藤崎詩織は、伝説の木の下に立つ   作:エーアイ

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水瀬悠真は、聞かれなかった問いを見る

 扉の向こうは、教室だった。

 

 水瀬悠真は、ゆっくりと中へ入った。

 

 そこは、見覚えのある教室だった。

 

 三年生の教室。

 

 窓際の席。

 

 黒板。

 

 掲示板。

 

 後ろのロッカー。

 

 どれも、現実のきらめき高校と同じように見える。

 

 けれど、人はいなかった。

 

 机と椅子だけが並んでいる。

 

 窓からは夕方の光が差し込んでいた。

 

 放課後の色だった。

 

 卒業式前の春ではない。

 

 もっと前。

 

 受験や進路の話が少しずつ増え始めた頃の、秋から冬へ向かうような光。

 

 悠真は教室の中を見回した。

 

 黒板には、薄く白い文字が残っている。

 

 聞かなかった問い。

 

 扉に書かれていた文字と同じだった。

 

 その下には、かすれた文字が続いている。

 

 何のために頑張っているの。

 

 悠真は、息を止めた。

 

 その問いを、誰かに聞かれたことはない。

 

 少なくとも、詩織からは。

 

 けれど、自分の中には何度もあった。

 

 聞かれたらどう答えるのか。

 

 詩織に近づきたいから。

 

 詩織の隣に立てる自分になりたいから。

 

 藤崎詩織に選ばれてもおかしくない自分になりたいから。

 

 どれも、本当だった。

 

 けれど、どれもそのまま言うには怖すぎた。

 

 悠真は黒板から目を逸らした。

 

 その時、教室の空気が揺れた。

 

 机の隙間に、人影が浮かぶ。

 

 生徒たちのざわめきが戻ってくる。

 

 椅子を引く音。

 

 鞄を閉じる音。

 

 誰かが笑う声。

 

 放課後の教室が、少しずつ現実の記憶に近づいていく。

 

 悠真は、その場に立ったまま動けなかった。

 

 自分の席に、過去の自分がいた。

 

 机に向かい、参考書を開いている。

 

 放課後の教室。

 

 他の生徒はほとんど帰っている。

 

 窓の外は夕方。

 

 机の上には、英語の参考書とノート。

 

 覚えのある場面だった。

 

 一年の冬。

 

 悠真が、少しずつ勉強を始めた頃。

 

 人に見られるのが恥ずかしくて、放課後に残っていた頃。

 

 過去の悠真は、ノートに単語を書いていた。

 

 少し乱れた文字。

 

 何度か消しゴムで消した跡。

 

 努力と呼ぶには、まだぎこちない。

 

 けれど、確かに何かを始めようとしている手だった。

 

 悠真は、自分自身を見ていた。

 

 妙な感覚だった。

 

 見ているのは自分なのに、その姿は少し遠い。

 

 あの時の自分は、必死だったのだと思う。

 

 何かを変えたかった。

 

 何かに近づきたかった。

 

 でも、その理由を誰にも言えなかった。

 

 教室の扉が開いた。

 

 藤崎詩織が入ってきた。

 

 忘れ物を取りに戻ってきたのだろう。

 

 過去の詩織は、教室に入ってすぐ、悠真に気づいた。

 

「勉強していたの?」

 

 その声は、現実で聞いたものと同じだった。

 

 過去の悠真は、少し慌てる。

 

「まあ、ちょっと」

 

 そう答える。

 

 詩織は、机の上のノートを見た。

 

 ほんの少しだけ、目を細める。

 

 その表情を、当時の悠真は気づかなかった。

 

 けれど今の悠真には分かった。

 

 詩織は、気づいていた。

 

 ただ参考書を開いているだけではない。

 

 悠真が本当に少しずつ変わろうとしていることに。

 

 無理をしているのかもしれないことに。

 

 何かのために頑張っているのかもしれないことに。

 

 詩織は、聞けた。

 

 どうして急に頑張っているの。

 

 何か目標があるの。

 

 何か変えたいことがあるの。

 

 その問いは、詩織の喉元まで来ていた。

 

 悠真には、それが見えた。

 

 声にならなかった問いが、白い粉のように詩織の周りに浮かんでいる。

 

 何のために頑張っているの。

 

 聞ける距離にあった。

 

 幼馴染なら聞いてもおかしくなかった。

 

 昔から知っている相手なら、踏み込めるはずだった。

 

 けれど、詩織は聞かなかった。

 

「無理しないでね」

 

 彼女は、それだけを言った。

 

 過去の悠真は軽く手を振る。

 

「ああ」

 

 その会話は、それで終わった。

 

 詩織は忘れ物を取って、教室を出ていく。

 

 過去の悠真は、少しだけ息を吐き、またノートに目を戻す。

 

 何事もなかったように。

 

 けれど、今の悠真は動けなかった。

 

 聞いてくれたら。

 

 そう思いかけて、悠真は言葉を止めた。

 

 では、聞かれたら自分は答えられたのか。

 

 詩織に近づきたかった。

 

 詩織に見てほしかった。

 

 藤崎詩織に選ばれてもおかしくない自分になりたかった。

 

 そんなことを、あの時の自分が言えたのか。

 

 言えなかった。

 

 たぶん、聞かれても困った。

 

 それでも、聞かれなかったことを少し寂しいと思っていた。

 

 その身勝手さに、悠真は今さら気づいた。

 

 教室の風景が白く滲む。

 

 次の場面へ移る。

 

 図書室だった。

 

 二年生の頃。

 

 窓際の机で、悠真がノートを広げている。

 

 周囲には数人の生徒がいる。

 

 本棚の間を歩く詩織の姿が見えた。

 

 二年生になって、詩織とは別のクラスになっていた。

 

 それでも、図書室や廊下で見かけることはあった。

 

 過去の悠真は、詩織に気づいていない。

 

 問題集を見ながら、眉を寄せている。

 

 苦手な問題なのだろう。

 

 何度も同じ行を読んでいる。

 

 詩織は、本を抱えたまま少し離れた場所で立ち止まった。

 

 声をかけるか迷っている。

 

 悠真には、その迷いが見えた。

 

 また、白い粉のような問いが浮かぶ。

 

 最近、頑張っているわね。

 

 何かあったの。

 

 誰かに追いつきたいの。

 

 その問いは、図書室の静けさの中で漂っていた。

 

 けれど、詩織は声にしなかった。

 

 図書室だからではない。

 

 周囲に人がいるからでもない。

 

 聞けば、何かが変わる。

 

 そう分かっていたからだ。

 

 詩織は、一冊の本を棚から取り出した。

 

 何もなかったように、貸出カウンターへ向かう。

 

 過去の悠真は、最後まで気づかない。

 

 今の悠真だけが、その背中を見ていた。

 

「……見てたのか」

 

 小さく呟く。

 

 返事はない。

 

 けれど、図書室の窓に文字が滲む。

 

 見ていました。

 

 悠真は、胸の奥が重くなるのを感じた。

 

 無関心だったわけではない。

 

 気づいていなかったわけでもない。

 

 詩織は見ていた。

 

 ただ、聞かなかった。

 

 景色がまた変わる。

 

 三年生の教室。

 

 模試の結果が返った日だった。

 

 過去の悠真が、友人に肩を叩かれている。

 

「水瀬、頑張ってるじゃん」

 

「いや、たまたまだって」

 

 その声が聞こえる。

 

 そこへ詩織が近づく。

 

「悠真くん、頑張ったのね」

 

 彼女の声は穏やかだった。

 

 過去の悠真は、少し言葉に詰まる。

 

「いや、まあ……たまたまだよ」

 

「たまたまではないと思うわ」

 

 詩織は静かに言った。

 

 その言葉に、過去の悠真の表情が少しだけ揺れる。

 

 嬉しかった。

 

 今なら分かる。

 

 嬉しかったのに、素直には受け取れなかった。

 

「詩織に言われると、少し怖いな」

 

「どうして?」

 

「ちゃんとしろって言われてるみたいで」

 

「そんなつもりではないわ」

 

 詩織は少しだけ笑った。

 

 その笑顔の裏で、また問いが浮かぶ。

 

 本当は、何のために頑張っているの。

 

 その問いは、前よりもはっきりしていた。

 

 詩織は、もう気づきかけていた。

 

 悠真がただ成績のためだけに頑張っているのではないことに。

 

 何かに追いつこうとしていることに。

 

 誰かに見られたいと思っていることに。

 

 もしかすると、その誰かの中に自分がいるのかもしれないことに。

 

 けれど、そこまで考えた瞬間、詩織は問いを飲み込んだ。

 

 聞けば、答えを受け取らなければならない。

 

 答えを受け取れば、自分も何かを返さなければならない。

 

 それが怖かった。

 

 悠真は、その沈黙を見た。

 

 過去の自分は気づいていない。

 

 ただ、会話を終わらせている。

 

 でも今の自分には、詩織の中で問いが生まれ、消えていく瞬間が見えてしまう。

 

 聞いてほしかった。

 

 その思いは、確かにあった。

 

 でも、聞かれたら困った。

 

 その弱さも、確かにあった。

 

 悠真は、過去の詩織に向かって何かを言いかけた。

 

 けれど、言葉にはしなかった。

 

 言えなかった。

 

 言わなかった自分が、そこにいるからだ。

 

 詩織だけを責めることはできなかった。

 

 黒板に、白い文字が滲む。

 

 聞かなかった問い。

 

 その下に、別の文字が浮かぶ。

 

 答えられなかったかもしれない答え。

 

 悠真は、言葉を失った。

 

 そうだ。

 

 詩織が聞かなかっただけではない。

 

 自分も、答える準備ができていなかった。

 

 聞かれたら困ると思っていた。

 

 でも、聞かれなければ寂しいと思っていた。

 

 自分はずっと、相手に踏み込んでほしいと思いながら、自分からは踏み込まなかった。

 

 詩織も同じだったのかもしれない。

 

 聞きたかった。

 

 でも、聞けなかった。

 

 知りたかった。

 

 でも、知ってしまえば、何かを返さなければならない。

 

 二人は、同じ場所で立ち止まっていた。

 

 教室の景色が崩れる。

 

 次に現れたのは、進路指導室前の廊下だった。

 

 卒業式が近づいた頃。

 

 詩織が書類を持って歩いている。

 

 悠真は少し離れた場所に立っていた。

 

 これは、見覚えがあった。

 

 詩織が書類を持って職員室か進路指導室へ向かっていた日。

 

 自分は声をかけたはずだ。

 

「手伝おうか?」

 

 過去の悠真が言う。

 

 詩織は少しだけ迷った。

 

 ほんの少し。

 

 だが、その迷いは今の悠真にははっきり見えた。

 

 頼むこともできた。

 

 一緒に歩くこともできた。

 

 その間に、何かを聞くこともできた。

 

 最近、卒業式のこと考えている? 

 

 伝説の木のこと、どう思っている? 

 

 悠真くんは、卒業したらどうするの? 

 

 私たちは、このままなの? 

 

 問いは、いくつもあった。

 

 けれど、詩織はいつものように微笑む。

 

「大丈夫よ。これくらい」

 

 過去の悠真は頷く。

 

「そっか」

 

 それで終わった。

 

 詩織は、一人で廊下を歩いていく。

 

 悠真はその背中を見ている。

 

 今の悠真は、両方を見ていた。

 

 声をかけた自分。

 

 断った詩織。

 

 どちらも間違っていない。

 

 どちらも自然だった。

 

 でも、その自然さが、二人の間に残るものを増やしていった。

 

 聞かなかった問い。

 

 言わなかった答え。

 

 差し出しかけて、引っ込めた手。

 

 受け取れるはずだったのに、受け取らなかった時間。

 

 廊下の窓に、詩織の横顔が映る。

 

 その横顔は、少しだけ苦しそうだった。

 

 当時の悠真は気づかなかった。

 

 でも今の悠真には見えた。

 

 詩織は、完全に平気だったわけではない。

 

 何も考えていなかったわけでもない。

 

 ただ、藤崎詩織として、ちゃんと笑っていただけだった。

 

「……無関心だったわけじゃないんだな」

 

 悠真は呟いた。

 

 窓に映る詩織は答えない。

 

 けれど、白い文字がゆっくり滲む。

 

 気づいていたから、聞けませんでした。

 

 悠真は、息を止めた。

 

 その言葉は、静かに胸に刺さった。

 

 気づいていなかったから聞かなかったのではない。

 

 どうでもよかったから聞かなかったのでもない。

 

 気づいていた。

 

 だから怖かった。

 

 聞けば、答えが返ってくる。

 

 答えが返ってくれば、自分も何かを返さなければならない。

 

 詩織は、それを避けた。

 

 自分も、同じだった。

 

 言えば、何かが返ってくる。

 

 返ってこないかもしれない。

 

 どちらにしても、関係は変わる。

 

 だから言わなかった。

 

 二人は、互いに相手の沈黙を読めなかったのではない。

 

 読もうとしなかった。

 

 いや。

 

 読んでしまうのが怖かった。

 

 廊下の奥から、卒業式の拍手が聞こえた。

 

 遠い。

 

 まだ来ていないはずの卒業式。

 

 けれど、この歪んだ学校の中では、それがもう何度も終わったことにされているように感じた。

 

 悠真は、その拍手を聞きながら、顔を上げた。

 

「俺だけじゃ、なかったのか」

 

 声が廊下に落ちる。

 

「俺だけが言えなかったんじゃなくて」

 

 詩織も、聞けなかった。

 

 その事実が、胸に重く沈む。

 

 それは救いではなかった。

 

 自分だけが悪くないと分かったから楽になる、というものでもない。

 

 むしろ、余計に苦しかった。

 

 二人とも、手を伸ばせたかもしれない。

 

 二人とも、言葉を選べたかもしれない。

 

 それなのに、どちらも選ばなかった。

 

 幼馴染という言葉の中にいれば、近いままでいられる。

 

 でも、その外へ出なくて済む。

 

 二人はたぶん、その安全な距離に隠れていた。

 

 詩織は聞かなかった。

 

 悠真は言わなかった。

 

 聞いてほしかったくせに、答える覚悟はなかった。

 

 言いたかったくせに、自分から壊す勇気はなかった。

 

 だから、終わらない卒業式が生まれた。

 

 終わったことにされた時間が、この学校に残った。

 

 廊下の景色が、また崩れ始める。

 

 教室。

 

 図書室。

 

 模試の日。

 

 進路指導室前。

 

 いくつもの場面が重なっていく。

 

 その中心に、詩織がいる。

 

 藤崎詩織として笑っている。

 

 聞きたいのに聞かない。

 

 気づいているのに確かめない。

 

 答えを受け取ることを怖がっている。

 

 その姿を、悠真は見ていた。

 

 ようやく見ていた。

 

 その時、背後から声がした。

 

「見えた?」

 

 悠真は振り返った。

 

 そこに、詩織の影はいなかった。

 

 けれど、声だけがあった。

 

 玉座から届いているのか。

 

 廊下の壁から聞こえているのか。

 

 分からない。

 

「私は、あなたに答えを出させたいわけではない」

 

 その声は静かだった。

 

「私が聞かなかったことを、あなたにも見てほしかった」

 

 悠真は、黙って聞いていた。

 

「聞かなかった問いは、消えない」

 

「言わなかった答えも、消えない」

 

「消えないのに、卒業式だけが綺麗に終わろうとする」

 

「だから、終わらせない」

 

 その言葉に、悠真は目を伏せた。

 

 玉座で聞いた言葉が、胸に戻る。

 

 見ないまま卒業しないで。

 

 なかったことにして終わらせないで。

 

 詩織の影は、告白を迫っているのではない。

 

 選べと言っているのでもない。

 

 見ろと言っている。

 

 なかったことにするなと言っている。

 

 その意味が、少しだけ分かった気がした。

 

「俺は……」

 

 悠真は口を開いた。

 

「見てなかった」

 

 声は小さかった。

 

 けれど、今度はごまかしではなかった。

 

「詩織が聞けなかったことも」

 

「俺が答えられなかったかもしれないことも」

 

「見てなかった」

 

 廊下の壁に、白い粉が舞う。

 

 文字になりかけて、崩れる。

 

 その中に、ひとつだけはっきり残った言葉があった。

 

 まだ、見られます。

 

 悠真は、顔を上げた。

 

 廊下の先に、扉があった。

 

 今までの扉とは違う。

 

 黒板でも、掲示板でも、条件でもない。

 

 普通の教室の扉。

 

 その向こうから、春の光が漏れている。

 

 だが、その光は明るすぎない。

 

 朝のような、柔らかい光だった。

 

 悠真は、扉へ向かって歩き出した。

 

 途中で、足元に一枚の紙が落ちているのに気づいた。

 

 拾い上げる。

 

 白い紙。

 

 そこには、短い文字が書かれていた。

 

 聞いてほしかった。

 

 悠真は、その紙を見つめた。

 

 それは、詩織の言葉なのか。

 

 自分の言葉なのか。

 

 分からなかった。

 

 たぶん、どちらでもあった。

 

 悠真は紙を握りしめた。

 

 すると紙は、粉のように崩れて手の中から消えた。

 

 扉の前に立つ。

 

 向こうに誰がいるのかは分からない。

 

 けれど、ここから先は、もう自分だけが見る場所ではない。

 

 そう感じた。

 

 悠真は扉に手をかけた。

 

 開く直前、もう一度だけ詩織の影の声が聞こえた。

 

「今度は、私を捨てたあの子が見る番」

 

 悠真は息を止めた。

 

 その言葉の意味を理解する前に、扉の隙間から春の光が溢れた。

 

 扉の向こうへ進んだ、という感覚はなかった。

 

 ただ、自分が見ていた学校が、静かに閉じられていくのが分かった。

 

 ここから先は、自分が見る番ではない。

 

 次の瞬間、春の光がすべてを白く塗りつぶした。

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