報われるのだろうか。

 

 その考えが浮かんだ瞬間、悠真は手を止めた。

 

 報われる。

 

 その言葉が、ひどく嫌だった。

 

 詩織は、自分の三年間を報わせるための相手ではない。

 

 そう思う。

 

 そう思いたい。

 

 でも、その考えが一度浮かんでしまった以上、なかったことにはできない。

 

 悠真は、伸ばしかけた手を握りしめた。

 

「俺は……」

 

 声が震える。

 

「詩織を、そんなふうに見てたのか」

 

 答えはない。

 

 ガラスの中の藤崎詩織は、ただ微笑んでいる。

 

 廊下の壁に貼られていた掲示物が、次々と剥がれた。

 

 紙片が舞う。

 

 成績。

 

 努力。

 

 資格。

 

 隣。

 

 伝説の木。

 

 選ばれる。

 

 選ばれてもおかしくない自分。

 

 その言葉が、紙片に混じって流れる。

 

 悠真は、思わず膝をついた。

 

 床に手をつく。

 

 白い粉が指につく。

 

 チョークの粉。

 

 言葉が崩れた残り。

 

 届かなかった言葉の残り。

 

 悠真は、呼吸を整えようとした。

 

 けれど、うまくいかなかった。

 

「俺は、頑張った」

 

 小さく言った。

 

 誰に言っているのか分からない。

 

「それは、本当だろ」

 

 誰も答えない。

 

「詩織に近づきたかった」

 

 それも本当だ。

 

「詩織の隣に立ちたかった」

 

 それも本当だ。

 

「でも」

 

 声が詰まる。

 

「それは、詩織を見てたからなのか」

 

 それとも。

 

 藤崎詩織に届いた自分を見たかったからなのか。

 

 最後の言葉は声にならなかった。

 

 扉の向こうの像が、静かに揺れる。

 

 悠真は顔を上げた。

 

 ガラスの中の藤崎詩織は、相変わらず美しかった。

 

 崩れない。

 

 怒らない。

 

 泣かない。

 

 悠真を責めない。

 

 ただ、遠い。

 

 その遠さを作ったのは、詩織だけではない。

 

 周囲だけでもない。

 

 悠真自身でもある。

 

 そのことを、認めかけていた。

 

 認めたくなかった。

 

 でも、否定しきれなかった。

 

「俺が……遠くに置いたのか」

 

 声は、廊下に小さく落ちた。

 

 その瞬間、扉がわずかに軋んだ。

 

 開いたわけではない。

 

 ただ、ほんの少しだけ、向こう側の空気が動いた。

 

 伝説の木の方から、白い花びらのようなものが流れてくる。

 

 ガラスの向こうの藤崎詩織は、ゆっくり後ろへ下がった。

 

 その背後に、中庭が見える。

 

 中庭の奥に、さらに別の影がある。

 

 玉座のように歪んだ伝説の木。

 

 その根元に、誰かが座っている。

 

 一瞬だけだった。

 

 けれど悠真には、それが詩織に似た影だと分かった。

 

 校門で会った、あの影。

 

 待っていた私。

 

 選ばれたかった私。

 

 外側に立つ私を認められなかった私。

 

 その影が、遠くでこちらを見ていた。

 

 声は聞こえない。

 

 けれど、口元が動いた。

 

 まだ、見ていない。

 

 悠真は立ち上がろうとした。

 

 足に力が入らない。

 

 扉の向こうの景色が薄れていく。

 

 ガラスに映っていた藤崎詩織も、少しずつ白く滲んでいく。

 

 最後に残ったのは、黒板の文字だった。

 

 あなたはまだ、彼女を見ていません。

 

 悠真は、何も言えなかった。

 

 違うと否定する力も残っていなかった。

 

 扉は、結局開かなかった。

 

 伝説の木は、遠いままだった。

 

 水瀬悠真は、廊下に立ち尽くしていた。

 

 自分が詩織を見ていたのか。

 

 藤崎詩織に届いた自分を見ていたのか。

 

 その答えは、まだ出ていない。

 

 けれど、ひとつだけ分かりかけていた。

 

 詩織を遠くに置いたのは、自分ではないと言い切ることは、もうできなかった。

 

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