藤崎詩織は、伝説の木の下に立つ   作:エーアイ

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水瀬悠真は、伝説の木の外側を見る

 扉は、開かなかった。

 

 水瀬悠真は、冷たい床に片手をついたまま、しばらく動けずにいた。

 

 白い粉が指先につく。

 

 チョークの粉。

 

 言葉が崩れたあとの残り。

 

 届かなかった言葉の残り。

 

 そう思うと、指先がひどく重く感じた。

 

 扉の向こうには、伝説の木があった。

 

 現実なら、少し歩けば行けるはずの場所。

 

 卒業式の日なら、校舎を出て、校庭を抜けて、春の光の中を歩けば届くはずの場所。

 

 けれど、この学校では遠い。

 

 扉は閉ざされている。

 

 廊下は長すぎる。

 

 掲示物は条件ばかりを貼りつける。

 

 黒板は、悠真が見たくない言葉ばかりを浮かび上がらせる。

 

 藤崎詩織にふさわしい者のみ通行可。

 

 努力は、本物でした。

 

 けれど、あなたはその努力の先に、誰を置きましたか。

 

 悠真は、奥歯を噛んだ。

 

「うるさい」

 

 小さく呟く。

 

 誰も答えない。

 

 けれど、廊下は静かに軋んだ。

 

 まるでその言葉さえ記録するように。

 

 扉のガラスに映っていた藤崎詩織の像は、もう薄れていた。

 

 誰からも信頼される少女。

 

 伝説の木にもっとも近い少女。

 

 悠真が三年間、届きたいと思って見上げ続けた藤崎詩織。

 

 その姿は消えたはずなのに、まだ胸の奥に残っている。

 

 違う。

 

 あれは詩織そのものではない。

 

 そう思いたい。

 

 けれど、完全には否定できなかった。

 

 綺麗だと思った。

 

 似合っていると思った。

 

 藤崎詩織らしいと思った。

 

 それは、悠真の中に確かにあった感情だった。

 

「俺は……」

 

 言いかけて、止まる。

 

 何を言えばいいのか分からない。

 

 詩織をそんなふうに見ていなかった。

 

 そう言うには、さっきの自分が邪魔をする。

 

 見ていた。

 

 少なくとも、そういう藤崎詩織を、自分は知っていた。

 

 知っていて、遠くに置いた。

 

 届きたいと思った。

 

 届けば、自分の三年間が何かに変わる気がした。

 

 そのことを、まだ認めたくなかった。

 

 悠真は、ようやく立ち上がった。

 

 扉は開かない。

 

 伝説の木は、ガラスの向こうで遠いままだ。

 

 それなら、別の道を探すしかない。

 

 そう思った時、廊下の明かりが一つ消えた。

 

 次に、別の明かりが灯る。

 

 廊下の奥。

 

 現実にはなかったはずの曲がり角が、いつの間にか現れていた。

 

 黒板も、掲示板もない。

 

 ただ、細い廊下が続いている。

 

 夕方のような光が差している。

 

 悠真は警戒しながら歩き出した。

 

 案内する声はない。

 

 誰かが手招きしているわけでもない。

 

 ただ、学校そのものが、次に見るべきものを変えたようだった。

 

 廊下の壁には、写真が貼られていた。

 

 卒業式の写真。

 

 体育祭の写真。

 

 文化祭の写真。

 

 修学旅行の写真。

 

 どれも見覚えがある。

 

 けれど、人の顔はぼやけている。

 

 はっきり映っているのは、藤崎詩織だけだった。

 

 詩織は、どの写真でも中心に近い場所にいる。

 

 笑っている。

 

 背筋を伸ばしている。

 

 誰かに囲まれている。

 

 誰かから頼られている。

 

 藤崎詩織として、そこにいる。

 

 悠真は、壁から目を逸らそうとした。

 

 その時、一枚だけ違う写真が見えた。

 

 伝説の木が写っている。

 

 卒業式の日らしい。

 

 青い空。

 

 校舎。

 

 花びら。

 

 そして、伝説の木。

 

 木の下には、誰かが立っている。

 

 顔は見えない。

 

 けれど、そこに立つ少女は、詩織ではなかった。

 

 悠真は、息を止めた。

 

 写真の端。

 

 木の下から少し離れた場所に、もう一人の少女が立っていた。

 

 詩織だった。

 

 いや、詩織に見える誰かだった。

 

 彼女は、木の下を見ている。

 

 祝福しているようにも見える。

 

 何かを言おうとしているようにも見える。

 

 でも、その口元は動かない。

 

 声は、写真の中に閉じ込められている。

 

 悠真は、写真に手を伸ばした。

 

 指先が触れた瞬間、景色が変わった。

 

 廊下が消える。

 

 白い粉が舞う。

 

 壁の写真がほどけ、春の光に変わっていく。

 

 次の瞬間、悠真は校庭に立っていた。

 

 卒業式の日の校庭だった。

 

 けれど、さっき見た夢の卒業式とは違う。

 

 人の声が遠い。

 

 拍手も、笑い声も、名前を呼ぶ声も、薄い膜の向こうから聞こえる。

 

 伝説の木がある。

 

 その下に、誰かが立っている。

 

 その周りには、人の気配がある。

 

 祝福の気配。

 

 誰かが言葉を届け、誰かがそれを受け取った。

 

 そういう空気が、そこにあった。

 

 悠真は、木の下へ向かおうとした。

 

 足が動かない。

 

 地面に縫い止められたように、そこから先へ進めない。

 

 代わりに、視線だけが横へ向いた。

 

 木の外側。

 

 ほんの少し離れた場所。

 

 そこに、藤崎詩織が立っていた。

 

 今度は、はっきり見えた。

 

 制服姿。

 

 整えられた髪。

 

 背筋は伸びている。

 

 けれど、いつもの藤崎詩織とは違った。

 

 彼女は、笑っていた。

 

 とても綺麗に。

 

 卒業式にふさわしい顔で。

 

 誰かを祝福するように。

 

 それなのに、その笑顔はひどく遠かった。

 

 悠真は、呼びかけようとした。

 

「詩織」

 

 声が出ない。

 

 詩織は、こちらを見ない。

 

 木の下を見ている。

 

 そこにいる誰かを見ている。

 

 届いた言葉を見ている。

 

 自分のものではなかった場所を見ている。

 

 悠真は、胸の奥が締めつけられるのを感じた。

 

 こんな詩織を、自分は知らない。

 

 伝説の木に似合う詩織なら、何度も想像した。

 

 木の下に立っている詩織。

 

 誰かに見つけられる詩織。

 

 誰かを待っている詩織。

 

 誰かを選ぶ詩織。

 

 それは、悠真の中に自然にあった。

 

 でも、木の外側に立つ詩織は、想像したことがなかった。

 

 伝説の木の下ではなく。

 

 その少し外。

 

 届いた言葉の外。

 

 祝福の外。

 

 そこで、藤崎詩織が笑っている。

 

 悠真は、その光景から目を逸らせなかった。

 

 詩織の唇が、少しだけ動いた。

 

 声は聞こえない。

 

 けれど、何かを言おうとしているのは分かった。

 

 祝福。

 

 たぶん、祝福だった。

 

 それは正しい。

 

 それは優しい。

 

 藤崎詩織らしい。

 

 けれど、その優しさの中に、置いていかれたものがある。

 

 悠真には、そう見えた。

 

 木の下から、誰かの声がした。

 

 内容は聞こえない。

 

 ただ、言葉が届いたことだけは分かった。

 

 その瞬間、詩織は少しだけ目を伏せた。

 

 ほんの一瞬。

 

 誰にも気づかれないほど短い。

 

 すぐに顔を上げて、また笑う。

 

 完璧に。

 

 綺麗に。

 

 藤崎詩織として。

 

 悠真の胸が痛んだ。

 

「やめろよ」

 

 声にならない言葉が喉に詰まる。

 

 そんな顔で笑うな。

 

 そう思った。

 

 けれど、その言葉は誰に向けたものなのか分からなかった。

 

 詩織に向けたのか。

 

 詩織をそこに立たせた何かに向けたのか。

 

 それとも、そんな詩織を想像したこともなかった自分に向けたのか。

 

 景色が揺れる。

 

 伝説の木の葉が、音もなく落ちる。

 

 一枚、二枚。

 

 落ちた葉は地面に触れる前に、白い粉になった。

 

 粉が空中に散り、文字のようなものを作る。

 

 届かなかった言葉。

 

 悠真は、それを読んだ。

 

 次の文字が揺れる。

 

 言えなかった名前。

 

 さらに、別の文字が滲む。

 

 祝福の外側。

 

 悠真は、息を詰めた。

 

 外側。

 

 その言葉が、胸に刺さる。

 

 詩織は、伝説の木にもっとも近い少女だと思っていた。

 

 周囲もそう見ていた。

 

 自分も、そう見ていた。

 

 だから、木の下に立つ詩織ばかりを想像した。

 

 けれど、詩織が木の外側に立つこともある。

 

 選ばれる側ではなく。

 

 待つ側でもなく。

 

 届いた言葉を受け取る側でもなく。

 

 誰かの春を、少し離れた場所から見る側。

 

 その場所に立つ詩織を、悠真は見たことがなかった。

 

 見ようともしていなかった。

 

「詩織……」

 

 今度は、かすかに声が出た。

 

 けれど、外側の詩織には届かない。

 

 彼女は木の下を見ている。

 

 微笑んでいる。

 

 何かを胸の奥に沈めながら、藤崎詩織として立っている。

 

 その姿は、悠真が見上げていた藤崎詩織とは違っていた。

 

 完璧ではない。

 

 いや、完璧に見せているからこそ、痛かった。

 

 見せない痛みが、そこにあった。

 

 悠真は一歩踏み出そうとした。

 

 やはり足は動かない。

 

 この景色は、悠真が変えられるものではない。

 

 過ぎたものなのか。

 

 起きていないものなのか。

 

 別のどこかにあったものなのか。

 

 分からない。

 

 ただ、そこに残っている。

 

 届かなかった言葉の残響として。

 

 終わったことにされた時間として。

 

 校舎の方から、黒板を叩くような音がした。

 

 景色の端に、文字が滲む。

 

 藤崎詩織は、いつも木の下にいるわけではありません。

 

 悠真は、胸を押さえた。

 

 そんなこと、当たり前だ。

 

 そう思いたかった。

 

 けれど、本当にそう見ていただろうか。

 

 伝説の木といえば藤崎詩織。

 

 藤崎詩織なら、木の下に似合う。

 

 詩織は選ばれる側にいる。

 

 詩織は待つ側にいる。

 

 詩織は、そこにいてくれる。

 

 自分は、どこかでそう思っていなかったか。

 

 外側に立つ詩織を、想像してこなかった。

 

 それは、詩織がそこに立たないと思っていたからか。

 

 それとも、そこに立つ詩織を見たくなかったからか。

 

 答えは出なかった。

 

 外側の詩織が、ゆっくり振り返った。

 

 悠真の方を見た。

 

 今度は、目が合った。

 

 その目は、現実の詩織のようでもあり、違う誰かのようでもあった。

 

 責めてはいなかった。

 

 泣いてもいなかった。

 

 ただ、静かだった。

 

 その静けさが、悠真には苦しかった。

 

 詩織は何かを言った。

 

 声は届かない。

 

 唇の動きだけが見える。

 

 おめでとう。

 

 そう言ったように見えた。

 

 悠真は、何も言えなかった。

 

 祝福の言葉。

 

 自分には届かなかった春を、祝うための言葉。

 

 届かないはずなのに、胸に刺さった。

 

 次の瞬間、校庭の景色が崩れ始めた。

 

 伝説の木が遠ざかる。

 

 木の下の誰かが薄れる。

 

 祝福の声が消えていく。

 

 外側の詩織だけが、最後まで残っていた。

 

 彼女はまだ笑っている。

 

 藤崎詩織として。

 

 壊れないように。

 

 崩れないように。

 

 自分の痛みを、誰にも渡さないように。

 

 悠真は、ようやく理解し始めた。

 

 詩織にも、外側に立つ痛みがある。

 

 藤崎詩織だからといって、いつも選ばれる側にいるわけではない。

 

 伝説の木に似合うからといって、必ず木の下に立てるわけではない。

 

 自分が見上げていた場所から、詩織が落ちることもある。

 

 いや。

 

 落ちるのではない。

 

 最初から、そこにしか立てないこともある。

 

 それを、悠真は見ていなかった。

 

 校庭が消えた。

 

 廊下が戻ってくる。

 

 悠真は、さっきの細い廊下に立っていた。

 

 壁には、あの写真がまだ貼られている。

 

 伝説の木。

 

 木の下の誰か。

 

 そして、木の外側に立つ詩織。

 

 写真の中の詩織は、やはり微笑んでいた。

 

 悠真は、その写真を見つめた。

 

「俺は……知らなかった」

 

 小さく言う。

 

 知らなかった。

 

 いや、知ろうとしなかった。

 

 藤崎詩織が遠くにいることばかりを見ていた。

 

 自分が届けるかどうかばかりを考えていた。

 

 でも、詩織がどこに立っているのかは、見ていなかった。

 

 木の下なのか。

 

 木の外側なのか。

 

 届く場所なのか。

 

 届かない場所なのか。

 

 見ていなかった。

 

 廊下の壁に、白い文字が滲んだ。

 

 見ていなかったものがあります。

 

 悠真は、黙ってその文字を見た。

 

 次の文字が浮かぶ。

 

 届かなかった声があります。

 

 さらに、その下に薄く。

 

 それでも、祝福した人がいます。

 

 悠真は、目を閉じた。

 

 外側の詩織の微笑みが、瞼の裏に残っている。

 

 綺麗だった。

 

 でも、痛かった。

 

 藤崎詩織らしかった。

 

 でも、それだけではなかった。

 

 自分は、詩織の強さを見ていた。

 

 けれど、その強さが何を隠しているのかは見ていなかった。

 

 そのことが、ようやく少しだけ分かった。

 

 廊下の奥で、扉が軋む音がした。

 

 さっきまで開かなかった扉とは別の扉だった。

 

 細い廊下の先。

 

 暗い階段へ続く扉が、ほんの少しだけ開いている。

 

 そこから、春の光ではなく、冬のような冷たい空気が流れてきた。

 

 悠真は、写真から目を離した。

 

 まだ、伝説の木へは行けない。

 

 藤崎詩織にふさわしい者として通る扉は開かなかった。

 

 けれど、別の道が開いた。

 

 見上げた藤崎詩織ではなく。

 

 外側に立つ詩織を見た後でしか進めない道。

 

 悠真は、深く息を吸った。

 

 そして、暗い階段へ向かって歩き出した。

 

 背後で、写真の中の詩織が静かに微笑んでいた。

 

 その声は、最後まで聞こえなかった。

 

 けれど、悠真にはもう、それがただの綺麗な笑顔には見えなかった。

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