藤崎詩織は、伝説の木の下に立つ   作:エーアイ

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藤崎詩織は、待っていた私を見る

 教室の扉を出ると、廊下が続いていた。

 

 藤崎詩織は、ゆっくりと足を踏み出す。

 

 さっきまでいた教室の黒板には、まだ自分の字が残っているはずだった。

 

 私は聞けた。

 

 でも、聞かなかった。

 

 あの文字を書いた時の指先の震えが、まだ残っている。

 

 認めた。

 

 自分は聞けた。

 

 悠真くんに聞けた。

 

 何のために頑張っているの、と。

 

 誰に見てほしいの、と。

 

 卒業式の後、どうするつもりなの、と。

 

 けれど、聞かなかった。

 

 怖かったから。

 

 答えを受け取るのが怖かったから。

 

 そして、自分も何かを答えなければならなくなるのが怖かったから。

 

 詩織は、胸の前で手を重ねた。

 

 廊下は、現実のきらめき高校に似ていた。

 

 けれど、少し違う。

 

 窓の外に見える校庭が遠い。

 

 階段の先が、見覚えのない角度で曲がっている。

 

 掲示板には、卒業式の案内が貼られている。

 

 その隣に、伝説の木の噂を書いたような紙が、何枚も重なっていた。

 

 卒業式の日。

 

 伝説の木の下で。

 

 想いを告げると。

 

 永遠に幸せになれる。

 

 詩織は、その文字を見た。

 

 何度も聞いた話だった。

 

 きらめき高校にいる者なら、誰でも知っている噂。

 

 軽く笑って流せるはずの話。

 

 けれど、この学校で見ると、その文字は妙に重かった。

 

 廊下の奥から、声が聞こえた。

 

「藤崎さんなら、似合うよね」

 

 詩織は足を止める。

 

 振り返っても、誰もいない。

 

 けれど、声だけが廊下に残っている。

 

 別の声が重なる。

 

「詩織なら、伝説の木の下に立ってても違和感ないよ」

 

「むしろ藤崎さんのためにあるみたい」

 

「誰が呼び出すんだろうね」

 

 軽い声。

 

 悪意のない声。

 

 からかいを含んでいても、嫌なものではない。

 

 それは、現実でも何度か聞いた声だった。

 

 詩織は、そのたびに笑って流していた。

 

「そんなことないわ」

 

「噂でしょう?」

 

「もう、からかわないで」

 

 そう言えば、場は穏やかに終わった。

 

 それでよかった。

 

 それで済んでいた。

 

 廊下の窓に、いくつもの自分が映る。

 

 教室で笑っている自分。

 

 友人に囲まれている自分。

 

 先生に頼まれごとをされている自分。

 

 伝説の木の話題を振られて、困ったように笑う自分。

 

 どの自分も、藤崎詩織だった。

 

 正しく。

 

 穏やかで。

 

 少し照れたように、でも崩れない。

 

 詩織は、窓に映った自分たちを見つめた。

 

 嫌だったわけではない。

 

 少なくとも、完全に嫌だったわけではない。

 

 そう言われることに戸惑いはあった。

 

 恥ずかしさもあった。

 

 けれど、驚きは少なかった。

 

 藤崎詩織なら。

 

 詩織なら。

 

 その言葉に、自分は慣れていた。

 

 慣れてしまっていた。

 

 廊下の壁に、白い文字が滲む。

 

 慣れていました。

 

 詩織は息を止めた。

 

 文字はすぐに崩れ、チョークの粉のように床へ落ちる。

 

 その粉が、別の文字を作った。

 

 驚きませんでした。

 

 詩織は唇を結ぶ。

 

 否定したかった。

 

 そんなつもりではなかった、と。

 

 でも、できなかった。

 

 確かに、驚かなかった。

 

 伝説の木に似合うと言われること。

 

 誰かが自分をそこへ置くこと。

 

 卒業式の日に、自分が誰かから選ばれる側にいるように語られること。

 

 それを完全におかしいとは思わなかった。

 

 詩織は、廊下を歩き出した。

 

 先へ進むほど、声は増えていく。

 

「藤崎さん、誰かに呼ばれたりして」

 

「水瀬くんとか?」

 

「幼馴染だもんね」

 

「でも藤崎さんって、誰を選ぶんだろう」

 

「選ぶっていうか、選ばれる側じゃない?」

 

 その言葉に、足が止まった。

 

 選ばれる側。

 

 さっき、影が言った言葉。

 

 私は、選ばれる側でいられたから。

 

 詩織は、胸の奥が小さく軋むのを感じた。

 

 選ばれる側。

 

 そんなふうに、はっきり考えたことはない。

 

 ないはずだった。

 

 けれど、本当にそうだろうか。

 

 伝説の木の下で、誰かを待つ。

 

 誰かが来る。

 

 誰かが言葉を届ける。

 

 自分はそれを受け取る。

 

 そして、選ぶ。

 

 その構図を、自分はどこかで自然だと思っていなかったか。

 

 自分から歩いていくのではなく。

 

 自分から呼ぶのではなく。

 

 自分から言葉を届けるのではなく。

 

 ただ、そこにいる。

 

 藤崎詩織として。

 

 選ばれるに足る少女として。

 

 そうすれば、誰かが来るかもしれない。

 

 悠真くんが、来るかもしれない。

 

 詩織は、目を伏せた。

 

 その考えを認めるのは、痛かった。

 

 けれど、痛いだけではなかった。

 

 恥ずかしかった。

 

 自分の中にある、狡さを見てしまった気がした。

 

 廊下の先に、階段があった。

 

 現実の学校なら、そこを下りれば昇降口に近づく。

 

 けれど、この階段の先からは、校庭の匂いがした。

 

 春の匂い。

 

 卒業式の朝のような、少し冷たくて明るい空気。

 

 詩織は階段を下りた。

 

 一段下りるたびに、声が薄くなる。

 

 代わりに、別のものが増えていく。

 

 足音。

 

 紙の擦れる音。

 

 卒業証書の筒が机に当たる音。

 

 遠くの拍手。

 

 そして、伝説の木の葉が揺れる音。

 

 階段の踊り場に、鏡があった。

 

 現実にはない鏡だった。

 

 詩織は、その前で立ち止まる。

 

 鏡の中に、自分が映っている。

 

 卒業式の日の自分。

 

 制服姿で、髪を整え、背筋を伸ばしている。

 

 いつもの藤崎詩織。

 

 けれど、その自分は動かない。

 

 詩織が瞬きをしても、鏡の中の自分は瞬きをしない。

 

 鏡の中の自分は、静かにこちらを見ていた。

 

 詩織は、声を出せなかった。

 

 鏡の中の自分の足元には、伝説の木の影が落ちている。

 

 まるで、彼女だけがもう木の下に立っているようだった。

 

 だが、よく見ると違う。

 

 鏡の中の自分は、木の下にはいない。

 

 木へ続く道の途中に立っている。

 

 進まずに。

 

 戻らずに。

 

 ただ、待っている。

 

 鏡の縁に、白い文字が浮かんだ。

 

 待っていた私。

 

 詩織の喉が詰まる。

 

「……私は」

 

 声がかすれた。

 

「待っていたの?」

 

 鏡の中の自分は答えない。

 

 ただ、静かにこちらを見ている。

 

 微笑んでいるわけではない。

 

 泣いているわけでもない。

 

 怒っているわけでもない。

 

 ただ、待っている顔だった。

 

 誰かが来るのを。

 

 誰かが言ってくれるのを。

 

 誰かが、自分を選んでくれるのを。

 

 詩織は、思わず一歩後ずさった。

 

「違う」

 

 反射的に言った。

 

「私は、そんなつもりで……」

 

 そこまで言って、止まる。

 

 そんなつもりで、何だろう。

 

 悠真くんを待っていたつもりはない。

 

 自分が選ばれると思っていたつもりもない。

 

 伝説の木の下で、誰かに告白されるのを当然だと思っていたつもりもない。

 

 けれど。

 

 自分から言おうとはしなかった。

 

 聞こうともしなかった。

 

 踏み込もうともしなかった。

 

 それでも、どこかで期待していた。

 

 悠真くんが、何かを言ってくれるかもしれない。

 

 悠真くんが、自分の努力の理由を教えてくれるかもしれない。

 

 悠真くんが、卒業式の日に自分を見つけてくれるかもしれない。

 

 詩織は、鏡から目を逸らせなかった。

 

 待っていた。

 

 認めたくない。

 

 でも、待っていた。

 

「……ずるいわ」

 

 小さく呟く。

 

 その言葉は、誰に向けたものでもない。

 

 自分に向けたものだった。

 

「聞かなかったのに」

 

「自分から行かなかったのに」

 

「待っていたなんて」

 

 声にした瞬間、胸の奥が痛んだ。

 

 その痛みは、罰のようでもあり、ようやく触れた本当のようでもあった。

 

 鏡の中の自分の足元に、文字が滲む。

 

 選ばれる側でいたかった私。

 

 詩織は、目を閉じた。

 

 嫌だった。

 

 その言葉は、ひどく嫌だった。

 

 けれど、完全には否定できなかった。

 

 選ばれる側でいれば、自分から動かなくて済む。

 

 自分から言わなくて済む。

 

 断られる怖さを、先に背負わなくて済む。

 

 待っていれば、相手が来るかもしれない。

 

 相手が来なければ、何も起きなかったことにできる。

 

 それは、弱さだった。

 

 そして、狡さだった。

 

 詩織は、鏡に手を伸ばした。

 

 指先が触れると、鏡の表面が水面のように揺れた。

 

 中の自分が、ほんの少しだけ悲しそうに見えた。

 

 その表情を見た瞬間、詩織は息を呑む。

 

 狡い。

 

 確かに狡い。

 

 でも、それだけではなかった。

 

 怖かったのだ。

 

 自分から行って、違ったら。

 

 自分から聞いて、望んだ答えではなかったら。

 

 自分から言って、受け取ってもらえなかったら。

 

 藤崎詩織として整えてきた自分が、崩れてしまう。

 

 だから、待った。

 

 待つことで、守っていた。

 

 自分を。

 

 藤崎詩織という形を。

 

 そして、幼馴染という距離を。

 

 鏡の中の自分が、ゆっくり口を開いた。

 

 声は聞こえない。

 

 けれど、唇の動きだけで分かった。

 

 来てほしかった。

 

 詩織は、目を見開いた。

 

 その言葉は、あまりに小さかった。

 

 あまりに幼かった。

 

 藤崎詩織らしくないほど、素直だった。

 

 悠真くんに、来てほしかった。

 

 そう言っているように見えた。

 

 詩織は、胸を押さえた。

 

 待っていた私。

 

 選ばれたかった私。

 

 来てほしかった私。

 

 そのどれもが、自分の中にあった。

 

 あったのに、なかったことにしようとしていた。

 

 廊下の奥から、拍手が聞こえる。

 

 卒業式の拍手。

 

 まだ来ていないはずの明日。

 

 けれど、この学校では、何も言わないまま終わる卒業式が何度も繰り返されているように感じた。

 

 詩織は、その音を聞きながら、ゆっくり息を吐いた。

 

「私は……待っていた」

 

 声は震えていた。

 

 けれど、言葉は消えなかった。

 

「悠真くんが、何か言ってくれるかもしれないって」

 

「私を見てくれるかもしれないって」

 

「私を選んでくれるかもしれないって」

 

 言うたびに、胸が痛む。

 

 けれど、嘘ではなかった。

 

「でも、自分からは行かなかった」

 

「聞かなかった」

 

「言わなかった」

 

「選ばれる側でいたかったから」

 

 最後の一文は、特に苦しかった。

 

 詩織は、鏡から手を離す。

 

 鏡の中の自分は、まだそこにいる。

 

 けれど、さっきより少し輪郭が薄くなっていた。

 

 消えたわけではない。

 

 ただ、隠れていたものが、少しだけ見えるようになった気がした。

 

 鏡の縁に、新しい文字が浮かぶ。

 

 待っていたことは、消えません。

 

 続けて、別の文字。

 

 でも、待つだけでは届きません。

 

 詩織は、その文字を見つめた。

 

 待つだけでは届かない。

 

 それは、当たり前のことだった。

 

 けれど、当たり前すぎて、見ないふりをしていたことだった。

 

 自分から行かなければ、届かないものがある。

 

 自分から聞かなければ、分からないことがある。

 

 自分から選ばなければ、始まらないものがある。

 

 でも、それはまだ怖い。

 

 怖いままだった。

 

 詩織は、胸の前で手を握る。

 

「怖いわ」

 

 小さく言った。

 

「今でも、怖い」

 

 その声に、廊下が静かに応えたように軋んだ。

 

 鏡の中の自分は、少しだけ目を伏せる。

 

 その姿は、責めているようには見えなかった。

 

 ただ、同じように怖がっているように見えた。

 

 詩織は、初めてその自分を憎めなかった。

 

 待っていた自分。

 

 選ばれたかった自分。

 

 狡い自分。

 

 怖かった自分。

 

 その全部を、すぐに受け入れられるわけではない。

 

 でも、見ないふりはもうできない。

 

 階段の先から、春の光が差した。

 

 詩織は振り返る。

 

 階段は、もう下へ続いていなかった。

 

 代わりに、長い廊下が伸びている。

 

 その先に、中庭のような場所が見えた。

 

 遠くに、黒い枝が広がっている。

 

 伝説の木に似た影。

 

 そこへ続く廊下の両側には、たくさんの声が残っていた。

 

 藤崎さんなら。

 

 詩織なら。

 

 伝説の木に似合う。

 

 誰を選ぶの。

 

 誰に選ばれるの。

 

 詩織は、その声を聞きながら歩き出した。

 

 前よりも、少しだけ足が重かった。

 

 けれど、止まらなかった。

 

 廊下の壁に、白い文字が滲む。

 

 選ばれる側にいたかった私。

 

 その文字は、すぐには消えなかった。

 

 詩織は、立ち止まらずにそれを見た。

 

「……ええ」

 

 小さく答える。

 

「そうだったのかもしれない」

 

 認めるには、まだ少し遠い。

 

 けれど、否定だけで通り過ぎることは、もうできなかった。

 

 廊下の先で、誰かの気配がした。

 

 詩織は足を止める。

 

 中庭の入口。

 

 黒い枝の影の下。

 

 そこに、もう一人の自分が立っていた。

 

 藤崎詩織。

 

 けれど、昼間の自分ではない。

 

 窓に映った影よりも、ずっと濃い。

 

 玉座に座っていた誰かの気配に近い。

 

 詩織の影。

 

 彼女はまだ何も言わなかった。

 

 ただ、こちらを見ている。

 

 詩織も、見返した。

 

 怖かった。

 

 けれど、目を逸らさなかった。

 

 詩織の影は、静かに微笑んだ。

 

 その微笑みは、優しくはなかった。

 

 でも、怒ってもいなかった。

 

 まるで、ようやくここまで来たのね、と言っているようだった。

 

 詩織の足元に、白い文字が浮かぶ。

 

 次は、外側に立つ私。

 

 詩織は、息を呑んだ。

 

 伝説の木の下ではなく。

 

 その外側。

 

 そこに立つ自分。

 

 その言葉の意味を、まだ完全には分からない。

 

 けれど、それが次に見なければならないものなのだと分かった。

 

 詩織は、胸の前で握っていた手を少しだけほどいた。

 

 そして、影の方へ一歩進んだ。

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