暗い階段は、校舎の奥へ続いていた。
水瀬悠真は、手すりに触れながら一段ずつ下りていく。
階段には窓がなかった。
けれど、完全な闇ではない。
壁のどこかから、薄い白い光が漏れている。
チョークの粉が空中を漂っているような、ぼんやりとした光だった。
足を下ろすたびに、階段が小さく軋む。
その音が、妙に大きく響いた。
背後には、さっき見た写真があるはずだった。
伝説の木。
木の下の誰か。
そして、木の外側に立つ詩織。
自分には届かなかった春を、祝うための言葉。
その姿が、まだ胸の奥に残っている。
悠真は、唇を噛んだ。
知らなかった。
そう思った。
でも、知らなかっただけで済ませていいのかは分からなかった。
詩織を見ていたつもりだった。
近づこうとしていた。
追いつきたかった。
隣に立ちたかった。
でも、詩織がどこに立っていたのかは、見ていなかった。
伝説の木の下にいる詩織ばかりを想像していた。
そこに似合う藤崎詩織ばかりを見ていた。
外側に立つ詩織など、考えたこともなかった。
階段の途中で、壁に文字が滲んだ。
待っていた私。
悠真は足を止めた。
白い文字はすぐに崩れ、粉になって消える。
次の段に、また文字が浮かぶ。
選ばれたかった私。
さらに下の段。
外側を認められなかった私。
悠真は、息を詰めた。
これはもう、条件ではなかった。
成績。
努力。
資格。
ふさわしい者。
そういう言葉ではない。
もっと奥にある、感情そのものだった。
誰かが隠していたもの。
見せないようにしていたもの。
それでも消えずに残ってしまったもの。
階段の壁に、別の文字が一瞬だけ浮かんだ。
春の約束。
悠真は目を細めた。
その文字はすぐに滲み、別の言葉へ変わる。
終わったら行こう。
その瞬間、悠真の胸に冷たいものが落ちた。
自分の記憶ではない。
少なくとも、今の自分が体験したものではない。
けれど、その言葉の重さだけが分かった。
誰かの春に、誰かがいる。
その春に入れなかった誰かがいる。
廊下の踊り場。
冬の光。
進路指導室へ向かう書類。
声を出さずに泣いた夜。
そうした断片が、チョークの粉のように階段の壁を流れていった。
悠真は、それを見つめた。
意味は分からない。
けれど、ひとつだけ分かった。
この学校に残っている痛みは、今ここにいる詩織だけのものではない。
どこか別の場所で。
別の時間で。
別の終わり方をした藤崎詩織の痛みも、ここへ混ざっている。
誰にも見えない場所で、胸の奥の何かが破裂したような痛み。
名前をつけられなかった感情。
大丈夫な顔で翌朝を迎えた痛み。
それらもまた、この影を濃くしている。
「……何なんだよ」
悠真は呟いた。
答えはない。
ただ、階段の先から風が吹いた。
春の風ではなかった。
冷たい風だった。
卒業式の日の明るさとは違う。
校舎の奥に沈んだ、冬の名残のような風。
悠真は階段を下りきった。
そこは中庭だった。
いや、中庭に似た場所だった。
現実のきらめき高校にも、中庭はある。
校舎と校舎の間にあり、昼休みには生徒が通り、放課後には誰かが立ち話をする場所。
けれど、目の前の中庭は違っていた。
広すぎる。
校舎に囲まれているはずなのに、空が見えない。
頭上には、黒板のような暗い天井が広がっている。
そこに、白い粉で描かれたような枝が伸びていた。
伝説の木だった。
本来なら校庭の奥にあるはずの木が、ここにある。
だが、現実の木とは違う。
幹は黒く、根は中庭の床を裂くように広がっている。
根の一部が段差を作り、椅子のように盛り上がっていた。
枝は冠のように広がり、葉は一枚も揺れていない。
玉座。
悠真は、その言葉を思い浮かべた。
伝説の木が、玉座になっている。
その根元に、彼女は座っていた。
藤崎詩織だった。
いや。
藤崎詩織の影だった。
制服姿。
整った髪。
静かな表情。
けれど、昼間の詩織とは違う。
影が濃い。
目の奥が暗い。
微笑んでいるのに、その笑みは温かくない。
ただ、完璧だった。
藤崎詩織として、完璧にそこに座っていた。
彼女は、悠真を見ていた。
ずっと前から、そこに来るのを知っていたように。
「遅かったわね、悠真くん」
声は静かだった。
校門で聞いた声と同じだった。
けれど、ここではもっと近い。
もっと深い。
悠真は、足を止めた。
「お前は……」
「もう聞いたでしょう?」
詩織の影は微笑む。
「私は、藤崎詩織が認めなかった藤崎詩織」
根の玉座に座ったまま、彼女は続ける。
「待っていた私」
「選ばれたかった私」
「外側に立つ私を、どうしても認められなかった私」
その言葉は、階段で見た文字と同じだった。
だが、本人の口から聞くと、重さが違った。
悠真は、拳を握る。
「詩織は……そんなこと」
言いかけて、止まる。
そんなこと思っていない。
そう言おうとした。
けれど、言えなかった。
木の外側に立つ詩織を見た後では、簡単に否定できなかった。
さらに、階段で見た断片も胸に残っている。
冬の廊下。
彼の春に、別の誰かがいた痛み。
声を出さずに泣いた夜。
それは、今の詩織の記憶ではないのかもしれない。
だが、藤崎詩織という存在のどこかで起きた痛みだった。
だから、この影を完全な嘘だとは言えなかった。
詩織の影は、静かに首を傾げる。
「そんなこと?」
悠真は黙る。
彼女は責めるようには笑わなかった。
ただ、言葉を待っていた。
その待ち方が、ひどく彼女らしかった。
「詩織は、いつもちゃんとしてた」
悠真は言った。
「誰かを恨むようなことも、誰かに選ばれたいなんて顔も、してなかった」
「そうね」
詩織の影は頷いた。
「私は、ちゃんとしていたわ」
その返事が、悠真を止めた。
否定しない。
怒らない。
ただ、認める。
「私は、藤崎詩織だったもの」
彼女は言う。
「成績も、振る舞いも、返事も、笑い方も、できるだけ正しく整えた」
「先生に頼られれば応えた」
「友人に期待されれば笑った」
「伝説の木に似合うと言われれば、困ったように流した」
「幼馴染のあなたが何も言わなくても、何も言わないまま微笑んだ」
悠真は、胸が詰まった。
彼女の言葉は、現実の詩織そのものではない。
分かっている。
これは詩織の影だ。
詩織が認めなかった自分だ。
それでも、まったくの嘘には聞こえなかった。
「あなたは、何も言わなかった」
詩織の影が言った。
「卒業式の朝も」
「校庭でも」
「伝説の木の話を聞いた時も」
「何も言わなかった」
悠真は、思わず顔を上げた。
「俺だけが何も言わなかったみたいに言うなよ」
声が、思ったより強く出た。
中庭に響く。
「詩織だって、何も言わなかっただろ」
詩織の影は、黙って悠真を見ている。
悠真は続けた。
「いつも平気そうに笑って」
「藤崎詩織のままで」
「何でもないみたいにして」
「俺が何を言えばいいのか、分からなくなるくらい遠かったんだ」
言ってから、自分でも驚いた。
こんな言葉を、現実の詩織には言えなかった。
言うつもりもなかった。
けれど、ここでは出てしまった。
目の前にいるのが、現実の詩織ではないからかもしれない。
影だから。
夢だから。
この終われなかった卒業式の中だから。
それでも、言葉は自分の中から出てきたものだった。
詩織の影は、怒らなかった。
傷ついた顔もしなかった。
ただ、静かに頷いた。
「ええ」
その一言に、悠真は言葉を失った。
「私は、何も言わなかった」
彼女は言った。
「あなたが来るかもしれないと思いながら、私からは行かなかった」
「あなたが気づくかもしれないと思いながら、私は聞かなかった」
「あなたが言ってくれるかもしれないと思いながら、私は待っていた」
根の玉座に座ったまま、彼女は悠真を見下ろしている。
けれど、その声は高くなかった。
むしろ、低く沈んでいた。
「そうすれば、私は選ばれる側でいられたから」
悠真は、息を呑んだ。
選ばれる側。
その言葉は、胸に深く刺さった。
友人たちの声が、遠くから重なる。
藤崎さんなら。
詩織なら。
伝説の木に似合う。
水瀬くんとか。
そして、別の声も混じる。
終わったら行こう。
春になれば大丈夫だよ。
それは悠真の知らない声だった。
けれど、詩織の影の奥で、何かを強く揺らしている。
詩織の影は、静かに続けた。
「私は、自分から行かなかった」
「私は、あなたに聞かなかった」
「何のために頑張っているの、とは聞かなかった」
「卒業式の日、どうするつもりなの、とも聞かなかった」
「聞けば、答えを受け取らなければならなかったから」
「受け取れば、私も答えなければならなかったから」
悠真は、何も言えなかった。
詩織は、気づいていたのか。
自分が頑張っていたことに。
近づこうとしていたことに。
それを、完全には分からないままでも、見ていたのか。
それでも聞かなかったのか。
「でも」
詩織の影は、微笑んだ。
「あなたも同じでしょう?」
悠真は顔を上げる。
「同じ?」
「ええ」
彼女は、玉座の根に指を添えた。
根が、中庭の床をゆっくり這う。
その根元に、白い文字が滲む。
見上げていた。
届きたかった。
選ばれたかった。
悠真は、その文字から目を逸らせなかった。
「あなたは、私を遠い場所に置いた」
詩織の影が言う。
「藤崎詩織にふさわしい者になろうとした」
「藤崎詩織に届けば、自分の三年間が報われるような気がした」
「違う?」
悠真は、反論しようとした。
違う。
そう言いたかった。
けれど、声が出なかった。
ガラスの中の藤崎詩織が、胸の奥に蘇る。
美しく、遠く、手を伸ばせば届きそうで、届かない少女。
努力すれば近づけるかもしれない場所。
選ばれれば、自分が報われるかもしれない場所。
そんなふうに見ていなかった、と言い切れなかった。
「俺は、詩織に近づきたかっただけだ」
ようやく、それだけ言った。
詩織の影は頷く。
「知っているわ」
その返事は、少しだけ優しかった。
「あなたが努力していたことも」
「変わろうとしていたことも」
「私に近づこうとしていたことも」
「私は、見ていた」
悠真は、胸が苦しくなる。
「なら……」
「でも、私は聞かなかった」
彼女は言葉を重ねた。
「そして、あなたも言わなかった」
中庭に、静けさが落ちる。
伝説の木の黒い枝が、動かないまま空を覆っている。
玉座の周囲には、白い紙片が散っていた。
卒業証書の筒に似た白。
告白の言葉になりきれなかった紙。
届かなかった名前。
聞かれなかった問い。
声を出さずに泣いた夜の跡。
それらが、根の間に絡まっている。
詩織の影は、その中心に座っていた。
「ここは、私だけの玉座ではないわ」
悠真は顔を上げた。
「あなたも、ここに私を置いた」
その言葉は、静かだった。
だからこそ逃げられなかった。
「藤崎詩織なら、ここで待っている」
「藤崎詩織なら、伝説の木に似合う」
「藤崎詩織なら、最後に誰かを選ぶ」
「藤崎詩織なら、あなたを選んでくれるかもしれない」
「あなたも、そう思ったでしょう?」
悠真は、拳を握る。
「俺は……」
言葉が続かない。
そんなふうに、はっきり考えたことはない。
でも、考えていなかったとも言えない。
伝説の木の下に立つ詩織を、自然に想像した。
そこへ行く自分も、どこかで想像した。
詩織が自分を選ぶ可能性を、まったく考えなかったわけではない。
むしろ、期待していたのかもしれない。
自分から言わずに。
自分から聞かずに。
それでも、どこかで。
「……俺だけじゃない」
悠真は、絞り出すように言った。
「俺だけが、詩織をそこに置いたわけじゃない」
「そうね」
詩織の影は頷く。
「周りも置いたわ」
「先生も、友人たちも、噂も、伝説の木も」
「別の場所で破裂した、藤崎詩織の痛みも」
悠真は息を呑んだ。
「別の場所……?」
詩織の影は、少しだけ目を伏せた。
「彼の春に、自分がいなかった私」
その言葉は、ひどく静かだった。
「祝福できたのに、息ができなかった私」
「大丈夫な顔で教室に戻った私」
「夜、自分が泣いていることに気づくまで、泣いている理由も分からなかった私」
悠真は、何も言えなかった。
それは今の自分の記憶ではない。
今の詩織の記憶でもないのかもしれない。
けれど、その痛みがこの場所に混ざっていることだけは分かった。
詩織の影は続ける。
「その痛みも、ここに流れ込んでいる」
「選ばれなかった私」
「言えなかった私」
「壊れたことを、翌朝にはなかったことにした私」
「そういう私が重なって、影は濃くなった」
悠真は、玉座を見る。
黒い根の奥に、白い紙片が絡んでいる。
その中には、卒業式のものではない紙もあった。
問題集のページのような紙。
進路指導室の書類のような紙。
涙で少し歪んだノートのような紙。
それらが、伝説の木の根に巻き込まれている。
藤崎詩織の影は、今の詩織だけから生まれたものではない。
待っていた痛み。
選ばれなかった痛み。
祝福した痛み。
言えなかった痛み。
別のどこかで破裂した痛み。
それらが、ここに集まっている。
「そして、私自身も置いた」
詩織の影は言った。
「藤崎詩織なら大丈夫」
「藤崎詩織なら選ばれる」
「藤崎詩織なら、待っていても誰かが来る」
「そう思うことで、私は動かずにいられた」
「だから」
彼女は玉座の根に手を置く。
「私はここにいるの」
悠真は、何も言えなかった。
詩織の影は、悪役のようには見えなかった。
怖い。
確かに怖い。
けれど、ただ悠真を責めるだけの存在ではなかった。
彼女は、待っていた。
待つことに慣れすぎたもの。
選ばれる側でいることに慣れすぎたもの。
外側に立つ自分を認められなかったもの。
そして、その場所を作ったのは、詩織だけではない。
自分も、関わっている。
そのことが、重かった。
「今からでも、ここへ来ればいいわ」
詩織の影が言った。
悠真は、息を止めた。
彼女は玉座から降りない。
ただ、根の上から手を差し出す。
白く、細い手。
現実の詩織と同じ手。
けれど、その影は濃い。
「条件を満たして」
「私にふさわしいあなたになって」
「私を選んで」
「そして、私に選ばれて」
悠真の足が、ほんの少し動いた。
嫌なほど、自然に。
その構図を、自分のどこかが望んでいたからだ。
伝説の木の下の藤崎詩織。
そこへ辿り着く自分。
選ばれる自分。
報われる三年間。
その絵は、甘かった。
甘くて、苦しかった。
悠真は、歯を食いしばる。
「……違う」
今度の否定は、かすれていた。
詩織の影は、手を伸ばしたまま微笑む。
「何が違うの?」
悠真は答えられない。
詩織をそんなふうにしたくない。
そう思う。
でも、自分の中にその願いがなかったとは言い切れない。
現実の詩織に会いたい。
そう思う。
でも、現実の詩織がどこにいるのか、まだ分からない。
見上げた藤崎詩織。
外側に立つ詩織。
玉座で待つ影。
そして、どこか別の冬の夜、声を殺して泣いた藤崎詩織。
どれも詩織ではない。
けれど、どれも藤崎詩織から完全に切り離せない。
悠真は、言葉を失った。
詩織の影は、静かに手を下ろした。
「勘違いしないで」
悠真は顔を上げた。
詩織の影は、玉座から動かない。
それでも、その声はさっきより近く聞こえた。
「私は、私を選べと言っているのではないわ」
悠真は、息を止める。
「現実の藤崎詩織へ告白しろと言っているのでもない」
彼女は続けた。
「答えだけが欲しいわけではないの」
「勝ちたいわけでも、誰かから奪いたいわけでもない」
「ただ」
影の濃い瞳が、悠真を見た。
「見ないまま卒業しないで」
その言葉は、静かだった。
だから、深く届いた。
「待っていた私を」
「選ばれたかった私を」
「外側に立って、それでも笑った私を」
「別の場所で、声を殺して泣いた私を」
「全部、なかったことにして終わらせないで」
悠真は、何も言えなかった。
それは命令ではなかった。
告白の要求でもなかった。
恋の成就を迫る言葉でもなかった。
ただ、消されたくないものの声だった。
藤崎詩織でいるために切り捨てたもの。
穏やかに笑うために押し込めたもの。
何もなかったように卒業するために、置き去りにされそうになっていたもの。
その全部が、ここで声になっていた。
「私は、終わったことにされたくない」
詩織の影は言った。
「綺麗な卒業式の中で、なかったことにされたくない」
「あなたにも」
「現実の私にも」
「見ないまま、行ってほしくない」
悠真は、喉の奥が詰まった。
ようやく少しだけ分かった。
詩織の影は、現実の詩織の代わりに答えを出そうとしているのではない。
悠真に告白させるために、ここにいるのでもない。
ただ、見なかったものを見ろと言っている。
なかったことにするなと言っている。
それができないまま卒業することを、拒んでいる。
その瞬間、根が床を這った。
黒い根が悠真の足元に絡みつく。
痛みはない。
けれど、動けない。
詩織の影は、静かに目を伏せた。
「あなたはまだ、私を見ていない」
その声は、冷たくはなかった。
むしろ、少し寂しそうだった。
「あなたが見ているのは、伝説の木の下の藤崎詩織よ」
悠真は、息を呑む。
「違う」と言いたかった。
けれど、その言葉はもう出なかった。
中庭の景色が揺れる。
玉座の伝説の木が遠ざかる。
詩織の影の姿も、少しずつ薄れていく。
最後に、彼女の声だけが残った。
「もう少し見てきなさい」
「あなたが届かなかったものを」
「私が言えなかったものを」
「別の私が、胸の奥で破裂させたものを」
「そして、あなたたちが終わったことにしようとした卒業式を」
根がほどける。
悠真の体が後ろへ弾かれた。
廊下へ戻される。
冷たい床に背中を打つ。
息が詰まる。
見上げると、そこは最初の廊下ではなかった。
暗い階段の前でもない。
見知らぬ教室の前だった。
扉には、薄く文字が滲んでいる。
聞かなかった問い。
悠真は、床に座り込んだまま、しばらく動けなかった。
言い返した。
少しだけ。
でも、勝てなかった。
むしろ、言い返したことで、余計に分かってしまった。
詩織だけが何も言わなかったわけではない。
自分だけが悪かったわけでもない。
けれど、だからといって、自分が関係ないわけでもない。
玉座は、詩織だけが作ったものではなかった。
周囲が作った。
噂が作った。
藤崎詩織自身も作った。
別の世界で破裂した、藤崎詩織の痛みも流れ込んでいた。
そして、水瀬悠真も作った。
その事実が、床の冷たさよりも重かった。
悠真は、ゆっくり顔を上げた。
扉の向こうから、かすかに声が聞こえる。
詩織の声だった。
けれど、現実の詩織の声よりも幼く、少しだけ近い。
何かを聞きかけて、飲み込むような声。
悠真は、立ち上がった。
まだ終わっていない。
そう思った。
卒業式も。
自分の問いも。
詩織の影も。
何も終わっていない。
悠真は、扉に手をかけた。
聞かなかった問い。
その文字が、白い粉になって崩れる。
扉が、ゆっくり開いた。