卒業式前日の夜。
藤崎詩織は、机の前に座っていた。
机の上には、卒業式のプリントが置かれている。
集合時間。
式の流れ。
卒業証書授与の順番。
持ち物。
どれも、昼間のうちに確認したものだった。
明日で終わる。
そう思った時、胸の奥に小さな違和感が残った。
終わる。
卒業する。
きらめき高校の生徒ではなくなる。
それは分かっている。
それなのに、何かが終わっていない気がした。
詩織は、プリントの端に視線を落とした。
明日は、卒業式。
伝説の木の話題も、今日一日何度か耳にした。
藤崎さんなら。
詩織なら。
そんな軽い声もあった。
いつものように笑って流した。
困ったように、少しだけ照れたように、藤崎詩織として正しく。
それで済むはずだった。
けれど、ひとつだけ、胸の奥に残っているものがある。
悠真くんに、聞かなかったことがある。
詩織は、指先を少しだけ握った。
聞けたはずだった。
何度も。
放課後の教室で。
図書室で。
模試の結果を見た時に。
進路の話が増えた頃に。
悠真くんは、何のために頑張っているの。
そう聞けたはずだった。
でも、聞かなかった。
聞けば、答えを受け取らなければならない気がした。
その答えが、自分に向いているものだったら。
その答えが、自分に向いていないものだったら。
どちらでも、今まで通りではいられなくなる気がした。
だから、聞かなかった。
詩織は、小さく息を吐いた。
「……明日で、終わるのね」
声に出すと、それは思っていたよりも薄かった。
自分の声ではないようだった。
卒業式が終われば、きっと全部が自然に変わっていく。
毎日同じ教室へ行くこともなくなる。
廊下で偶然会うことも減る。
幼馴染だからといって、同じ距離でいられるとは限らない。
それは当然のことだ。
当然のことなのに、胸が少しだけ痛む。
詩織は、机の上のプリントを閉じた。
眠らなければ。
明日は卒業式なのだから。
いつも通りに起きて、いつも通りに支度をして、きちんと卒業式に出る。
藤崎詩織として。
そう思い、立ち上がろうとした時だった。
窓に映った自分の顔が、少しだけ遅れて動いた。
詩織は動きを止めた。
窓の中の自分も、動きを止める。
けれど、その目が自分を見ているような気がした。
少し暗い目だった。
普段の自分よりも、影が濃い。
詩織は瞬きをする。
次の瞬間、窓に映った顔は元に戻っていた。
「……疲れているのね」
そう呟いた。
自分に言い聞かせるように。
詩織は明かりを消し、ベッドに入った。
目を閉じる。
明日のことを考える。
卒業式。
校庭。
友人たちの声。
悠真くん。
伝説の木。
考えないようにしても、言葉は戻ってくる。
聞かなかった問い。
その言葉が、胸の奥で白く滲んだ。
眠りに落ちる直前、詩織は誰かの声を聞いた気がした。
今度は、私が見る番。
それが誰の声だったのか、分からなかった。
自分の声のようにも聞こえた。
自分ではない誰かの声にも聞こえた。
詩織は、その答えを考える前に、眠りへ沈んだ。
目を開けると、教室にいた。
詩織は、しばらく動けなかった。
そこは、きらめき高校の教室だった。
三年生の教室。
黒板。
窓際の席。
後ろのロッカー。
見覚えがある。
あまりにも見覚えがある。
けれど、何かが違う。
人がいない。
机と椅子だけが整然と並んでいる。
窓の外には夕方の光が差していた。
卒業式前日の夜に眠ったはずなのに、ここは放課後の教室だった。
詩織はゆっくり立ち上がる。
自分は制服を着ていた。
鞄も持っていない。
机の上には、何もない。
黒板を見る。
そこに、白い文字が薄く残っていた。
聞かなかった問い。
詩織は、息を止めた。
文字は、チョークで書かれたように見えた。
けれど、誰かが書いた気配はない。
その下に、かすれた文字が続いている。
何のために頑張っているの。
詩織は、指先が冷たくなるのを感じた。
その問いを、自分は知っている。
口にしなかった。
何度も飲み込んだ。
けれど、知らないふりをしていた。
「……夢?」
小さく呟く。
返事はない。
ただ、教室の空気が揺れた。
誰もいなかった教室に、放課後の気配が戻ってくる。
椅子を引く音。
鞄を閉じる音。
廊下から聞こえる声。
夕方の光。
そして、窓際の席に座る少年。
水瀬悠真だった。
今より少し幼い。
一年生の冬の悠真。
机に参考書を広げている。
ノートに単語を書いている。
少しぎこちない文字。
何度も消した跡。
頑張っている、という言葉を使うには、まだ不器用な手。
詩織は、その光景を見て、胸が締めつけられた。
覚えている。
この日を、覚えている。
忘れ物を取りに戻った教室で、悠真くんが一人で勉強していた。
「勉強していたの?」
過去の自分が言った。
詩織は、教室の入り口にもう一人の自分が立っていることに気づいた。
過去の自分。
制服姿で、鞄を持っている。
いつも通りに見える。
けれど、今の詩織には分かった。
あの時の自分は、少し驚いていた。
悠真くんが、変わろうとしている。
そう感じていた。
過去の悠真は、少し慌てたように答える。
「まあ、ちょっと」
過去の詩織は、机の上のノートを見る。
そして、ほんの少しだけ言葉を探した。
何のために頑張っているの。
その問いが、今の詩織には見えた。
白い粉のように、過去の自分の周りに浮かんでいる。
聞けた。
本当に、聞けた。
幼馴染だった。
昔から知っていた。
ただの興味として聞いても、不自然ではなかった。
それなのに。
過去の詩織は、聞かなかった。
「無理しないでね」
それだけを言った。
過去の悠真は軽く手を振る。
「ああ」
それで終わった。
詩織は、動けなかった。
当時は、それでよかったと思っていた。
踏み込みすぎない。
邪魔をしない。
悠真くんが頑張っているなら、見守る。
そう思っていた。
けれど、本当にそれだけだったのか。
詩織は、過去の自分を見つめる。
聞けば、何かを知ってしまう。
悠真くんが何に向かっているのか。
誰に見てほしいと思っているのか。
何を変えようとしているのか。
その答えを聞いてしまえば、自分も変わらなければならない気がした。
だから、聞かなかった。
「……私」
声が震えた。
「気づいていたのね」
教室の景色が白く滲んだ。
次に現れたのは、図書室だった。
窓際の机。
本棚。
低い声で話す生徒たち。
ページをめくる音。
二年生の頃。
詩織は、本を抱えて本棚の間に立っていた。
少し離れた席に、悠真がいる。
問題集を見ながら、眉を寄せている。
同じ行を何度も読んでいる。
詩織は、その姿を見ていた。
過去の自分も、同じように見ていた。
悠真くん、また勉強している。
そう思った。
頑張っている。
変わろうとしている。
ただ成績を上げたいだけではないように見えた。
何かに追いつこうとしているように見えた。
誰かに見てほしいようにも見えた。
その誰かに、自分が含まれているのではないか。
そう思いかけて、すぐに目を逸らした。
今の詩織は、その瞬間を見ていた。
過去の自分が、問いを避けた瞬間。
最近、頑張っているわね。
何かあったの。
誰かに追いつきたいの。
聞ける言葉はあった。
けれど、過去の詩織は本を選ぶふりをした。
一冊を棚から取り出し、貸出カウンターへ向かった。
声をかけなかった。
悠真くんは、最後まで気づかなかった。
詩織は、その背中を見ながら、胸の奥が苦しくなった。
無関心だったわけではない。
見ていなかったわけでもない。
むしろ、見ていた。
見ていたから、聞けなかった。
もし、自分のためだったら。
もし、自分のためではなかったら。
どちらの答えでも、怖かった。
図書室の窓に、文字が滲む。
気づいていたから、聞けませんでした。
詩織は、目を伏せた。
「……そうね」
小さく認める。
「気づいていなかったんじゃない」
言葉にすると、胸が痛んだ。
「気づいていたから、怖かったの」
景色がまた変わる。
三年生の教室。
模試の結果が返った日。
悠真が友人に肩を叩かれている。
「水瀬、頑張ってるじゃん」
「いや、たまたまだって」
その会話の中に、過去の自分が近づいていく。
「悠真くん、頑張ったのね」
詩織は、自分の声を聞いた。
穏やかで、自然で、少しだけ嬉しそうな声。
過去の悠真は、少し戸惑う。
「いや、まあ……たまたまだよ」
「たまたまではないと思うわ」
そう言った時、過去の悠真の表情が少しだけ揺れた。
嬉しかったのだと、今なら分かる。
その嬉しさを見て、自分も少し嬉しかった。
けれど同時に、怖かった。
悠真くんが変わっていく。
その変化の理由を、自分は知りたい。
でも、知りたくない。
「詩織に言われると、少し怖いな」
過去の悠真が言う。
「どうして?」
「ちゃんとしろって言われてるみたいで」
「そんなつもりではないわ」
過去の自分は笑った。
その時。
本当は、聞けた。
何のために頑張っているの。
誰に見てほしいの。
悠真くんは、何を目指しているの。
その問いは、すぐそこにあった。
けれど、過去の自分は笑って流した。
悠真くんも、それ以上は言わなかった。
二人は、いつもの距離に戻った。
幼馴染。
その言葉は便利だった。
近い。
けれど、踏み込まなくていい。
知っている。
けれど、確かめなくていい。
詩織は、過去の自分を見ながら、ゆっくり息を吸った。
「私は、待っていたのね」
声は小さかった。
「聞かなくても、いつか悠真くんが言ってくれるかもしれないって」
胸の奥で、何かが軋む。
「自分から聞かなくても、選ばれる側でいられるって」
その言葉を口にした瞬間、教室の空気が重くなった。
黒板に、白い文字が浮かぶ。
待っていた私。
詩織は、その文字から目を逸らせなかった。
続けて、別の文字が滲む。
選ばれたかった私。
さらに、その下に。
聞かなかった私。
詩織は、唇を結んだ。
否定したかった。
そんなつもりではなかった。
ただ、怖かっただけ。
ただ、関係を壊したくなかっただけ。
そう言いたかった。
でも、それだけではない。
怖かった。
それは本当。
けれど、待っていた。
それも本当。
悠真くんが自分から言ってくれることを。
自分を特別だと示してくれることを。
自分が選ばれる側でいられることを。
どこかで、待っていた。
「……ずるい」
詩織は、自分に向けて言った。
「それは、ずるいわ」
景色が崩れる。
今度は、進路指導室前の廊下だった。
卒業式が近づいた頃。
詩織は書類を持って歩いている。
少し離れたところに、悠真がいる。
「手伝おうか?」
過去の悠真が言った。
詩織は、足を止める。
迷った。
本当に、迷った。
頼むこともできた。
一緒に歩くこともできた。
その短い時間の中で、何かを聞くこともできた。
卒業式のこと。
伝説の木のこと。
卒業した後のこと。
私たちは、このままなのかということ。
けれど、過去の自分は微笑んだ。
「大丈夫よ。これくらい」
その答えは、正しかった。
不自然ではなかった。
書類は一人で持てる量だった。
誰にも迷惑をかけない。
藤崎詩織として、きちんとしている。
けれど、その正しさの中に、逃げがあった。
頼まない。
聞かない。
踏み込まない。
そうすれば、何も変わらない。
明日も、明後日も、卒業式までは同じ距離でいられる。
過去の悠真は頷く。
「そっか」
それで終わった。
たったそれだけ。
本当に、それだけの会話だった。
けれど、詩織はその場から動けなかった。
あの時、自分は何を守ったのだろう。
書類ではない。
体裁でもない。
幼馴染という距離だったのかもしれない。
何も聞かず、何も言わず、それでも近いと思える関係。
そのままなら傷つかない。
少なくとも、その場では。
けれど、何も残らない。
聞かなかった問いだけが残る。
廊下の窓に、白い文字が滲んだ。
聞けたのに、聞きませんでした。
詩織は、胸を押さえた。
「……ええ」
声が震える。
「私は、聞けた」
認めることは、思っていたより苦しかった。
「でも、聞かなかった」
廊下の奥から、遠く拍手が聞こえた。
卒業式の拍手。
まだ来ていないはずの明日。
けれど、この夢のような学校では、もう何度も終わったことにされているように感じた。
何も聞かないまま。
何も言わないまま。
誰も悪くないまま。
きれいに。
詩織は、その拍手を聞きながら目を閉じた。
終わらせたくない。
そう思った。
でも、何を。
卒業式を。
幼馴染を。
自分が待っていたことを。
選ばれたかったことを。
聞かなかったことを。
どれも、なかったことにしてはいけない気がした。
その時、背後から声がした。
「見えた?」
詩織は振り返った。
誰もいない。
けれど、その声は自分の声に似ていた。
少しだけ低く、少しだけ影を含んだ声。
詩織は、息を止めた。
「あなたは、聞かなかった」
声は静かに言う。
「気づいていたのに」
「怖かったから」
「答えを受け取らなければならなくなるから」
「そして、答えを返さなければならなくなるから」
詩織は、何も言えなかった。
それは責められているようで、責められているだけではなかった。
自分が自分に言っているようでもあった。
「でも、私は……」
言いかけて、止まる。
私は、何だろう。
悪気はなかった。
それは本当。
悠真くんを傷つけたかったわけではない。
それも本当。
けれど、聞かなかった。
待っていた。
自分からは行かなかった。
「私は……怖かったの」
ようやく言葉が出た。
「聞いたら、変わってしまうと思った」
「悠真くんの答えを聞いてしまったら」
「自分も、何かを答えなければならなくなると思った」
声は震えていた。
それでも、詩織は続けた。
「だから、聞かなかった」
「聞かなければ、幼馴染のままでいられると思った」
「何も壊さずに、卒業式まで行けると思った」
廊下の壁に、白い粉が舞う。
その粉が、文字になる。
なかったことにはできません。
詩織は、その文字を見つめた。
涙は出なかった。
でも、胸が痛かった。
「そうね」
小さく頷く。
「できないわ」
もう、できない。
自分は聞けた。
でも、聞かなかった。
そのことを知ってしまった。
知ってしまった以上、何もなかった顔で卒業式を迎えることはできない。
いや。
迎えることはできる。
藤崎詩織としてなら、できる。
いつも通りに微笑んで、友人たちと写真を撮って、先生に挨拶して、卒業おめでとうと言い合うことはできる。
でも、それではまた終わったことにしてしまう。
聞かなかった問いを。
言わなかった気持ちを。
待っていた自分を。
「……私は、見なかったことにしていたのね」
詩織は呟いた。
声は教室に戻るように響いた。
いつの間にか、景色は最初の教室へ戻っていた。
誰もいない三年生の教室。
夕方の光。
黒板。
そこには、最初と同じ文字が残っている。
聞かなかった問い。
詩織は、黒板の前へ歩いた。
チョークが置かれている。
彼女は、それを手に取った。
何を書けばいいのか、分からなかった。
けれど、手は動いた。
私は聞けた。
白い文字が黒板に残る。
少し震えた字だった。
詩織は、その下にもう一行書いた。
でも、聞かなかった。
文字を書き終えた瞬間、胸の奥が痛んだ。
だが、その痛みは、さっきまでのようにただ怖いだけではなかった。
認めた痛みだった。
詩織はチョークを置いた。
その時、黒板の端に、別の文字が浮かんだ。
今度は、あなたが見る番です。
詩織は目を細めた。
「……まだ、あるのね」
返事はない。
けれど、教室の扉が静かに開いた。
廊下の向こうから、春の光ではなく、少し暗い光が漏れている。
その先に何があるのか、詩織には分からない。
ただ、そこには自分が見なければならないものがある。
そう感じた。
待っていた私。
選ばれたかった私。
外側に立つ私。
まだ、そのすべてを見たわけではない。
詩織は、深く息を吸った。
そして、扉へ向かって歩き出した。
黒板には、震えた白い文字が残っていた。
私は聞けた。
でも、聞かなかった。
その文字は、消えなかった。